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曇天日和

どんてんびより

雨夜の品定め

ぽつ、と冷たい感触が頬を伝った。
初めこそ気のせいかと思ったが、やがて少しずつ、水音が聞こえ始める。
頬だけでなく腕にも粒が当たり、濡れた染みが浮かび上がった。
「ちっ」
夏侯惇は舌打ちをした。折角時間が出来て、麒麟牙を預けた鍛冶屋に向かおうとしたらこれである。
空を見上げても、夜で判別はしにくい。
ただ少なくとも月明かりもなければ星も見えないということは、余程雲が厚いのだろう。
まだ本降りではないが、いずれ雨足も強くなってしまうはずだ。
早いところ得物を引き取って帰路につかねばと、夏侯惇は足を急がせた。



目的の場所が近づく頃には、雨粒も大きくなりつつあった。
やっと店の軒先が見えてきた時。あまり似つかわしくない雰囲気の人間がそこに佇んでいることに気づく。
背格好は男性だが、ゆとりある平服の上からでもわかる細い体つきは、武人のそれではない。

暗く雨に煙り始めた視界の中でも、店先の明かりによって彼の顔は判別がついた。
すっと通った鼻筋に、横からでもわかる切れ長の瞳。艶やかな黒髪を、後ろでひとつに括っている。
人の美醜に興味関心があるわけではない。まして男相手になど。
だが、その夏侯惇ですらその横顔に対して最初に抱いた印象は「端整」という言葉だった。
血腥い戦場とはまるで縁のなさそうな、普段は目にする機会のない青年。
彼の視線は、店先に並んだ武器の数々へと一心に注がれていた。

「ああ、旦那。わざわざどうも!」
夏侯惇に気付いた鍛冶屋の主人が頭を下げる。
何を目的としてやってきたかを悟り、すぐに店の奥へと入っていった。
青年も武器から目を離し、隣に現れた夏侯惇を見上げてくる。
「あっ、申し訳ありません。どうぞ」
邪魔をしていると思ったらしく、青年は武器が一番見えやすい位置を譲ってきた。
その心遣いには感謝しつつ、夏侯惇は軽く制した。
「いや、構わん。俺は預けておいた刀を受け取りに来ただけだ」
そう声を掛けた瞬間、店の扉がガラリと開いて主人が戻ってきた。
「お待たせしました。いかがでしょう?」
刃を磨き上げられた麒麟牙が目の前に差し出される。
夏侯惇は黙って頷きながら、それを受け取ってつぶさに眺めた。
預ける前には存在した刃毀れや、刀身に入った細かい傷は、綺麗に消されている。
冴えた銀色の輝きが、静かに夏侯惇の顔を照らし上げた。

