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曇天日和

どんてんびより

隷属の華【九】

「な…貴方たちは、っ」
何故、宦官がここに。
しかし理解はできずとも、ねっとりと刺さる視線が荀彧の心に警鐘を鳴らす。
「噂には聞いておりましたが、本当に美しいお方ですな」
左脇にいた一番年長らしき宦官が言うなり、三人の手が荀彧へと伸ばされた。
「っ!?おやめくださいっ」
振りほどこうと抵抗しても、自由を奪われた身で三人を相手にするなど無意味に等しい。
足を押さえ付けられ、両手を後ろ手に括り付けられ。
体に触れられている嫌悪感と蹂躙される恐怖に、背筋が粟立つ。
「何をなさるのですか!やっ、んうっ!?」
後ろから猿轡を噛まされ、声を封じられた。同時に甘ったるい匂いが鼻を刺す。
いつも飲まされている媚薬と、同じ匂いだ。
猿轡に仕込まれていると気づいた瞬間、荀彧の顔から血の気が引いた。
「んっ、ふ…うっ!」
胸を、明確な欲を帯びた手が這いずる感触。
おぞましさの中に微かな快感が芽吹いていくことに耐えられず、荀彧は必死で首を振る。
そんな様を嘲笑うかのように、宦官のくすんだ唇が耳元に近づいた。
「奴隷がいちいち喚きますな。大人しくしていればよろしい」
「っうう…!」
侮蔑の言葉を浴びせられ、喉の奥が詰まった。

「なに、少しばかり疲れてもらうだけですよ」
宦官は胸当てをずり降ろし、露わになったそこを押し潰した。
「うぅっ!」
意思とは関係なく、荀彧の体は跳ね上がってしまう。
たちまち形を確かにしていく尖りを、かさついた指が摘まみ上げた。
「んっ、ふ、うぅー…っ!」
胸元に生じた熱が容赦なく荀彧を甚振り、支配していく。
媚薬に憑りつかれた体は、快楽の前には哀しいまでに抗えない。
頃合いとばかりに肥えた宦官が荀彧の袴を脱がし、中心を握り込んだ。
「んぅう…っ!」
更なる強烈な刺激に、荀彧は背中を仰け反らせる。
くぐもった声が響く喉元を、舐めるような眼差しで肥えた宦官が見つめた。
「ははは、いい光景だ」
「さぞ気持ちいいことでしょうな」
震える荀彧の太腿を撫で回しているのは、一番小柄な宦官だ。
蜜を零す芯を、下品な笑顔で眺める。
男の象徴を擲った者たちには、二度と味わうことのできない感覚。
行き場のない気持ちは屈折した感情となり、他者が乱れる姿を見ながら悦びを満たすのだ。
「んんっ、ん、う、んうーっ…っっ!!」
追い詰められ、膨れ上がった快感が弾け飛ぶ。
直後に荀彧を支配したのは、脱力感と途方もない虚無だった。
宦官の欲にまで屈服させられてしまった虚しさが涙となり、瞳を濁らせる。

足から力が抜けたことを感じ取り、小柄な宦官が寝台へ繋がる鎖へ取りついた。
がちゃりと音が響き、鎖の鍵が外される。
「外れました」
「よし」
肥えた宦官が、懐から取り出した布で素早く荀彧の股を拭う。
一方、胸を弄んでいた宦官は、腕を縛り上げる縄の端を引っ張り上げた。
「ほら、行きますよ」
「んん…っ」
疲弊した体を、寝台から引きずり出される。
崩れた体勢は肥えた宦官に抱きとめられ、無理矢理立たされた。


