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曇天日和

どんてんびより

雨に烟る諱

夕方より降り出した雨がいよいよ激しくなってきた。
叩きつけるような雨音を聞きながら、荀彧は目の通していなかった竹簡を読み続けた。

許昌の城近くに借り受けたこの別宅は、寝台や卓といった最低限の家具と、筆記具や書物、竹簡の類しかない。
殺風景ではあるものの、執務室では火急の案件が飛び込むこともあるため、落ち着きたい時はこちらまで戻るようにしていた。
長めの書簡などを読み進めたり、じっくり腰を据えて策を練るには最適の場だった。


「…はい?」
雨音に混じって、コツコツと扉を叩く音がした。雨の夜更けに尋ね人とは。
とはいえ、この別宅に人が来たことがないという訳ではなく、特に軍師仲間はよく訪いがある。今日もその内の誰かだろうと思った。
「どちら様で……っ?」
扉を開けたそこにいたのは、予想していた顔のどれでもなかった。決して粗末ではないが、質素な衣服に身を包んだ痩身の男。その顔は笠で隠れている。
「荀彧」
知っている声だった。こんな場で聞くことはない筈の。
「な……っ」
絶句する荀彧の前で、笠が外される。覗いたその顔は確かに声の持ち主のもので、そしてやはり、こんな場で拝むことはない筈のものだった。
「陛下、何故っ……あ!」
問いかけよりも先に、抱きすくめられてしまう。濡れた感触と、雨の匂いが荀彧を包み込んだ。
「そなたに……会いたかった」
ぼそりと呟きながら、帝は荀彧の頬に手を添えた。その冷たさに、荀彧の体がびくりと震える。
「っ…陛下、いけません……このような雨の中、しかも夜にたったお一人で出歩かれるなど、御身に…っ!んぅっ……!」
臣下として口にした必死の忠告は、遮られた。強引に顎を取られ、唇を押し当てられて。力強い口づけに、目眩がしそうになる。
「私は…陛下ではない」
唇が離れ、零れ落ちた言葉は、雨よりも冷えきった響きだった。何も言えず、荀彧は帝を見つめる。
「今宵、私を……ただ人でいさせてくれ」
帝は今一度、荀彧を抱きしめた。縋りつく、と言った方が正しいかもしれない。
「荀彧……頼む、呼んでくれ……私の…名を」
絞り出すような声で頼み込んでくる。もう誰からも呼ばれる事のなくなった、自らの名を求めて。
「っ………あ……」
一時の慰めなど、何も生まないとは承知している。けれども。
この一夜だけでも、あるがままの己に戻りたいと。そう願うことすら、この方にとっては許されないのか。




「あっ、あぁ…っ、や!」
間断なき雨脚に、切ない喘ぎと睦み合いの水音が混じる。
「荀彧……綺麗、だ……っ」
「っ、あ…!やぁ……ん……あ……」
見上げたそこには、刹那の快楽を貪りながらも、決して満たされぬ眼差しがあった。帝という器の中で、孤独の沼に溺れる青年。
しがみつかれ、共に沈みゆくしかできないのだとしても。後には虚しさしか残らないとしても。ただの一人も寄り添うことができないのならば、せめて。

「劉……協……さま……」
か細く紡がれた名は、雨の中へとかき消えていく。まだ、止む気配はなかった。









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2019/03/10

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