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曇天日和

どんてんびより

隷属の華【三】

守宮令の仕事は、単調そのものだった。
洛陽に届く紙や新しい竹簡、筆を検め、所定の棚に整理する。古くなった筆や、帝が書き損じた紙はその都度処分に回す。
時には、何年も使われていない道具を洗ったり、虫食いに遭った紙を干したりもした。
それらをきっちりとやり遂げたとしても、午前中にはほとんどの仕事を終えてしまう。あとは日がな一日、狭く墨の匂いが染み込んだ部屋で過ごすだけ。

帝の御手が直接触れる物を扱う以上、決して与えられた任を疎かにつもりはなかった。
それでも、生産性のない日々を繰り返していることは感じていた。
「はぁ……」
文具の棚と、文机だけがある、がらんどうとした部屋。そこにひとりでいる自分。
どうしようもない虚無感と孤独感が、荀彧を包んだ。

以前は宦官が就いていた職らしく、過去には何人もの宦官がここで暇をもて余していたようだ。
しかし彼らは袁紹によって一斉に粛清され、守宮令を担当する者がいなくなってしまった。そこに荀彧は宛がわれたということになる。
それにしても、初日に耄碌した老文官に大まかな任務内容について案内されて以来、荀彧はひとりで任を回している。
確かにそれで成り立つ職務内容ではあるのだが、同僚がいないというのはあまりに物寂しい。退屈で内容が薄い毎日を、ただひとりで送らねばならぬとは。

「あ、っ」
文机の横に、くしゃくしゃの紙が落ちていた。
恐らく、帝の書き損じた紙だ。午前中に処分したつもりだが、一枚見落としていたらしい。
守宮令の部屋に運ばれてくる書き損じの紙はすべて目を通されないよう丸められており、今まで検めたことはなかった。
しかしふと気になって、荀彧はそれを広げてみた。

「なんと……」
蚯蚓が走ったような、所在なさげな文字が並んでいる。これを書いた精神状態が一目で伝わるほどの、か弱く華奢な筆跡。
皇帝らしい品格はおろか、幼子らしい溌剌さも、何一つそこには感じられなかった。
「陛下…………っ」
荀彧は悄然とした面持ちで、それを握り締めた。

何のために、自分はここにいるのだろう。何のために、洛陽までやって来たのだろう。
わざわざ名指しで呼び出され、推挙を受けたにも拘らず、荀攸たちと肩を並べて足掻くことすら許されず。
今にも潰されそうな、幼い帝の盾となることも叶わずに。
これほどまでに、自分は。何一つも成し得ぬ、矮小な存在でしかなかったのか。


かたり、と音がした。
「はい?」
誰かが来たのかと思い、部屋の入口に視線を向ける。
そして次の瞬間、荀彧は絶句した。
「な……」
簡素な服に身を包んだ、幼子がぽつねんと立っていた。
しかしながら、心細く眉を曇らせたそのいたたまれない表情を、はっきりと覚えている。
「陛下……っ!?」
荀彧は顔を真っ青にして駆け寄り、その御前に跪いた。
「このようなところまで何故……まさか、おひとりで……!?」
「ひとりで、来た」
「そんな……いくら宮中とはいえ、供回りの者もつけずに……御身に何かありましたら!」
「董卓から、はなれたかったのだ」
光のない瞳で、帝は訴えてきた。
「お供は、どうせ董卓の部下のだれかになる。それが、いやだった」
「っ……」
茫然となる荀彧を前にして、帝は静かに切り出した。
「荀彧。わたしに手習いをしてほしい」
「え?」
「わたしは、字がきたない。何度書いても、うまく書けない。あれのように、紙をたくさんむだにした。見たのだろう」
帝が伸ばした指は荀彧の後方、文机に置かれている丸まった紙を差す。
「あ……っ、申し訳ありませんっ!」
荀彧は咄嗟に、頭を下げるほかなかった。
勝手に己の字を、それも書き損じを見られた帝の心境を思い、罪悪感に駆られる。
帝は、荀彧を咎めることはなかった。ただ首を振って、言葉を紡いだ。
「わたしはもっと、きれいな字を書きたい。でも、うまくいかない。手がふるえてしまって、何を書いてるのかもわからなくなる。だから……守宮令のそなたが教えてくれ。きれいに字を書くやり方を」
気づけば、帝の瞳は涙で赤く滲んでいた。しかし視線はまっすぐに、荀彧を見据えている。
これ以上は泣くまいと真一文字に引き結ばれた口元は、震えていた。
「っ、陛下……」
それは荀彧が初めて見る、帝の激しい感情と意思だった。
なんといじらしく、ささやかな願い。それを口にするのに、いったいどれほどの覚悟を要したのだろうか。
玉座に座るには余りにも幼く、されど、国を背負わねばならぬ天命の子。
洛陽の片隅にいることしかできぬ今の自分では、何も成せぬと思っていた。だが、それでも。必要とされるならば、ただ一時でも――――
「……かしこまりました。この若輩でよろしければ。では、こちらへ」
荀彧は精一杯微笑みながら、帝を文机の前へと誘った。


