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曇天日和

どんてんびより

LOVE,HOLIDAY.

午前の軍議を終えて城を出たところで、荀彧はその姿を目にした。
「曹休殿…?」
通りの向こう、曹休と兵士が、それぞれ馬を引き連れながら歩いている。
馬と共にいる曹休、というのは見慣れた光景だ。いつもと違うのは、連れている馬の毛色。
曹休の愛馬は金色のたてがみを持つ栗毛の筈だが、今彼の横をゆるやかに歩いているのは粕毛だった。
それが自分の愛馬であると気づいた荀彧は、咄嗟に駆けた。

「曹休殿、お待ちください」
「これは荀彧殿!」
声をかけられて振り返った曹休は、いつも通りの爽やかな笑顔を見せた。鹿毛を連れていた兵士も一礼をする。
荀彧も微笑みを返し、何故自分の愛馬と一緒なのか、訳を訊ねた。
「私の粕毛が、いかがなさいましたか?」
「今ちょうど、軽い放牧から連れ帰ってきたところなんだ」
「えっ。わざわざ曹休殿が…?」
荀彧は目を瞬かせた。その様子を見て、傍らにいた兵士が説明する。
「曹休様は御手すきの際、軍馬の手入れや放牧をこうして手伝ってくださっているんですよ」
見れば、日頃から厩舎に詰めている兵士だった。通常軍馬の世話というのは、彼らのような兵士の領分である。
武将や軍師たちも、折に触れて愛馬の面倒は見ていた。ただ如何せん多忙故に、日頃は厩舎の兵士に一任しているのが実情だ。
曹休の馬への愛情は衆目の知るところではあるし、愛馬の世話に勤しむ姿も何度も見かけている。しかし、自身の馬以外にまで心を砕いているとは。
「申し訳ありません。本来であれば、自分の馬の世話は自分がすべきところを」
荀彧が謝ると、逆に曹休はすまなそうな顔をした。
「いや、俺が好きでやっているだけだから気にしないでほしい。むしろ馬を勝手に連れ出してすまなかった」
「とんでもない。外に出られて、さぞ嬉しかったでしょう」
よかったですね、と声をかけながら荀彧は粕毛の鼻を撫でた。
粕毛は嬉しそうに目を細めたかと思うと、鼻先をぐいと突き出してくる。
主に擦り寄って甘える馬の姿を、曹休は微笑ましく見守った。
「ははは、やはり主のことが一番なんだな」
「ええ、甘えん坊で困ります」
荀彧は苦笑しつつ、自分の胸へ鼻面を押し付けてくる愛馬に手を添えた。

「それにしても、この粕毛は穏やかでいい馬だな」
厩舎へと行く道すがら、曹休は感心した様子で荀彧に話しかける。
「勝手に飛び出したりするやんちゃな馬もいるが、この馬は本当に落ち着いてるんだ」
「お陰様で。温厚で乗りやすいから、と薦められました」
許昌に来たばかりの頃。今後従軍の機会も増えると思い、馬が欲しくて馬屋に立ち寄った。
数多の鹿毛や黒鹿毛が居並ぶ中で、その時ただ一頭だけいた粕毛が目を引いた。
馬屋の主人にも性格の良さを褒められたし、何よりもつぶらで優しげな瞳に惹かれ、買うことにしたのだ。
「ああ。荀彧殿に相応しい馬だと思う」
荀彧にぴたりと寄り添いながら歩く粕毛を見て、曹休は笑った。



