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曇天日和

どんてんびより

麦秋の大地

新緑生い茂る初夏の季節になった。
陽射しこそ強いが、吹く風は肌に冷たく心地よい。今日に限っては強すぎるような気もするが。
時折強風が吹く畑の土手を、荀彧は粕毛に跨がってゆっくりと進んでいた。

「荀彧様がいらっしゃったぞ~」
やってくる荀彧に気づいた兵士が、周囲の仲間に声をかける。
ひとり、またひとりと兵士たちは作業に勤しむ手を止め、畑から拱手の礼をした。
荀彧は粕毛から降りて、兵士たちに微笑みを返す。
「皆さん、どうぞそのまま続けてください。お役目本当にご苦労様です」
「ありがとうございます!お陰さまでこの通り、麦は第一陣がそろそろ収穫できそうですね」
兵長の男が荀彧の前に進み出て、持ち場の畑を案内する。
黄色く色づいた、一面の麦畑を前に荀彧は目を細めた。
「よくぞここまで力を尽くしてくださいました。皆さんのお働きに感謝いたします」

許昌周辺も含め、中原は基本的に乾燥地帯で痩せた土地だ。
黄巾の乱の呼び水となった飢饉の折は特に酷かったようで、作物の実らぬ畑は次々と棄てられ、民は果てなき餓えに苦しんだ。
その状態を色濃く引き摺ったまま、放置されて荒れ放題となった土地は尚も多かった。
この状況を打破すべく、曹操が導入したのが屯田制である。
畑の開墾、作物の栽培を民任せにせず、兵士たち自らで行う。
荒れた大地を効率よく耕すには、それなりの力と根気、仲間内の連携も要した。
戦に向けての鍛錬だけでなく、平時でも基礎体力を養い、兵長格の者たちは部下の統率を学ぶ。
兵糧の安定的な確保と、兵士の練度の成長による国力、兵力の底上げ。そこまで見越した上で採った政策だった。
導入したのは昨年、帝を許昌へと迎え入れた秋。その時最初に蒔いた麦が、実りを迎えている。
荀彧は初年の成果となる麦の生育、及び他の畑の状況視察に来ていた。

「いやぁ、俺たちなんて大したことしてないですよ!なんといっても、許褚様が我々を先導してくださいましたからな」
兵長は謙遜しながら、水路を挟んで向こう側の畑にいる巨漢を見やる。
新しい粟の畑として開墾途中のそこでは、許褚が兵士たちと共に鋤を動かしていた。
汗と泥にまみれながら、皆で一丸となり土作りをする姿が頼もしく映る。
「では、あちらも見てまいります。その間、馬を預けてもよろしいですか?」
「もちろんです。是非あっちの奴らにも、ねぎらいの言葉を頼みますよ」
「ええ、ではお願いします」
鼻先を優しく撫でて、兵長に粕毛の手綱を渡した。
粕毛が主ではない者に手綱を握られても大人しくしているのを見届けてから、荀彧は麦畑に降りる。
そのまま横を通り過ぎ、水路の向こう、これから粟畑となる場所と渡った。

