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曇天日和

どんてんびより

皐月の風薫る頃【七】

華佗にとって、いつもと変わりない救護室の朝が訪れようとしていた、筈だった。
その朝の静寂は、何の前触れもなく破られた。
「ご主人様を助けて……っ!」
「…は?」
突然駆け込んできた見知らぬ青年に、華佗は一瞬面食らった。
粕毛は粕毛で、久々に見た華佗の顔を見て怯んだ。しかしここで引き下がっていては主を救うものも救えない。
「おっ…お願いします!急にご主人様が倒れたんです!」
粕毛は精一杯の声を出して頭を下げた。
呆気にとられていた華佗も、 腕の中に抱かれている人を認識した瞬間、顔つきが変わる。
「荀彧殿…!?」
華佗は早速、寝台に並べていた鍼の一式をどかした。
「とにかく、こちらに寝かせなさい」
「はいっ!」
空いた寝台に、粕毛は荀彧を寝かしつけた。

「う……っ」
「珍しいこともあるものですな」
華佗の手が、魘される荀彧の額へと当てられる。風邪特有のじとりとした熱が籠っていた。
日頃の節制した生活の賜物か、荀彧は華佗に悪い意味で世話になることは少ない。こんな調子で担ぎ込まれてきたのは初めてだ。
しかし幸いにして視診と触診からは、特別な病気とは思えなかった。普通の風邪のようだ。
「そこまで深刻とは思えませんが……っ!?」
安心しかけた華佗の目つきが、瞬時に鋭くなった。
「…先生?」
声を途切れさせてしまった華佗に、恐る恐る粕毛は声をかける。
間髪入れず、冷え切った声が浴びせられた。
「貴方は外に出てなさい」
「え、でも」
「さっさと出なさい。あと良いと言うまで、誰もここに入れるんじゃありません」
取りつく島もない様子の華佗に、やはりこの人は怖い、と本能が怯える。
「わ……わかり、ました」
粕毛は小さく頷いてから、すごすごとその場を離れた。


救護室の入口で、項垂れながら声がかかるのを待つ。
急に変わってしまった華佗の態度と、過ぎていく時が、不安を煽った。
何か、重大な病気を発見してしまったのだろうか。
「ご主人様…っ」
だとしたら、自分はなんてことをしたのだろう。
体の不調を抱えた主に対して、無理な行為ばかり強いたことへの後悔が押し寄せてくる。

「お主、荀彧の粕毛か」
足音と共に、耳に残る威厳ある声がした。
はっとして顔を上げると、少し驚いたような表情の曹操がそこにいた。
「絶影君の…!」
「荀彧はどうした。一緒ではないのか」
隣にいる筈の姿が見当たらないことを訝しみながら、曹操は問い質してきた。
「あの、その…今…華佗先生に……」
しどろもどろになりつつ、粕毛が説明しようとした時だ。

『あ、ああっ……やっ…!』

救護室の中から、切ない喘ぎ声が聞こえた。
「っ、ご主人様!?」
反射的に、粕毛は駆け出してしまった。
「ご主人様、だいじょっ…」
中に入ろうとした瞬間、耳元でドスッと鋭い音が走った。
「っ…??」
視線を移した至近距離の柱に、極太の鍼のようなものが突き立っている。
よく見れば、峨嵋刺だった。
「…良いと言うまで誰も入れるなと言った筈ですが?」
こちらに背を向けているため、華佗の顔は見えない。しかし、青白い怒りが立ち上っているのを瞬時に感じ取る。
問答無用で武器を投げつけられたと認識できた瞬間、粕毛の額から冷や汗が伝った。
「ご、ごご、ごめんなさぁい……」
恐怖のあまり声をひっくり返らせながら、粕毛はなんとか謝罪を口にする。
「華佗よ、荀彧がどうかしたのか」
一拍遅れて、曹操も救護室の中へと入ってきた。
寝台の上で上掛けを被せられ、苦しそうに横たわる荀彧を見て、僅かに眉を顰める。
「ただの風邪ですよ。とりあえず今日はつききりで面倒見ます故、朝の鍼はなしです、出てってください」
華佗は相変わらず振り向くことをせず、そして早口且つ淡々と言い募る。
更には、これ見よがしにもう一本の峨嵋刺を右手に振り翳した。
「ひぃっ」
たった今攻撃を喰らいかけた粕毛は、恐怖に後ずさる。
「ふむ…そういうことなら仕方あるまい」
曹操は顎鬚を軽く撫でると、それ以上の追及は身にならぬと理解したのか踵を返す。
「…あとは頼んだぞ」
すれ違い様に粕毛の肩を叩くと、曹操は救護室を後にした。


