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曇天日和

どんてんびより

隷属の華【六】

逆臣、董卓討つべし。
大仰な文字が羅列するその文を、董卓はほくそ笑みながら眺めていた。
「ついに動きよったわ、愚か者共め」
全て読み終わる前にそれを丸め、控えていた李儒に投げつける。
「ああ、御無体な…!」
慌てて李儒は紙玉と化した書簡を拾い上げ、引き伸ばした。
折角諸侯のa動きを掴めて、さぞ手柄と褒めそやされることを期待していたが無駄だったようだ。
李儒には目もくれず、董卓は階段下に立つ呂布らに向かって吠えた。
「喜べ呂布よ!戦が始まるぞ!」
「ふん、ようやくか」
鼻で嗤う呂布の顔は、さもつまらなそうではある。
しかし、得物の方天画戟を握り締める手には明確な力が宿った。
何よりも待ちわびていたのだ。戦場にて己が武を振るう、その時を。
「さあお前たち、戦の準備じゃ!烏合の衆をぶちのめして追っ払え!」
「俺に命令するな、豚め」呂布は、董卓への嫌悪感を隠そうともしない。
ただそれだけ呟くと、玉座の間を出ていってしまった。
「相っ変わらずつれねぇ奴だ…まあ見ててくだせぇ、すぐに袁紹の首、ここに持ってきてやります!」
華雄が息巻けば、負けじと李傕も拳を掲げた。
「董卓様に歯向かえばどうなるか、目にもの見せてやりましょうぞ!」
「ふん、曹操も忘れるなよ」董卓は、嗤って一言付け加えた。

「ところで李儒。お前も抜かるなよ」
董卓の言葉を受けて、李儒は恭しく会釈をする。
「ええ、それはもう…おっと参りましたようで」
丁度そこに、呂布たちと入れ替わる形で郭汜が現れた。
「あの、董卓様。お呼びですかい?」
「貴様には戦線に加わる前に、やってほしいことがあってな。李儒」
董卓に視線を投げられた李儒は、咳払いをした。
「私と共に、陛下を護衛して長安へ向かっていただきます。陛下の御身を、賊などに脅かさせず、無事に長安までお連れすることもまた大切なお役目」
「はあ…」
一瞬、郭汜は躊躇った。出来ることならばなるべく前線に出たいと願う性質である。
それを知るからこそ、李儒は続けざまに述べた。
「このお役目を確実に成せる剛の者は、貴方を置いてはいらっしゃらぬ。董卓様はそうお考えです」
「そういうことだ。お前故に、陛下の身を頼むのだ」
信頼を軸に煽てられ、単純な郭汜は喜色満面のにやけ面を晒す。
「そ、そこまで言われては…見事お役目を果たしてみせましょう!」
「うむ、うむ。頼んだぞ」
「陛下!どうぞこの郭汜と李儒殿にお任せを!」
「…ああ」
仰々しく拝礼する郭汜を、帝は力なく見下ろす。
ただ玉座に座り、目の前で繰り広げられるやりとりを眺めるのみ。
たったひとつ、違和感を覚えながら。



「董卓」
帝は、後宮へと向かう董卓の背中に向かって声を掛けた。
「はあ?なんでございましょうか、陛下」
「あ……」
勇気を振り絞ったはいいが、その後が思いのほか続かないことに愕然とする。
紡ごうとした言葉が何も出てこない。喉の奥に、柵でも立てられたように。
「ああもう、なんですか!?」
荒げた声を浴びせられ、体はいよいよ硬直してしまう。
「いや…いい。なんでもない」
やっと出てきた言葉は、自分の意思とは真逆のものだった。
「くだらんことで引き止めてくださいますな!」
腹立ち紛れに董卓は帝の体を押し遣り、そのまま奥へと続く廊下を歩いていく。肥え太った背中を、結局帝は黙って見送るしかなかった。

聞けなかった。董卓の顔を見た瞬間。本能が悟ったのかもしれない。
聞けばその場で、殺されるかもしれないと。

今更、聞けなかった後悔が心に巣食っていく。
どうしてたったこれだけの一言が、言えなかったのだろう。

なにゆえお前から、あの香りがする?