「素晴らしい得物でいらっしゃいますね」
隣で見ていた青年が、麒麟牙の迫力に思わず感嘆の声を上げる。
夏侯惇は軽く笑いながら答えた。
「ああ。俺にとっては一番の相棒だ」
「そちらの刀をお選びになったのは、何か特別な理由がございますか?」
「うむ…そうだな」
改めて問われ、夏侯惇は暫し押し黙る。
幼い頃より弓馬や武術は一通り学んできたし、極端に苦手とするものもない。
様々な武芸に万遍なく励み、実戦に赴く中で、次第にこの刀の持つ重み、切れ味に惹かれるようになった。
「餓鬼のうちは色々と他の武器も試したが。こいつが一番手に馴染んだな」
今となっては何が切欠かまでは思い出せない。しかし、間違いなく自分になくてはならない、特別な刃だ。
「流石は、鍛練を積み重ねてこられた武人の方。ご自身の感覚に基づいて判断ができるのですね」
青年は感心したように頷いた。
自分とは立場が違う者への素直な敬意と、僅かな羨望が声色に混じる。
それを感じ取った夏侯惇は、自分からも疑問をぶつけてみた。
「お前、見たところ文官だろう。何故そんなに武器を眺めていたんだ?」
宮殿に控えて政務を執り行う者であれば、精々持つとすれば護身用の小刀程度だろう。
改まって武器に触れたり選ぶ機会などそうはない筈だ。
青年は、俯き加減になりながら口を開いた。
「…実は先日、共に守宮令で働く者が、街中でならず者に襲われました。大怪我を追った上、手持ちの金品を全て盗られてしまって」
「そうか…災難だったな」
黄巾の乱以降、何処も彼処も世の中は乱れる一方だ。都の洛陽とて例外ではない。
むしろ董卓が牛耳るようになってから、洛陽こそ治安は悪化しているように思えた。
市街の方々で諍いが絶えず、刃傷沙汰や婦女への乱暴が起きていることは夏侯惇の耳にも入っている。
「何処へ行くにも、身近の恐怖に怯えなくてはならない…嘆かわしいことです」
青年は、その美しい容貌を曇らせながら肩を落とす。
「明日は我が身…いざというときの為、何か一つでも得物の扱いには慣れておいた方がいいと、親族の者から忠告を受けました」
「それで、武器を見繕いに来たのか」
「はい。ですが…」
再び青年は、目の前に陳列された武器へと視線を向け、嘆息した。
「日頃は筆と書簡ばかり手にしている身ですし、護身術を習った程度の自分では、武器の良し悪しや身の丈に合う物の判別などなかなかつかず…迷っておりました」
「ふむ…わかった」
青年の悩みを理解した夏侯惇は、ざっと武器を見渡した。
洛陽に構えた店だけあり、刀剣類、長物だけでなく、小型の武器もいくつか揃っている。
それを確認した上で、夏侯惇は青年を見やった。
「もし構わなければ、手を見せてくれるか?」
「えっ?は、はい」
突然の申し出に驚きつつ、青年は素直に右手を差し出す。
夏侯惇はその手を取り、じっくりと眺めた。
「…確かに、刀や槍など知らぬ手だ」
男の手らしく節こそあるが、夏侯惇のそれとは作りがまるで違っている。
白い掌、ほっそりとした長い指先には、日焼け跡や肉刺などは一切見られない。
「お恥ずかしい限りです…」
厳めしく力強い夏侯惇の手と自分の手の違いに、青年も途方に暮れた様子だった。
「ああ、すまん。詰った訳ではない」
夏侯惇としては見たままを述べたつもりだった。
大して武器を持った経験がないことを十分確めた上で、手を離した。
「手首は柔らかいな。それに指も長い。ならば、手先指先で調整が利く武器がいいだろう」
「えっ…?」
戸惑う青年をよそに、夏侯惇は並べられた武器をひとつひとつ見ていった。
「暗器が最適…とまでは言わんが。ああ、これがあったか」
紫色の房が付いた鏢に気付くと、それを拾い上げて手渡す。
棚の隣に設置してある試し切りの板を指差しながら、夏侯惇は青年に指示を出した。
「そこに向かって投げてみろ」
「は、はいっ。では…はぁっ!」
青年は、精一杯に腕を振り抜いた。
放たれた鏢は、板の中央より右の位置に、垂直に突き刺さった。
投げる際の手の動き、板に対して真っ直ぐ突き立った鏢を見届けた夏侯惇は、軽く頷く。
「下手に合わぬ刀を持って鍛練をするより、これに慣れてみたらどうだ。他の面倒な暗器よりは使い易いだろう」
暫し、夏侯惇と手の中の鏢を見比べていた青年だが、やがて笑顔を見せた。
「…はい。ありがとうございます。ではこちらをください」
夏侯惇に礼を述べてから、鍛冶屋の主人に鏢を差し出した。
「まいどあり。いやぁ旦那、なんだかすみません」
結果として商売の手助けをしてもらった主人は、夏侯惇に向かって頭を下げた。
青年も鏢を受け取ってから、夏侯惇へと向き直る。
「わざわざ相談に乗っていただいたばかりか、合う得物まで見てくださり、すみません」
「構わん。そのあたりの感覚は俺達の専門…」
その瞬間だった。

カッと空に閃光が走った。
直後、ビシャァンと激しい轟音、そして地響きが辺りを揺らす。
「っ」
突然の雷に青年も驚いたらしく、びくりと体を震わせた。
「…近くで落ちたな」
夏侯惇が見上げた先には、相変わらず真っ暗な曇天が広がる。
しかし時折、その中から白い光が見え隠れしていた。最早雨雲ではなく雷雲になっている。
雷が合図となったか、より一層雨足も激しくなってきた。
「ああ~こりゃしばらく止みそうにないな…旦那方、よかったら上がってください」
空を一瞥するなり、主人は背後の扉を開けた。
「えっ?ですが、ご迷惑では」
店先はともかく、奥は鍛冶屋の仕事場であり居住空間だ。
そこに入ることに対して青年は躊躇するが、主人は構わないと首を振る。
「その格好じゃずぶ濡れになって風邪引きますよ。旦那も、雷の下を無理に歩くことありませんや」
「…そうだな、甘えさせてもらうとしよう。行くぞ」
「は、はい…」
青年は促されるまま、夏侯惇と共に鍛冶屋の中へと入った。