厩舎に辿り着くと、まず兵士が入口の扉を開け、鹿毛を中へと引き入れる。
粕毛を連れた曹休と荀彧はその後に続いて入った。
中ほどまで来ると、馬房から馬がにゅっと顔を覗かせた。来訪者の顔をまじまじ見つめてくる。
「李典殿の黒鹿毛だ。ここの星が綺麗だろう?」
曹休は、鼻先を揺らす黒鹿毛の額を撫でてやった。
彼の言う通り、その額には、瞳の大きさ程の円い白斑がある。
「他の方の馬も、見分けがつくのですね」
荀彧とて、見慣れた自分の粕毛や、曹操の絶影であれば遠目にもわかる。
だが、鹿毛や黒鹿毛が圧倒的に多い軍馬集団を、一頭一頭見分けるのは至難の業だ。
「曹休殿はどうやって判別していらっしゃるのですか」
粕毛を馬房に収めた後で、荀彧は訊ねてみた。
「顔の白斑の形や馬装、あとは足で判断しているな。例えば…」
即答しつつ、曹休は斜め向いの馬房を見た。栗毛の馬が時折首を振っている。
「夏侯淵殿の栗毛は、四本の脚のうち、三本が白いんだ」
曹休はしゃがみこんで、栗毛の足元を指さした。
言葉の通り、両前脚及び右後脚が、白い毛で覆われている。
「対して、こちらの…曹仁殿の栗毛だな。脚を見てほしい」
左隣の馬房、やや小柄な栗毛が大人しく飼葉を食んでいた。
「あ…白いのは左の前脚だけですね」
他の脚は全て、体毛と同じ栗色をしている。
「星の形も面白いだろう」
曹仁の栗毛の額の星は、鉤針のような形をしていた。なるほど特徴的だ。

「え?」
荀彧の肩に、突然こつんと何かが当たる感触が走った。
振り返ると、真っ黒い馬の鼻面が目の前にあった。
「わっ。失礼しました」
慌てて飛び退き、思わず荀彧は馬に謝った。
豪奢な馬装こそ外しているが、この漆黒の毛は荀彧でも見間違うことはない。
曹操の愛馬にして唯一無二の名馬、絶影である。
一際大きく設えられた馬房の中、ぬぅっと立つ姿には風格が感じられた。
「絶影はやはり他の馬と違うな…殿の乗る馬として 、これほど相応しい馬もいない」
曹休は何度も深く頷きながら、絶影を見上げた。
「ええ。いつ見ても、黒い毛並みが美しいですね…」
荀彧も改めて、その威容を眺め回す。
宵闇のごとき青毛は、曹操軍の誇る軍馬集団の中でもただ一頭、絶影だけの毛色だ。
「赤兎馬も勿論凄い馬だったが…」
かつて虎牢関に立ちはだかった鬼神、呂布と、その愛馬である赤兎馬の姿を曹休は思い返す。
絶影をも凌ぐ巨体に、煮え滾るような血の色をした毛並み。
赤く血走った目は吊り上がり、前に立つ者全て踏み潰さんとする激しい気性が窺えた。
馬中の赤兎とはよく言ったもので、単純な脚力だけなら間違いなく赤兎馬が最強だろう。
「だが、この落ち着きや、動じない性格は絶影ならではだと思うんだ」
絶影の堂々たる佇まいは、威圧すら覚えるものではある。
しかし黒曜石のような瞳はどこまでも澄んでおり、凪のような静けさを秘めていた。
「曹休殿は、本当に馬がお好きなのですね」
じっくりと絶影を見つめる曹休からは、馬への愛情がひしと伝わってくる。
その一途さ、真摯な眼差しを、荀彧は微笑ましく思った。
「ああ、大好きだ!この真っ直ぐで愛らしい瞳も、走る雄大な姿も…」
更に目を輝かせて、馬への想いを曹休が語り始めた直後、その声は聞こえた。

ひひぃん……

随分と弱々しい嘶きだった。
思わず曹休と荀彧は顔を見合わせ、声がする馬房へと足を向けた。
「一体、どなたの馬でしょうか?」
声の主はすぐに見つかった。李典の黒鹿毛がいる右隣の馬房、鹿毛がひっそりと立っている。
馬の顔を見るなり、曹休は顔をしかめた。
「楽進殿の馬だな。疲れているみたいだ」
鹿毛の目の周囲は、不自然なまでに黒くなっている。
顔立ちも、どことなくしょぼくれているように見えた。