「どうやら、戦が始まってしまいそうです」
花の顔を曇らせながら、貂蝉は口を開いた。
「董卓様が仰っていました。袁紹様が各地の諸侯に檄文を出したそうです。逆臣である董卓様を討つと」
「そう、ですか…」
有り余るほどの無念を滲ませながら、荀彧は目を伏せる。
諸侯の動きは必然だろう。董卓の暴政がこれ以上続けば、漢は本当に滅びる。
しかしひとたび戦となれば、中原一帯を巻き込んでの壮絶な武力衝突は避けられない。
諸侯も各地で軍備を整えた上で、全力で挑んでくる筈。そして董卓は、軍事にかけては一日の長があるのだ。
「もう、抑えることは叶わないのですね…」
黄巾の乱が勃発してから。
正確には陰修と共に見たあの黄天を見てから、この国は荒れて乱れる一方だ。

「っ…私は、私はっ」
思わず、自分の身を抱き抱える。
纏わされた薄布の感触が、荀彧の心を容赦なく苛んだ。
国が悲鳴を上げている。それなのに。帝を支えることも叶わなければ、故郷に迫る危機にも立ち向かえず。
あろうことか、漢室を食い破ろうとしている男の慰み者に成り下がってしまったのだ。
「荀彧様…」
貂蝉はただ静かに、己の手を荀彧の震える手に重ねた。
「っ…すみ、ません、貂蝉殿…」
はしたない、みっともないとわかっている。それでも、その白い手を握り返さずにいられない。
汗ばんだ体臭に抱きすくめられ、獣染みた肉欲に絡め取られるままの自分。
唯一、彼女の人らしい手の温もりだけが、荀彧の心を繋ぎ止めていた。






「つっ…」
不意に、立ちくらみがした。
前のめりになり、危うく堀の中に落ちそうになったところを、何顒が抱き起こす。
「おいおい大丈夫か?」
「申し訳ありません。ここのところ、寝つきが良くないもので」
「勘弁してくれや!ただでさえ荀爽殿がお加減悪くしてるっつうのに、荀攸殿まで…!」
何顒は大げさでなく焦った様子を見せた。
「そういう何顒殿も、体にはお気を付け下さい。顔色、決していいとは言えませんよ」
荀攸の目から見て、最近の何顒も決して健康そうには見えなかった。
元より赤ら顔で顔も大きいが、洛陽にいた頃はもっと張っていたように思うのだ。
だが、荀攸としては気遣ったつもりが、やや刺のある物言いになってしまったらしく。
「あのなぁ…人の心配してる暇あったら、自分の心配しろ!」
何顒は苛立ちを隠せず、荀攸の胸ぐらを掴み上げた。
「っ」
突然の行動に、荀攸も慌てた。
文官としては荒っぽい武勇伝で有名な男だが、こんな風に怒りを向けられたのは初めてだ。
気まずい空気が、二人の間に流れる。
「…二日酔いとは情けねえな。飲み過ぎだろう」
時折見せる、人の奥まで見透かすような視線が突き刺さった。
「はぁ…酒で虚しさ紛らわすのもほどほどにしとけよ」
大きくため息をつくと、何顒は圧迫の手を離す。
そのまま何も言わず、宮殿の内部の検めに行ってしまった。

「……っ」
思わず、腕を近づけて自分の体臭を確かめる。若干の酒臭さが残っていた。
そういえば。あまり考えていなかったが、長安に入ってから酒を飲まなかった日が一日でもあっただろうか。
昼間は宮殿の整備に右往左往し、夜になれば董卓をどう滅するかと激論の日々。
身も心も荒んだ生活しかしていないことを、今更に自覚する。

荀攸は改めて、完成したばかりの内堀を覗き込んだ。
渭水より引き入れた水はやや黄色く濁っていたが、覗き込んだ自分の顔はしっかり映る。
(酷い、顔だ)
自分でも驚くほど汚い顔が、水面に揺らめいている。
ぼさぼさに傷んだ頭髪、伸ばし放題の無精髭。落ちくぼみ、隈の酷い目許。
ただでさえ目つきの悪い人相に、拍車をかけてしまっている。
これでも何進に取り立てられた直後は、多少身だしなみを整えていたというのに。
人に見られる、という意識が、今の自分には完全に欠けていた。

