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曇天日和

どんてんびより

謀も徳も、陰に沈む

重く腫れた瞼を開くと、薄ぼんやりとした明るさが目に入った。
どうやら、夜明けが近いらしい。起きなくては。なのに。
どうしても、動けない。自分の体である筈なのに、指先ひとつ言うことを聞かない。

何故、と思っているうちに、昨夜の光景が脳裏に蘇る。
ここは自宅でもなければ別宅でもなく、まして執務室でもなく。今やすっかり嗅ぎ慣れてしまった、己が愛用品ではない香の匂いが漂う寝所。
いけない。このままでは、朝が来てしまう。早く、ここを出なくては。誰かに見つかりでもしたら。
焦燥に駆られる気持ちとは裏腹に、やはり体は動かず、動こうとすれば全身が軋む。
よほど疲弊しているようだ。自分が思うよりも。

せめて、この場に残る筈の不快感から逃れようとする気持ちさえあれば、体も動くかと思った。
だが、横たえられている寝台の敷布は、真新しい肌触りだ。裸は知らぬ間に清められ、汗や情の名残も一切感じない。
整え尽くされた寝所は、困憊した体には過ぎたる心地よさだった。まるで、離すまいと抱き込まれているようで。

そのうちに、今日は暇を貰っていることを思い出した。
だから、なのか。別宅に向かおうとしていたところを複数の文官に囲まれ、そのまま禁中へ向かわされ。待ち構えていた宦官に、寝所まで通されて。
その後は、ひたすらに抱かれ続けた。虚ろな眼差しで訪いを待っていた、この室の主に。

元より彼の人の愛撫は執拗で、どこまでも追い縋ってくる必死さがあった。それにしても昨夜の激しさは、筆舌に尽くし難いもので。
ただただ、力で押さえつけられ、雁字搦めにされた。若さに任せた精力は尽きることを知らず、何度も何度も貫かれては、叩きつけられて。
それに耐え凌ぐだけの体力も、気力も。歳を重ねたこの体には、あまり残されていない。
「ぁ……」
声が枯れていた。掠れた声しか出せない。喉の奥からは、刺すような痛みも感じた。
それだけ、叫び続けていたのだろうか。霞がかった記憶を探っても、最後の方はどうしていたかも思い出せない。
何度も追い詰められて、抱き潰されての繰返し。終わりの見えぬ行為に、心身は限界を超えていた。

思えば、そうまですることが、彼の人の意志だったのだろう。
今宵、絶対に帰さぬ、という。





「よいな、こちらは劉備殿に……」
「はい……して、あの者に盛るのは、どの機を狙えば」
「それなのだ……なかなか、隙が見えず……」

背後で、小声のやり取りが聞こえてくる。寝所の入口か。
声の主は、ひとりはすぐにわかった。険のある董承の声は、静まり返った明けの気配に響く。
当人は潜めているつもりなのだろうが、しかし声の質というのは案外、意識できないものである。

「ところで、荀彧様は昨晩も?」
「ああ。女子のように泣いては見苦しく陛下に縋っていたな」
「はあ……あの荀彧様が、ですか……」
「ふふん。令君だなんだと持て囃されて取り澄ましていても、所詮は人の子よ。はしたないこと」

口さがないやり取りに、耳を塞いでしまいたかった。
しかし今、身じろぎでもすれば、目が覚めていることに気づかれる。息を殺しているよりほかはない。

「しかし、未だに信じられませぬ……陛下と情を交わされているなど、露ほども」
「それなのだ。少しは動揺する素振りや、陛下に心寄せる仕草を見せてもよいようなものを……!」
「まあまあ、今しばらくの辛抱では?荀彧殿が陛下に絆されてくれれば、我々もやり易くなるやも……」
「そう上手くいけばいいが……どうせ、曹操の手駒に過ぎぬ輩だ」

振り返らずとも感じた。寝台に横たわるこの身への、蔑む視線を。
やがて、複数の足音が遠ざかっていく。声からすると、董承を含めて三人はいただろうか。





完全に董承らの気配が去って少し経つ頃、今度は別の気配が近づいてくるのを感じた。
足許の方から静かに迫ってきたそれは、背後でぴたりと止まる。
「水はいるか」
頭上から、静かに声がかけられた。
「ぅ……あ……」
返事をしようにも、声が上手く出せない。軋む体を起こそうとするも、腕に力が入らない。
なかなか起き上がれないと見るや、すかさず腰に腕が回り、抱き起こされる。背後に寄り添う人の温もりに、畏れ多くも頼るしかなかった。
ようやく上体を起こせたところで、傍らに迫る顔が目に入った。
「……飲んでくれ」
憔悴した表情で、帝は目の前に杯を差し出してきた。
震える手でそれを受け取り、口をつける。喉が潤されていく感覚が心地よく、無心で飲んだ。
痛みを伴う奥の熱がわずかに冷やされたことで、幾分か楽になる。
「あり、がとう……ござ、い、ます……っ」
かろうじて声を絞り出した次の瞬間、空になった杯が奪い取られた。
そのまま、帝は背後にそれを投げ捨てる。ガラガラッ、と金属音が響き渡った。
「へい、かっ……?ん……っ」
驚く間も与えられず、唇を奪われた。抗う力など残っている筈もない。なすがまま、舌に蹂躙されていく。
「ん……ぁっ……や……!」
帝の指が、胸の蕾に纏ろった。軽く触れられるだけで、体が震えてしまう。
指に、舌に、歯にと弄ばれ続けたそこは皮膚が擦れ、仄かな快感以上に痛みを募らせた。
「っあ……やっ、いた、い……」
「っ……すまぬ」
痛いと訴えられたことに驚いてか、帝は手を止める。かと思うと、腕を回して抱きしめてきた。
耳元に寄せられた彼の人の唇が、冷え切った声を紡ぐ。