「よかったらこちら、お使いくださいな」
鍛冶屋の主人の妻らしき女性が、さらし布を二枚持ってきた。
早速の心遣いに、青年は恐縮しながらそれを受け取る。
「ああ、お気を遣わせてしまってすみません」
「いえいえ。狭いところですけど、ゆっくりしていってくださいよ」
主人は作業場から椅子を二つ運んできて、二人の前に置いた。
「すまんな。恩に着る」
粗方、体を拭き終わった夏侯惇は、主人に会釈しながら椅子に座った。
青年も、その隣に置かれた椅子に腰かける。

「申し遅れました。私は荀彧、字を文若と申します。先程も申し上げた通り、守宮令に勤めております。先程は本当にありがとうございました」
荀彧と名乗った青年は、夏侯惇に改めて一礼した。
「ああ、こちらこそ名乗らずにすまんな。夏侯惇、字は元譲」
名を告げた夏侯惇に対して、荀彧は僅かに目を見開いた。
「夏侯…では、貴方様は曹操殿の」
「孟徳を知っているか」
今度は夏侯惇が目を見開く。
曹操が洛陽で北部尉をしていた頃からは時を経ている。
荀彧のような若い文官は、曹操を知る機会もあまりないだろうと思っていた。
驚く夏侯惇に微笑みを見せながら、荀彧は言葉を続けた。
「宮中で幾度かお見かけしました。遠目ではありましたが、評判通りの、厳然たる威風を感じさせるお方でした。黄巾の乱における獅子奮迅のご活躍、曹操殿は勿論、夏侯惇殿や夏侯淵殿についても聞き及んでおります」
「そうか…悪名で通ってないなら助かる」
「悪名…ですか?」
何気なく夏侯惇が発した台詞に、荀彧は首を傾げた。
「曹操殿は以前から賄賂を嫌い、法を犯した者はどのような身分であろうと処罰する徹底した性格とお伺いしております。怖れられてはいらっしゃいますが、悪名ではないかと」
「ならいいんだ。その通りだ」
思わず夏侯惇は苦笑する。袁紹と若い頃にやらかした数々が、今も噂として残っているだろうと思ったのだ。
見るからに清廉そうなこの青年に、わざわざ主の醜聞を聞かせたくはない。

話題を変えようと視線を逸らしたところ、丁度よい物が夏侯惇の目に飛び込んできた。
「…折角買ったついでに、雨が止むまで鏢を打たせてもらったらどうだ?」
「えっ?」
「あれなど、的には最適だろう」
夏侯惇は立ち上がると、壁際に置いてある立て板に近寄った。
店先に置いてある試し斬りの板よりも、かなり大きい。
「これは借りても大丈夫なものか」
「ああ、もちろんですよ。遠慮せずどうぞ」
主人から了承を得た夏侯惇は、荀彧の前の壁に来るよう立て板を動かした。
荀彧も椅子から立ち上がり、購入したばかりの鏢を手にする。
店先の板よりもかなり位置が遠い。不安も募ったが、意を決して荀彧は構えた。
「はい…では、僭越ながら。はっ!」
右手を勢いよく振り抜き、鏢を飛ばした。
先程よりも距離はあったが、鏢は途中で落ちることなく板に突き刺さった。
流石に端、それも下方ではあるが、距離を伸ばしてもきっちりと的を刺せたのはいい兆候だ。
「荀彧。お前、なかなか筋がいいな」
お世辞でも何でもなく、夏侯惇は思ったことを言った。
初めて手にした得物にしては、上手く対応できている。手首のしなやかさに因るものだろう。
「恐れ入ります」
「じゃあ、次はここに狙いをつけて打ってみろ」
夏侯惇は、板の中央部を軽く叩いた。
「はい。っ…はっ!」
荀彧としては、真っ直ぐ投擲したつもりではあった。
しかし鏢は、夏侯惇の示した箇所よりも逸れて刺さった。
「そうだな…狙いを定めて打つなら、少し腰を入れて踏み込んだ方がいい」
手先の動かし方は、既に型が出来ているように見える。ただ、真っ直ぐ立ったまま投げているのが引っかかった。
「貸してくれるか」
夏侯惇は荀彧から一本だけ鏢を借りた。腰を落とし、踏み込みながら右手を振り抜く。
放たれた鏢は、真っ直ぐに板の中心部に突き立てられた。
「凄い…流石です、夏侯惇殿」
「あまり偉そうなことは言えんがな。腰を入れるだけでもかなり違うと思う」
「はい、かしこまりました。っ…はぁっ!」
今度は荀彧も、腰をしっかりと落としながら構える。
足を踏み込むと同時に、右手をさっと振り抜いた。
まだまだ下方ではあったが、先程よりも中央に近い位置に鏢が突き刺さった。
「ああ、そんな感じだな。その感覚で慣れていけば大丈夫だろう」
「はい。では…はっ、はぁっ!」
荀彧は立て続けに鏢を放った。
刺さる箇所は、ひとつずつ確実に中央部へと近づいていく。
想像よりも速い上達を見て、やはり鏢を薦めたのは正解だったと感じた。