「許褚様、助けてくだせぇ!ここの下、なんか大きな石でも埋まってるみてぇに硬いんです」
「ん~?ああ、こりゃおめぇひとりじゃ大変だな。おいらに任せるだよぉ」
許褚は鋤が入っていかない箇所を一回りし、確認してから鍬に持ち替えた。
当たりをつけた部分目掛けて鍬を差し込み、勢いよく柄を押し抜く。
ごりっという鈍い音と共に、地中からやや大きめの石が飛び出してきた。
「ようし、これで大丈夫だぞぉ」
「おお~!」
「流石は許褚様だ!!」
いとも容易く石を堀り当てた許褚の手腕に、周囲の兵士たちが歓声を上げた。
「へへ、これくらい大したことねえだよぉ」
許褚は屈託のない笑顔を見せる。
その和気藹々とした光景を微笑ましく思いながら、荀彧は輪に歩み寄った。
「皆さん、お役目本当にご苦労様です」
「あんれぇ、荀彧様?」
突然現れた軍師を前に、許褚は目を瞬かせた。近くにいた兵士たちは慌てて礼をする。
「じゅ、荀彧様!わざわざのご足労、恐悦至極にございます!」
「ああ皆さん、どうか私のことは気になさらず、そのままで」
畏まる兵士たちに苦笑しつつ、作業を続けるよう促した。
それでも荀彧の視線は気になるらしく、兵士たちは持ち場に戻るなり一層キビキビとした動きで土を掘り始める。
「どうしたんだあ?こんなとこ来ちまったら、服が汚れちまうだよぉ。今日は風も強えし、土埃が酷ぇぞ?」
畑には不似合いな装束を纏った荀彧を見て、許褚は心配そうな表情になった。
その優しさをありがたく思い、荀彧は穏やかに笑い返す。
「お気遣い、ありがとうございます。今日は畑の様子を伺いに来ました。屯田制の成果が、どれ程のものかを確認したかったのです」
「そうなのかぁ。うん、こっちの土はだいぶよくなっただなぁ」
許褚はかがんで、足元の土を触った。
よく掘り起こされた土は柔らかく、色も濃くなっている。
「それなら、粟も予定通りに蒔けそうですね。本当にありがとうございます」
荀彧は許褚に一礼した。
「殿の親衛隊の務めもある中、こうして畑の開墾にもご尽力いただき…本当に感謝しています」
「えっ、そんなぁ。おいらは当たり前のことしてただけだぞぉ。ずーっと畑耕してたから、みんなよりちっと得意なだけだって」
思いもよらず畏まられてしまい、許褚は慌てふためく。
「最初の年にしてここまで申し分ない成果が得られているのも、許褚殿のお力と知恵があればこそです」
曹操軍と出会うまで、故郷で畑を守り続けていただけのことはある。
誰よりも畑や作物、農作業について詳しく、生活の中で養われた知恵と勘には、随分助けられた。
曹操直属の親衛隊となっても、大地に根差して生きていた頃の感覚を忘れていない。自ら鋤や鍬を振るい、率先して畑を耕す姿は、多くの兵士の見本となってくれた。
「うーん、やっぱりみんなで頑張ったからだなぁ。もうちょっとで、いい麦を曹操様に見せてあげられるぞぉ」
「はい…ここまで来られたのも、皆さんのおかげですね」
許褚と荀彧は、互いに微笑み合った。

「そうだぁ。ちょうどいいから、こっちも見てくんねぇか?」
「ええ、かまいませんよ」
許褚と荀彧は土手を上がって、まだまだ広がっている荒れ地を見渡した。
「おいらな。粟の種蒔きが終わったら、こっちの土も掘って黍畑にしてぇんだけども」
「なるほど黍ですか…夏に蒔けば秋には収穫できますね」
「麦も粟も黍も、みんなちょっとずつ、穫れる時期が違うからなぁ。どうだかなぁ?」
「ええ、妙案だと思います。早速殿にも打診して…うわっ!?」
「おほぉっ!?」
突然、更に強い南風が辺りを吹き荒らした。
咄嗟に砂から目を守ろうと顔を伏せたが、頭に被った帽子までは意識が行き損ねる。
頭に乗る存在の感触がなくなり、帽子が勢いよく吹き飛ばされたと気づいた。
「ああ…しまった」
風が少し止んだのを待ってから、荀彧は帽子が飛んでいった方へ駆けた。

「んん?」
僅かにミシ、という音が許褚の耳に入った。
それは許褚にとって聞き覚えがある、嫌な音。

「はぁ。今日は本当に風が強いですね…」
飛ばされた帽子を拾い上げ、砂を掃う。
被り直そうとした瞬間、ミシミシッという音が荀彧の耳にも聞こえた。
何かが軋むような、割けるような音。
「え…?」
やがてそれは背後で大きくなり、荀彧の視界に暗い一本の影が重なった。

「荀彧さまぁっ!!」
刹那、許褚の必死な大声があたりに響き渡った。
そう認識する間もなく、強い勢いでその場から弾き飛ばされる。
「うわっ!?」
荀彧の体は横跳びするような格好になり、地面に倒れ伏した。
その瞬間。