―――彼が見たら、今の自分をどう思うだろう。

「っ…」
何が、『何程のこともできない』だ。とんだ思い上がりだ。
今の自分の方が、何も成せていないではないか。唯々諾々と董卓の意向に従い、長安に追いやられ。
この国のためになど動けていない。ただ、目の前を生きるのに必死で。
こんなにも情けない自分が。あろうことか彼を説教して、傷つけた。愚かにも程がある。

文若殿。俺を、嗤ってください。






天井近くにある、唯一の小窓を見上げた。そこから見える空が茜色になるたび、胸が締めつけられる。
董卓は、毎日飽かずにやってくるというわけではない。
貂蝉や他の側女もいる。大体三日か四日空白が開き、そしてまた、何日も続けて抱きに来る。
ここ三日ほど、董卓は来ていなかった。だから、恐らく。今夜は来る筈だ。
「うっ…」
下卑た眼差しに見下ろされ。無理矢理組み敷かれ、喘がされる。嗚呼。夜が、来てしまう。

『荀彧様。今、よろしいですか?』
扉越しに、貂蝉の声がした。
「は、はい…どうぞ」
『失礼いたします』
ゆっくりと扉が開き、貂蝉が入ってきた。その手には、何か抱えられている。
「申し訳ありません。董卓様の文机からはこれしか…」
「えっ…?」
目の前に差し出されたのは、小さな紙と筆、それに硯だった。硯の中には墨の塊もある。
「私は、ある程度歩き回ることを許されている身です。何か外にお伝えしたいことがおありなら…」
「貂蝉、殿…」
震える手で、それを受け取った。何の手入れもされていない、がさがさの筆。
「どうしてこれを、私に?」
その問いに、貂蝉は少しだけ目を泳がせた。
「…戦が始まるとお伝えした時の荀彧様が、あまりにもおいたわしく思えましたので」
それは紛れもない本心である。心の底から国を憂う者故の、慟哭の表情。
貂蝉にとって、過去に見た忘れられない横顔と、重なって見えた。
だからどうしても、放っておけなかったのだ。
「といっても…このような紙切れでは、思いの通りにはいかないかと思いますが」
「い、いえ!とんでもない…ありがとう、ございます」
慌てて、荀彧は頭を下げた。
何もかもを取り上げられた自分に、突如降って湧いた機会。
一縷の望みを託すには十分な大きさだった。

飲み水を硯に垂らし込み、墨を磨った。
久しぶりに嗅ぐ、墨の匂い。あれだけ退屈だった守宮令の任すら、今は遠く懐かしい。
「…あっ」
急に、荀彧の手が止まった。
念入りに磨っているにも関わらず、墨の色がやや薄く感じた。これでは滲んでしまう危険がある。
もしも雨などで濡れた場合も、字が流れてしまうかもしれない。
何か。墨をはっきりさせる術はないだろうか。
「荀彧様、いかがなさいました…?」
突然動かなくなってしまったことを心配し、貂蝉が覗き込む。
「い、いえその…っ」
顔を上げた荀彧の視線に、貂蝉の腰飾りが飛び込んできた。
それは煌びやかで美しく、そしてとても鋭利な形をしている。
もしかして。強い力を込めれば、あるいは。
「貂蝉殿、とても不躾とは承知でお願いします」
その方法を思いついた瞬間、荀彧は声が出ていた
「ひとつだけでよろしいのです。その、腰の飾りをいただけませんか?」
「これを、ですか?かしこまりました」
貂蝉は訝しんだが、只ならぬ様子を見てすぐに腰飾りのひとつを引きちぎった。
「申し訳、ありません…汚しますっ」
荀彧は先に謝罪の言葉を口にした。そして迷いなく、その腰飾りで左手首を切り裂いた。
ビッという音と共に、荀彧の手首から暗紅色の血が流れ出す。
「荀彧様、何を!?」
己を傷つける行動に、貂蝉は思わず口を押さえた。
「っつ、すみません…このようなことに、使って……ですがっ」
荀彧は痛みに耐えながら、手首を硯の上へ掲げた。流れ落ちる血が硯の中の墨へ注がれていく。
水っぽかった墨が血と混ざり合い、赤黒く濃い墨へと変わった。
「どうしても、滲ませたくないのですっ」
「荀彧、様…」
「なんとしても、これだけは…」
荀彧はいよいよ、筆を取った。毛先が広がってしまっているそれを、丁寧に硯に押し付ける。
とっぷりと血混じりの墨を吸わせて整えたところで、筆を紙へと走らせた。
必死で言葉を連ねていく姿を、貂蝉は固唾を呑んで見守った。


