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曇天日和

どんてんびより

明けぬ夜を抱いて

許昌は今、最も栄えを日増しにする土地柄といってよく、活気もより一層であり。そして陽が落ちれば、昼とは違う夜の華やぎが姿を現す。
今、まさに酒場の一角は盛り上がりを成していた。

「……であれば、休門部隊も素軽い歩兵で固めるのはいかがでござろう?」
「なるほど。つまり景門と休門……両翼を、別の陣形に移す時の要にする、ということか」
「でも、今日の調練の具合を見るとなぁ。歩兵ばっかりだと心許なくありません?せめて、外面だけでも盾兵増やした方が」
「しかし……あまり固め過ぎてしまうのも、次の身動きが取り辛そうですね」
「八門陣は攻めの陣形ではないからね。ここから、攻勢に移る術としては……さて、何がいいか」
「そこで提案なんですが、後方の部隊に兵器を導入してみるのはいかがでしょう?例えば投石器や、弩砲をですね」

曹操軍きっての勇将と軍師たちが、酒を呷りながら熱く論議を交わす。
酔いも程好く回り、皆それぞれ語る言葉は饒舌。それでも誰一人として理性を失わず、潰れることもない。

「着想はいいと思いますが、せめて、すべての部隊の役割を明確にしてから……っ」
嬉々とする満寵の意見に苦言を呈そうとしたところで、荀攸はとある光景を目の端に入れた。
この酒場には入り口に併設する形で、持ち帰り用の点心を売る露店がある。切り盛りしているのは、酒場の主人の娘だ。
その彼女が竈の火をすべて消し、店先の蒸籠などを片し始めていた。
「荀攸殿、いかがされましたか?」
動きの止まってしまった荀攸に気づき、楽進が不思議そうに尋ねる。それに弾かれるようにして、荀攸は席を立った。
「っ、申し訳ありません。俺はこれで失礼します。万屋に行かなくては……」
不覚だ。つい話に熱が入り過ぎて、離席する機を逸してしまった。
酒場はまだ熱気と喧騒の中にあるが、多くの商店はそろそろ店仕舞いの時間帯なのだ。
「万屋?何か、買い物ですか」
「その……見舞いの品を」
「ああ……」
荀攸の返答は、皆を満場一致の納得顔にさせた。真っ先に徐晃が口を開く。
「そうでござったな。少しでも快方に向かわれていればよいが……」
「はい。流石にもう、お休みかとは思いますが」
「どうかな。昼間にしっかり休んでいたら、案外夜は目が冴えているものだし……貴方の訪いを待っているかもしれないよ」
含み笑いを浮かべた郭嘉の言に、両隣から満寵と李典がすぐさま食いついた。
「おや郭嘉殿、これはまた随分と実感を伴う口ぶりですね?もしや、経験則からのお言葉……」
「ははぁ、なるほど~。昼間の十分な休息が、夜通し遊ぶ秘訣でもある、ってことか?」
「おっと。将の皆にも、私はそんなに怠惰だと噂されているのかな?」
「……やれやれ」
軽快な応酬を横目に見ながら、曹仁が代表して見送りの挨拶を述べる。
「荀彧殿は、我が殿やこの軍になくてはならぬお方。今や重責あるお立場故、気苦労も多かろう……どうか御身を労るよう、お伝え願えるか」
「お言葉、ありがたく頂戴しました。では……」
荀攸は早足で、他の卓を縫うようにしながら酒場を後にした。