ドシィンという激しい地鳴りと共に、土埃が宙を舞った。

「っ…あぁっ!?」
土煙が治まった先に見えたのは、巨大な木の幹と枝振り。
一瞬茫然となったが、すぐに今起きた事象を把握する。
背後から突然、樹木が倒れてきたのだ。危うく下敷きになるところだった。
では、そうならぬよう自分を突き飛ばしてくれたのは?
「…許褚殿、許褚殿っ!?」
荀彧は絶叫した。
自分を庇って許褚が、幹の下敷きに。
荀彧の胸を焦燥と絶望が支配しかけた、その時だ。

「うぅううう…うぉおおおおおっ!」
枝の奥から、地を這うような唸り声が聞こえてくる。
それと同時に枝ががさりとざわめき、幹が上へ上と動き始めた。
「おぉおぅりゃぁっ!!」
気合の入った掛け声と共に、幹が投げ飛ばされた。
短い地鳴りを伴って、再度土埃が舞う。

「ふぅ…疲れただよぉ」
朦々とした視界の中から、巨体が姿を現す。
「っ、許褚殿っ…!」
荀彧は起き上がって、木の幹の傍にへたり込む許褚の元へと走った。
「ああ、よかったぁ。荀彧様無事だったかぁ」
駆け寄ってきた荀彧を見て、許褚は心底ほっとした顔になる。
「私は平気です!ですがっ…」
自分に代わって怪我を負ってしまった許褚の姿に、荀彧は悲痛な声を上げた。
倒木を受け止めただけでなく、それを投げ飛ばすという離れ業をやってのけたのだ。
いくら許褚が猛将とはいえ、その代償は大きい。
枝のせいか、体のあちらこちらに傷を負い、幹を支えた手は衝撃で真っ赤に腫れ上がっていた。
「申し訳ありません、私が即座にあの場を離れていればっ…」
荀彧は、情けなさと申し訳なさで胸が一杯になった。
妙な音が聞こえた時点で回避できていれば、余計な傷を負わせるに至らなかったのに。

「許褚様ー!?荀彧様ー!?」」
激しい音を聞き付けた兵士たちが、わらわらと二人の周りに駆け寄ってきた。
「なっ、なんだこりゃ!」
「倒れてきたのか…ひえええ!」
横倒しになった巨木を見て、皆一様に慄いた。こんな木の下敷きになっては命の保証はない。

直後、逆方向から蹄の音が、それも集団で聞こえてきた。
皆がその方を振り返ると、馬に乗った人物たちが森から固まってやってくる。
「おいおいおいおい、一体何の騒ぎだってんだよ!」
狩猟用の弓を抱えた夏侯淵に夏侯惇、そして曹操だった。
「ほう、これは…?」
根元からばったりと倒れた巨木を見て、曹操は眉を顰めた。
たまたま近くで鹿狩りを行っていたのだが、凄まじい地響きで鹿に逃げられてしまったのだ。
何か近くで変事があったと察知して駆け付けてみれば、この有様である。
幹の横には、傷だらけの許褚と砂に汚れた荀彧が座り込んでいた。

状況を見て凡そのことは把握しつつ、夏侯惇は馬から降りると即座に二人に駆け寄った。
「大丈夫か!」
「はい、私は…ですが許褚殿が私を庇って、倒木を受け止めてくださったせいで怪我をっ」
「っかー!?お前、なんつう無茶すんだ!」
夏侯淵は、傷だらけになってしまった許褚の姿に驚きを隠せない。
「ん~。手は痛ぇけど、大丈夫だよぉ」
許褚はそう言うが、その手は腫れて普段の倍近く大きなものになっている。
流石の夏侯淵もしかめっ面をした。
「うっわ、こんな派手に腫らしちまって。早ぇところ華佗先生に見てもらわねぇとな!」
「へへ。ありがとなぁ、夏侯淵様」
夏侯淵に肩を貸してもらい、許褚はにっこり笑った。
二人連れ立って問題なく歩く姿を確認し、夏侯惇は荀彧に向き直る。
「荀彧、お前もだ」
差し出された手に、荀彧は戸惑った。
「い、いえ、私は大したことはっ…っ」
咄嗟に遠慮の言が口から出るも、手首を掴まれたことで言葉が止まる。
ビリッとした痛みが走ったのだ。
僅かに顔を歪ませたことを夏侯惇は見抜き、荀彧の手袋を脱がした。
「あ…」
手首に擦り傷と、青痣ができている。
手袋の下ということもあり、荀彧本人も気づかなかった。
「大方、許褚に突き飛ばされた時にでも擦ったんだろう。破傷風でも起こしたらどうする」
「確かにな。手首を痛めては何かと不自由だろう、処置はしておいた方がいい」
「はい…申し訳ありません」
曹操にまでこう言われてしまっては、荀彧も押し黙るより他なかった。