「…さて」
曹操の気配が消えたのを見計らってから、華佗が立ち上がる。
「先生、ご主人様は」
「ご主人様がこんなになるまで貴方は一体何をしていましたか」
粕毛の言葉を遮り、華佗がぴしゃりと言い放った。
振り向いたその顔はいつも以上に険しく、眉間には深々と皺が寄っていた。
その圧を前にして、粕毛の喉がひゅっと鳴る。
「曹操殿から貴方のことは聞いています。荀彧殿の粕毛だそうですね」
「そ、そう…です」
有無を言わさぬ迫力に、ただ粕毛はこくこくと頷くしかなかった。
身の丈六尺を超える男が、小柄な老人を前に縮こまるしかない。この救護室ではよく繰り広げられる光景だ。
「まったく…どういう事情で人の姿になったかは知りませんが…」
華佗は呆れながらため息をついた。次の瞬間、怒髪天の勢いで叱り飛ばす。
「よりによって自分の主に、なんという真似をしたのですか!!」
「っひぃっ」
突然怒鳴り散らされ、鼓膜がびりびりと揺れた。
「…ご覧なさい。誰かに見られる前でよかった」
華佗は、荀彧の体を覆い隠す上掛けを捲り上げてみせた。
「あ……っ」
そこで初めて、粕毛は、荀彧の体の状態をまざまざと思い知る。
「ご主人…様…」
触診のために肌蹴させられた寝着の合わせ目。そこから覗く肌に、無数の鬱血痕が散らされていた。
自分が毎夜、主に刻みつけてきた印。朝に見るそれは、異様なものとして浮かび上がる。
「生意気にも程がありますよ。主を所有物扱いですか」
主張の激しい痕を痛ましく思いつつ、華佗は言葉を続けた。
「先程、荀彧殿の体の中に吐き出されたものを見ました。掻き出してみて驚きましたよ。並の男の精ではなかった」
より一層の厳しい眼差しが、粕毛へと注がれる。
「可哀想に、入り口の辺りは皮膚も荒れていたし、赤く腫れ上がってしまって…よくもここまで主を傷物にできたものですね」
「ご、ごめんなさい…!」
体を小刻みに震わせつつ、粕毛は頭を下げた。情けなさと申し訳なさが胸に広がっていく。
どうして、こんな大ごとになるまで気づけなかったのか。
「僕、ご主人様のことっ、好きで…好きで、どうしようもなくなって…」
好きで、好きで、仕方がなかった。好きだから、毎晩のように求めた。
自分の腕の中で、震えながら喘ぐ主が、何よりも愛おしかった。それが主を苦しめているとも自覚できずに。
「自分よりもか弱い造りの主を気遣えないで愛を語りますか。見かけだけ取り繕っても、 所詮貴方は獣ですな」
「うう…っ」
物言いは辛辣極まりなかったが、反論の余地は一切なかった。

「華佗、先生……どうか、その辺りで」
華佗の説教を、か細い声が制止する。
「ご主人様っ…!」
「……すみ、ません」
ようやく目を開けた荀彧の表情は、疲れ切っていた。
熱に浮かされた視線が、悲しげに粕毛と華佗を見上げてくる。
「荀彧殿…貴方も災難でしたな」
華佗の眉が、少しだけ和らいだものになる。荀彧の寝着の合わせ目を直し、上掛けを再度覆い被せた。
「もとはと言えば、私が強く言えず…流されるままだったせいで…申し訳ありません」
あくまで粕毛を庇い、己の非を詫びる荀彧を、華佗は遣る瀬無い思いで見やった。
「馬力に抑え込まれたら敵わないのは当たり前です。熱はたいしたことありませんが、蓄積した疲れはそう簡単には抜けませんよ」
過労が祟った末の風邪であれば、殊更問題はなかった。熱さえ治まれば仕舞だ。
しかし体調不良の原因がそれだけではないなら、話は別である。
人を象っているとはいえ、馬に犯され続けていたのだ。その負担については流石に見当がつかない。
風邪はあくまで二次的な要因に過ぎず、目下一番心配すべきは、心身を蝕む重篤な疲労の方だ。
「とにかく、今は安静にすることだけお考えください。薬湯をお持ちします」
華佗は頭を下げると、足早に救護室の奥へと入っていった。

