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曇天日和

どんてんびより

青鵲の恋【三】

「惇兄が風邪引きかけるなんざ珍しいと思ったけどよ。すぐに治ってよかったぜ」
本日の調錬と軍議、全て終えた夏侯惇と夏侯淵は、夜の街並みに繰り出していた。
たまには二人で軽く飲もうと、夏侯淵の方からの誘いだ。
「ああ、早めに休んで正解だった。それに、お前の生姜茶も存外聞いたな」
「だーろ?」
「お陰で助かった。それに…」
昨晩食した桃の味が思い出される。
突然の美しい来訪者がくれた桃。今まで口にしたどんな果物よりも身に染みた。
桃は魔を祓うとも言われるが、少なからず疲れた体を癒してくれたと思える。
「ん?それに??」
急に黙ってしまった従兄弟に対して、夏侯淵が心配の目線を向ける。
ちょうどその時だった。

「この棗、ちょうだい!」
「はい、かしこまりました」
「ありがとう!」
「美味しそうな桃だな~、最後のそれ、俺にくれ」
「ありがとうございます」

街通りの一角に、日代わりで行商が店を構える場所がある。
もう夜も遅いというのに、女性や男たちが何人かたむろしていた。
「あれは…」
人の隙間から、見覚えのある美しい顔が覗く。
「なんだなんだ、見ていこうぜ?」
夏侯淵も賑わいに興味を持ったらしく、夏侯惇を引っ張った。


「ありがとうございました」
最後の猿梨を買った女性が立ち去り、荀彧はほっと一息つく。
お蔭で果物は全て売れた。許昌に住む人間たちに、新鮮で美麗な果物は物珍しかったらしい。
日が暮れてから店を開いたにも関わらず、思った以上に早く売れてしまった。
「ところでアンタ、この後は暇なのかい」
「はい…?」
荀彧は、果物を買ってくれた男の何人かに囲まれていることに気付いた。
先程まで愛想のよかった客たちの視線が、いやらしく荀彧を見据える。
「せっかくだからよ。どうだ、こんなうまい桃くれた代わりに一杯奢るぜ?」
「いえ。私は、っ」
男の一人が、素早く荀彧の肩に手を回す。
振りほどこうとしたが、その右手は別の男に取られてしまった。
「お、おやめください」
「遠慮すんなって兄ちゃん、なぁ」
男たちの無遠慮な視線が注がれ、荀彧の背筋が逆立つ。
これはかなりまずい事態だ。何とかしなくてはと焦った矢先だった。

「荀彧」
男たちの間を割って、屈強な姿が目の前に現れた。
「あ…」
荀彧も、絡んできた男たちも一様に目を見開く。
「いいっ!?夏侯惇様!」
「お前らな~ぁ。相手の気持ち考えねぇから、いつまで経ってもモテないんだぞ?」
「ぎゃああ!夏侯淵様までっ!」
男たちは慌てて荀彧から離れた。夏侯惇は荀彧を庇うように立つと、男たちをひと睨みする。
鎧を脱いでいるが、何人かは見知った顔だ。
自分の直属ではないが曹操軍の若い雑兵たちと分かり、一層顔つきが険しくなった。
「買うものは買ったんだろう。なら、それ以上迷惑かけるな」
「あーあ、こりゃ于禁に報告して鍛え直してもらいますかねーぇ」
夏侯淵が鬼よりも厳しい武将の名前を挙げると、男たちの顔は真っ青になる。
「ひぃいいっ」
「ご勘弁を、ご勘弁をっ!」
男たちは這う這うの体で逃げ出していった。

「夏侯惇殿…ありがとうございます」
荀彧はほっと胸をなで下ろし、深々と頭を下げた。
「気を付けろと言ったはずだぞ。気の荒い奴も多いんだ」
「は、はい。申し訳ありません」
「いや…奴らは軍の若い衆だ。本来なら謝るべきはこちらだな、不快な思いをさせてすまん」
夏侯惇も、改まって頭を下げた。
少しずつ軍としての規模を増している弊害を、こんな所で思い知ることになるとは。
「ほんとごめんなー、後できっつくお灸据えとくからよ」
気まずさから頭を掻きつつ、夏侯淵も一緒に謝った。
それにしても、と夏侯淵は目の前の荀彧をまじまじと見つめる。
「惇兄、こんな兄ちゃんといつ知り合いになったんだよ」
「昨日な。宿がなくて彷徨いてたところを、俺が家に入れた」
「やだ惇兄ったら…大胆」
「なんだその言い方は」
若干茶化したような物言いが気に障り、夏侯惇の眉間の皺が増した。

