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曇天日和

どんてんびより

青鵲の恋【六】

夏侯惇に何かあったことはすぐわかった。
調錬や軍議に身が入っていないわけではない。
しかし、微妙な覇気の無さを察知する程度には、夏侯淵も付き合いは長い。

「惇兄、どうしたよ今日は」
とっぷりと日の暮れた帰り道、まずはと気安く聞いてみる。
はぐらかされるかと思ったが、答えは意外にも素直に返ってきた。
「荀彧が、帰った」
「……ははあ」
無骨な猛将である従兄弟と、世にも稀な美青年の取り合わせが面白過ぎて、この間はついからかってしまった。
が、思った以上に、夏侯惇はあの青年に惚れ込んでいるようだ。本人も自覚し切れていない程に。
「ま、まあ惇兄、そんな気ぃ落とすなって。まーた果物いっぱい抱えて来てくれんだろ?」
今日の挨拶が今生の別れとなるなんて事例は山ほどある。
二度と会えないかもしれないという危惧は、この乱世常に存在する。
とはいえ、夏侯惇の気落ちの仕方はあからさまに思えた。
「ああ…だが」
「ん?」
「気がかりでな。本当にあいつは、無事に帰れたのかと」
「なんで?確かに、あんだけ綺麗だと心配っちゃ心配だけどよ?」
夏侯淵が初めて荀彧を見たのは、躾のなってない軍の若手に引っかけられているところだった。
声をかけずにいられない美しさが彼にはあるし、危ない目に遭ってもおかしくはない。
とはいえ、行商として渡り歩いているのであれば、自分の身に起こりうる危機については把握できているはずだ。
「ああ…」
夏侯惇も、夏侯淵の言いたいことは承知していた。
深窓の姫ではない。男に対しそこまで過度に心配するなど、却って失礼だとも思う。
だが一種の儚さや危うさといったものを、彼からは感じずにはいられないのだ。
「実はな、淵」
思い切って、夏侯惇は昨晩の荀彧の話を切り出そうとした。
その時だった。

「ああ、夏侯惇様、夏侯淵様!」
前の通りから、見慣れた女性が息を切らして走ってくるのが見えた。
万屋の女主人だ。
「おお~姉ちゃん!どうしたんだそんな慌てちゃって」
「何か街で異変でもあったか」
「あのっ、男を捕まえてほしいんです。行商人なんですけども」
「行商の?姉ちゃんの見てる前で堂々とやらかすたぁ、ふてぇ野郎だな」
女主人は、許昌に店を構える商人の中でも古株の存在である。
故に、集う行商たちの中に悪辣な取引をするような者がいないか、それとなく監視する役回りも負っていた。
その彼女が声をかけてくるということは、火急の要件を生じさせた者が出たのだろう。
「いったい誰の話だ?」
「最近、宝飾品なんかを売ってた…その、ちょっと下品な感じの男、わかります?」
「…!」
夏侯惇の脳裏に、昨晩の出来事が蘇る。
穏やかな談笑のひと時をぶち壊しに来た、男の笑み。
怯える荀彧を見つめる、にやついた視線。

「…わかる。何かやらかしたか」
夏侯惇が男を知っているとわかり、女主人も安心して詳細を語り始めた。
「あいつ、今日の夜に売り捌きたいって、鍛冶屋に羽飾りをたくさん注文して作らせたんです。でも、いつまで経っても夜の市に現れなくって。売上から金を支払うという約束なのに」
「マジか!?」
「そうしたらさっき、西の方へ荷車走らせて許昌を出ていく姿が見えました。私ではどうにもならず…」
女主人が無念そうな表情を浮かべた。
戦いの心得もない女性に、大の男を夜追い掛け回すなど無理な話である。
「お願いです。信用を破ったあの男は、同じ商売人として見過ごせないんです」
「わかった、西だな?俺達が探そう」
「鍛冶屋の兄ちゃんに言っとけ、すぐにしょっぴいてきてやるって!」
二人はすぐさま、己が得物を取りに調錬場へ引き返した。