「荀彧っ」
入れ違いに、やや急いたような声が救護室に響いた。
「あっ……夏侯惇、殿」
ふいに視界に映った姿に、荀彧は小さく驚く。
「……」
粕毛は夏侯惇を見るなり、気まずい表情を浮かべた。よろよろと立ち上がってから場を譲る。
その空いた場所へと、夏侯惇は寄った。
「孟徳からお前が倒れたと聞いた。大丈夫か」
「はい…ご心配をおかけして……申し訳ありません」
掠れて弱々しい声ではあるが、きちんと受け答えする荀彧の様子に、夏侯惇も安堵した。
「ここのところ、軍議に来るたび顔色が悪かったしな…しっかり休んでおけ。孟徳も、完治するまで養生しろと言っていた」
「殿にまで……申し訳ないと、お伝え願えますか…」
「…わかった。しかし、だ」
夏侯惇の視線が、今度は壁に佇む粕毛へと向けられる。
「っひ」
粕毛もその鋭さに気づき、思わず背筋を伸ばした。
「お前は曲がりなりにも荀彧の従者だ。主の体調の見極めも出来ず、一体何をしていた」
「ごめん…なさい」
声を震わせながら謝る粕毛がいたたまれず、荀彧は身を起こした。
「夏侯惇殿、彼を、責めないでやってください……私こそっ…」
「畏れながら夏侯惇殿、邪魔です」
必死で言い募ろうとした荀彧の言葉は、明快な声に遮られる。
湯気の立ち上る器を抱えて戻ってきた華佗が、夏侯惇を睨み据えた。
「荀彧殿の顔を見て気が済んだなら出てってください。荀彧殿には休息が必要なので」
「ならば、こいつも荀彧から引き剥がされるべきではないのか」
夏侯惇は粕毛を一瞥した。
人となった粕毛に散々振り回される荀彧は何度か見ている。
落ち着きのないこの青年を、今の荀彧の傍に置いておくのは相応しくないと直感が言った。
しかし華佗は澄ました態度を崩さず、平然と答える。
「ご心配なく、主に甘えてる暇などないくらい、私が使います故。さあ、部外者は出ていってください」
「…ちっ。すまんが、俺はこれで下がる。政務のことは気にするなよ」
これ以上の押し問答は無駄だと悟り、夏侯惇の方から折れた。
今一度荀彧の方を向き、養生するよう念を押す。
「ついでに、今日の救護室は何人も立ち入り厳禁とお伝え願えますかな。特に郭嘉殿たち」
これ以上は誰も来させまいと、先んじて華佗が夏侯惇に釘を刺した。
「……ああ、伝えておく!」
夏侯惇は面倒そうに手を振りつつ、救護室を後にした。


「…荀彧殿の名誉のためです」
足音が完全に聞こえなくなってから、華佗は改めて粕毛に向き直った。
「貴方と夜通し睦み合った末に疲労困憊で倒れるなど、そんな醜聞を話せると思えますか」
「っ……ごめんなさいっ…」
粕毛はもう一度寝台に駆け寄り、荀彧へと取り縋った。
「ご、ごめんなさい…ごめんなさい、ごしゅじんさまっ……う、うう……」
黒目がちな瞳から、大粒の涙がぼろぼろと零れ落ちた。
犯してしまった過ちの重さに打ちのめされながら、ひたすらに謝罪の言葉を繰り返す。
日頃は無邪気で明朗な彼の、憔悴した様はあまりにも痛々しかった。
「……よろしいのです。貴方に溺れてしまった、私も…同罪です」
荀彧は微笑みながら、いつものように粕毛の頭を撫でた。
自分もまた、禁忌を犯してしまったことに変わりない。罰せられるべきは、自分も。





「…と、いうわけだ。今救護室に行ったところで、多分入れさせてはもらえんぞ」
執務室までやって来た夏侯惇は、華佗の言葉をそのまま伝えた。
「っ、文若殿…」
荀攸は眉間に皺を寄せ、密かに拳を握りしめる。
郭嘉も表情を曇らせるが、その不満は眼前の夏侯惇へと向けられた。
「しかしずるいですよ、夏侯惇殿。貴方だけ荀彧殿にお会いできて、私たちは無理とは」
「俺だってあっという間に追い出された身だ。孟徳まで峨嵋刺を向けられたそうだしな…」
夏侯惇は心底からため息をついた。彼の医師は、夏侯惇にとって最もやりにくい相手の一人である。
天をも恐れていなさそうな無遠慮な態度は、本来ならば斬り捨てても構わぬくらいだ。
しかし如何せん腕は確かであり、死地を救われた兵は大勢いる。夏侯惇自身も、失った左目に対して適切な治療を受けた負い目もあった。
何より、曹操の慢性的な頭痛への手立てを持つのは、華佗しかいないのだ。

「…で、お前たちは揃って何をやっているんだ」
いつもであれば整然としている執務室の惨状を、夏侯惇は改めて問うた。
その厳しい視線は、誇り臭い書物を一心不乱に読み進めている満寵へと向けられる。
「ああ申し訳ありません、目途がついたら片付けますので」
夏侯惇の視線が刺さっていることには気づいた満寵だったが、書物から顔を上げる素振りはない。
微塵も申し訳ないと思っていないだろう、と喉まで出かかっている夏侯惇を察して、荀攸が口を挟む。
「どうかご容赦を。文若殿を救う手掛かりを探している最中で」
「荀彧を?それは華佗に任せておけばよかろう」
医書あたりでも読んでいると考えた夏侯惇は、首を傾げる。
「ええ、それは勿論ですが。私たちも何かやれるべきことがないかと思いまして、ね…」
「…まあいい。荀彧を言い訳に、政務を放り出すなよ」
郭嘉と満寵にもう一度睨みを利かせてから、夏侯惇は執務室を出て行った。