「まさか、厩でお二人にお会いするとは思いませんでした」
入口の方から驚いたような声が上がった。
顔を向けると、鹿毛の主たる楽進が目を丸くしている。
「楽進殿、ちょうど良かった。貴方の馬に元気がないんだ」
「う…やはりそうですか」
楽進は落胆して項垂れた。
『やはり』という言葉に引っ掛かりを覚え、荀彧は訊ねてみた。
「何か、心当たりがおありなのでしょうか?」
「その…ですね……」
やや言い淀む気配を見せつつも、楽進は口を開いた。
「お陰様で、近頃の戦では常に先陣を切らせていただいております。ただどうにも、馬に無理を強いているような気がするのです」
楽進は更に、恥ずかしながら、と前置きした上で正直に話り始める。
「元々私は文官でしたので、大して乗馬を学ぶ機会もありませんでした。殿の旗揚げの際、軍についていくため必死で覚えたようなもので」
「そうなのですか?」
楽進といえば、曹操軍でも常に一番槍の功を挙げる将の筆頭格だ。
戦に赴く姿からは想像もつかない内容を打ち明けられたことに、少なからず驚く。
「いつもあれだけ果敢に馬を走らせて、並外れた気迫を感じていました。人知れずお悩みになっていたのですね」
「あ、ありがとうございます。恐縮です」
慌てた様子で楽進は頭を下げたものの、表情は尚も気まずい。
「先日も、馬上での調錬があったのですが。李典殿の馬は調錬後も首をピンとしていたのに、私の馬はとても静かで…なんだか気になってしまい、様子を見に来たのです」
馬房の中で俯く愛馬の姿を見やると、楽進はため息をついた。
「申し訳ないことをしてしまいました。やはり、私の乗り方に問題があるような」
「…楽進殿、ちょうどいい!俺の馬を貸すから乗ってみないか?」
それまで黙って話を聞いていた曹休が、急に声を上げた。
突然の申し出に、楽進は驚愕して仰け反る。
「えっ!?そ、そんな、畏れ多いこと!」
次の戦にて馬を貸す、という意味で受け取った楽進は、思い切り首を振った。
しかし曹休は屈託なく笑って、向かいの馬房を見上げる。
金色のたてがみが眩しい尾花栗毛が、彼の愛馬だ。
「大丈夫だ。この馬は気力もあるし、気性もいいから振り落とされる心配もない」
主に首元を撫でられた栗毛は、耳をぱたぱたと動かした。
「なるほど…」
申し出の意図を察した荀彧も、口を添える。
「楽進殿。ここはぜひ、提案を受け入れてはいかがでしょう。乗り方の癖など、曹休殿の目から見て判断していただくまたとない機会では」
「はっ!そういうことでしたか!」
その言葉で楽進も合点がいった。
ぱっと顔が明るくなり、目を輝かせながら曹休を見つめる。
「ならばぜひ、曹休殿のご指導ご鞭撻をお受けしたく。よろしくお願いいたします!」
「俺も大したことは言えないと思うが、自分の感覚だけでは気づかないこともあるからな」
「それではお二人とも、場所を変えますか?」
荀彧の言葉に、二人は大きく頷いた。
「では、今から放牧地に行こう」
曹休は早速馬房の衝立を外して、愛馬を出す。
その間に、楽進は厩舎奥にある自身の鞍を取りに走った。



「はっ!はぁっ!」
曹休と荀彧が見守る中、楽進は一心に放牧地を栗毛と共に駆け回る。
「楽進殿、馬上でも姿勢がぶれませんね…」
楽進の真っ直ぐな背に、荀彧は感嘆の声を上げた。
馬上でも決して不安定になることのない姿は、一本気な彼の性格を表すかのようだ。
だが荀彧とは対照的に、曹休は幾分鋭い視線を楽進に注ぐ。
「うーん…楽進殿、更に速く走るよう命令を!」
曹休の声が飛んだ。
「わかりました!はぁっ!」
楽進は思い切り栗毛の腹を蹴った。栗毛もそれに応え、全速力で駆ける。
放牧地の埒を飛び越えんばかりの勢いだが、流石は曹休と苦楽を共にした愛馬である。
埒沿いにぴたりと張り付き、金色のたてがみを靡かせて走る様は、非常に見映えがした。
「…よし。そこで止めてくれ!」
二週ほどしたところで、曹休は納得したように頷き、止めの合図を出した。