「私は…貴方の目を信じます」
書き終えた書簡を四つ畳みにし、貂蝉へと差し出した。
このまま董卓の許へと走られ、暴かれる可能性だって十分に考えられる。
それでも、荀彧に迷いはなかった。深い哀しみを宿した美しい瞳は、信じるに値した。
彼女もまた、世を憂う一人だと。
「どうか、これを……どなたか、貴方が最も信頼できる方に…」
「…慎んで、お受けします」
貂蝉は粛々とそれを受け取り、静かに頭を下げた。



「っく…う……っ」
思った以上に、自分でも深く皮膚の内を傷つけたらしい。
血はあらかた止まったものの、裂いた痛みはなかなか治まらなかった。
横になり、ひたすら手首を押さえて痛みをやり過ごす。

「荀彧、待たせたなぁ!」
扉が蹴破られん勢いで開けられたと思いきや、図体のでかい姿が現れる。
「っ、あ」
ついにやってきた屈辱の刻限に、体がびくりと震えた。
「なんじゃなんじゃ、三日も抱いとらんのに何をそんなぐったりして…」
董卓は、荀彧が苦しそうに横たわっているのを不思議がった。
ずかずかと寝台に近づいたところで異変に気づく。
「ほう?これはこれは…」
右手首で、左手首を抑えつけている。寝台にはいくつか血痕が残っていた。
一体荀彧が何をしたのか、それに思い当った董卓はせせら笑った。
「哀れなことだなぁ。だが、もっと楽に死ぬ方法はいくらでもあった筈だぞ?」
董卓は荀彧の右手をはがし、無情にも左手首を引っ張り上げた。
「っああ!痛ぁっ…!」
無遠慮に傷を負った手首を掴まれ、激痛が走る。
「あ、うっ!」
痛みに顔を歪ませる荀彧の耳元に、董卓の顔が迫った。
その耳をねっとりと舐りながら、冷たく囁く。
「頸をかっ切れなければ、舌を噛み切るでもないのがお前の情けなさだなぁ…死ぬのは怖いか?」
「んっ…あ!おやめ、くださっ…!」
耳を生温い舌が這う気持ち悪さ、そして左手首から来る痛み。体が小刻みに震える。
その姿ににんまりと嗤った董卓は、そのまま荀彧を横抱きにした。
「っあ…や…」
「わしの許しもなく、そう簡単には死なせんぞ」
土色の手が、荀彧の白い顎を撫でまわした。







「お義父様…!」
「きゅ、急にどうした!?何があった」
夜更けに突然舞い戻ってきた娘の姿を見て、王允は面食らった。
慌てる義父に対し、貂蝉は落ち着き払った声で伝える。
「さるお方より、預かったものがございます。どうかお義父様にお目を通していただきたく」
「さる、お方…?なんだ一体…」
「…こちらを」
貂蝉は懐から、四つ畳みにされた紙を取り出して手渡した。
「うん…?」
王允は首を傾げながらも、その紙を広げる。
真っ先に飛び込んできたのは、不自然に赤黒いものの流麗な字。
その字体に見覚えがあった。この、典雅な筆跡は。
「ちょ、貂蝉!これはっ!?」
王允の声が驚きでひっくり返った。
俄かには信じがたい。だがこの流れるように紡がれた筆跡、見間違う筈もなかった。
脳裏に、物腰穏やかな美青年が浮かび上がる。

