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曇天日和

どんてんびより

今宵、道を分かつとも

「僭越ながら、私もお力添えいたします」

凛とした聞き覚えのある声がした方を、皆は一斉に見た。
久々に目にする戦装束に身を包んだ彼に、誰もが息を呑んだ。
夏侯惇もまた、急に彼が現れた驚きに目を見開く。
「いいのか…お前は許昌にいろと言われているはず」
その決定的な瞬間を見たわけでも、詳細な理由を聞いたわけでもない。
耳に入ったのはただ、彼を前線から外し、許昌にて内政のみに当たらせるという達しのみ。
それが事実だと証明するように、近頃は軍議で顔を合わせることもなくなった。
たまに見かけたと思えば、戦場とは無縁の文官服に身を包み、俯き加減に歩く姿で。
魏公就任の件で何かが起きたのは間違いなく、今の彼に曹操が出陣命令を下したとはとても思えなかった。
「はい。私の独断にございます。殿から出陣を命じられることはもうないと承知で、参りました」
荀彧は正直に申し出た上で、頭を垂れる。
「文若殿…っ」
側にいた荀攸が制止しようとして、思わずその手を引いた。
顔を上げた荀彧の目には、真剣な光が宿っていた。誰にも、何も言わせないほどの。
「乱世を収束させるためには、この状況を乗り越えなければなりません。成せることがある以上、私も動かなければ、と…責めを負うは、覚悟の上です」
「……わかった。ならば俺たちと一緒に来い」
たとえ軍の規定に反すると追い返したところで、彼は来るだろう。それほどに意志が強く定まっている。
驚きもあるにはあるが、妙な感慨もあった。この男はそれでこそ、だと。
「孟徳への言い訳は考えておけ」
あえて荀彧に必要もなさそうな言葉をかけると、夏侯惇は集った将兵らへと向き直る。
「これより軍を編成して江陵へ向かう。曹仁、楽進、まずは頼むぞ」
「はい!」
「承知仕った!」
楽進と曹仁が同時に声を張り上げた。




先発の援軍部隊から遅れること数日、夏侯惇らは本隊と共に襄陽南東の陣地に入った。
早速江陵からの伝令が飛び込み、報告を聞く。
「やはり押されているか」
曹仁の鉄壁の守りは曹操陣営の誇りであり、皆が信頼を置いている。
しかし、赤壁敗戦時の撤退戦で一番身を削り、消耗したのも曹仁の部隊だ。
曹仁本人も配下も、疲労をおくびにも出さないが、完全に立て直せていない状態なのは誰もが知るところ。
このまま烏林の戦線が押し戻され、一気に呉の主力が江陵に雪崩れ込んだ場合、更なる損耗は免れなかった。
もう一人の先発である楽進もまた、襄陽がいつ攻められるとも限らない敵布陣を警戒して動けず、膠着状態にある。
覚悟はしていたつもりだが、想像以上に旗色は悪かった。
「この状況、お前たちはどう思う」
夏侯惇は、共に陣中入りした荀攸と荀彧を見やる。
荀攸は幾分渋い顔をしながら口を開いた。
「連携の懸念があった劉備軍は巴蜀を侵攻中ですが、荊州にも兵力は残した状態です。十中八九、こちらの戦局に応じて乗り込んでくるかと」
「だろうな……ここでも劉備か」
臍を噛む思いで、夏侯惇は陣中の卓に拳を置いた。
当初からその力を認め、だからこそ同じ天は戴けぬと見定めた宿敵。
要所要所で討ち取れなかったことが、ここまで尾を引くことになるとは。
「たとえ孫呉を凌ぎ切れたところで、横腹を衝かれてはたまらん」
幾度となく修羅場を潜り抜けてきたからこその直感だ。
赤壁での大敗を経た今、最早完全なる勝利を得るという公算はできなかった。
この先を有利に運ぶために、何を得て、何を捨てるのか。今はそういう取捨選択が迫られている。
「…襄陽だけは渡せぬ。やはり撤退か」
夏侯惇は常より更に低い声で、苦々しく呟いた。荀攸もそれに同調する。
「現在動かせる兵力を鑑みれば、こちらの勝利は望めません。被害を最小限に抑えるためにも、烏林の部隊と曹仁殿には速やかに撤退を…」
そこまで荀攸が述べた時だった。