「あら荀攸様?いらっしゃいませ」
現れた客に気づいた万屋主人は、軒先の品を片付ける手を止めた。
「申し訳ありません、店仕舞いのところを」
「いえいえ、構いませんよ。今日は何をお探しですか?」
「できればその……滋養のつきそうな食物があれば……」
言いながら、荀攸は店をぐるりと見渡す。棚の隅に、竹籠に入った枇杷が置かれているのが見えた。
新鮮な果物は体に優しく、そう出回るものでもない。見舞いの品としては最高だろう。
「では、あちらを」
「あ、枇杷ですか……はい、ありがとうございます」
荀攸の指し示した先にあるのが枇杷だと悟ると、主人の声の調子が落ちた。
明るく気さくな性格が売りの彼女にしては、珍しい反応だ。
「……何か?」
荀攸が訝しむと、主人は慌てた様子で弁解を始めた。
「あっ、いやだ私ったら!違うんです、美味しいのですよ。ただ、小さいのばかりで申し訳なくって」
主人が棚から持ち出してきた籠には、なるほど確かに小粒な枇杷しか入っていない。
「今年は不作だったみたいで。見映えがいいものは、全部天子様へ献上されてしまったそうです。卸しに来た者がぼやいてました」
「そうでしたか……それは致し方ありません」
「でも、味は確かなの。安心なさって」
いつも通りの屈託のない笑顔に戻ると、主人は懐より小刀を取り出した。
その場でひとつだけ枇杷の皮を剥き、切った実を荀攸へと差し出す。
「わざわざ申し訳ない、いただきます……」
荀攸の口に、程よく熟した枇杷の甘みが広がっていく。
満足そうに味わう荀攸の顔を見て、主人も安心したように麻袋に詰めた枇杷を渡した。
「今後とも御贔屓に」
「ありがとうございました」
荀攸も軽く会釈して、代価を支払い袋を受け取る。袋の口から爽やかな、旬を示す匂いが立ち上った。


思いの外、夜風が心地よい。見上げれば雲の流れは速く、月は煌々と夜道を照らす。
少なからず、酒が体を火照らせていたようだ。頭を働かせて激論を続けていたせいもあるだろう。しかしながら、あの熱っぽさは、決して悪いものではない。
若き頃、国を憂い立たんとしたところを裏切られ、死ぬ寸前まで追い込まれた。思えば遠くまで来たものだ。
今や確固たる志を持つ主と、それに共鳴し支えんとする人々に囲まれながら、日々を送っている。乱世の只中、自分には過ぎたる充足。
この充足を自分以上に味わう権利があるのは、彼の方こそ、なのに――――
「……っ」
袋の口を握る手が、僅かに力む。なんとしても彼に纏わりつく不穏な影を、炙り出さねば。
改めて内なる決意を燃やす頃、荀彧の邸宅は目前に迫っていた。

「……あ、ああ、旦那様っ!?」
俄かに悲痛な声が上がり、こちらに駆け寄ってくる人影があった。
「あ、失礼しました!荀攸様っ……!」
眼前に現れたのは、荀彧の使用人だった。荀攸と認めるなり、慌ててその場に畏まる。
それを見た瞬間、今の今まで酒に温まっていた腹の内がすっと冷える心地がした。
何か、あった。

「どうしたのです、一体……!」
荀攸もまた、血相を変えて使用人に駆け寄った。
しかし返ってきた台詞を聞いた瞬間、手元から袋が滑り落ちた。枇杷が、ばらばらと散っていく。

「だ、旦那様が……旦那様がっ……まだ城からお帰りになっていません!」





俺は、何をしていたのだ。
彼が一等、生真面目な性格であることを。意志が固く、時として頑なな性質であることを、誰よりも知っているのに。
何故あの程度の忠告で、彼が自身を慮ることに徹すると思い込んだのだ。

その時の荀攸は、脱兎よりも、鍛え上げられた伝令兵よりも速かったかもしれない。
驚いて声をかける見張りの兵士もすり抜け、ひたすらに城内を走り回った。


「文若殿っ!!」
駆け込んだ尚書府の執務室に、人の姿はなかった。
しかし、最後に見かけた時よりも、書簡と竹簡が少なくなっている。本来ならば滞っている筈の業務が、本日も遂行されたということだ。
「っ……!」
執務室にはまだ、奥の間がある。そこの扉は締まっている。祈るような気持ちで、荀攸は手をかけた。
どうか。どうか、ここにいてくれ。

「あ…………」
息が止まるかと思った。同時に、肩の力が抜けていく。
探していた姿は、あった。
仮の寝台にて横たわる様は、射し込む月光に照らされて輪郭を確かにする。
「文若、殿……っ」
半ばふらふらとした足取りで、荀攸は傍らまで歩み寄る。
眠っている荀彧が、そこにいる。不覚にも目頭が熱くなった。悪い予感が的外れに終わったという安堵がそうさせたか。
再び、誰かに襲われていたら。辱めを受けていたら。もしも、もしも命をも脅かされていたら。
焦る中で、最悪の想像ばかりが何度も頭の内を駆け巡った。