「曹休殿、いかがでしたでしょうか?」
栗毛を引き連れて戻ってきた楽進は、早速講評を伺った。
曹休はすぐに感づいたことを伝える。
「もしかしたら、楽進殿は踵に力が入り過ぎかもしれない」
「踵、ですか?」
思わず楽進は己の踵を見やった。
「楽進殿は馬を走らせるとき、踵だけで同じ合図をしているように見えた。でもそれだけでは、馬はいつも全力で走れ、走れ、と言われているような気になるかもしれないと思ったんだ」
「い、言われてみれば!」
「確かに、そうかもしれません」
曹休の指摘に、当事者の楽進は勿論、荀彧もはっとさせられる。
「楽進殿の騎乗姿勢は綺麗だ。問題があるとすれば、足の使い方かと思って」
「それで、何度も加速の合図を出すように促していたのですね」
荀彧は、曹休が繰り返し加速させるよう命令をしていた意味を悟る。
馬上の姿に気を取られていたが、その間に曹休は、楽進の足元をつぶさに観察していたのだ。
「例えば俺は、太腿の動き、手綱を持つ手の位置でも合図を送るようにしている」
曹休は素早く栗毛に跨った。
微かに太腿を動かすと、栗毛はぴんと耳を張り、すぐに常歩を始めた。
少し歩いたところで、曹休は手綱を持つ拳をたてがみの近くに置き、やや前傾姿勢を取った。
それに合わせて、栗毛もタタタッと軽快に足を速めていく。
最後に曹休が踵で腹を強く蹴ると、栗毛はついに駆け出し始めた。
「おおお…馬との呼吸が完璧です!」
「ええ、まさに。人馬一体とはこのことですね」
流れるように展開していく曹休の乗馬術に、二人は目を見張った。

「よし…よく頑張った」
一周してきた曹休は、颯爽と栗毛から降りた。
首筋を撫でると、栗毛は曹休へ鼻先を擦り寄せる。
「あくまでも、これは俺のやり方だ。楽進殿も自分なりに合図を考えてみたらいいと思う」
「なるほど。勉強になりますし、まずは参考にさせていただきます!」
楽進は改めて意気込んだ。
「では、あとは自分の馬で練習するのが一番いいな。楽進殿の鹿毛が回復次第、今度は遠乗りで実践してみよう」
「はいっ、よろしくお願いいたします!」
話がまとまったところで、曹休は荀彧の方へと振り向いた。
「そうだ、荀彧殿もいかがだろうか?」
「私も、ですか?」
急に話を振られて戸惑う荀彧に、曹休は続けて話す。
「たまには放牧地だけでなく、広い場所で粕毛を走らせるのもよいかと思ったんだが」
「ああ。そうですね…」
ここ数ヶ月、厩舎に粕毛の顔を見に行くことはあっても、外出はしていない。
時間を取らなければと思いつつも、政務に追われてなかなか踏ん切りがつかなかった。
顔を見るなり甘えてきた粕毛の姿を思い出し、荀彧はほっと息をついた。
「では私も、お邪魔でなければご同道させてください」
たまには暇を貰って、愛馬のために時を費やすことくらい許されるだろう。