「あ、旦那方。雨収まりましたよ」
入口から空の様子をみた主人が、声を掛けた。
「そうか、世話になったな」
夏侯惇は的板を元の場所へと戻し、荀彧は使わせてもらった椅子を片付ける。
「本当にお世話になりました。感謝いたします」
「では失礼する」
「いえいえ。お気をつけて!」
主人に見送られつつ、二人は店を後にした。



「武器を選んでいただいたばかりか、指南まで…何とお礼を申し上げてよいか」
帰路の途中、荀彧は夏侯惇へ感謝の意を伝えた。
「いや。俺も、手に馴染みそうな武器を紹介できたなら幸いだ。そうだな…」
他に伝えるべきことは残っていないかと逡巡する。
はたと思いつき、最後の助言として夏侯惇は荀彧に告げた。
「狙いをつけられるようになったら、首や目、額…下半身なら腿の付け根か。急所を狙って打ち込む意識を持っておくといい。剣や槍と違って、鎧を貫通できるわけじゃないからな」
「はい、心得ました。本当にこのたびは、ありがとうございます」
荀彧は整った顔立ちを嬉しそうに綻ばせた。

「では、私はこれで…失礼いたします」
文官たちの居住区まで近づいたところで、二人は別れることになった。
「ああ。気をつけて帰れよ」
「夏侯惇殿も、どうぞお気をつけて」
荀彧は今一度深く頭を下げ、自宅のある方へと帰っていった。
遠ざかる背中を、夏侯惇はできるだけ長く見送った。


不思議な出会いをしたものである。
何のきっかけもなければ、まず顔を合わせることのない類の人間だ。
自身も含め屈強な男ばかり見慣れている夏候惇にとって、あれだけ美しい男というのは存外新鮮に映った。
鍛冶屋の前で鉢合わせるとも思わなかったし、ひと時、関わりを持つことになるとも思わなかった。
たまに宮中へ上がる曹操なら兎も角、この先また会うこともない筈。
「…守宮令、か」
夏侯惇の視線の先に、絢爛な宮殿の輪郭が見える。
董卓が日に日に幅を利かせる場所で、清廉な文官はさぞ生き辛いことだろう。
せめてあの鏢が彼の身の護りとなるよう、小さく願った。










「うおおぉおおおっ!」
振り抜いた麒麟牙が、追っ手の兵士たちを刎ね飛ばした。
丹念に磨き上げられた刃は一段と切れ味を増し、何人たりとも寄せ付けない威を放つ。
「ちぃっ…孟徳、逃げ切れよ」
尚も迫ってくる兵士たちに悪態をつきつつ、夏侯惇は麒麟牙を構え直した。