「陛下、筆はなるべく真っ直ぐ立ててお持ちしましょう。中の指も添えた方が、筆が安定しますよ」
「わかった。こう、か?」
「はい、その通りにございます。それから、あまり指先には力を入れませんように……手首はこう、柔らかく動かして」
時折手の形を整えたり、支えてやりながら、荀彧は筆筋の手ほどきをしていく。
なるべく分かりやすくと心掛けた荀彧の言葉は、帝の耳にもすんなりと入ったようだ。要所を直すだけで、帝の筆跡にあっという間に芯が入っていく。
「……いつもより、きれいに書けた気がするのだが」
出来上がった手習いの字は、幼さを残しながらも伸びやかなものとなっていた。
「ああ、これは……お見事です。とても線が美しくなりましたよ」
「ほ、ほんとうか!」
荀彧の賞賛を受けた帝は、これまでになく子どもらしい笑顔を覗かせた。
「陛下……」
この姿こそが、本来の帝に違いない。いかに日頃、抑圧されているかが伺い知れる。
決して、元から悪筆ではない筈だ。そのことは、この短い間で上達した筆跡を見て十分に悟ることができた。
帝が筆を執る時、背後には決まってあの男がいる。その視線は無意識に帝の心を圧迫し、手先を乱しているのだろう。
「なんだか……とても楽しかったな。こんな気持ちで書けたのは初めてだ」
「それは本当に、ようございました……」
荀彧が笑いかけると、帝ははにかみながら告げた。
「荀彧のおかげだ。それに、そなたからはいい香りがする。なんだか、とても……心が落ちついて書けたぞ」
「へ、陛下……畏れ多いことでございます」
まさか身に纏った香を褒められるとは思わず、荀彧はやや面食らった。