そうだ。そんなものはすべて、自分の度の過ぎた心配だったのだ。
一日でも休んでしまうことを厭った結果、回復したからと無理に登城して、政務をこなして。
そして自宅まで帰る余力なく、彼はここで眠ってしまった。ただ、それだけのこと。

「……帰りましょう」
この場で夜を明かすのは、本調子ではない体によろしくない。
折角深く眠っているのに少々忍びなかったが、起こすべく荀攸は手を伸ばした。
「文若殿、起き……」
言葉が途切れる。体が硬直する。
否。夜間故の見間違いだ。瞼を何度も瞬かせた。
しかし、とうに雲は流されていた。月光が、無情にもすべてを照らし上げる。

何故、頬に濡れた跡が残っている。
何故、こんなにも髪が乱れている。
何故、襟元の留め金が外れている。
何故―――

「っ、が……!!」
首筋の赤黒い痕に気づくのに、時は要さなかった。
荀攸の背筋を、冷たい何かが駆け抜けていく。治まりかけていた脈動が、再び速さを増す。
「あ……」
指先まで、震えが走った。気づけば、荀彧の首へと手を伸ばしていた。

自分は、何をしている。一体、何を見ようとしている。眠りについていることを盾にして、なんとはしたない真似をしようとしているのか。
いけない。見てはいけない。だが。それでも。見ずにはいられない。
証明したかったのだ。ただの傷痕であるのだと。ただ、それだけ。それだけだ。

静かに暴いたそこが、月明かりの中に生々しく浮かび上がる。
項、鎖骨、胸元に至るまで、夥しく残された痕。病によるものでもなければ、虫刺されなどでもない、鬱血。
疑いようない現実が、残酷なまでに。そして、克明な形で露わにされていた。

守れなかった。

足から、力が抜け落ちる。
荀彧の襟から手を放した瞬間、荀攸はがっくりとその場に膝をついた。
声も、出せなかった。安堵から流した涙が、一瞬にして虚無に冷え切った。


「おゆ、るし……くだ……さ……」
ふいに、切れ切れの言葉が耳に届いた。
「っ!?」
まだ、荀彧の目は覚めていない。魘されていた。それよりも、その言葉は。
(お許し、ください……だと……っ!)
ただ悄然とするしかなかった荀攸に、ようやく明確な怒りが生じる。
何故、彼が許しを乞う必要がある。許されない無体を働いたのは、襲った方ではないか!
必ずや。必ずやこの手で――――


「へい……か……っ」


今、何と。

「へい、か?」

今、確かに。彼はそう言った。へいか、と。

「へいか…………へい、下…………陛、下」

腑に落ちた。落ちてしまった。
その瞬間、何もかもが打ち砕かれた。滾らせたばかりの憤怒さえ、へし折られた。


(そういう、ことか)


なんという愚かしい見当違いをしていたのか。今更、全てが繋がり出す。
あの雨の日、毟られた牡丹の庭を前に、茫然と佇んでいた彼。何を聞いても、ついに詳しく語ることはなく。
名を出すことも、抵抗も敵わぬとあれば、陣営の重鎮や将兵の誰かだとばかり思い込んでいた。
彼は腕ずく、力ずくで抑え込まれていたのではなかったのだ。そうでなはなく、この国の。守るべき、奉じるべき存在に――――
「――――っ!!」
声にならない声と共に、荀攸は床を殴りつけた。
忌まわしき正体が知れたところで、果たして何が成せる。どこにもやり場のない絶望だけが、体中でひしめき合う。

