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曇天日和

どんてんびより

皐月の風薫る頃【三】

「申し訳ありません、暫くの間留守を頼みますね」
「ええ、かまいませんが…」
使用人は少しばかり不安そうな顔を覗かせた。
荀彧が別宅に泊まりに行くときは、たいてい政務が立て込んでいる時だからだ。
しかも、午前の軍議に出掛けたと思ったら急に戻ってきて、今度は別宅へ行くという。
ある程度衣服や雑貨を持ち込むとなれば、余程切羽詰まった案件が浮上したのだろうと察した。
「また火急の事態でございますか?ご無理はなさらないでください」
「は、はい。心します」
何も知らず心配してくる使用人に対し申し訳なく思いつつ、荀彧は頷く。
流石に、本当のところを話す勇気は出てこなかった。
「あ。その…ひとつだけ、お願いしてもよろしいですか?」
荀彧は幾分神妙な面持ちになった。その様子を見て、使用人も背筋を伸ばす。
「はい、何なりと」
恭しく頭を垂れた使用人に対して、てんで予想外の言葉がかかった。
「人参を、持っていきたいのですが」





荀彧は別宅へと小走りで向かった。
数日分の日用品が入った袋と、何本もの人参が入った籠を抱えながら。
「はあ…」
道中、使用人の物凄く怪訝そうな顔が何度も浮かんだ。
あんな顔をされても仕方がない。普通の食料ならともかく、何故人参なのだと。
変に突っ込んではこなかったが、視線が痛かった。

「失礼します」
別宅の入り口をそっと開け、滑り込むようにして中に入る。
すぐに鍵を閉め、ほっと一息ついたのもつかの間。
「ご主人様ぁ~っ」
「うわっ!?」
中で待っていた粕毛が、勢いよく抱きついてきた。
後ろから抱え込まれた拍子に、危うく持っていたものを取り落としそうになる。
「や、やめてください、荷物があるのにっ」
「あっごめんね。ご主人様ちゃんと来てくれたから嬉しくって…」
「もう…」
振り向いて叱ろうとしたが、しゅんとなって俯く粕毛を見ていると、その気も削がれてしまう。
ひとつため息をついて、荀彧は言って聞かせた。
「私を主として慕ってくれる気持ちは嬉しいのですが…もう少しだけ、落ち着いてくださると助かります」
「うん…ごめんなさい」
粕毛は素直に謝った。

あの後、粕毛は頑として荀彧の傍を離れようとしなかった。
しかし軍議の場に連れていくわけにもいかず。
考えあぐねた末、曹操の許可をもらい別宅まで粕毛を連れ帰ることにした。
『えっ、僕ここでご主人様と一緒に暮らせるの!?』
『は、はい…私もしばらくここで寝泊まりします。そのための荷物を持ってきますから、少しの間待っててください』
『うん、わかった!僕待ってるから、ちゃんと戻ってきてね!』
そうは言ってくれたものの、接する限り、彼は人で言えば年端もいかぬ幼子同然だ。
放っておけば抜け出して自分を探しに来るに違いない。そういう焦りはあった。
幸いすぐに戻ってこれたからよかったが、彼を一人で長時間放置するのはどうにも怖く思えた。

「…あ、にんじん!」
粕毛は、荀彧が持ってきた籠の中身に目をつけた。
きらきらと目を輝かせるのを見て、荀彧は苦笑する。
「自宅からいくつかいただいてきましたので、食べますか?」
「うんっ♪いただきまぁす!」