「まったく、呆れた怪力ですな」
華佗は嘆息しつつ、許褚の体に包帯を巻いていく。
「いくら荀彧殿を助けるためとはいえ、倒木から逃げるのではなく受け止める奴がありますか」
許褚と荀彧、珍しい組み合わせで救護室に入ってきたときは、何事かと思った。
事情を聞いて納得はしたが、倒木を受け止めて投げ飛ばすなど無茶が過ぎる。
「申し訳ありません、私の反応が遅かったばかりに…」
荀彧は再度、謝罪の言葉を口にした。しかし許褚は不思議そうな顔をする。
「なんでだぁ?あの時、荀彧様は後ろ向いてたし、木が倒れるのって結構速ぇんだぞ。だから気にしないでいいだよぉ」
「まあ、許褚殿が荀彧殿を庇ったのは正解でしたな。逆じゃなくてよかったですよ」
一瞬だけにやりと笑い、華佗は締めの包帯をきつく巻きあげた。
「あいててて」
「手の腫れは一時的ですからすぐ治りましょう。ただ、三日は何もしないように」
「ええっ、困るだよぉ。粟の畑がもう少しなんだぁ」
「馬鹿言うもんじゃありません」
ぴしゃりと言い置き、そして呆れながら次の言葉を口にする。
「しかしよく倒木なんぞに反応できましたね。貴方にそんな俊敏さがあるように見えないんですが」
「うん。おいらの村じゃ、あんな感じで木が倒れるのはよくあったからなあ」
若干嫌味が入った華佗の言をまったく嫌味と受け取らずに、許褚はのんびりと話し始めた。
「土が痩せてっからなぁ。土が痩せるとな、木も深くまで根を張れなくって、浅ーく広がっちまうんだ。そういう木は、ちぃっと強い風が吹いただけでも、倒れやすくなっちまうんだぞぉ」
許褚は、何かを思い出すように目を伏せた。その顔はいつになく悲しげだ。
「倒れた木に押しつぶされて、畑がだめになったり、家が壊れたり…怪我した人も何人もいるんだよぉ。だからあのミシミシ~って音は、いつ聞いても嫌だなぁ」
「…そんな御経験をされていたのですね」
その巨体に似合わぬ素早さで庇ってくれたことへの合点がいく。
思わず、荀彧は先に手当をしてもらった己の手首を見た。
彼の悲しい経験則が、自分をこの程度の怪我で済ませてくれたのだ。
「土が痩せちまうと畑も作りにくくなっちまうし、でも、畑が捨てられるともーっと土が痩せちまう。悪いことばっかりだよぉ」
「はあ。悪循環ですな」
流石の華佗も、許褚の経験してきた境遇を思って同情した声になった。
しかし、すぐに許褚はいつもの笑顔を見せる。
「だからな。おいら曹操様が『大地を豊かにする』ために戦ってるって聞いたときは、すんげぇ嬉しかったし、それならって一緒に戦う気になったんだぁ。そんなこと考えながら戦ってくれる人なんて、今までいなかったぞぉ」
その言葉に、荀彧はハッとする。
「そう、ですね…」
「みんなで畑作りするって決めたのも、さすが曹操様だなぁって」
「許褚殿…」
荀彧の胸の奥が、じわりと温かくなった。


「ごめんなあ。おいら、しばらく畑に行けなくなっちまっただよ」
救護室の外に出るなり、許褚が謝ってきた。
面食らい、慌てて荀彧も頭を下げる。
「そんな。本来なら、貴方は殿の御身を守らなくてはいけない方ですのに…余計な傷を負わせてしまい、申し訳ありません」
「ううん、おいら全然平気だぞぉ。曹操様には典韋もいるしなぁ」
「…許褚殿、どうぞゆっくりとお休みください」
「うん。荀彧様もお大事になぁ」
包帯で膨れ上がった手を笑顔で振りながら、許褚はその場を後にした。