董卓の暴政を見かねた曹操は、ついに暗殺という手段に出た。
失敗も想定した上での計画ではあったが、猜疑心の強い董卓に、裏を掻くやり口は通じなかったらしい。
宮中から勢いよく飛び出してきた曹操を見れば、不首尾に終わったのは明らかだった。
元々、仕損じる可能性を考えながら待機していた身だ。夏侯惇も夏侯淵も、覚悟はしていた。
迫る兵士たちを撒き、行く手を阻む者は全て打ち倒す。
曹操の退路のため。夏侯惇は白刃を翻しながら戦い続けた。

「覚悟ぉおおっ!」
「むっ!?」
死角から兵士が二人飛び出してきた。
気配を察知して咄嗟に振り返り、攻撃を受け止める。
やや体勢を崩したところに、もう一人の兵士が打ち掛かってきた。
「ぎゃぁっ!?」
突然、兵士が声を上げて頽れた。
「な、何だ!?」
「ふっ」
仲間が倒れたことに驚いた隙に乗じ、夏侯惇は素早く体勢を立て直す。
そのまま間髪入れずに、麒麟牙で目の前の兵士を撫で斬りにした。
断末魔も上げられず、兵士はその場にばったりと倒れた。
「うあああっ!?」
「ぎゃあ!」
「助けっ…ぐあぁっ!」
悲鳴に振り返れば、夏侯惇目掛けて進軍してきた兵士たちが次々と矢に倒れている。
夏侯淵の指揮する弓兵たちが派手に粉砕してくれているようだ。
次々死んでいく仲間たちに恐れをなしたか、後方にいた兵士たちが引き返していくのが見えた。

「…ん?」
襲いかかってきた兵士たちの亡骸に向き直った夏侯惇は、それに気付く。
先に絶命した兵士の首に、何か鋭利なものが刺さっているのだ。
興味本位で近寄り、それを引き抜いてみた。
「これは…」
紫色の房飾りのついた鏢に、見覚えがあった。
ふた月ほど前に、鍛冶屋で選んだものだ。自分の武器を探していた者のために。
慌てて周囲を見渡そうとしたとき、背後から声がかかった。
「惇兄、無事かー!」
追っ手を殲滅した夏侯淵が、意気揚々と駆け寄ってきた。
「助かったぞ、淵」
「殿は東門から無事に抜けたぜ。俺達も早いところオサラバしようや」
「おう、よくやってくれた」
いつまた追っ手が戻ってくるとも限らない。
夏侯惇は鏢を懐に仕舞い込み、夏侯淵と共に一番近い城壁に向かって駆け出した。





その後は、途中までは曹操の思い描いた通りに事が進んだと言っていい。
袁紹が反董卓連合の盟主となり、集った諸侯は洛陽へと攻め上った。
虎牢関にて呂布の武勇には苦しめられたものの、両翼からの突破には成功した。そこまではよかった。
事態を重く見た董卓は、一足先に長安へと逃げていた。洛陽を焼き払うという暴挙を行った上で。

「これが、あの洛陽か…」
曹操は、黒煙燻る洛陽の宮殿、その残骸を静かに眺めた。
かつて自身も宮仕えを行った、国の中心たる場所。都の無残な姿は想像を絶した。
「……っ」
傍らにいた夏侯惇もまた、目の前の惨状に苦虫を噛み潰す。
あちこちの焼け跡から、筵に包まれた遺骸が運び出されていく様が嫌でも目に入った。
逃げ遅れた文官や女官も、この瓦礫の下には数多くいるだろう。

ふいに、夏侯惇の脳裏に秀麗な笑顔が蘇った。懐に仕舞い込んだ鏢の本来の持ち主。
彼は、どうしただろうか。炎の中の洛陽から逃げ果せたか、それとも。
「何か、気になることでもあったか?」
いつになく気落ちしている様子を見て取り、曹操が訊ねた。
その言葉で、夏侯惇は我に返る。
「…いや。どうということはない」
この乱世の只中、文官一人を案じたところで詮のないことは百も承知している。
今はただ、現状にこの先どうやって立ち向かうかを決断する時だ。

「殿、俺達はどうします?」
洛陽を焼かれ、董卓を討ち果たせずに終わったことで、連合軍は既に分裂状態にあった。
当初の目論見が外れた以上、また次の手を打たなくてはならない。
曹操は夏侯淵の問いに、即座に答えた。
「許昌へ向かう。そこを我らの本拠としよう」