連れていかれた先には、後宮の更に奥へと続く真っ暗な廊下があった。
先導役の小柄な宦官が燭台に火をつけ、その明かりを頼りに進む。
肥えた宦官には左脇を固められ、背後には縄を持った年長の宦官がぴたりと張りついた。
「う…んっ…」
媚薬の匂いが染みついた猿轡は、絶えず荀彧を苦しめる。
一度気を遣った足には力が入らず、宦官たちの支えるままに歩かされ続けた。
宦官たちは一体、何処へ連れ出そうというのか。それも何の目的で。
間違いないのは、更に絶望的な状況へと追い込まれているということのみ。
「しかし、ここを通るのは久しぶりですね」
前を行く小柄な宦官が急に呟いた。背後の宦官もそれに頷く。
「言われてみればそうですな。それだけ董卓様が、貂蝉殿とこの男をたいそうお気に召しているということでしょう」
「ですねぇ。前は確か、三日と持たなかったような…まあこの美しさですからな」
宦官は手にしている燭台を荀彧へと向けた。
猿轡を嵌められた美貌が、蝋燭の火に照らされぼんやりと浮かぶ。
肥えた宦官は、それを横から眺めながらにやりと笑った。
「ここを生きて通った人は貴方が初めてです。本来は用済みの女や奴隷を捨てに行くための道なのでね」
「…!!」
荀彧の表情が凍りついた。
その様を見た宦官は、愉快そうに言葉を続ける。
「貴方はまだまだ董卓様に可愛がってもらえるのですよ。この顔に生まれたことを親に感謝なさい」
「っぐ…んっ!」
顎をいやらしく撫で回され、びくりと体が震えてしまう。
せめて視線から逃れようと目を背けた直後だった。

「さあ、着きましたよ」
明かりの前に、重厚な作りの扉が現れた。
小柄な宦官が鍵を外して扉を押し開く。鈍い音と共に視界が開けた。
「っ…」
扉の向こうへと出された瞬間、思わず頭上を見上げた。
久方ぶりに見る空はあまりにも広く、散らされた星々がちらちらと瞬きを見せる。
上弦の月は白く、冷たい輝きを帯びながら地上を、そして荀彧を照らした。


「何をやっておったのだ、待ちくたびれたぞ」
前方からずかずかと巨体が近づいてきた。宦官三人はその場に傅く。
「董卓様、遅くなり申し訳ありません」
「まあよいわ。準備も粗方整ったところだしな」
董卓が顎でしゃくった先には、いくつもの馬車や荷車が数珠なりになっていた。
何人もの兵士が、馬車に何か荷物を運び込んでいるように見える。
既に、董卓の背後にも大きな馬車が待機していた。その前方にも小型の馬車が連なっている。
「んうっ…」
荀彧の身柄は乱暴に董卓へと引き渡された。
よろめいた拍子に、太い腕の中へと収められてしまう。
「っ…?」
荀彧の鼻を、土の匂いが掠めた。
およそ董卓とは縁のない匂いだ。何故この男から。
「さぁて。よくこやつを連れてきてくれた。その褒美をくれてやろう」
董卓の言葉に、宦官たちの目が爛々と輝いた。
「真にございますか!では…」
その瞬間だった。

ドスッ、という鈍い音が三重に響き渡った。
「っ…!?」
宦官たちの口から、一斉に血が吐き出される。その胸からは深々と槍の穂先が突き出ていた。
事切れた宦官たちが順々に崩れ落ちていく様が、荀彧にはやけに鈍重な動きに感じられた。
「わしは奴隷を連れてこいとは言ったが、遊んでよいとは一言も言っとらんぞ」
無体を働いた痕跡を拭ったところで、董卓の目はごまかせない。
荀彧の潤んだ瞳にうっすらと汗ばんだ体を見れば、何をされたか一目瞭然だった。
兵士たちによって運ばれていく死体には目もくれず、董卓は荀彧をいきなり抱き上げる。
「んうっ!?」
「ほれ、さっさと乗らんか!」
董卓は馬車の扉を開き、その中へと荀彧を放り投げた。
続けざま、己の巨体も馬車へと滑り込ませる。
「んっ…あっ、は、はぁ、あ…!」
投げ飛ばされたはずみで猿轡が緩んだ。首を振り抜くと、するりと布が外れる。
解放された口に新鮮な空気を求め、荀彧は荒く呼吸を繰り返した。
「さあ出発じゃ!」
荀彧を隣に座らせながら、董卓が一声叫ぶ。
馬車は洛陽に背を向けてゆっくりと動き出した。