「へっへへへ…」
闇に紛れて許昌を抜け出し、森へ足を踏み入れる。
荷車は決して軽くない。目立たぬようにと馬も外しているため、人力で動かす他ない。
時折、樹木の根に足を取られそうにもなった。
だが高揚感のせいか、そんなものは全く気にならなかった。
やっと手に入った宝だ。皮算用がついつい捗る。
「親父はすぐ金使い切っちまったからなぁ。俺はもっと賢くやるぜ」
金などいくらあっても足りないということは、父親の無茶苦茶な生活態度で身に染みている。
幼い頃は、鳥のお陰で下手な富豪より豪奢な暮らしができた。だが一瞬で終わった。
妓楼に通い、珍味を漁る。贅の限りを尽くせばどんな大金も泡銭だ。
父のような愚は犯すまい。そう心に誓う。

ドシュッ、と鋭い音がした。
先を行く男の足元に、矢が突き立てられる。
「ぎえええええっ!?」
驚いた男は、蛙が潰れたような醜い声を上げて止まらざるを得なかった。
「いやぁ~悪い悪い!狼かと思ってよ…てっきり」
以前聞いたそれより、若干の皮肉がこもった軽口が浴びせられる。

「な、な…旦那方っ…」
曹操の股肱たる二人が、得物を手に仁王立ちしていた。
誰からも畏れられる武将、それも二人分の殺気が向けられている。
その迫力に、男は慄いた。
「いやまあ、そりゃな?人様の商売に口出す気つもりはねえんだよ?でもよぉ、人の信用裏切ったまんまトンズラっつうのは、感心しねぇなぁ」
いつも通りの調子で警戒にしゃべる夏侯淵だが、目は全く笑っていない。
夏侯惇もまた、冷たい目で睨みながら男に問う。
「作らせた物を売って鍛冶屋に支払うのではなかったか」
「っい、いやぁ許昌ではあんまり買い手がつかないかと思いまして、ちょっと別天地で金を作ってからまたその、ヒィイ!?」
「言い訳は見苦しいぞ、貴様」
後ずさる男に、麒麟牙の切っ先を突き付けた。
「また大荷物抱えちまって、なんだこりゃ」
夏侯淵は荷車に近づき、載せられている箱に手をかけた。

「っ!!いくら旦那方でも、これだけは渡せませんぜ!!」
今まで怯えていただけの男の目が突然血走る。
荷車の前で大の字になり、夏侯淵を遮るべく躍起になった。
「こいつは……こいつはっ」
その異様な有り体に、ふと女主人の言葉が思い出される。
確か、羽飾りを大量に作らせたと言った筈だ。
「まさか…!?」
自分の頭の中に芽生えたひとつの推測。
それを確かめるべく、夏侯惇は荷車に駆け寄った。
だが男も必死だった。荷台に乗り上げようとする夏侯惇に食らいつく。
「いけませんぜっ!こいつは俺の夢だ、やっと俺も一攫千金をっ…!」
「やはりな、貴様またあの鳥を…!?」
『一攫千金』、その言葉で確信を持った。
「ああもう、大人しくしな!」
暴れる男を夏侯淵が後ろから羽交い絞めにし、夏侯惇から引き離す。
それに乗じて夏侯惇はやっと荷台に乗り上げた。
「なんだ…?」
鳥を一匹入れているにしては、箱が大きい。
というよりも、よく見れば人一人が入る棺だ。何故なのか。
夏侯惇は不審に思いながら、棺の蓋をこじ開けた。

「っな…!?!?」
棺には、人が横たえられていた。
一糸纏わぬ姿にされ、手を後ろ手に縛り上げられ。
切り裂かれた足の腱からは、未だに血が滲む。
下半身には、蹂躙された痕跡が清められもせずそのまま残っていた。
「荀、彧?」
見慣れない、瑠璃色をした髪に一瞬だけ戸惑う。
だが猿轡を噛まされた美しい顔の輪郭は、間違いなく彼その人だった。
「荀彧っ!しっかりしろ!!」
棺から荀彧を抱き起こし、猿轡を外す。布からは酒の匂いがした。
「う……ぁ…」
気を失ったままの口から、切ない呻き声が漏れる。
抱きとめたその体には熱が籠っており、顔は赤く火照っていた。