「あ……へい、かっ……いや、です、やめっ……!」
にわかに、荀彧の魘され方が酷くなった。
「っ、文若殿……!文若殿!」
荀攸は咄嗟に、震えている荀彧の手を取り握り締めた。せめて悪夢の淵から呼び戻さんと名を呼ぶ。
その手首に、縛り上げられた痕が残されていることからは、目を背けた。
「…………あ」
声が届いたか、はっと荀彧の瞼が開かれる。
焦点の合わない、虚ろな瞳が覗いた。眦は、真っ赤に染まり上がっていた。
いったい何度、耐え難い屈辱に泣き濡れたのだろう。それを思うだけで、荀攸の心は押し潰されそうになる。

「こう……たつ…………どの……?」
瞳の揺れが治まる頃、ようやく荀彧は、目の前の人の名を呟いた。
「ここ、は……わたし……なに、を…………」
「……尚書府の、奥の間です」
「――――っ、あ!」
刹那、荀彧は跳ね起きた。
「あ、あ……っ」
茫然自失のまま、胸元を押さえつける。そこが寛げられていることに気づくと、更に荀彧の表情は凍りついた。
「公達、殿……っ」
声を震わせながら、荀彧は荀攸を見上げた。
言葉にして言われずとも伝わる。その怯えた目が、何を問うているかは。
「…………」
肌を見た、という罪悪感が、荀攸を俯かせる。情けなくも、それでしか答えようがなくて。
息の詰まるほどの静寂が、この場を支配した。


「……公達、殿」
永遠に続くかと思われた沈黙を破ったのは、荀彧の方からだった。
「どうか……ご覧になったことは、他言なさらないでください」
「文若殿、っ……!」
告げられた言葉の意味を理解はできても、荀攸の心は到底納得できなかった。
されど、どれほどの思慮から荀彧が申し出ているのか。思えば思うほど、荀攸の喉の奥は焼けつき、次の言が出てこない。

「……あ、あぁ」
いまだ肌に残るざわめきが、憔悴した荀彧の心身を蝕む。
無理矢理這い寄られ暴かれていく感覚に恐れを成して、思わず自分自身を抱きしめた。

寝所に連れ込まれた後も、帝は執拗に求めてきた。
解放された時は、既に夜更け。どうにか装束を纏って禁中を抜け出したが、そこから尚書府へ戻るまでの記憶は曖昧だ。
幾度となく、追ってきた手に捕らえられる感覚が過ぎった。何が夢で何が現かも、判別がつかなかった。
しかし必死に振り払おうとして、彼の人を叫んだ覚えは微かにある。
目を開けたそこには、悲痛な面差しの荀攸がいて。襟元が開かれていることに気づいて、悟った。最早、彼には隠し立て叶わぬと。

「陛下を案じる方々の……殿の御耳にも、このようなことを入れたくないのです」
「だからと、いって……それでは貴方が……貴方ひとりが、っ」
声を震わせながら、荀攸は訴えた。
荀彧の考えも思いも、痛ましいほどに伝わる。この許昌に、火種を持ち込みたくないと。
ようやく体制が整いつつある今、帝側と曹操側の間に騒乱を起こしたくない、その一心だと。
しかし、自らの身を犠牲にするという宣言も同然のそれを、心で承服できない。たとえ、他に執るべき策がないのだとしても。

「申し訳ありません……ですが、どうか……どうか、お願いします……!」
「文若、殿……っ!」
光の戻らぬ瞳を見るのは、最早限界だった。
かけるべき言葉を持てぬまま、戦慄く衝動のまま。荀攸は項垂れる荀彧を抱きしめた。
「っあ……公達殿、やめ……っ!」
腕の中で荀彧の体が怯懦し、悲痛な声が上がる。嗚呼、彼の人も。こうして彼を絡め取り、腕に抱いたのか。
あの生白くか細く、埋もれるばかりのような青年が。己が背に負った威ひとつで。天子であるという、ただそれだけで、彼を――――
「公達、どのっ……あ、あぁ……」
肩が、荀彧の涙で冷たく濡れる。この雫すら、彼の人のために流された涙の数に及ぶことはないだろう。
何もかもが手遅れだ。すべて、奪われてしまった。


ひとたび雲が月を隠し、月光が途切れた。たちまち辺りは、濃い闇に落とされる。
夜明けなどお前たちには訪れぬと、言われた気がした。




2019/07/20

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