「初めまして。荀彧、字は文若と申します。危ない所をありがとうございました」
荀彧は穏やかな物腰で自分の名とお礼を述べる。
「おっとこりゃご丁寧に。俺様は夏侯妙才ってんだ、惇兄に世話になったんだって?」
「はい。おかげさまで雨を凌げたばかりか、とても優しくしていただいて」
「優しく。へぇ、優しく。優しく、ねぇ…」
見る見るうちに夏侯淵の顔が真顔になる。
そして意地悪い笑顔と含みを持った視線が、即座に夏侯惇に向けられた。
「言っておくが寝床を貸しただけだ!お前も紛らわしい言い方をするなっ」
「えっ!?すみません、何か私、失礼なことを…?」
突然怒り出した夏侯惇に、荀彧が慌てふためいた。
そんな二人の様子を見て、夏侯淵はケラケラと笑う。
「んじゃ、俺みたいなお邪魔は退散いたしますか。惇兄、一緒に飲むのはまた今度!」
「おいこらっ!」
巨体に似合わぬ素早さで夏侯淵はその場を走り去っていった。

「夏侯淵殿は、明朗な方ですね」
「戦場では頼りになる従兄弟だがな…まったく」
頭を抱える夏侯惇を見て、荀彧も思わずくすりと笑ってしまう。
そして、少し言い淀みながらも口を開いた。
「あの、夏侯惇殿」
「なんだ?」
「もしかして、まだ夕餉は召し上がっていらっしゃいませんか?」
「ああ」
「でしたら、私もご一緒してよろしいですか?今日いくらか利益も出ましたので、夏侯惇殿にお礼をしたいのです」
「そんな気は遣わんでいい。が…ちょうど淵にも逃げられたところだ、行きつけの店でよければ付き合え」
「ほ、本当ですか。ありがとうございます」
申し出を受け入れられたことに対する喜びに、ぱっと笑顔になった。
その華やかさに、夏侯惇は反射的に目を逸らしてしまう。
―――男相手に何を照れているのだ、自分は。
「行くぞ」
「は、はい。わっ?」
夏侯惇は荀彧の手首を掴み、やや強引に引っ張っていく。
「…はぐれて、また変な奴らに絡まれてはかなわんからな」
「はい…申し訳ありません」
荀彧は申し訳なさそうに項垂れ、大人しく従った。





「ほう、お主がそんな美形を連れ歩くとは」
辿りついた料理屋では、一番気まずい相手が先客としていた。
従兄弟であり主君が、興味深げな眼差しを二人に向ける。
「孟徳…何故お前がここにいる」
「何、今日もこやつに世話になったのでな。わしが馳走しているのだ」
よく見れば、曹操の隣には黙々と鶏の蒸し煮を食らう華佗がいた。
「おや奇遇ですな」
「ああ、よりにもよって奇遇だな」
面倒臭い男二人を前に、夏侯惇は項垂れる。
別の店にしようかと思ったが、しかし今の時間帯どこも店は満杯だ。
比較的ゆったりとした雰囲気の中で、質のいい料理にありつけるのはここぐらいのものである。
「饅頭と山菜炒めを二人分くれ。すまん荀彧、何か言われても聞き流せよ」
「は、はぁ…」
素早く馴染の料理を頼み、曹操と華佗から見えにくい位置へと荀彧を座らせた。

「で、お主。名はなんと言う?」
夏侯惇のせめてもの抵抗虚しく、曹操は荀彧の元へ割り込んできた。
空の器に酒を注いで、荀彧の前に渡す。
「は、はい。私は荀彧、字を文若と申します。許昌へ交易に参りました」
「孟徳」
「して、夏侯惇とはどのような関係だ」
「昨夜許昌についたばかりの折、泊まるあてがなく困り果てていたのですが、夏侯惇殿に助けていただいて」
「なるほど。夏侯惇よ、お主も隅に置けぬな」
「孟徳!!」
曹操が嗤って視線を寄越す。
格好の玩具を見つけたとでも言わんばかりの憎たらしい笑顔だ。
「やれやれ、この間まで鳥を愛でたかと思えばさっさと逃がし、今度は美青年とは…忙しいことですな」
横から華佗まで嫌味な発言を浴びせる。
「何が言いたい」
夏侯惇の額に青筋が浮かんだ。
常ならこの医師には大きく出られないのだが、流石に血管が切れそうだ。
「か、夏侯惇殿。落ち着いてください」
「こやつの口の悪さは今更だろう、いちいち気にするな」
「夏侯惇様、山菜炒めと饅頭二人前でございます」
見計らったような間で料理が差し出された。
話の腰を折られてしまい、夏侯惇は仕方なく席に着く。
「っち…ほら、食っていいぞ」
「あ、ありがとうございます。では」
荀彧は遠慮がちに、山菜炒めを口にした。
少し間を置いてから、柔らかい微笑みを覗かせる。
「…おいしいです」
「そうか。饅頭も食えよ」
「はい…いただきます」
昨日桃を食べている時にも思ったことだが、荀彧の食べ方には品性がある。
曹操も荀彧の様子を見て何かを感じたらしく、更に詰め寄った。
「お主は本当に行商か?貴族や名士の出ではないのか」
「そんな、畏れ多い。私は村で果物を栽培するしか能のない者でございます」
「ほう、それにしては物腰といい身なりといい洗練されておるな」
「おい孟徳、よせ」
また悪い癖が出たと感じ、夏侯惇が口を挟む。だが曹操は聞く耳を持たない。
「わしの直感が言っておる。お主、並みの者ではあるまい」
それまでは意外な取り合わせに面白がっていただけの曹操に、鋭い眼光が宿った。
優秀な人材であれば、どこからでも手繰り寄せることが好きな男である。
今、曹操の興味は荀彧に一心に注がれていた。
「す、すみません…私は…」
荀彧も、曹操の鋭い探りの視線に気づき、圧倒されていた。
そこから逃れようと、思わず目の前にあった器を取って口をつける。