「いえ、ここは孫呉を押し返しましょう。それを以てこちらの勝利とすべきです」
それまで黙して語らなかった荀彧が、ついに口を開いた。
「こちらの本隊を襄陽と江陵、二手に分けて防衛線を固めます。その上で楽進殿にも曹仁殿にも戦線を押し上げていただければ、孫呉に十分対抗できます」
あえて対決姿勢を取る策を提示してきたことに驚くが、彼の顔を見た瞬間、気が鎮まる。
「…何か策があるのだな」
その目に、迷いや逡巡は一切ない。確信を持った眼差しだ。
「わかった、荀彧の言うとおりにしよう」
武将としての戦場感覚からすれば、防衛に拘る荀攸の方が正しいと感じる。
だが荀彧の、涼しげな佇まいの中に潜んだ熱い何かが、夏侯惇の琴線に触れた。
恐らく彼はこの戦いに臨む、いや許昌に残る者含めても誰も想像していない景色を頭に叩き込んでいるのだ。
それこそが、今の我が軍にとって最善の道であるという確たる信念を持って。
「…今回は文若殿の策に乗りましょう。戦略あっての戦術…局面打開は俺がします」
荀攸も同じ思いからか、納得したように頷いた。

国の形が望まぬ未来へと動きつつある中で、曹操から戦列を離れるよう宣告を受けて。
しかし尚、彼は国のため、曹操のため最前線に赴き、務めを果たそうとしている。その気迫は買うに値した。
「お二人とも…ありがとうございます」
無理に聞こえる進言を受け入れられたことに、荀彧は心からの感謝の意を述べた。
一時安心感で下げられた眦が、再び切れ上がる。
「劉備軍が到着するまでが勝負です。どうか、ご協力願います」
「任せておけ」
夏侯惇は短く答え、麒麟牙を背にした。





戦力を一気に攻勢に転化させたことで、荊州の魏軍は大規模なものとなった。
赤壁での勝利に逸り乗り込んできた孫呉を、悉く打ち払う。
陸の曹魏ここにありと知らしめ、震え上がらせるには十分な戦果といえるだろう。
各将兵らの奮闘もあり、想定以上に早く大勢は決した。

「孫呉は長江の向こう側に押し返せたか。だが…」
戦勝の安堵感に浸る間もなく、荀攸が凶報を持ってくる。
「斥候より報告がありました。西からこちらに接近する一軍を発見。率いているのは関羽とのこと」
「くっ。ここで出てくるか、関羽め…」
夏侯惇、そして皆が頭の隅で描いていた懸念はやはり的中した。
この時を待っていたと云わんばかりの劉備軍の参戦、しかも率いるは関羽。
孫呉との戦闘で疲弊した直後に、恐らく今最高の士気であろう関羽たちと正面から当たるは無謀だ。
「これ以上の戦闘は…急ぎ籠城の構えを整え、援軍を要請するべきか」
「いえ、それは状況の打開には繋がらないでしょう」
曹仁の申し出を、荀彧はすぐに制止した。
「江陵を維持するには、この先も劉備と孫権の挟撃に耐え続けなければなりません。西にも敵を背負う今、それは不可能でしょう」
「…ならばどうする。みすみす江陵をくれてやるわけにもいくまい」
この土壇場まで来ても、荀彧の策は目指す意図が明瞭になってこない。
夏侯惇が問い質すと、思いもかけない台詞が飛び出した。