円卓を囲みながら、昼食を共にする。
片や使用人の持たせてくれた饅頭とお茶、片や生の人参と水。
部屋中に、人参をボリボリと食べる音が小気味良く響いた。
それはそれは美味しそうに食べる姿に、改めて彼が粕毛であると納得する。
「さて…」
茶を飲み終わった荀彧は、窓際の文机と向かう。
まだ、目を通していない竹簡がいくつか積んであった。
登城せずとも抱え込んでいる仕事は多い。いい機会だからすべて片付けてしまおうと思った。
「ご主人様ぁ」
しかし椅子に座ったところで、また後ろから抱きしめられる。
「わっ、やめてください」
「なんで?」
「なんでと聞かれても…軍議に出ない以上、他の仕事をしなければと思いまして」
それを聞いた粕毛は、やや不満そうな顔をした。
「ご主人様、お仕事し過ぎだよぅ。今日は僕と一緒にお休みしようっ」
「えっ、待って、わぁっ!?」
抵抗も虚しく横抱きにされ、寝台まで運ばれてしまった。
「ご主人様っ」
粕毛は至極嬉しそうに荀彧の腰へと縋り付き、頭を預けた。
「いけません、これでは仕事ができません」
膝枕を楽しむ粕毛を振り払おうと体を押すが、びくともしない。
見た目はほっそりとした青年の姿なのに、どうにもならない。
そういえば初めて抱きついてきた時も、あまりに力が強くて振り解けなかった。
今なら理解できる。見た目は人になろうと、彼は馬。武将でもない自分が馬力に勝てる道理がない。
「ああ、もう…」
頭を抱えたくなった。馬の状態で甘えてくるぶんには可愛いが、人の姿だとこんなに面倒なことになるとは。
記憶の中の粕毛は温厚で優しく、他人に手綱を委ねてもおとなしくできる馬だった。
このように強引且つ、わがままな一面はあまり覚えがない。
「どうしたのです、馬の時はもっと聞き分けのいい子でしたのに」
思わず、感じたことをそのまま口にしてしまった。

「だって…馬の時はこんな風に、ご主人様と一緒になんていられなかったから」
「えっ?」
想像もしていなかったような切ない声に、驚かされる。
「寝るところも違うし、ご主人様は忙しいからいつも会えるわけじゃないし…でも、僕は馬でご主人様は人だもの。だから、仕方ないってわかってた」
粕毛はくるりと寝返り、荀彧を見上げた。黒くて大きな瞳が真っ直ぐに見つめてくる。
「でもね。僕、初めて会ったときから、ずーっとご主人様のこと大好きで。ほんとはいつだって一緒にいたいくらい…だから、人の体になれたの、とっても嬉しいんだ」
「っ…」
普段決して聞けない愛馬の本音に、胸が締め付けられる心地がした。
立場上政務に明け暮れることが多く、鄄城の防衛線にいた頃に比べると従軍の機会も減った。
粕毛に触れ合う時間も少なくなり、その分、暇を貰えた時はなるべく構おうとは心がけていたつもりだった。
いつもおとなしくて、従順で。その認識は結局、人の側の身勝手であったと思い知らされる。
やはり、寂しかったのだ。ずっと我慢してきたのだ、彼は。
「すみません…貴方の気持ちも知らずに」
荀彧はそっと、粕毛の頬を撫でた。
「えへへ。嬉しい」
その手に、粕毛の大きな手が覆い被さる。人肌よりも少しばかり、温かく感じた。





それから三日ほど、粕毛と荀彧は寄り添うようにして過ごした。
流石に、粕毛も荀彧の立場は理解したらしい。荀彧が文机にどうしても向かうときは、寝台で待っていた。
時折、背後から人参をぽりぽりと食べる音が聞こえる。
それを微笑ましく聞きながら、荀彧は竹簡の内容に目を通し、書簡を作成していった。
「よし…」
「ご主人様、お疲れさまっ」
溜めていた竹簡の処理がすべて終わったところで、見計らったように粕毛が抱きついてくる。
「だけどこんなにたくさん、どうするの?」
粕毛は、文机の竹簡、そして荀彧が書き終えた書簡を眺めた。
「そうですね…明日は軍議に参加しようと思っています。竹簡も書庫に返さないとなりませんし」
「ってことはお城に行くんだね!わぁい、僕が連れてってあげるよ」
「えっ?いや、城はすぐそこですから…」
思わぬ粕毛の申し出に、荀彧ははたと思い悩む。
三日も登城せぬまま終わってしまったが、いい加減明日は軍議に顔を出したかった。
粕毛のことは曹操に『従者』と認められているとはいえ、あまり目立つことをさせたくない気持ちはある。
かといって一日、この別宅に閉じ込めておくのも酷に思った。
「…わかりました、一緒に登城しましょう。ですが、私が軍議に参加している間は別の部屋でお待ちくださいね」
荀彧の提案に、粕毛は両手を上げて喜んだ。
「やったあ!馬のままだとお城って入れなかったからね。ありがとうご主人様っ」
粕毛は喜びのままに荀彧の手を引き、寝台へと誘った。
「あ、ちょっと、わっ…」
あっという間に荀彧は寝台へと寝かされた。
粕毛は荀彧の隣に寝転がると、抱き寄せてぴったりとくっつく。
「ふふ、楽しみだなあ…」
待ち遠しそうに呟く粕毛に、荀彧は少しばかり呆れた視線を送る。
「もう…仕方ありません、ね…」
本当はもっと叱るべきはずなのに、とは頭では理解している。
なのにどうしてか、抱き寄せられると、何も言えなくなってしまうのだ。
存外、粕毛の体温は心地よい。その温もりに身を委ねているうちに、荀彧は眠りに落ちた。