「て、めぇ…この兄ちゃん売り飛ばすつもりだったのか!?さては人買いもやってやがるな!?」
夏侯淵は鬼の形相で問い詰める。しかし男は動じなかった。
「…へへっ。ああそうです、美人なら男も女も高く売れますからな!」
動じるどころか、不敵な笑みを浮かべて二人に言い放つ。
「だいたいそいつは人じゃねぇや、鳥です」
「はぁ!?」
「旦那方が俺からぶんどった、あの鳥ですよ」
「鳥、だと…!?」
思わず、夏侯惇は荀彧の顔を見やる。人が鳥になるなど夢物語もいいところだ。
だが今の荀彧の髪は、いつもの髪色ではない。人ではありえない瑠璃色。
その深い青に、見覚えがないといえば嘘になる。
「そいつはね、夜になると人間に化ける力を持ってる不思議な鳥なんです。しかも御多分に漏れず、全員がとびっきりの美男美女になるんだ。俺の親父がかつて何匹か捕まえましてねぇ、そりゃあそりゃあいい値段で売れましたよ」
「っ…」
半月前、自分が助けた青い鳥。
輝きに満ちた翼を広げ、飛び去っていく様が、鮮やかに脳裏に浮かぶ。
あの深い青と、目の前の荀彧が、静かに重なり合った。
「俺もこの鳥を捕まえるのが夢で生きてきた。そしてついにこいつを見つけたんです!でも逃げられた上に旦那に取られちまって…でもまあ、その鳥が馬鹿で助かりましたよ」
男は嘲笑いながら言った。
「なんたって夏侯惇の旦那。森でひっそり暮らしてればいいものを、こいつはあんたに会いたいがために許昌まで出てきたんですから」
「な…!?」
「美しいったって、しょせんはただの鳥だ。それが一丁前に男をたぶらかそうとねぇ、まさか旦那の家に人の姿で上がりこんでるたぁ思わず」
見下したような男の口ぶりを、夏侯惇は茫然とした思いで聞いていた。

三日前の雨夜。
濡れた体を震わせつつ訪ねてきた美青年を、何故か無碍に出来なかった。
静かに見つめてくる清爽な瞳に。何気ないことで屈託なく笑う顔に、何故か惹かれるものがあった。
自分に向けられた数多の表情。今にして気づく。
あのひとつひとつに、密やかな甘さを宿していたことを。

「さぁ、もういいでしょう。どうしてもってんなら、こっちの羽飾りは全部鍛冶屋に返します、それでよしとしてください。売れば結構な金になるはずだ」
男は、羽飾りが詰まった麻袋を地面に投げ捨てた。
しかし一旦燃え上がった強欲の火は、男の眼から消えることはない。
「だが、そいつは渡せませんぜ!」
「てんめ、この期に及んで!」
「だって旦那は、そいつのことお気に召さなかったんでしょう?だったら俺がどうこうしようが自由だ!」
「どういう、意味だ」
男の台詞に、夏侯惇の声が詰まる。
「そんだけ美人なのに、結局手ぇ出さなかったんでしょう?勿体無いですねぇ。肌艶も泣き声も絶品でしたのに……へへへっ」
男の目線が、腕の中の荀彧へと注がれる。
華奢な体を思うまま甚振り、散々に弄んだという事実がその目に浮かぶ。
夏侯惇の目の前が、怒りで真っ赤に染まった。
「…貴様ァ!」
「惇兄落ち着け!まずはその子なんとかしねぇと……っうあって!?」
いきなり、夏侯淵の右手に一筋の痛みが走った。
つい、男を戒めていた手を離してしまう。
「そいつだけは、そいつだけは渡さねぇ!」
男の手にある小刀から、今しがた夏侯淵の腕から啜った血が滴る。
「った、火事場の馬鹿力って奴かよ!?」
商人に怪我を負わされてしまった自分の油断に舌打ちするが、それどころではない。
むしろ夏侯淵すら振りきってしまうほどに、今の男は必死なのだ。
最早何をしでかすかわからない状態になっている。
「うおおおおお!」
男は夏侯淵には目もくれず、荀彧を抱えた夏侯惇目掛けて突進した。