洛陽に来てから、初めてともいえるほどに、穏やかな時。
しかしそれは、近づいてきた激しい足音に破られた。

「っ……!」
足音にいち早く気づいた帝が、体を強張らせる。
(これは……!)
乱雑な響きを伴うそれが、誰のものか。荀彧の耳もまた、すぐに悟ってしまった。

「陛下ぁ!」

バンと激しい音を立てて、扉が開かれた。
すぐさま入ってきた醜い巨体が、狭い小部屋に異様な圧迫をもたらす。予測した通りの人物だった。
「陛下、見つけましたぞ……!」
顎鬚に覆われた口許が、下品に歪む。その目は冷たく帝を見下ろす。
「…………」
帝の表情から、表に出ていた子どもらしさがすっと消えた。瞳からも光が失せ、たちまち脆弱な幼帝の姿へと戻ってしまう。
傍らに控えていた荀彧は、その凄まじい変化を、ただ見守ることしかできなかった。
「貴様ぁ……守宮令の分際で!」
董卓は荀彧に目を向けると、ずかずかと近寄ってきた。
「あぅっ!」
いきなり、荀彧は胸倉を掴み上げられた。
一瞬にして苦しさに息が詰まり、顔が歪む。そこに、董卓の下卑た笑い顔が迫る。
「帝を勝手に連れ出して、このような奥でこそこそと……覚悟はできておるだろうな?」
「お、お許し、くださいっ……あ、くっ……」
ギリギリと音がするほど胸を締めつけられ、荀彧の呼吸は否応なしに浅くなっていく。
「やめよ。わたしが勝手に来たのだ」
帝が割って入ろうとするが、董卓はなおも荀彧から手を離さない。
「だとしても、帝が宮中からいなくなれば大騒ぎになるとわかっていて、お連れ戻さなかったのは言い訳ができんぞ」
「っ……申し訳、ございませっ……」
「董卓。わたしが荀彧にわがままを言ったのだ、荀彧をせめてはならぬ。ならぬ。ならぬぞ」
これ以上荀彧を苦しめたくない一心で、帝は言葉を繰り返す。
董卓を下手に刺激しないよう、ただ静かに、淡々と、制止の言葉を言い続けた。
「……ふん」
必死な帝に多少心変わりしたのか、董卓の手がついに離れる。
「っは、けほっ……は、ぁ…………あっ」
縛めを解かれたはいいが、息を整える間もなく。追い打ちのように、荀彧は顎を捕まれた。
無理矢理首を持ち上げられると、不遜な眼差しで射抜かれる。
「今回は陛下のお慈悲に免じてやる。だが、次に同じ事をしたらただではすまぬぞ、覚えておけ」
「うぁっ」
そのまま突き飛ばされた荀彧は、床に倒れ伏した。
「さあ陛下、帰りますぞ」
「ああ……」
董卓に促され、帝は音もなく立ち上がった。
「あ……陛、下……!」
人形のような立ち姿に、荀彧の背筋がぞわりと震えた。帝とはいえ、十にも満たない子。なのに、ここまで心を閉ざしてしまえるのか。
先ほどまで見せていた年相応の表情など、すべて夢幻だったかのようで。
「申し訳、ございませんっ……」
去り行く背中に、荀彧はひたすら頭を下げた。たったひとときの安寧すら与えられぬ自分を、呪った。





数日が過ぎた頃。

「慈明殿。参りました」
手伝ってほしいと荀爽に呼ばれた荀彧は、夕方、指定された書庫の前に来ていた。
『おお、文若か。入ってくれ』
扉越しに声をかけると、妙にくぐもった声が聞こえてきた。
いくら扉一枚隔てているとはいえ、何か変だとは思いつつ、荀彧は扉を開けてみた。
「あ……慈明殿?慈明殿、どちらに?」
いくつもある書庫の中でも、そこまで広い部類ではない。入口から奥まで、すべての範囲が見通せる狭さだ。それにも関わらず、声の持ち主が見当たらない。
当惑しながら奥へと足を踏み入れると、今度は背後から声が聞こえた。
『すまんすまん、ここだ』
その声に荀彧が振り返るや、入口の床板がガタリと音を立てて跳ね上がった。直後、板の下から人影が飛び出してくる。
「わっ!慈明殿……!?」
「はは、驚かせたな。悪かった」
荀爽は立ち上がると、体についた土埃を掃った。
「ここは、いったい……?」
荀彧は恐る恐る、荀爽が出てきた床板を覗き込んでみる。
驚いたことに、そこには下へと続く階段がある。土壁に覆われた空洞も見えた。
「私もついこの間、発見してな。どこかに繋がってるのかと思いきや、ただの洞なのだ。恐らくは……この宮殿が火事等に遭った際、竹簡や書物を投げ込むための場所だろう」
「なるほど……確かに、火を避けるには非常に適していますね」
「ああ……」
ため息交じりに、荀爽は書棚に収められた史記を眺めた。
「滅多なことは言いたくないが……この先、何があるかわからぬ。重要なものだけでも移しておこうかと思ってな」
「……かしこまりました」
紡がれてきた先人たちの言葉も、知恵も、歴史も。燃えてしまえばすべてが灰と消えゆく。
書物を守るのも、文官の務め。