「荀彧…」
夏侯惇は、朝から頭の痛い光景を前にしていた。
「夏侯惇殿…おはよう、ございます」
「おはよーございまぁーす」
恥ずかしそうに俯く荀彧は、横抱きにされている。
主とは対照的に、粕毛は誇らしそうな笑顔で挨拶してきた。
「その状態で大通りを通ってきたのか…」
ここまで、一体何人の市井の民たちにその光景を見られただろうか。
荀彧が経験したであろう羞恥を考えるに、夏侯惇は居たたまれない心地になった。
「荀彧の気持ちを考えろ。顔が赤くなっている」
「えっ。ご主人様、風邪引いちゃった!?」
粕毛は慌てて荀彧の顔を覗きこんだ。夏侯惇の言う通り、荀彧の顔は紅潮している。
「違います…だから、降ろしてください…」
せめて背負ってほしいと言ったにも関わらず、頑として粕毛は横抱きに拘った。
背負っては馬と同じだから、というのが粕毛の言い分だが、荀彧にとっては公開処刑もいいところだ。
「馬の癖に、主人の命令を聞けんのか、お前は」
夏侯惇が強く言い放つと、流石に粕毛もびくりと肩をすくめる。
「う…わかりました」
名残惜しそうに、粕毛は荀彧を降ろした。
やっと地に足がついた荀彧は、開口一番夏候惇に謝る。
「も、申し訳ありません…朝から、お見苦しいところをお見せしました」
「いい。まったく、そいつがそんな面倒臭い性格してるとはな」
荀彧の粕毛は温厚でおとなしいと聞いていたが、どうもそれだけではないようだ。

「貴方が甘やかすからそうなるんだよ、荀彧殿?」
少し遅れて登城してきた郭嘉が、少しばかり厳しい口調で言った。
横にいた荀攸も頷きつつ、やはり厳しい口調で荀彧に迫る。
「俺もそう思います。丸め込まれるなど文若殿らしくありません。もう少し毅然とするべきでは」
「公達殿、すみません。私も言い聞かせているつもりが、力が違い過ぎて」
「ふぅん…?」
申し訳なさそうに頭を下げた荀彧の言葉に、郭嘉はちらりと笑みを見せる。
そのまま粕毛の横に近付き、耳元で囁いた。
「ねえ、君はご主人様が嫌がっているのに、自分の馬力にものを言わせてるのかい?そういうの、嫌われると思うけどな」
「えーっ!!」
郭嘉の狙い通りに、粕毛は慌てふためいた。しかし。
「やだぁ、ご主人様っ。僕いい子にしてるから嫌わないで~っ」
粕毛は泣きながら、荀彧の胸元へと飛び込んだ。
「「「!!!」」」
夏侯惇、郭嘉、荀攸の表情が一斉に固まる。
「わ、わかってます、嫌ったりしませんから!軍議が終わるまではおとなしく待っててくださいね」
荀彧も慌てて、いやいやをしてくる粕毛の背中を撫でた。

「郭嘉殿」
「…余計な真似を」
荀攸の殺気立った眼差しと、夏侯惇の呆れた視線が郭嘉に突き刺さる。
「これは…やられたね」
予想外の動きをする粕毛に、流石の郭嘉もお手上げだった。





幸いにして、午前中の軍議は滞りなく終わった。
荀彧は足早に竹簡を書庫へと戻しに行きつつ、書いた書簡を各所へと届けに走る。
すべて完了したところで、やっと粕毛が待つ休憩室へと迎えに行った。
「すみません、お待たせしました」
「ご主人様っ」
扉を開けると、粕毛がにこやかに荀彧へと抱きつく。
もうこれは彼の挨拶みたいなものだと、荀彧は納得しつつ頭を撫でた。

