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曇天日和

どんてんびより

臍曲がりの譚詩曲

カツン。カツン。カツン。

階段の上から、規則正しい金属音が近づいてくる。
交代の時間にはまだ早い。見張りの兵士は不思議に思いつつ、足音の主を待った。
「なっ!?」
燭台の明かりと共に現れたのが、まったくの想定外の人物であったことに、兵士は面食らう。
このような薄暗く、凍える寒さの牢獄とは無縁の存在。
「いっ、いかがされましたか!?」
「……お通しください」
静かだが、撥ね付けるような冷たい声が返ってきた。
「な、なりません!貴方様ほどのお方が、罪人とお接しになるなど」
「お通しください」
慌てふためく兵士に、再度の通告が下る。
完璧に整った貌であるがゆえの、有無を言わせぬ圧。
「っ、ひ……」
兵士は黙るほかなかった。目の前を横切っていく姿を、硬直したまま見送った。


「……華佗先生!」
燭台の明かりを差し向けながら、獄の中にいる人影の名を叫んだ。
「…おや、まあ。荀彧殿?」
流石に驚いた声が上がった。
のっそりとした様子で、華佗が鉄格子の前まで進み出てくる。
「っ……」
目の前に映った痛々しい姿に、思わず荀彧は口許を覆った。
暗がりから出てきた華佗の顔は、青痣と擦り傷だらけであった。体にも裂傷が走り、打撲痕が残されている。
利き腕である右手に負った傷は特に酷く、今も尚、止血し切れていない。
「申し訳ありません……華佗先生を、このような目にっ」
燭台を傍らに置き、荀彧は悲痛な面持ちで鉄格子の前に跪いた。
対して華佗は、ただいつもの笑みを浮かべていた。激しく痛めつけられているとはとても思えぬ、妙な元気に満ちている。
「なんの。まあ、私が嘘をついて曹操殿をほったらかしたのは事実ですからな。そこは弁解のしようもありません」
「だからといって……このような、一方的な裁きを受けねばならない謂われは……」
「ふふふ、謂われはございますよ。何故なら私は医師です。そう、医師でしかありません」
そう言い切った瞬間、洞の如き漆黒を湛えた華佗の双眼が荀彧に向く。
一度入れば二度と出てこれぬような、突き当たりの見えぬ闇がそこにあった。
「こういう扱いを受けても致し方ない。それが、医師という身分の現状にございます」



発端は、華佗が書物を取りに里へ帰る、と言い出したことだ。
暫しの暇であれば、と曹操も渋々送り出したが、待てど暮らせど許昌に帰ってくる気配がない。
そのうち、家内が病がちなのでもう暫くは戻らない、と書簡が届いた。
常の曹操であれば、舌打ちをしつつも了承した筈であった。だが。

『……いくらなんでも遅い。兎に角帰参させよ』
『殿、ですが』
『これ以上は待てぬ……!』

語気こそ抑える努力をしていたが、激しい苛立ちは荀彧にも伝わっていた。
曹操は長年、頭痛を持病として抱えて生きている。その痛みを唯一解消できていたのが、華佗であった。
その華佗が、もう一月も傍らにいない。当然のように、曹操の頭痛は悪化していった。
目に見えて人相も険しくなり、人知れぬところで物に当たり散らす。我慢の限界に近かった。

華佗を強制的に呼び戻すことに、荀彧も強く反対はできなかった。むしろ、内心ではなるべく早く華佗に戻ってきてもらいたいと願っていた。
この冬には、孫呉との全面決戦を控えている。そこに曹操が万全の状態で臨めないのは、軍全体の士気に関わる問題。
苛烈さを増していく曹操の表情を見るにつけ、華佗の存在の大きさを感じずにはいられず。
申し訳なさはあれど、やはり戻ってきてもらうよりは他にない。そう結論付けて、荀彧も華佗の帰還を待った。
まさか、最悪の方向に事態が転ぶことになるなど、予想もしていなかった。

『このわしを堂々と謀るとは……どういう了見だ?』
『少し、疲れただけですよ。これから天下を統一しようというお方に、いつまでも安い禄でこき使われる生き方に』
『華佗先生……!』
『……よかろう。獄に繋いでおけ。わしの受けた苦しみ、その身で味わうがよい』
『ええ。お世話になりました』
『殿、お待ち下さい!?それはあまりにも……華佗先生っ!』