粗方の書物を地下に移し終える頃には、すっかり夜になっていた。
「さすがに、今日はもうよいか…………すまんな、このようなことで呼び出して」
「いえ、私は無聊を託っていただけですので。何か気になることがございましたら、いつでもお声かけください」
荀彧としては、特に何かを意識して言った言葉ではなかった。
しかし荀爽は、かすかに眉間に皺を寄せた。そしてすぐ、穏やかな笑顔を取り繕う。
「…………ああ、助かった。しっかり休んでく、れ、っゴホッ!」
「慈明殿!?」
やや激しい様子で、荀爽が咳き込んだ。荀彧は咄嗟に、その背中を撫で擦る。
「ああ、すまんな……この程度の作業で疲れてしまうなど、歳は取りたくない」
「慈明殿………叔父上こそ、ご自愛くださいませ。ではこれで」
甥としての気遣いの言葉をかけてから、荀彧はその場を後にした。

「……何故、守宮令なのだ」
荀爽の口から、深い嘆息が吐き出される。
急に司空として抜擢された荀爽は、今まで以上に董卓や帝の御前に拝謁する機会が多くなっていた。
なればこそ、帝の下に運ばれる硯が常に磨き上げられ、筆の毛先は古いものでも新品と見紛うほど整っていることを知っている。
荀彧ができる限り職務を全うしようとしているのは、端々から伝わっていた。
それだけに虚しく、不憫に思えてしまう。雑用の如き任でしか力を尽くす機会を与えられていない、我が甥を。


「……?」
廊下を歩く荀彧の耳に、遠くでざわめくような音が届いた。
不思議に思って、欄干から宮殿を眺めてみる。松明を持った兵士たちが数人、大階段にて右往左往していた。
何か、変事でもあったのだろうか。胸騒ぎを覚えた、その時だ。
「えっ!?」
荀彧のすぐ横で、ガキッという金属音がした。目を向けると、欄干に鉤のようなものが引っかかっている。
暫しそれが小刻みに揺れたかと思うと、暗がりからぬうっと人影が飛び込んできた。
「あっ……!?」
「む!」
手に鉤縄を持った、その人影と視線が合う。
暗闇の中で、確固たる意志を秘めた瞳が、荀彧を見据えた。
「追っ手、ではなさそうだな」
落ち着いた声と共に、人影が近寄ってくる。
ほんの少しではあるが月明かりも後押しし、その人の輪郭が、荀彧の目の前で確かなものとなった。

「……曹操、殿?」

洛陽で一度か二度、遠くから姿を見かけたことはある。
宦官の孫という出自を感じさせぬ、思慮深く威厳ある顔立ち。董卓や袁紹ら諸侯に比べて小柄ながら、引けを取らぬ存在感を放っていたように思う。
「ほう、わしの名を知っているか」
素早く鉤縄を回収し、曹操は口元に笑みを浮かべた。
されど、余裕綽々といった表情とは裏腹に、額にはうっすらと汗が滲んでいる。
そのことに荀彧が気づいた瞬間、下の方から怒号が響いた。

「どこだー!どこに逃げたー!?」
「不届き者を逃がすなー!!」

ざわめきは次第に大きくなり、こちらへと近づいてくるのがわかる。
どうやら彼は、追われているらしい。

「曹操殿、こちらへ!」
荀彧は咄嗟に声をかけた。荀彧自身も、何故そんな言葉が出たのかはよくわからない。
しかし、直感が告げた。この方は、追われるべき罪人ではない。
「ほう?」
曹操も、突然の荀彧の対応には訝しげだ。しかし荀彧は毅然として続けた。
「こちらに書庫がございます、そこなら追っ手をやり過ごせましょう」
「……そうか」
「もし私が怪しい動きを見せれば、即座に切り捨てていただいて構いません」
荀彧の眼差しは真剣そのものだ。曹操は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに不敵な笑顔に戻る。
「ふ……よかろう」
どのみち、曹操にとっては一か八かの状況であった。己の頭の内を見透かしたこの青年に、命を懸けてみるのも一興ではないか。