数日後の早朝。
厩舎前に楽進、曹休、そして荀彧の三人が揃って愛馬に跨る光景があった。
「折角ですから、淮河のあたりまで参りましょうか」
「それはいいですね。眺めも抜群ですし、馬に水も飲ませてあげられます」
「よし、では行こうか。はぁっ!」
先導役の曹休が軽く栗毛の腹を蹴り、さっと駆け出す。すぐさま楽進と鹿毛もそれに続いた。
一拍遅れて、荀彧も粕毛と共に、二人の後を追う。
「「いってらっしゃいませ~」」
曹操軍きっての勇将二人と、軍師一人。
物珍しい組み合わせを、厩舎詰めの兵士たちは揃って見送った。



「楽進殿。もう少し太腿に力を入れて、ふくらはぎで押してあげるといいかもしれないな」
横についた曹休が、横から的確に助言していく。
楽進もそれに合わせて、懸命に実践した。
「了解です…っ!」
今までのような一本調子にならないよう、何度か軽めに合図を送る。
踵からの合図でないことに鹿毛も気づいたらしく、まずは速歩で進み始めた。
「凄くいいな。その調子だ!」
「はいっ!」
楽進も早速手応えを掴めた喜びに、笑顔で返事した。
流石は、一足飛びの活躍で将の座へと駆け上がった楽進である。
その上達の速さを、荀彧も後ろから感心しながら見守っていた。
「素晴らしいですね、楽進殿…飲み込みが早くていらっしゃる」
「元より、鹿毛も従順な性格なんだろうな。覚えが早い」
曹休もまた、主の動きに合わせる鹿毛を見て感慨深げに言った。
そのまま、ちらりと荀彧の方を振り向く。
「そういえば、荀彧殿も負けず劣らず姿勢が綺麗だな!」
「本当ですか?なら、この馬のおかげですね」
乗馬訓練は受けたことはあるが、一線級の将たちに及ぶべくもないことは自覚している。
馬に送る合図なども、曹休のように細かく定めているわけではない。
それでもこうして気軽に馬を駆れるようになったのは、全て粕毛のお陰だった。
簡単な合図でも従い、軽やかな足取りで大地を進む。故に、馬上でも不安定にならずにいられる。
「貴方のお陰で褒められましたよ。ありがとうございます」
久しぶりにその背の乗り心地を味わい、荀彧はたてがみを優しく撫でた。



視界が開けてくる頃には、楽進と鹿毛の呼吸もかなり合うようになっていた。
「はぁっ、はっ、せいっ」
楽進の合図や発声にも硬さが取れ、滑らかな動きで鹿毛へと指示を出す。
それに鹿毛もさっと従い、速度を変えながら走る。
「はっ」
手綱を少しだけ後ろに引くと、鹿毛は少しずつ減速し、ゆっくりと止まった。
「ど、どうでしょう。鹿毛は疲れてませんか?」
恐る恐る楽進が訊ねてきた。
曹休は回り込んで鹿毛の様子を見ると、すぐに笑顔を見せた。
「大丈夫だ。鼻息も荒くないし、全然疲れていない。むしろ楽しそうだ」
「本当ですか!ああ…よかったです。これなら今後も、馬を潰さずに済みそうです」
心からほっとした様子で、楽進は愛馬の頭を撫でた。

「あ、お二人とも。もうすぐ淮河ですよ」
荀彧は、視界の向こうできらきらと輝く川面に気付いて、目を細めた。
「そうか。よぉし…」
曹休は少しだけ逡巡すると、突然二人に提案してきた。
「慣れてきたところで、川辺まで競走といかないか?最後に従軍のつもりで、全力を出そう!」
「ええっ?」
いきなりの申し出に荀彧は面食らうが、楽進の方は俄然乗り気だ。
「わかりました!この楽文謙、胸をお借りするつもりで曹休殿に挑みます!」
「ああ、負けないぞ!はぁっ!」
曹休は思い切り栗毛の手綱を叩いた。それを合図に、栗毛が今日一番の速さで猛然と駆け出す。
「なんの、一番槍は譲りませんっ!」
負けじと楽進も、踵で鹿毛の腹を強かに蹴る。全力の合図を悟って、鹿毛も走り出した。
「あっ、お二人とも!お待ちくださ…ああ……」
剣幕についてけず、荀彧は全速力で去っていく人馬二組を茫然と見送った。
粕毛と共に取り残されてしまい、途方に暮れたその時である。