荀彧が再び見た華佗は、縛についた状態で曹操の眼前に召し出された姿だった。
【書物を探す様子もなければ、妻が病がちでもない。ただ悠々自適な暮らしをしていたのみ】
報告書を握る曹操の手に浮かんだ青筋が、怒りの大きさを物語る。荀彧の制止も空しく、華佗はそのまま獄へと放り込まれた。

『華佗先生の御手には人の命……何より、殿の安寧もかかっております。あれほどの医術の才を持つ方を、私は他に知りません。どうか、お許しくださいませ』
『……お主が命乞いをするほどの存在ではなかろう』
『お願い申し上げます。どうか、一時の激情でご判断なさらずに……!あの方を失ってはこの先、殿のお苦しみが増すばかりではと、私は不安でなりません』
『くどいぞ、荀彧』
『ですが……』
『こそこそした鼠が一匹、いなくなるだけだ』
『ねず……み……』

淡々とした、しかし冷徹な曹操の声が、耳鳴りの如く反響する。
迷いもなく放たれた【鼠】という言葉。喉の奥が凍りついて、何も言えぬままに終わった。
これまでの、決して短くはない歳月が。ただその一言で打ち壊された瞬間だった。



わからぬ訳ではないのだ、荀彧とて。
医者が卑賤の存在であるという認識は、頑として世間に横たわる。荀彧自身もまた、その中で生きてきた身。
眉唾な知識や、呪術紛いの怪しい措置しか施せぬ者も数多いる。故に、医に携わる者は時に差別の対象とされてきた。

それでも、華佗は特別だ。

傷病を癒し、辛苦を除き、人々の命を救う。ただそれだけを、直向きに貫いた人。
これほどまでに命を遍く等しく思いやり、すべてを賭して向き合う医師を、荀彧は見たことがなかった。
人体への深い理解、正確無比な鍼術、薬草の膨大な知識。そしてこれらを、余すところなく駆使する技量と胆力。
己が命を委ねるか否かは賭けにも近かった従来の医術とは、根本からして違う。
叡智と経験と修練の歳月に裏打ちされた、極めし技術。それこそが、華佗という男の。武威とも智謀とも異なる、唯一無二にして異能の才。
それが今、失われようとしている。

「やはり、納得できません。貴方を失うなど、あってはならないことです。殿にとって……いいえ、天下の損失です……!」
それは心底から湧き上がる、荀彧の切々たる本音であった。
間違いなく華佗は、医術というものを変えてみせた。不確実な概念から、信に値する技術へと押し上げた。
しかしそれも、このままでは一時の奇跡。奇跡を普遍へと変質させるには、後に続く者、才を継ぐ者が不可欠なのだ。
今ここで潰えては、ただ一人の傑物による、一代限りの夢幻でしかない。医術は過去へと後退してしまう。
「これはまた、過ぎたるお言葉をいただきましたな。はっはっはっ!」
心底から、愉快そうな高笑いが牢獄に響き渡った。しかし反響が止む頃、華佗の表情からすっと笑顔が抜ける。

「ですがそのお言葉、曹操殿からお聞きしたかった」

「華佗、先生……」
荀彧ですら、それは初めて目にする寂しい表情だった。
己が医術に対する自信に満ち溢れ、ともすれば傲岸不遜に過ぎると揶揄を受け続けた男の姿からは、かけ離れていた。
それに、今まで一度として聞いたことがない。こんな、何もかもを投げ捨てたような、諦めた声など。
嗚呼、もう遅いのだ。 荀彧もようやく、そしてはっきりと悟る。
見せた笑顔は最後の見栄であり、空元気でしかなかった。最早この人に、生きんとする意思はないのだから。
金剛石よりも頑強とすら思われた心は、とうの昔に折れている。そうであるから、許昌を去った。こうなることを見越した上で。覚悟の上で。
「あの曹操殿ですら、医師を心から尊ぶという精神はついぞ持てなかったですなぁ……」
長い長い溜息は、まるで。魂ごと吐き出す様とすら思えた。
「まあ人の考え方というものは、そう簡単には変わりゃしないのです。私だって……そうですからな」
虚空を見つめ、華佗は寂しげに目を細めた。