「荀彧様、大丈夫ですか?」
許褚と入れ違いに、兵長が心配そうな面持ちでやってくるのが見えた。
預けた粕毛も大人しくついてきている。
「申し訳ありません、ここまで連れてきてくださったのですね…すみませんでした」
兵長から手綱を受け取り、荀彧はほったらかしにしていた愛馬を見上げた。
黒目がちな眼差しは、少しばかり寂しそうに見える。突然主人がいなくなって、心細い思いをしたのだろう。
申し訳なく思いながら手を差し出すと、鼻先を押し付けて甘えてきた。
「いやもう、ほんとご無事で何よりでした」
「ええ…許褚殿のおかげです」
少しだけ俯き、荀彧は呟くように言った。





翌日。前日までが嘘のようなそよ風が吹いている。
荀彧は日頃畑仕事に携わる兵士たちを集めて、昨日の倒木を前にしていた。
「皆さん、お忙しい所申し訳ありません。今日はこちらの倒木を解体する作業をお願いできますか?」
思わぬ事故を発生させてしまった木だが、木材としては十分利用に値する。
解体の後、拠点の逆茂木や、兵士たちの扱う弓矢として加工するつもりだ。
「了解です!」
「みんな、かかれー!」
兵士たちも久々に、農具ではなく剣や斧を振る機会ができて張り切っていた。

解体作業が続く中、ふと荀彧は根元に目線を向けた。
「っ…」
許褚の言う通りだった。
細く弱った根が、うねりながら浅く広がっている。少ない水を求めて彷徨うように。
こんな根を支えに、ようやくこの木は生きていたのだ。
たまたま昨日の強風が引き金となっただけで、倒れるのは時間の問題だったのだろう。
あの時は、起きた事象を前にして慌てるだけだったために気づかなかった。

この大地は。国は、痩せ細っている。
寄って立つ地が荒んだ状態で、どうして人は生きていけようか。

民が一番に望むのは、貧しさと飢えからの救済である。だが一時のそれでは意味がないのだ。
国そのものを立て直さなければ、真の意味で民に安寧は訪れない。
それを理解した上で、曹操は見定めた道を突き進んでいる。この先も多くの血が流れるであろう茨道を。
理は、時間をかけて敷かなければならぬ。故に、今すぐに民を飢えから救い上げる即物性はない。
曹操の行いを是とできない者がいるのは、道理の範疇なのだ。だからこそ。

主の見定める所を、民の目線から支持する存在がいることを嬉しく思う。
たとえ、直ぐに望まれた結果は訪れなくとも。罵りや誹りを常に浴びようとも。
戦いの果てに掴み取る理が、いつかは大地や人にも巡ると信じる者たちも、確かにいる。


「なにをやっている。そんな腰の入れ方じゃあ斬れるものも斬れんぞ」
あくせく働く兵士たちに、野太い言葉がかかった。
「え?」
慌てて振り返ると、声の主たる人物が麒麟牙を携えてそこにいた。
「ひえええっ、夏侯惇様ぁ!」
兵士たちは、一斉に声を上げてのけぞった。
勿論荀彧も、全く想定していなかった夏侯惇の登場に目を見開く。
「夏侯惇殿、どうしてまた…」
「お前の性格なら、一日たりともこの倒木を処理せず放ってはおけぬだろうと思ってな」
夏侯惇は軽く笑って、荀彧の肩に手を置く。
荀彧の誠実且つ生真面目な性格は、夏侯惇もよく知っていた。
己の不注意で許褚に怪我をさせたと、間違いなく責任を感じている筈。
そしてただ悩むだけではなく、すぐに自分の成すべきを定めて実行に移すであろうと。
「どうせ暇だったんだ、俺も手伝おう」
「は…はい。本当にありがとうございます!」
思わぬ助太刀に、荀彧は戸惑いつつも深々と頭を下げて感謝を述べた。
「さて、邪魔なコイツをさっさと使えるものにするか。行くぞお前ら、気を引き締めろ!」
夏侯惇の鶴の一声で、周囲の空気がぴんと張りつめる。
「は、はいっ!」
「よっっしゃあ!」
兵士たちは一段と背筋を伸ばし、得物を握る手に力を込めた。