「…荀彧、殿?」

「お義父様、ご存知でいらっしゃいますか?」
王允の口からその名が出たことに、貂蝉も驚く。
「ゆ、友人の甥なのだ…潁川に帰郷した筈。一体これは…何故…」
「荀彧様は、董卓様に無理矢理召し出されて後宮に囚われていらっしゃいます。私などよりも遥かに、酷い扱いを…」
「なんと…なんと、いうことだ!」
膝から、またたく間に力が抜け落ちていく。
力なく椅子に座り、ただ呆然と貂蝉の顔を見上げるしかなかった。
「荀彧、殿が……ああ…」
表沙汰にはならないが、王允は知っている。董卓の好色が何も、女だけに限った話ではないことを。
過去には、年若く美しい少年や青年が、密かに捕えられていくのも見かけた。
まして荀彧はあの整った風采である。董卓がそういう意味で目をつけるのも、十分納得がいった。
「私は中身を見ておりません。ですが荀彧様が、並々ならぬお覚悟でそちらを認めたのは、この目で見ました。どうか、お聞き届け願えませんか」
「う、うむ」
未だ動揺は収まらなかったが、王允は改めて書簡を読み始めた。

「っ…!?」
てっきり、董卓に陥れられたことへの救いを求める内容かと想像していた。
だが、そんな文言はどこにも見当たらない。自分の境遇に対する言及は、最後まで何もなかった。
ひたすらに戦乱の到来と、潁川に迫る危機について、切々と陰修へ向けて綴られていた。
「荀彧殿…貴方という方はっ」
あまりにも、いたたまれない。自分が苦境にあっても尚、国と故郷を想えるのか。
これだけの忠心を持つ者が何故、惨い目に遭わねばならぬのだ。
「…貂蝉、お前は戻りなさい。彼には、陰修殿に確かに報告するとだけ伝えてくれ」
書簡を握りしめながら、王允は声を絞り出した。
「かしこまりました」
「すまんが、私の名前は出さないでほしい…どこで、何が起きるかわからぬ故に」
貂蝉は黙って頷いた。



「これが、狙いか…董卓…」
貂蝉が去った静かな部屋で、王允は尚も呆けていた。
荀爽、荀攸そして何顒を、あんなにも強引に長安へと急き立てた裏の意味をようやく悟る。
長安への遷都を一刻も早く行いたいというのも間違いではないだろう。だが、それだけではなかったのだ。
確かに荀彧は帰郷したと噂には上がったが、あくまで噂だけだ。自分は勿論、血族である荀攸や荀爽まで、洛陽を辞する彼を見ていない。
今思えば、不審極まりなかった。その不審さすら、誰も指摘できないままでいた。
もしも余裕があれば、誰かが違和を唱えたり、潁川へと確認の文を飛ばすこともできたはず。
その隙をも与えず、荒れた僻地へと追いやったのだ。誰も、何も、考えられないように。

「…いるな?」
王允の言葉に、一人の使用人が入ってきた。
小柄で健脚、且つ無口なので、時には伝令としても使っている。
「これを潁川太守の陰修殿に。いいか、必ず」
「はい」
「もしも誰かに奪われそうになったら、最期と思え。なんとしても届けよ。それができぬなら、破り捨ててお前も死ぬがよい」
「…はい」
主の冷たい一言と共に渡された紙を、使用人は文句ひとつ言わず受け取る。そのまま懐に入れるやいなや、直ぐに部屋を飛び出していった。


「荀彧、殿…申し訳ないっ…許してくれ!」
今の自分では、助けることなど到底できない。
何しろ、相手はあの董卓だ。この老骨一人ではどうにもならない。
どうにもならないからこそ、貂蝉を差し出すと決意したのだ。もしここで、自分が下手なことをしたら。
貂蝉にまで火の粉が降りかかるのだけは、なんとしても避けねばならなかった。当初の計画を遂行するためにも。
友の甥が苦しんでいると知って尚そんな皮算用をしてしまう。自分は、どこまで小さい男なのだろう。
せめても、あの手紙が潁川まで届くことを願うしかなかった。




2018/07/01

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