人の命は脆く儚い。真に怖るるものは、乱世や戦に非ず、人を蝕む傷や病。それが、華佗の下した結論である。
あらゆる害悪に挑み、打ち克つ術を得たい。ただその一心で医師となり、医術にすべてを懸けてきた。
いつしか確信した。医の道こそは我が道。人を救う崇高なる道である、と。
そのことを必ずやこの世に知らしめ、認めさせてみせん。そう胸に秘めて、駆け抜けてきた筈、であった。

権力に阿るつもりは毛頭なかった。それでも、市井の少し名の知れた医者で終わる気もなかった。
後に続く者のため、医への誇りのためには、目に見える栄達も必要なのだ。そして選んだは、曹操の傘下に入る道。
革新の風を吹かすこの男の許であれば、変われる筈。そう信じて。

ついに風向きが変わることは、なかった。
いつか、いつかはと、期待して、裏切られて。時は徒に流れ、技は利されるだけに留まり。
官位を得られぬまま、すべての頭髪が白くなった己が姿を鏡で見た時。何かが、割れる音がした。

自分は一体。何のために、ここまで時を費やしてきたのか。
先生と慕われ、時に畏れられ。高名な理解者も得て、権力者に重用されて。しかし気づけば、ただそれだけだった。
間違いであったのか。無謀であったのか。医を蔑むこの世に、己が腕のみで挑んだことは。
疲れる、とはこういうことか。初めての感情だった。


「……欲張り過ぎたのですかねぇ、私。官位だ名声だなんだと」
華佗は首を傾げながら、懐から一冊の書を取り出した。
「意固地になっていないで、せめてこれを完成させる道を選べていれば、もう少し楽でしたかなぁ」
「そちらは……」
「私が纏めた書にございます。正直なところ満足行く内容ではありませんが、何かの役には立つでしょう」
そう言うと、華佗は不要品であるかのように鉄格子へ差し挟んだ。
しかし、そのぞんざいな扱いを受けている書こそ、華佗の才の集合体。
「……はい、謹んで」
託されたのだ、と理解した。すぐさま拝礼して、荀彧が手を差し出したその時。
「なりません荀彧様っ!罪人からそのようなものを受け取るなどっ!」
血相を変え、叫びながら駆け寄ってくる姿があった。見張りの兵士だ。
遠くからではあるが、荀彧と華佗のやり取りはずっと監視していたらしい。
「っ、口を慎みなさい!こちらは、華佗先生の才智の限りがしたためられた、貴重な書物です」
「ですが、もし罪人から物品を受け取ったと知られれば、今度は荀彧様が!」
「……なるほど、わかりました。貴方をむざむざ危うい立場に貶めることはできません」
刹那、華佗は鉄格子の隙間より左手を伸ばした。掴んだのは、燭台の蝋燭。先に灯る火を、書に押しつけた。
「あっ……!?」
止める間すらなかった。朱炎が、燃え盛る。
反射的に伸ばした手は、冷たい鉄格子に遮られて。
届かなかったそれは、華佗自らの手によって、牢獄の隅まで投げ飛ばされた。

「あ、ああ……っ……ああ……!」
消えていく。呑まれていく。立ち上る煙、揺らめく炎の中に、時も、才も、智も、技も、心も、何もかも。
言葉にならない悲嘆が、涙となって頬を伝った。
「いやぁ、久々に暖かくていいですなぁ」
華佗はただ、笑いながら炎に見入る。やがて目を伏せ、静かに語り出した。
「……思ったのです。何故、荀彧殿ともあろう方が、私みたいな臍曲がりをお気に召して、しかもこうして、私なんぞのために泣いてくださるのか。そして私も何故、名門の貴公子なんていう蕁麻疹が出そうな御身分の貴方に対して、こんなにも好ましく思えたのか」
今ひとたび鉄格子の隙間から、華佗の右手が伸びてくる。しとどに濡れた荀彧の頬に、そっと触れた。
「っあ……」
華佗の手からは尚も血が流れ、そして氷のようであった。肌を刺す冷たさが、荀彧の背筋を震わせる。