「驚きました…あっという間でしたね」
太陽が真南に差し掛かる頃には、倒木の幹と根はほとんど解体されていた。
それもこれも、夏侯惇の指示が的確だったことに尽きる。
一日がかりを想定していた荀彧は、呆然としながら積み上がった木材を見回した。
「さすが夏侯惇様ですぜ…戦いだけでなくこういうのもお得意なんですね?」
「まあな。嫌いではない」
兵長の言葉に、夏侯惇はこともなげに言った。

「おぉい、みんなぁ!」
ふいに土手の向こうから、のんびりとした声がかかった。
「えっ、許褚殿…!」
視界の先に見えた姿に、荀彧はまた驚く。
大きな荷車を馬に牽かせた、まだ包帯姿の許褚が両手を振っていた。
「許褚殿、どうされたのです!」
荀彧は慌てて許褚の元へと走った。夏侯惇と兵長も後ろに続く。
「外出されて平気ですか?三日は安静にと…」
華佗の言葉を思い出した荀彧は心配そうに訊ねるも、許褚はにこにこと笑う。
「うん。体は動かせねえけど、なんか出来ることねえかなって思ってな」
「お前、これは…随分大量だな?」
夏侯惇が覗き込んだ荷台には、多くの蒸籠が積まれていた。
ふわりと、いい香りが鼻をくすぐる。
「料理屋に頼んで、いっぱい饅頭作ってもらったんだぁ」
「…これ、まさか今ここにいる全員分ですか?」
「そうだよぉ。荀彧様も遠慮せず食べてくれなぁ」
「まったく…食い物のことにかけては気が利くな。ちょうど頃合いもいい」
夏侯惇は許褚らしいその行動に、ふっと笑った。
「さ、さっすが許褚様だぜ…みんな集まれ!許褚様が差し入れ持ってきてくれたぞ!」
兵長の言葉で、解体作業に汗を流した兵士たちがわっと集まってきた。
皆、競うように蒸籠の中から饅頭を取っていく。疲れた体には最高の御馳走だった。
「う、うめえ…料理屋の姉ちゃんの味だぁ」
「許褚様、ありがとうごぜぇやす!」
「そっかぁ、よかっただよお」
兵士たちが喜ぶ様子を見て、許褚は満足そうに笑った。

「しかし許褚殿。これだけの饅頭を用意するには、相当の小麦がないと…」
荀彧は素朴な疑問を口にした。
料理屋の本日ぶんの備蓄を食い潰してしまったのではないかと、不安がよぎる。
返ってきたのは意外な答えだった。
「うん。だからおいらの家にあった小麦も、料理屋に持ってったんだぁ」
「ええっ!?」
あまりの気前の良さに唖然となる。自腹を切ってまで差し入れをしてくれたとは。
「心配しなくても大丈夫だぞぉ?今年はいっぱい麦がとれるからな」
「あ…」
許褚が微笑むその先に、黄金色の麦畑が見えた。
収穫を数日先に控え、熟した穂先が柔らかな風にそよぐ。
「…はい、そうでしたね」
荀彧も、自然と顔が綻ぶ。
新しい制度のおかげで、ついに実ること叶った、大切な麦。
そう、この麦こそが。曹操の理がいずれは大地をも潤すと示す、証の第一歩だ。

「俺達もひとつもらうか」
「うん、ちょっと待ってくれなぁ」
許褚は、一番奥の蒸籠から饅頭を取り出して二人の前に出した。
「よ、よろしいのですか?私は何もしていないのですが」
そう言う荀彧に対し、許褚はいつになく真面目な顔になって詰め寄る。
「何言ってるだ。荀彧様はいっつも働いてんだから、食べなきゃだめだぞぉ?」
「荀彧、もらえるものはもらっておけ」
「は、はい…ではありがたく、いただきます」
夏侯惇にも促され、荀彧は遠慮がちに饅頭を口へと運んだ。
一口食べると、甘く香ばしい麦の香りが口いっぱいに広がる。
ひととき、心が満ちる想いがした。
「…とてもおいしいです」
「そっかあ、よかっただよぉ!」
荀彧の笑顔に、許褚もまた今日一番の笑顔で返した。




2018/06/08

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