「っ…げほっ!」
瞬間、喉の焼けつきを感じて激しく咳き込んだ。
「荀彧!?」
慌てて夏侯惇が背中をさするが、荀彧は尚も苦しがる。
「っぐ…あ……っ」
「華佗よ」
「はいはい」
曹操に呼びつけられた華佗が、苦しむ荀彧の顔を見た。
すぐに症状がわかったらしく、舌打ちをして曹操を睨む。
「どうやら酒に耐性が無いようですな。顔が真っ赤です」
「そうか。それは悪いことをした」
「孟徳!お前は」
「か、夏侯惇どの、私がいけないのです…っぐ、けほっ」
怒り出す夏侯惇を荀彧は必死で制す。
白い肌が赤く染まり、目には涙も滲んでいる。本当に辛そうだ。
弱い人にとって、酒は毒にしかならないという症例を初めて夏侯惇は目にした。
「大丈夫ですか」
「ああすまん。荀彧、水だ」
料理屋の主が持ってきた水を荀彧に渡すと、直ぐにそれを飲み干した。
「はあ……はあ…っ」
咳は落ち着いたようだが、まだ呼吸は荒い。
一瞬にして風邪を引いてしまったかのように、荀彧の体は熱を持ってしまっていた。
「悪かったな、荀彧。宿まで送ろう」
「何を仰いますやら。ここは夏侯惇殿が自宅までお連れするべきでは?」
またもや華佗の刺々しい横槍が入った。
「何でそうなる!?元はといえば孟徳が…」
「とはいえ貴方がここまで連れ込んできたんですから、最後まで面倒見てあげなされ。鳥は自分の意志で飛べても、人間はそうはいきませんからな」
どうも華佗は、夏侯惇が鳥を逃がしたことを根に持っているらしかった。
逐一当たりの強い言い草に苦虫を噛み潰すが、確かにこの状態で宿に一人置き去りにするのも寝覚めが悪い。
夏侯惇は嘆息し、動けそうにない荀彧を背負った。
「か、夏侯惇どの…すみません…」
「喋らんでいい。とりあえず俺の家まで運ぶ…しかし軽いな」
体格が違うとはいえ、荀彧が見た目以上に軽いことに驚く。
「すまんな荀彧とやら。ここまで酒に弱い人間はわしも初めて見た、許せ」
曹操も流石に責任を感じたらしく、謝罪の言葉を口にした。
「い、いえ……大丈夫、です…」
「せめてもの詫びだ。今日の代はわしが持つ」
「それとこちら、酔い覚ましです。家に着いたら水と一緒に飲ませてあげなさい」
「わかった」
夏侯惇は二人に一礼してから、店を後にした。





「待たせたな」
寝台に横になる荀彧に器を差し出した。
中には、華佗の酔い覚ましを溶いた水が入っている。
荀彧は起き上がって、器の薬水を飲んだ。
「…はあ」
「大丈夫か」
「はい。とても飲みやすい薬です」
まだ顔は熱に浮かされていたが、視線は落ち着きを取り戻していた。
「本当に、昨日だけでなく今日は一段とご迷惑をおかけして…申し訳ありません」
「気にするな。最後の酒はどう考えても孟徳が悪い」
「…曹操殿は、やはり英雄の器ですね。気圧されてしまいました」
「すまんな。奴は才のある人間と思えばどんな奴でも欲しくてたまらんのだ」
袁家の勢力と比べればまだ寡兵だが、曹操軍は精強と呼び声高い。
武人知恵者問わず、人材を厳選して曹操が登用しているが故であった。
曹操の人に拘る姿勢は筋金入りだ。それは今のところ良い方向に出ていると思うが、一方で劉備の義兄弟である関羽に執着するなど、夏侯惇からすれば危なっかしく面倒臭い一面もある。
「しかし孟徳の才を見る目は確かだ。お前、見込まれたな」
夏侯惇も、曹操が荀彧に興味を持ったことそれ自体は不思議ではないと感じている。
ただの行商人ではない、という見解は一致していた。
「買い被りでございます。私は…っ」
「ああ、お前が言うならそれでいい」
どこか必死な目をする荀彧の頭を撫でる。
この乱世、事情を抱えて生きていない人間の方が少ない。
いちいち詮索するつもりはなかった。

「…すみません。ほっとしたら、なんだか」
撫でられる心地よさが引き金となったか、荀彧の目が眠気で溶け出す。
気づけば、顔の赤みも抜けてきていた。
酔い覚ましに、ある程度催眠の効果もあるようだ。
「ゆっくり休め」
「はい…」
促されるまま再び横になり、荀彧は眠りに落ちていく。
静かな寝息を立て始めた彼の頬を、夏侯惇は優しく撫でてやった。




2018/04/15

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