数日後、曹操が率いる部隊は無事に許昌へと辿り着いた。
しかし夏侯惇は、何故曹操が許昌に拘ったか、その理由を掴みかねていた。
「孟徳。何故ここを選んだ?」
市街の視察に付き従った折、夏侯惇は率直に疑問を述べた。
元々許昌周辺は痩せた土地である上に、周囲には荒れ果てた田畑が目立っている。
救いは、市街がそこそこ平穏なことくらいか。
「我らは寡兵だ。この先諸侯と渡り合うには、身内の連携と武に頼るばかりのやり方だけでは生き残ってゆけぬ」
曹操は思うところを静かに語り始めた。
「故に、新たな視点を持つ者が欲しいのだ。この許昌は、見所そのものは多くないやもしれん。だが幸いにして、人は数多集っている筈」
そこまで、曹操が言った時だった。

「お待ちください。非礼を承知で、お声掛け申し上げます」
背後から、涼やかな声がかけられた。
「曹操殿とお見受けいたします」
「いかにも」
曹操は振り返り、声の主を見た。夏侯惇も続いてその方を見る。
そこには、声に相応しく美麗な顔立ちの男が立っていた。
夏侯惇の目には、少々優男に過ぎると映った。色素の薄い肌と髪を持ち、柔和な笑みを浮かべる様は、いかにも女性が持て囃しそうである。
しかし華奢な見た目に反して、その瞳に強い意志を感じるのもまた事実だった。
「お初にお目にかかります。私は郭嘉、字を奉孝と申します。以後、お見知りおきのほどを」
郭嘉と名乗った男は、恭しく拝礼した。その直後、更に背後から人影が近づく。
「郭嘉殿。もしや、曹操殿がお越しになられたのですか?」
「ああ、荀彧殿。ついにだよ」

荀彧、と。
確かにその名が発せられたのを、夏侯惇は聞き逃さなかった。

「曹操殿。突然のお声掛け、ご容赦くださいませ。私は荀彧、字を文若と申します」
郭嘉の背後から現れ、曹操へと一礼する彼の姿に目を見張る。
「荀彧…」
思わず、夏侯惇はその名を口にしていた。
洗練された戦装束を纏った様は、平服の姿とは違って毅然とした印象を与える。
しかし、凛として眉目秀麗な面立ちは、記憶の中のそれと一致した。
「あっ、夏侯惇殿…お久しゅうございます」
荀彧もまた、曹操の背後に立つ夏侯惇の姿を認め、頭を下げた。
「ほう?夏侯惇、わしよりも先にこの美丈夫と知り合いとは。お主も隅に置けんな」
二人の関係に俄然興味が湧いた曹操は、にやりと笑った。
郭嘉もまた、意外そうな顔をして荀彧を見つめる。
「荀彧殿。私に黙って、曹操殿の側近とお近づきになっていたのかい?それは見過ごせないな」
「いっ、いえ。違うのです。以前洛陽にいた折に…」
弁明を図る荀彧の口から『洛陽』という言葉が出た瞬間、曹操はますます笑みを深くした。
「洛陽…?夏侯惇よ。わしの知らんところで、お主もなかなかやりおるな」
「一体何を想像しているんだ」
余計な詮索を始めた主君を、夏侯惇は睨みつけた。
「洛陽にいた時、偶然鍛冶屋の前で会ったことがある。武器を探していて、俺が合う物を見繕ってやった。ただそれだけだ」
「はい…あの時は本当に、ありがとうございました」
「お主が文官相手に武器を、な…?随分と優しいことだな」
夏侯惇と荀彧。曹操にとってはこの意外な取り合わせが面白かったらしく、含み笑いを崩さない。
思わぬ話にはすぐ耳を傍立てる性質に苛立ちを覚えるも、夏侯惇はあえて無視した。
「それでお前たち、孟徳に一体何用だ」
「はい。我らをぜひ、曹操殿の麾下に加えていただきたく参じた次第です」
荀彧は、改まった様子で曹操へと礼を捧げた。
郭嘉もまた、今まで柔らかい微笑みを湛えていた顔を引き締める。
「曹操殿が次に足を運ばれるのは、豫洲出身の名士が集うこの許昌。そう見定め、我らはここでお待ち申し上げておりました」
「…なるほどな」
大将でありながら、軍師並みに頭が回る。夏候惇から見た曹操とはそういう男だ。
その曹操の意図を正確に読み取った上で待ち構えるとは、並大抵の知恵者ではない。
少数精鋭で武勇を頼みとしてきた軍に、今までいなかった性質の人間であることは間違いなかった。
「曹操殿の下には、夏侯惇殿を初めとして、類稀な武勇を誇る方々が数多いらっしゃいます。その武を最善の形で生かし、殿の道を切り開くためにも、是非我らをお使いいただきたいのです」
荀彧の言葉に、曹操は満足げに頷いた。
求めていた人物たちと早速出会えた喜びを、口の端に浮かべる。
「うむ…郭嘉、荀彧、よくぞ我が下に来てくれた。その才知、頼みとさせてもらうぞ」
「はっ。この郭奉孝、仰せのままに」
「荀文若。微力ながら、才を尽くします」