「えっ?」
ドドドドドという、地響きにも似た音が耳に入る。
ただならぬ気配にいち早く気づいた粕毛が強く嘶き、首を天高くもたげた。
「うわっ」
荀彧は慌てて、その首にしがみ付く。直後、粕毛は横っ飛びをした。
まさにその瞬間だった。

ゴウッと、一陣の風が通り過ぎた。

「あ、あれ、は…?」
体勢を立て直した荀彧の目に、真っ黒な塊が映った。



一方、曹休と楽進の戦いは熾烈を極めていた。
楽進と鹿毛も力を温存していただけに、気力有り余る走りで食らいついてくる。
しかし曹休と栗毛もまた、曹家千里の駒の呼び名に相応しい走りで引き離そうとしていた。
「もうすぐだ!」
二人の目の前に、淮河の川面が迫ってくる。
「まだまだ、行きますよ!」
両者一歩も譲らぬ白熱した戦いも、いざ決着の時。
最後に向けて意気込みを見せた二人の頭上が、突如、真っ暗になった。

「え?」
「は?」
見上げたそこに、黒々とした馬の腹。
弓なりに曹休と楽進を追い越し、そして。

バシャアアアン!

「「わぁあっ!?」」
水飛沫が曹休と楽進に降り注いだ。
前方からの豪快な水攻めに、栗毛も鹿毛も足を止めてしまう。
慌てふためく人馬を前に、愉快そうな声がかかった。

「どうやらわしと絶影が、一番槍だな」

真っ黒な馬体を淮河に立たせる馬と、その主が勝ち誇った笑みを浮かべていた。
着地の瞬間、自身らもまた派手に濡れたのはご愛嬌といったところか。
「と、の…?」
まさか主君がこんな場に現れるとは思わず、曹休も楽進も絶句する。
「お主たちもまだまだ、よな」
唖然とした二人の様に、曹操はくつくつと笑った。

「…殿!」
遅れてようやく、荀彧と粕毛がやってきた。
全員が全員、ずぶ濡れになってしまった様子を見て、当惑してしまう。
その元凶たる主の姿を見やり、荀彧はやや顔を顰めた。
「殿、お戯れが過ぎます」
「たまにはよかろう」
他の諸侯からも一目置かれ、あるいはその名を怖れられる男が、臣下相手に競走でむきになるなど誰が想像するだろう。
こういう妙な部分で発揮される意固地さ、配下をからかうようなところもまた、主の性格ではあるのだが。
荀彧はひときわ、大きなため息をついた。



「まさか一番槍が殿と絶影とは…驚きました。完敗です!」
「絶影の脚力に跳躍、そしてそれを容易く操る殿…お見事としか言いようがありません!」
焚火を囲んでからというもの、曹休と楽進はずっとこの調子だ。
離れ業をやってのけた人馬に対し、童子のように興奮しながら惜しみない賞賛を注ぐ。
曹操も淡々と聞き流しながらも、まんざらでもない様子だった。
「まあ、絶影の力あってこそ、多少の無茶も利くというものだ」
「流石に、無茶が過ぎませんか」
横から荀彧が釘を刺した。
馬の勢いに任せてあんな芸当を何度もやられては、気が気ではない。
「万一着地に失敗したら、どうなさるおつもりなのです」
「絶影がそんな下手を打つはずがなかろう」
「あの、そういう問題では…」
荀彧はがっくりと肩を落とした。暖簾に腕押しとはこのことか。