「……」
荀彧を静かに棺へ戻し、荷台から降りる。
麒麟牙を真っ直ぐに構えた。
「うあああっ!!」
想像していたよりも武術の心得、特に急所に対する知識はあるようだ。
男は正確に、夏侯惇の脇腹を見据えていた。
低い姿勢から一息に夏侯惇に詰め寄り、小刀を突き出す。
「それなりに動けるようだな」
「当たり前でさぁ…商売人だって、強くなきゃ生き残れねぇ世界ですぜ!」
夏侯惇が後退した隙を衝いて、男は更に懐から刀を抜き出す。
浅く踏み込み、一気にそれを振り抜いた、筈だった。
「っ!」
ガキッという金属音と共に、刀が止められる。
「見くびるな。商人の理の中で生きてきた者と、戦場に身を置く者とが互角だとでも思ったか?」
声は驚くほど、静かだった。
しかし麒麟牙を握るその手には、太く青い血管が浮き出ている。
麒麟牙にねじ伏せられた男の刀に、ピシッと皹が走った。
「ぎゃああっ!!」
たった一瞬の動きで、夏侯惇が麒麟牙を振り払う。
砕けた刀と、男の体が宙に飛んだ。

「金に目が眩むってのは、嫌だねぇ…」
地面に叩きつけられ、それこそ蛙のように潰れた男を夏侯淵が見下ろす。
肋骨でも折れたか、男は脂汗を垂らしながらヒューヒューと荒い息を繰り返した。
夏侯惇は眉一つ変えず、男の足元に近づく。
「本来ならば、許昌にて責務を問うつもりだったが。貴様のような外道に泣かされる者を、これ以上増やしたくはない」
麒麟牙の切っ先で、迷いなく男の腱を切り裂いた。
「ぎええええええええっ!!」
汚らしい悲鳴が上がる。
「荀彧が受けた屈辱、その身で償え」
それだけ言ってから、夏侯惇は男に背を向けた。
横で見ていた夏侯淵に、ちらりと視線をやる。
「…あいよ」
それに応じるように、夏侯淵は懐に隠していた瓶を取り出した。
それを近くの茂みに投げつける。
瓶が割れる音と共に、辺りに強い臭いが漂い始めた。
「っひ……いいい…!?」
夏侯淵が投げ捨てたものを理解し、男の顔がざぁっと青ざめる。
紛れもなく、獣油だ。
「じゃあな」
うち捨てられた羽飾り入りの袋を拾い上げ、夏侯淵もその場を離れた。
後には、哀れな姿の男ただ一人が残される。



「惇兄任せな、俺が引くぜ!」
夏侯淵はすぐさま荷車の梶棒を取った。
夏侯惇は先に荷台に乗り上げ、棺の中の荀彧を今一度抱き起こす。
「っ……あ…」
微かな声を上げるだけで、一向に起きる気配はない。心身ともに消耗し過ぎていた。
「すまん、今しばらく辛抱してくれ」
縛り上げられた手の戒めだけ解いてやり、また静かに寝かせた。
きっちりと蓋を閉め、荷台から降りる。
「ちぃっ…!」
本当ならば、こんな箱の中からすぐに出してやりたい。
しかしこの状態で抱えて連れ帰れば、いくら夜とはいえ誰の目に留まるか知れない。
これ以上、彼に惨めな思いはさせたくなかった。
「華佗のところへ行く。淵、お前は許昌に着いたら鍛冶屋と万屋の所に行ってくれ」
「ああわかった。行くぜ!」
夏侯淵が力強く梶を引いた。横で夏侯惇が荷台を押す。
二人分の力に支えられた荷車は、行きとはまるで違う速さで森を走り始めた。





「ひぃいい、待って、待って下せえ…!!」
遠ざかる荷車の音を聞きながら、男が泣き喚く。
腱を切られた足は動くこと叶わず、また折られた肋骨のせいで息もまともに続かない。
ふいに、周囲を吹き散らす風が強くなった。辺りに一層、獣油の臭いが充満する。
やがて茂みの奥から、風のせいではない別の音がガサガサと聞こえ始めた。
「死にたくねえ、こんなところで死にたくねえよぉお…!!」
次第に近づいてくる音に恐怖する。
有り余る欲に己の身を窶した男の、最期が近づいていた。







森の中で、喰い散らかされた遺体が見つかったのは翌日のことである。





2018/04/23

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