この日、軍師二人が新たに曹操軍へと迎え入れられた。





許昌の城へと戻った夏侯惇は、しきりに周囲を見回しながら城内を歩いていた。
巡り巡って、中庭へと辿り着く。日は傾き、周囲は朱に染まっていた。
植えられている桃の木の近くに、目当ての人物がいることを確認して声をかける。
「荀彧、探したぞ」
自分の名を呼ぶ声に振り返った荀彧は、驚いたような表情を浮かべた。
「夏侯惇殿…いかがなさいましたか?」
「これを返そうと思ってな」
夏侯惇は懐から引き抜いた物を、荀彧へと差し出した。
それが何かを悟った瞬間、荀彧の目が見開かれる。
「これ、は…」
洛陽から逃亡する際、兵士の首から抜き取った鏢。
死角より襲ってきた兵士を倒し、夏侯惇を窮地から救った一撃だ。
「お前が投げてくれたんだろう。礼を言う」
夏侯惇は頭を下げた。まさかの事態に、荀彧は慌てふためく。
「夏侯惇殿。どうか顔を上げてください」

あの夜は、宮中からの帰り道だった。
物陰に隠れていた不審な二人の兵士に気づき、その視線の先に夏侯惇の背中が見えた。
襲いかからんと飛び出していった兵士たちを見た瞬間、咄嗟に手は忍ばせていた鏢を握っていた。
自主的に鍛錬を積んでいたとはいえ、実践したわけではない。
それでも、恩のある人物の危機は見過ごせなかった。ただ一心に、急所を目がけて思い切り振り抜いた。
それがたまたま、狙い通りに兵士の首を貫いたのだ。
「ただ…無我夢中でやったことですので」
「いや、あの時は本当に助かった。見事な一撃だったぞ」
「い、いえ、そんな…」
武人である夏侯惇に手放しで褒められ、荀彧は恥ずかしそうに俯いた。

「燃え落ちた洛陽に入った時、お前の顔が浮かんだ。よく無事だったな」
「まさか、ご心配いただけていたとは…本当にありがとうございます」
荀彧は恐縮しつつ、洛陽の一件以降の身の上を語り始めた。
「実はあの後、帰郷しておりました。我が故郷、潁川が戦火になると思い、なんとか潁川の者らを避難させようと…ですが敵わず、せめてもと一族を引き連れて冀州へ逃げていたのです」
「そうだったのか」
「その後は袁紹殿の庇護を受けておりましたが…乱世を治めるだけの器量はないと感じてしまい。連合軍が董卓を討ち果たせずに終わったとの報を聞いた後、同じく袁紹殿の下を離れると決意した郭嘉殿と共に、許昌へ向かうことを決めたのです」
「…お前も大変な思いをしていたのだな」
董卓の働いた暴虐に巻き込まれていなかったのは幸いだが、やはり乱世である。
決して彼も、平穏に過ごせていたわけではなかった。
故郷を追われ、流浪し、本来であれば仕えるべき主君に器を見出せなかった失望は如何ばかりだろう。
その中で曹孟徳を主と見込み、参じてくれたことに、改めて感謝の念が湧く。

「よく、孟徳を選んでくれた。この先もよろしく頼む」
夏侯惇は、穏やかに笑いながら右手を差し出した。
荀彧もまた、その涼しげな美貌に微笑みを湛え、握手を交わす。
「私こそ、どうぞよろしくお願いいたします」



あの雨夜から月日は廻り。夕焼けの下、再び二人は相見える。
これより共に歩むは、同じ覇道。






2018/08/21

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