「本当に絶影は名馬ですね。あの出で立ちといい堂々とした佇まいといい…」
そうまくしたてながら、楽進は川べりの馬たちに視線をやった。
栗毛、鹿毛、粕毛が三頭一列に並んで、ごくごくと水を飲んでいる。
「あれ?」
絶影はただ一頭、座り込みながら昼寝を始めていた。
ある意味これも、堂々とした佇まいではある。
「…ふふっ」
馬たちのそれぞれ微笑ましい姿に、自然と荀彧の顔も綻んだ。
その様を見て、曹操も軽く笑う。
「お主もよい気晴らしになったのではないか」
「それは、勿論ですが…」
粕毛との遠乗りもできたし、日頃の政務では顔を合わせない将と接するのも、新鮮な心地だ。
城に籠ってばかりで、凝り固まっていた身や心も解れたという実感はある。
主の破天荒な登場の仕方には肝を冷やしたが。

「そういえば、殿はいつから俺たちのあとを?」
突っ込むべき点が多過ぎて後回しになっていた素朴な疑問を、曹休が投げかけた。
「わしも久々に遠乗りでもするかと厩舎に行ったら、丁度お主らが出立するところだった。珍しい取り合わせだと思ってな。お主ら、何ゆえ一緒にいたのだ」
今度は曹操が疑問をぶつけてきた。
「実は、私が馬の乗り方に悩んでまして、曹休殿と荀彧殿に相談に乗っていただいたのです。実際に足の使い方、合図の出し方を助言していただきました!」
「楽進殿の鹿毛が回復次第、遠乗りで実践しようということにしたのです。荀彧殿は、俺から誘いました」
「久しぶりに、粕毛を連れ出してあげたいとも思ったので…暇をいただき、申し訳ありません」
「ほう…そうか。馬繋がりとはな」
三者の言い分を聞き、曹操はますます笑みを深くした。
接点とは、思ってもみないところでできるものだ。



「…おや、また蹄の音がするような?」
楽進が微かに捉えた音について呟いた瞬間、曹操の眉がぴくりと動く。
それを荀彧は見逃さなかった。
「殿…あの、まさか」
嫌な予感が駆け巡った、その刹那である。

「もーーーとくぅううう!!」

鬼の形相をしながら、同じく鬼の形相の栗毛を走らせる猛将が遠くに見えた。
失われていない右目はこの距離からでも血走っているのが伝わる。
「か、夏侯惇殿!?」
「相当、お怒りだぞ…」
「………」
楽進と曹休は呆気にとられ、予感が的中してしまったことに荀彧は頭を抱える。
「むう、焚火がアダになったか」
曹操は至極冷静に言うと、すぐに指笛を鳴らした。
今の今まで眠っていた絶影がさっと起き上がり、曹操の傍へと駆け寄ってくる。
「ふ。なかなか楽しい休日であったぞ。ではな」
悪びれもせず三人に告げたかと思うと、曹操は颯爽と絶影を駆って淮河の西へと逃げていった。
すかさず夏侯惇も馬首を西へと向け、その後を追う。

「典韋も許褚もつけずに外へ出るなと何度言えばわかるんだお前は!待てぃ孟徳!!」
「はっはっは、絶影に追いつけるのであれば進言を聞き入れてやってもよいぞ」
「ふざけるのも大概にしろ!今日という今日は許さん!!」

丁々発止というには大人気ないやりとりを続けながら、人馬二組は遠ざかっていく。
取り残された三人の間に、なんともいえない沈黙が流れた。

(…また、どなたにも仰らずに城を抜け出たのですね)
荀彧は心底、呆れ果てながら脱力した。
曹操の脱走騒ぎは今に始まったことではない。政務を放り出すくらいはかわいいものである。
問題は行先も告げず、親衛隊の一人も護衛につけないまま行動に移してしまうことだ。
そのたびに夏侯惇がああして怒り散らしながら連れ戻すこと、幾度目か。
「殿も、相変わらずだな…はは、は」
「あの活力は一体、どこからくるのでしょうか…」
曹休も楽進も、褒められたものではない主の行動には、苦笑いするしかなかった。

そんな人間様の喧騒などつゆ知らず。
外の世界を満喫した愛馬たちは、身を寄せ合いながら木陰でくつろいでいた。




2018/09/05

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