「こちらです」
荀彧は曹操を引き連れて、先程の書庫まで戻ってきた。
入口を開けると、すぐさま床板を跳ね上げる。曹操もこの仕掛けには驚かされた。
「これは……」
「申し訳ありません、ただの空洞で、どこにも繋がってはおりませんが」
「なに、十分だ」
曹操は素早く、地下へと潜り込んだ。荀彧はすぐに床板を戻し、その上から竹簡の入った箱を置く。
そのまま書庫の外に出て、入口に立った。

まもなく複数の足音が近づき、書庫前がにわかに明るくなる。
「失礼致す」
松明に照らされ、屈強な武人が姿を現した。荀彧も、その武名は聞き及んでいる。
「これは、張遼殿…………夜分にお役目、御苦労様です。このような場所までいかがなさいましたか」
荀彧は拱手の礼を以て出迎える。張遼もまた、荀彧に敬意を示した。
「お心遣い、痛み入る。実は先ほど、宮中内部に侵入した者が現れ、逃亡したとの報告が入り申した。この近くに潜んでいる可能性があるため、中を検めさせてもらってもよろしいか」
その言葉に、少しだけ己の脈が跳ねるのを感じる。しかし荀彧は、努めて冷静に振る舞った。
「ええ、構いません。ですがひとつ。ここは書庫ですので、松明は入口のみで控えていただいてもよろしいでしょうか?」
「承知仕った。では……」
張遼は一礼して、書庫へと足を踏み入れた。
配下の兵士に持たせた松明を頼りに見回すが、その狭さに張遼は目を瞬かせる。
人の気配はおろか、書物も棚から半分以上なくなっていた。隠れる隙間ひとつ、ここには見当たらない。
「うむ……随分と窮屈な場所ですな」
「こちらは、書庫の中でも少しばかりの歴史書しか置いてありません。もう少し広い書庫でしたら、この先にもございますが……」
「そうか。ではそちらを当たってみよう。ご協力、感謝申し上げる」
張遼は荀彧に一礼し、差し示された奥の書庫へと走っていった。配下の兵士たちもそれに続く。
複数の足音と松明が遠のくまで、荀彧は息を潜めて見守っていた。


やがて闇と静寂が再び、書庫の前を支配する。
荀彧はほう、と大きなため息をついて、後ろ手に扉を開けた。
「もう大丈夫です。どうぞ」
竹簡の箱をどかしながら声をかけると、ゆっくりと床板が上がった。その下より、曹操が静かに這い出てくる。
荀彧はさっと、曹操に手を差し伸べた。曹操はその手をしっかりと掴み、支えにして立ち上がった。
「……何故、わしを助けた?」
荀彧を見るなり、曹操は笑いながら訊ねた。
何の罪で追われているかもわからぬ男をかくまうなど、よほどの酔狂だ。若い文官がよくぞここまで、大胆な行動に出られたものである。
「私にも、正確には………直感としか言いようがありません」
荀彧は、力なく首を振るに留めた。
正直なところ、自分でも己の選択した行動に驚きを隠せない。
ただ、自分を見据えてくるその力強い目と視線がかち合った時、感じたのだ。今ここで、董卓の前に突き出してはならぬ男だと。

「おぬし……名はなんと言う」
「恐れ入ります。守宮令の荀彧、字を文若と申します」
「ほう、荀彧……か」
名前自体は初耳でも、荀家の出であることはすぐに察した。改めて曹操は、眼前の荀彧を眺め回す。
線の細い文官でありながら、あの張遼を欺き切った胆力。涼やかで品のある風貌に、深い聡明さを宿した瞳。
青年より感じる才気は、とかく曹操の目には好意的に映った。
「礼は言わぬ。またいつか会えた時に、改めて、な」
曹操はそれだけ言い残すと、書庫を抜けるや素早く宮中の闇に紛れていった。





『曹操が董卓の暗殺に失敗し、洛陽より逃亡した』
その話は、翌朝には宮中の誰もが知るところになった。





2018/06/11

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