「曹操に報告するか?」

「……何の、ことで……ござい、ま……すか」
まだ思うように出せない声で、どうにか返事する。
しかし背と腰に回った手が、ぎりと爪を立ててきた。求めていた答えではないという、意思表示。
「そなたほどの者が、そのようにわかりやすい白を切るのか……見損なったぞ……!」
「っあ……陛、下……!」
詰りの言葉と共に、爪が食い込んでくる。腕の力は次第に増し、きつく縛められるように抱きすくめられた。
痛みの中で、それに気づく。自分を抱く腕、皮膚を破らんとする爪に走る、微かな軋みに。
向けられるのは、抑え切れない憤懣。伝わるのは、隠し切れない悲嘆と恐怖。

「陛下は……本当、に……それを……お望みですか?」
「っ!」
びくりと震えたかと思うと、帝は咄嗟に手を離した。ようやく、視線がかち合う。
見開いた瞳は、明らかに動揺していた。いたわしいほどに。
口では虚勢を張れても、密事が露見する怖れを捨て去れていないことが、ありありと伝わってくる。
知られたその先に、悲惨な結末があると気づいているが故。そして、それが現実となることは望んでいないが故。

「……っ」
黙って、首を振った。
意味を察した帝は、たちどころに表情を歪めた。
「何故だ……朕のためとでも、言うつもりかっ!?」
両肩を鷲掴みにされ、激昂しながら詰め寄られる。
曹操に関わる謀を知りながら、黙秘する。何故そんな選択ができるのかわからない。
同情心から来るのなら、そんなものは受け取りたくない、と。戸惑いと意地が、怒りと猛ってぶつけられる。
今のこの御方には、何を説いても響くこと叶わぬのだろう。だと、しても。

「陛下、と……曹操殿…………お二人、の、ため……」
喉の痛みをこらえながら、伝えるべき言葉を紡ごうと、足掻く。
決して、帝への安い同情などではない。曹操を裏切るつもりもない。
口を閉ざすことを選ぶのは、ただ。

「お二人の、ためで……ございますっ……」

帝は、暫し茫然とした面持ちでこちらを眺めた。
やがて小刻みに頭を振ると、歯を食いしばりながら覆い被さってきた。
「くだらぬ……!」
「やっ、陛下……お待ち、くださっ……あぁ!」
首元に顔を埋められるや否や、勢いよく噛みつかれる。そこを更に吸い上げられた。
「あっ!あ……ひぃっ……!」
間髪入れず腿の間には手が滑り込み、勝手知ったるとばかりに芯へと指が絡みついてくる。
昨夜、枯れるまで精を吐き出し続けたそこへの刺激は、疲弊した体には耐え難い仕打ち。
「だめ……これ、以上……むり……やぁっ!」
しどけない喘ぎばかりが、零れ落ちた。



既に子どもではなく、しかし成熟した大人でもなく。
その狭間で揺れる帝に、策を巡らし肚を据えるだけの器は、まだ備わっていない。
周囲にいる者たちも同様だ。奥まった帝の寝所とはいえ、ああもわかり易い言葉と聞き取り易い声では、密事は成り立たない。そして、誰もそのことを自覚できていない。
確信する。曹操まで凶刃が及ぶことは有り得ない、と。遅かれ早かれ、陰謀は白日の下に晒される筈。
だからこそ。今ここで、自分が曹操に告げる役目を負うてはならないのだ。

曹操が知れば、自らの手で以て、粛清を敢行するだろう。たとえその相手が帝であろうとも。
しかし、もしも帝が弑されるようなことがあれば。曹操もまた、そこで失墜する。さすれば天下は遠くなる。
世の乱れを治めるためには、帝も曹操もなくてはならない。二人を、最も不幸な形に貶めたくなかった。

心身が成長していく中で、帝が自らの立場に煩悶することは避けて通れぬ道。
その心を汲み、慰撫し、曹操の唱える理を懇切丁寧に説いていく。それが、尚書令たる我が責務だ。
ならば帝がこうして心惑い、陰で稚き謀に手を染めんとしているのは。結局、自分の力不足が招いたこと。
この上、帝の立場どころか命まで危ぶませ、曹操の覇道を潰えさすなど。それだけは何を置いても許されない。切なる想いが、口を噤ませる。



「仕置きだっ……覚悟せよ、荀彧」
窓辺から差し込む朝陽を受けても尚、見下ろしてくる瞳に光は灯らない。
夜明けは来ている筈なのに。ここは未だ、暗闇の只中に等しい。
「おゆ、るしを……へい、か……へいかぁっ……ああっ、あああ……!」

嗚呼、今日もまた。この身は陰へと沈みゆく。




2019/09/12

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