「荀彧殿、その彼が、馬から人になったっていう粕毛かい!?」
二人分の足音と、先程まで軍議で一緒だった者の声が背後より聞こえた。
振り返ると、曹休と満寵が、興味津々といった面持ちで並んでいる。
急に現れた二人を見比べると、粕毛は荀彧に訊ねた。
「ご主人様…こっちの人はわかるけど、こっちの人だれ?」
粕毛が見たのは満寵の方だった。
曹休は、よく厩舎に来ては兵士と共に放牧に連れ出してくる存在のため、粕毛にも覚えがある。
「こちらは満寵殿です。私と同じく曹操殿…絶影のご主人にお仕えしている方ですよ」
「しかしすごいな…どこからどう見ても人だ!」
曹休は心の底から驚き、感動したような口ぶりで言った。
曹操から話を聞かされ、あの見慣れた粕毛が一体どんな姿になっているのかと興味は尽きなかったのだ。
こうして相対し、本当に人そのものにしか見えないことに更なる驚きが募る。
それは満寵も同じだった。ただしこちらはまだ、疑った目線で粕毛を観察する。
「馬だったなんて思えないけど…あ、そうだ。ちょっとこれを開けてみてくれないか?」
「え?」
満寵は、手にしていた箱を粕毛へと差し出した。見れば、大きな錠前がついている。
「いいよ」
粕毛は事もなげに言って、その箱を両手で持った。
「えいっ」
とても軽い声と同時に、バキバキっという破壊音がこだました。
「「「………」」」
「はい、開いたよ。なんだ、何も入ってないんだね?」
絶句する三人をよそに、粕毛は無邪気に首を傾げながら箱の残骸を見た。

「…ははっ、これは見事!」
沈黙を破ったのは、箱を渡した張本人である満寵だった。
流石に粕毛の腕力には驚嘆したものの、にっこりと笑みを浮かべる。
「これは、新しい罠のために発注した錠前で。曹仁殿にも試してもらったけど、力じゃ絶対にこじ開けられない構造なんだけどな」
「ああ、これは人の力ではできそうもない」
曹休も感心しつつ、一歩だけ粕毛の前に進み出た。
顔を近づけたかと思うと、何かに納得したように頷いた。
「かすかだが、獣の…馬の臭いがする。やはりお前は粕毛なんだな」
「曹休殿にもわかるのですか?」
「なんとなく、なんだが…俺も荀彧殿の粕毛はよく知っているし、似たものを感じるんだ」
馬に慣れている曹休ならではの意見だろう。
「面白いこともあるものだね。書物などに伝わる怪の類には、人に化ける力を持つ物もいるとは聞いたけど…」
「……っ」
満寵の言葉を聞いた瞬間、今まできょとんとしていた粕毛の表情が少しだけ強張った。
「君は一体、どうやって人になったんだい?」
尚も興味が尽きることはなく、満寵はずいっと粕毛の前に躍り出た。
その純粋ながらしっかり探りを入れようとしてくる瞳に、粕毛は苦手意識を持った。
「どうって…ええと、その、朝起きたらこうなってたんだぁ」
はぐらかしたような物言いだと受け取った満寵は、なかなか引き下がらない。
「うーん、よければ詳しい話を聞きたいところなんだけど…そうだ荀彧殿、もしよかったらこの後彼と一緒に」
「ご主人様、もう行こうっ!」
粕毛は荀彧の手をぐいっと引っ張った。
「えっ!?」
不意を突かれた格好になった荀彧は体勢を崩し、されるがまま横抱きになる。
そのまま、粕毛は勢いよく廊下を走り出した。
「あっ、待っ…お、お二人とも、申し訳ありませんっ」
荀彧は、二人に頭を下げるのがやっとだった。
曹休も満寵も呆気に取られた眼差しで、遠ざかっていく二人を見送った。



「…心配だな」
ふいに、曹休がその秀麗な顔を曇らせる。
「何がですか?」
「荀彧殿のことを、粕毛が振り回しているように見えてしまって」
曹休は、率直に思うところを口にした。
「馬と心を通わせ合い、仲を深めるのは大事だ。しかしただでさえ、馬の方が力が強いからな」
曹休も今でこそ曹家千里の駒と呼ばれ、弓馬に優れる若武者に成長したものだが、失敗も数多く重ねている。
特に馬との距離感は、馬術を磨く上では決して間違えてはいけないことを身を以て学んだ。
厳しくし過ぎても嫌われる。かといって友人感覚で接すると、馬は人の制御が利かぬところで甘えたり、悪さをするようになるのだ。
「なるほど。馬が本気を出したら、我々はひとたまりもありませんからね」
満寵も、曹休の懸念を理解した。確かに今の荀彧は、粕毛に主導権を握られているも同然だ。
あくまでも、馬が人に従うという構図が成り立ってこその人馬の信頼関係だろう。
「荀彧殿が、危ない目に遭わなければいいんだが…」
どうにも、曹休は胸騒ぎが押さえられなかった。






2018/09/26

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