menu

曇天日和

どんてんびより

今宵の月が照らすのは

『攸兄様、お待ちしておりました!』

溌剌とした声に、名を呼ばれた。懐かしい声だ。

『実は尚書の、こちらの一文がどうしても…どう読み解いたらよいか、教えていただいてもよろしいですか?』

屈託のない、愛らしい笑顔が向けられる。何と懐かしい。
十にも満たないというのに、その手に書物や竹簡が握られていなかったことはなかった。


幼き姿が掻き消える。かと思った瞬間、恭しく拱手する姿が浮かんだ。

『このたびはご成人おめでとうございます、攸兄様…いえ、公達殿。都でのご活躍を、心よりお祈り申し上げます』

ゆっくりと上げられた顔には既に聡明さが宿り、しかし幼少の面影が残されていて。
洛陽に向かうあの日、見送ってくれた彼は。丁度、子どもから大人へと変わりゆく揺らぎの中にいた。


また、闇の中に彼が溶けていく。そして今や見慣れた姿が、目の前に現れた。

『公達殿……貴方が来てくださって本当によかった。これよりはぜひ、共に曹操殿をお支えしていきましょう』

辿り着いた許昌で待っていたのは、こちらの背などとうに追い越し、凛と佇む彼の微笑み。
主君の傍らに在って才を余すところなく発揮し、軍事や政道を次々に成していく。
目を瞠るばかりの眩しい成長と活躍に、圧倒された。やはり彼こそは、一族の誉。自分など及ぶべくもない。


『文若殿…っ!?』
突如、黒い何かがじわりと彼の身に這った。それは徐々に輪郭を生じ、無数の人の手の形となって。
『あ……公達、殿っ……』
美しい微笑みが、恐怖に歪む。黒い手は尚も、羽交い絞めするかのごとく彼を侵食する。
『文若殿っ、ぅあ…!』
咄嗟に手を伸ばそうとしたその時、がくんと身が傾いた。手は彼に触れることなく、空を切る。
驚くまま足元を見て、寒気がした。既に、足首が見えない。
気づいたその瞬間、自分の体がずぶりと何かに沈んでいく感触を自覚した。

『やあっ……公達殿…あ、あっ……!』
悲鳴が上がった。はっとして視線を向け、更に背筋が凍りつく。
今しがたまで眼前にいた彼が、遠ざかっていた。纏わりついた手に抑え込まれ、後方へと引きずられていく。
『あっ、いやです、やめて……ああっ!』
黒い手が、彼の装束の胸元を引き千切った。露わになった白い肌に、手がいくつも這いずる。
『あっ…んっ…う……!』
『や、やめろ……文若殿、文若殿っ!』
半ば気が狂いそうになりながら、必死で叫んだ。
沼のような何かから、這い上がろうと足掻く。だが、いっこうに抜け出せる気配がない。
焦れば焦るほどに体が沈む。既に、腰の近くまで浸かっていた。

『あっ……お、おやめ、くださっ…!』
四方八方から纏ろう卑しい手は、彼を好き放題に弄んでいく。
やがて黒い手のひとつが、彼の顎を掴んだ。

『陛下っ…!』

その瞬間、顎にかかった手の黒影が抜け落ちる。生白く不健康な肌色が露出した。
やがて、彼の背後を覆う闇から、ぬらりとその顔が現れる。

『そなたは朕のものだ……荀彧』

淀んだ声を彼の耳元に響かせながら、その首筋に顔を埋め。
苦しみ悶える彼を抱きすくめ、数多の黒い手と共に彼の身を辱しめていく。

茫然とする自分に、冕冠の旒の間より冷たい眼差しが向けられた。
『っ!?』
刹那、更に体が沈降していく感覚に襲われる。
何かを掴もうと手を伸ばしても、辺りはどこもかしこも水のように掴めない。
『―――!』
首まで埋まり、あと一息で何もかも呑み込まれんとするところで、目に映ったものは。

『あ、んっ……へい、か……!』
『荀彧……なんと、美しいのか……』

肩を震わせながら喘ぐ彼。恍惚の表情で彼を抱く青年。
それは、あまりに。悍ましき睦み合い。

やめてくれ。お願いだ。その人は、その人だけは――――









「うあぁあああああああああああああああああああ!!」

あらん限りの声で叫んだ瞬間、目の前の暗黒が晴れた。
何度も瞬きをした後、ようやく見覚えのある天井が視線の先にあることを認識する。
体を起こすと、背中をだらりと脂汗が伝った。

部屋の窓から差す月明かりが、見慣れた景色を薄ぼんやりと浮かび上がらせる。
粗末な書棚しかない、殺風景な自分の寝室。

「………っ」
額を流れる汗を拭おうと、髪をかき上げる。
我ながら、とんだ夢を見たものだ。そう自嘲したくなったが、それすらできなかった。
今目にしていた光景は、夢幻で終わらせるにはあまりにも生々しく。

雲が完全に流れたか、俄かに月明かりが強くなった。
よろめきながら寝台を降り、窓へと近づく。街並みの向こうに、見慣れている筈の許昌の城が見える。
毎日のように出入りしているのに。遥か遠く、踏み入ることならぬ場に思えてくる。

「文若、殿」

自宅を訪ねたが、顔を出したのは使用人で。憔悴した表情だけで、帰宅していないと悟った。
その足で別宅も訊ねたが、門の鍵は固く閉ざされたままだった。
もうそこからは、何も考えたくなかった。今夜、彼が何処に向かったかなど。

「……っ」
完全に足から力が抜け、蹲った。汗の冷え切った体に、容赦なく秋の夜風が吹きつける。
瞳からふいに零れ落ちた涙が、厭に熱く感じた。

嗚呼、最早あれは限りなく、現に近いのだ。
今宵この時、恐らく、彼は。

「ぶん、じゃく、どの…っ」
月はすべてを、冷たく照らし上げる。
静まり返った許昌を。嗚咽を漏らす他ない自分を。そして、あの城の奥にいる彼をも。
同じ月の下、同じ光を浴び。そして隔てられた夜が、過ぎていく。




2019/10/09

top