「最後にひとつだけ、烏滸がましいことを申し上げてよいですか」
「……はい」
荀彧もまた包み込むようにして、己が手を華佗の手へ重ねた。じっと見つめ返しながら、言葉を待つ。
その真摯な眼差しに、華佗は驚くほどの凪いだ微笑みを向けた。

「私と貴方は似ています。これと信じたものだけは、絶対に曲げられないところが」

「……!」
美しい瞳が、零れ落ちんばかりに見開かれた。深く、荀彧は頷く。
互いに穿った見方をして、互いを煙たがる不幸な関係にだってなっていたかもしれない。しかし、そうはならなかった。
荀彧は、華佗の尋常ならざる才を。華佗は、荀彧の清廉なる志を。互いの誇りと信念の根ざし方に感じ入ったからこそ、この幸福な間柄でいられた。

「だから……だからこそ、僭越ながら心配です。もしもいつか、貴方が曹操殿と相容れなくなった時が来たとしたら、などと」
「っ、華佗先生……そんな」
「流石に……貴方を切り捨てるようなことだけは、曹操殿にはしていただきたくないものですが、ね」
神経は既に通っていないのだろう。微かな震えを止められない手で尚、愛おしみながら頬を撫で擦る。
その目にはただ、人として。我が子や孫を慈しむような優しさを湛えていた。

「荀彧様、これ以上はなりません。どうかお引き取りを。そうでないと……!」
傍らに控えていた兵士が焦った声を上げる。新しい見張りの者がやってくる刻限が迫っていた。
兵士としては、荀彧が来たことを自分だけが見た光景に留めておきたかった。他に目撃者がいれば、何かを問われた際に言い逃れができなくなってしまう。
その意図を察し、華佗は荀彧の頬から手を放した。
「これ以上皆様を困らせるのは、私の本意ではありません。さあ」
「何も……何もお力になれなかった私を……お許し、くださいっ……」
断腸の思いで、荀彧は拱手の礼を捧げた。目頭が再び熱を持ち、じわりと視界が滲む。
「荀彧殿。どうか手向けと思って、笑ってくれませんか。最後に見る貴方は、笑顔がいいのです」
「…………はい。華佗先生」
ゆっくりと荀彧は面を上げた。涙は抑えられなくとも、せめて、微笑みを。
華佗も笑った。万感の思いに溢れていた。





廊下の窓から見える下弦の月を、無心に眺めた。どれくらいの間そうしていただろう。
背後に近づいてきた気配にも、声を掛けられるまで気づけずにいた。
「ここにいたのか」
「……夏侯惇殿」
振り返ったそこに、こちらを見下ろす険しい眼差しがあった。その表情で、十分に察せた。
少しだけ躊躇いがちに視線を泳がせた後、夏侯惇はそれを通告した。
「孟徳から伝言だ。夜が明け次第、奴を処刑すると」
「…………」
「覆せはせんぞ」
「承知、いたしました」
念を押すような夏侯惇の一言に、荀彧は静かに首を垂れる。
それ以上、互いにかけるべき言葉などないのは、互いが一番承知していた。
「……頬の汚れ、拭っておけ」
最後にそれだけ言うと、夏侯惇は踵を返してその場を去っていった。遠ざかる背を、荀彧も黙って見送った。


また、独りだけの静寂が戻る。
指摘の言葉に従い、荀彧は左手で頬を拭った。月光に照らされた掌に、赤黒い染みが浮かぶ。
「……っ」
染みを抱くように左手を握り締め、右手でそれを覆った。
何故最後に、血が流れねばならなかった。溢れんばかりの才を振るい、人を救うための手から、何故。
悲憤はそのまま、救えなかった自分への糾弾となって突き刺さり、胸を軋ませる。
彼の才を貴びながら見合うだけの見返りを用意できず、何も働きかけられずに終わった。自分もまた、死を招いた側に過ぎないのだ。

「申し訳ありません……先生」
零れ落ちるは、最早届かぬ慚愧ばかり。




2019/09/03

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