「荀彧殿に会いに行けないのは残念だけれど…仕方ない、その分こちらに注力できると思うしかないいね」
小さく嘆息しつつ、郭嘉は再び書物に目を通した。
古の時代の、名もなき文人による手記だった。実際に身の回りで起きた事件について、淡々と連ねてある。
何か不可思議な案件はないかと探ってはいるが、今のところごく一般的な内容ばかりだ。
「…皆まで話さなかったのは上策かと」
荀攸は、古びた山海経を手に取りながら呟いた。郭嘉も軽く苦笑する。
「曹操殿はともかく、夏侯惇殿はこの手の話に理解はなさそうだからね…」
ただでさえ、この散らかった有様を見咎められている。
探し回っている対象が神仙物の怪と知られたら、怒鳴り散らされるのが関の山だったろう。

「うわっ!?」
いきなり、荀攸の後頭部に叩かれたような感覚が走った。次いで、バラバラッと何かが崩れる音が響く。
思わず振り返ると、背後に竹簡の一部が転がっていた。
「あぁ、やってしまった。この竹簡相当古いなぁ…」
当惑している満寵の手には、継ぎ糸が無惨に切れた竹簡が握られている。
糸から離れた竹札が、四方八方に散乱していた。
「…満寵殿、資料の取り扱いは慎重にお願いします」
大方、何も見ず竹簡を引っ張り出そうとした結果がこの様だろう。荀攸は一際険しい視線を送った。
「いやぁ、これは失態だったね。すまない」
散らばった竹簡を集めにかかる満寵に、悪びれる様子は一切なかった。






空が茜色から紺青に変化し、薄い三日月が浮かぶ。
救護室にも夜が訪れようとしていた。
「ご主人様…」
静かな眠りにつく荀彧の顔を、粕毛は悲痛な面持ちで眺めた。

『あとは頼んだぞ』

「っ」
急に、曹操の声が聞こえたような気がした。慌てて辺りを見回すが、誰もいない。
華佗も先刻、薬の調合に使うつなぎの素材が足りないと言って、夜の市に出たばかりだ。
「…ごめんなさい」
この場にはいない曹操の顔を思い浮かべながら、粕毛はぽつりと呟いた。
突然人の身になり、荀彧以外の誰からも厳しい目を向けられた。
そんな自分を主の従者だと認めてくれて。そして、主を守り通せと信を預けてくれた。
その信を裏切るような真似をしてしまったということに、今更思い当たる。
「何、やってたんだろ、僕」
ご主人様が好きだ。誰よりも、何よりも大切だ。
なのに自分は、その想いが募るままに無理矢理抱いて。体も、心も疲れ果てさせた。
「ごめんなさい…」
伸ばした掌を額へと被せながら、再び詫び言を呟く。今度は、目の前の主へと。
華佗の薬湯は風邪には効果てきめんだったらしい。火照りは抜けていた。


「何してんだよ」
今度は、気のせいではない。人の声がした。はっきりと、背後で。
「仙狸…さん…!」
振り返ったそこに、苛つきを滲ませた表情で佇む仙狸がいた。
「折角いいところまで来たのに、ここで終わるとかなしだろ。ほら、もっと抱け。お前の体なしじゃ生きていけないくらい、主を溺れさせてみな」
「え…っ」
矢継ぎ早に言われたせいで一瞬呑み込めず、粕毛は立ち竦んでしまった。
しかし、仙狸の言葉を理解するや否や、激しい勢いで首を横に振る。
「そ、そんなのやだ!僕、ご主人様のこと大好きだけど、傷つけたいわけじゃっ……もう、抱いたりなんかしないよっ!」
拳を握りしめ、肩を震わせながら、粕毛は絞り出すように言った。
「…一丁前に吠えやがって」
物言いはどこか愉快そうだったが、仙理の目はまったく笑っていなかった。
「っ…仙狸さん…?」
今までにない険悪な空気を悟り、粕毛は咄嗟に背後の寝台を庇うようにして立ち塞がる。
「悪いがな。お前にはやってもらわなきゃ困る。いい子ぶったって遅いぜ」
刹那、銀に揺らめく光が、粕毛をまっすぐに捕らえた。

「えっ、あ……あ……?」
視界が、歪んでいく。耳が、遠くなる。
息が、苦しい――――。






2018/12/27

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