「いえ。ここは撤退し、関羽に江陵を取らせましょう」

一瞬だけ、静寂が辺りを包んだ。直後にざわめきが漣のごとく広がる。
「何を言い出されるのです、荀彧殿!?」
「ここまで戦ってきた意味がないのでは…!?」
間を置かず、当然とも言うべき抗議の声は次々に上がった。
襄陽周辺の戦線で激闘を重ねた楽進、援軍本隊として獅子奮迅の働きをした曹休にしてみれば、受け入れられる進言ではない。
荀彧もそれは痛いほど理解している。その上で、あくまで毅然とした面持ちで向き直った。
「江陵をこの時まで防衛した意味はございます。我らが守り抜いた地を関羽が楽に攻め取る…この状況こそが、次への布石なのです」
「ではつまり…最初から、劉備たちに江陵は取らせる心積もりであったと?」
曹仁の表情には当惑と、微かなやるせなさが滲んでいた。
今までの荀彧の進言を総合すれば、策の結びはそこへと行きつくことになる。
江陵を孫呉から防衛した上で、関羽に取らせる。理解に及ばぬ策だ。しかし荀彧が無意味に暴論を振り翳すとも思えず。
わかるようで、わからない。喉に刺さった小骨のような引っかかりが、辛うじて否の言葉を押し留める。
眉間に皺を寄せる者らに向かい、荀彧はついに決定的な結論を持ち出した。
「江陵を手放すことは大きな損失です。ですがその損失の先で、孫劉同盟に軋轢を生むことができるかもしれません」
「…何だと?」
夏侯惇のこめかみがぴくりと動いた。
「そんなことが可能なのか!?話が飛躍し過ぎて、まったく読めないぞ……!?」
曹休は慌てふためきながら、荀彧へとにじり寄った。
戸惑いに目を揺らす彼を落ち着かせるように、荀彧はじっと見つめ返しながら語り始める。
「赤壁の戦い以降、劉備の軍師である諸葛亮は、劉備を孫権と同等の立場に立たせたいと考えています。差し当たっては、今度こそ拠って立つ地の確保が必須でしょう」
劉備が抱えている喫緊の課題を炙り出した上で、荀彧は更に続けた。
「ならば、中原への足掛かりとなる荊州はなんとしても手に入れたいはず。諸葛亮が、江陵を孫権に譲るとは思えません」
「なるほど…な」
夏侯惇は顎をひと撫でしつつ頷く。ようやく、荀彧の言いたいことが読めてきた。
奪取できるかもしれない領地が今、目の前にあるのだ。まず間違いなく関羽は遠慮しないだろう。
孫呉にしてみれば、手痛く追い返された矢先に、よりによって劉備に掠め取られる形となる。甚だ面白くない話だ。
「しかし、です」
荀彧はひと呼吸置き、皆を見渡した。
目の前の曹休も、傍らの夏侯惇も、そして荀攸、楽進、曹仁も。
全員が固唾を呑んで言葉に聞き入っている。それを確かめてから、荀彧は畳み掛けた。
「もしも我々の戦線が孫呉と拮抗状態にあれば、劉備軍はあくまで、同盟相手として孫呉と手を組まざるを得なかったでしょう。また、我々が即刻退いて孫呉が江陵を得ていたとしたら、逆に劉備軍が江陵を攻め取る理由も隙もなくなります。だからこそ…」
「だからこそ、迅速な江陵の防衛に拘ったのか…!」
曹休の目に光が戻った。
曹仁と楽進も思わず顔を見合わせ、互いに確かめるように口を開く。
「うむ。劉備軍にとってはもっとも攻め易く、領地を確実に奪える状況…」
「つまり我々が、最大限の戦力を投入した上で江陵を守り通した、今この時なのですね…!」
荀彧が見通した戦況、進言した策、それを成した上ではじき出された状況。
そのすべての点が線と繋がり、理解を得た瞬間だった。
「この状況を利して、相手方に楔を打ち込む…流石です。文若殿」
荀攸は、心底からの賞賛を眼差しに込めて荀彧を見つめた。
どの道この戦では、何かを失うのは避けられなかった。ならば、その損失にどこまで意味を持たせられるか。
そして思いつく限りの最大限の火種として、相手方に明け渡すという壮大な計略。
彼ならでは、いや、彼だからこその策といえる。

「…曹仁殿、楽進殿、曹休殿。ここまで守り抜いていただいたものを手放せと言う理不尽、お許し下さい」
策への揺るぎない思いに満ちていた荀彧の面差しが、僅かに曇る。
少なくない犠牲を伴う策であることもまた然り。徒労を味わわせることへの慚愧の念は介在する。だがそれでも。
「今はこれが…殿の為、私たちが成せる最善であると、どうか信を置いてはいただけませんか」
この痛みを乗り越えた先で、必ずや得られるものがある。
誠心誠意の思いを伝える荀彧を、もう誰も疑念と困惑の目では見ていなかった。
「いや、気に召されるな。荀彧殿のお考え、自分にもようわかり申した」
感服した面持ちで曹仁が応えれば、楽進もまた笑顔で供手の礼をする。
「我々は十分、任を全うできました。速やかに援軍を送って下さったからこそです。ありがとうございます!」
「正直なところは悔しいが……殿の為となるならば、今は退こう」
本音を吐露した上で、曹休も納得したように頷く。彼らしい返事だった。
皆が一丸となった様を見届けた上で、夏侯惇は鼓舞するように声を張り上げた。
「よし、襄陽と新野まで兵を引き上げるぞ!退陣の準備だ!」




皆が一斉に持ち場へと去り、夏侯惇と荀彧の二人だけがその場に残った。
「これで、殿の行く道は…守られましょう。成すべきことは成せました」
一息つきながら、荀彧は空を見上げる。その目は静かだった。
夏侯惇もふと、同じ方向の空を見上げてみた。

茜から藍に変わりゆく空の中、蒼い旗がはためく様が見える。
そこに踊るは黒々と染め抜かれた『魏』の一文字。
曹操が魏公となり、この戦に臨むにあたってすべて新調されたものだった。
恐らくは、彼が最後まで望んでいなかった筈の光景。それを目の当たりにして、今、何を思う。
かけるべき言葉を、夏侯惇は持っていない。皆目見当もつかなかった。
「…荀彧」
ただ、彼の名だけが、口の端から零れた。

政治的な駆け引きや価値観について語るものはない。ただひとつ、はっきりと言えることがある。
自分は、曹孟徳の行く道を肯定するということ。
あの男が目指す乱世のその先を迎えるため、最後の最後まで刃となる。
それが、夏侯元譲として自ら選んだ生き様である。今までも、これからも。

「…けほっ、ごほっ」
急に、荀彧は前かがみになって咳き込んだ。
「おい、大丈夫か」
咄嗟に駆け寄り、その背中をさすってやる。少しして咳は止んだ。
「っ…お見苦しいところをお見せしました…申し訳ありません」
謝りながらも笑顔を作る彼は、相変わらず端整な顔立ちで。
しかし目の下には、かつては存在しなかった細かな皺が刻まれている。
ふいに、夕陽に反射して何かがちらりと光った。豊かな黒髪に僅かに混じった、白髪だ。

かつて『曹』の御旗の下に同じ方向を向いて進んだあの時から、思えば遠くへ来たものである。
姿形も年輪を重ね、旗に映す文字も、変わった。互いに見えている景色も。

「行くのか」
自然に、その言葉は出た。
「…はい」
迷いのないはっきりとした響きが耳に届く。
たった四文字の問いへの、更に短い返事。それでも、互いに悟っていた。
これが、共に轡を並べる最後の戦であったことを。

「…さあ、許昌へ戻りましょう」
黄昏の中に、背筋を伸ばした荀彧の微笑みが浮かぶ。
今しがた、歳を取ったと感じたその顔は、美しかった。










その後、許昌においても荀彧の姿を見かけることはなくなった。
忙しない日常の中に、彼がいない。一線を退いた文官としての影も形すらもない。
その光景は、ほぼ当たり前のものと化している。


「はっ、は!せいっ!!」
誰もいない調錬場で独り、夏侯惇は麒麟牙を振るっていた。
ここ最近、嫌に愛刀を重く感じることが多い。
体が鈍ってはどうしようもないと、己を追い込むことに徹する。
「っぐ…」
やや足が乱れた瞬間、ばしゃりと激しい水音がした。次いで、足先に冷たい感触が走る。
振り上げた刀をいったん降ろして、足をどかした。昨晩の雨が作った水たまりに波紋が出来ていた。
何とはなしに、揺れる水たまりに見入る。
「……ふっ」
ようやく波紋が静まった時、その中に浮かんだのは壮年を通り過ぎた隻眼の顔だった。
片目を喪い、鏡を見ることを厭うようになって幾星霜か。最後に自分の顔を見たのはいつだったろう。
眉の間から白くなった毛が出ていることに、初めて気づいた。

冷たい風が調錬場に吹き荒ぶ。それに誘われるまま、頭上を見上げた。
じわじわと宵闇に浸食されていく空。ちらつき始めた星々。そこに翻る『魏』の旗印。
そこに己の進む道があり、彼の望んだ道はない。ただ、それだけのこと。



あの日、道は分かたれた。だがそれでも。
互いに選んだ道の行き着く先が、共に目指した乱世の果てであるならば。
いつか再び、交わることもあるだろう。それが今生とは限らなかったとしても。

「…はぁっ!!」
麒麟牙が、静寂を切り裂く。
『魏』の名の下に覇道に従うこの刃を、決して鈍らせてはならぬ。
時の流れにただ従い、老いさらばえている暇はない。

最後の最後。誇り高く、美しい姿で、己が信じた道を往った男のごとく。
自分もまた、最後の最後まで。いずれ見える姿は、互いに誇れるものであるように。




2018/12/16

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