「董卓殿…これは一体、どういうことです」
馬車をひと通り見渡してから、荀彧は恐る恐る傍らの男に訊ねた。
夜間で判別しにくいが、馬車の中とは思えぬ豪華な内装が施されているのはわかった。
揺れも少なく、丈夫な木材で造られているのが伝わってくる。
本来は、誰のための馬車なのか。すぐに見当がついてしまった。
「これは、帝の馬車ではございませんか…何故、董卓殿が」
「くだらんことを聞くな。これが一番上等だからに決まっておろう」
「なっ…」
事もなげに言われた直球の返答に、言葉を失う。
「安い馬車なんぞに乗ってみろ。長安に辿りつくまでに尻が痛くなるわ」
「え…長安?」
「既に帝は長安に送ってやった。袁紹の奴らが手をこまねいているうちに遷都して、万全の体勢を整えてやるのよ」
董卓の成さんとしていることを悟った瞬間、荀彧は思わず声を上げていた。
「な、なんてことを…!民の血税をそんな暴挙にっ…あっ!?」
荀彧の嘆きなど、董卓の耳に入る筈もなかった。
にやりと笑いかけながら荀彧の肩を抱き、無理矢理窓際まで引き寄せる。
「何をっ…?」
「さぁ、よく見ておれ荀彧」
「え?」
董卓の視線の先を追って、荀彧もまた窓の外に目を向けた。

「あ…っ!?」
突如、宮殿の中程から火の手が上がった。
噴き出した炎はあっという間に広がり、城壁をうねりながら伝っていく。
宵闇の中、紅い火に包まれた宮殿がその輪郭を露わにした。




窓の外を眺めていた何顒が、ふいに声を上げた。
「おい、荀攸殿」
「どうしましたか」
「見ろ。妙に明るくないか」
荀攸も窓辺に寄って空を見つめる。
紫紺色の夜更けの空の中、東の向こうがぼんやりとした光を放っていた。
「確かに…夜明けの時刻にはまだ遠いですが」
「あの方向、まさか」
何顒と荀攸の頭に、ほぼ同時にその予見が浮かぶ。
「馬鹿な、連合軍がもう洛陽まで!?」
洛陽へ抜けるには汜水関と虎牢関を突破しなければならない。しかも、どちらも猛将が構えている筈だ。
保持する戦力からいっても、そう簡単に連合側が優るとは想像がつかなかった。
想定以上に、諸侯が団結しているということだろうか。
「っち…まあ、董卓ぶっ殺してくれるんなら願ったり叶ったりだがな」
何顒は苦々しく呟いた。
「董卓が危険を押して洛陽に留まるとも思えません。遅かれ早かれ、主戦力を纏めてこちらへ向かってくると見た方がよいでしょう」
「ああ、いよいよだな…」
董卓の長安入り。大きな隙が生まれるとしたら、もうそこしかない。
「何顒殿、荀攸殿」
その声に振り返ると、跳ね上がった床板から若い文官が顔を覗かせていた。
「荀爽様がお呼びです」
「わかりました」
荀攸は頷き、床板の下へと続く階段を降りた。何顒もそれに続く。

長安市街の南東、地下のある邸宅は、長安入りした際に荀爽が整備したものだ。
何顒の水面下の尽力により、近頃は数名の文官や兵士が出入りするようになっている。
若者たちの心配そうな視線を受けながら、荀爽は寝台に横たわっていた。
「…外の様子はいかがであったか?」
ここ数日で一段と痩せてしまったが、その声はまだ朗々としている。
荀攸と何顒は、寝台の前で跪いた。
「東の空が不自然に明るくなってました」
「洛陽で…何かあったものと思われます」
「…わかった。皆、聞いてくれるか」
荀爽は身体を起こし、皆を見渡した。
この場に居合わせる者全員が、静かに荀爽の言葉を待つ。
「董卓殿は用心深いお方…自身を快く思わない存在は重々承知していよう。長安に入るとすれば、厳重な警護にて白昼に堂々とやってくる筈」
荀攸も、その予測に賛同の言を続けた。
「仰る通りかと。わざわざ暗殺に都合のいい時間に来るとは思えません」
「うむ。そして、一度宮殿に入られては、私たちには成す術がない。できれば、長安に入る前の夜陰に乗じられれば…と思っている」
「つまり誰かが斥候となって董卓の動向を窺う、ということですな」
何顒の言葉に、荀爽は深く頷いた。
「長安への入城が近くなれば、李儒殿宛に早馬が飛んでくるだろう。それと同時にこちらも探りを入れ、進軍状況を確かめる。その上で…行動に移そう」
「かしこまりました。では斥候と伝令の役目、私が」
「では俺も。馬の扱いには慣れています」
先程、二人を呼びに来た文官と、隣にいた兵士が前へと進み出る。
危険な役を買って出た二人に対し、誰も異論はなかった。
「ああ、頼んだぞ…」
「はっ!」
皆は一斉に、荀爽へ頭を垂れた。




「あ、ああ……そん…な…っ!」
宮殿はおろか、街中が炎の中に飲み込まれていく。
火炎は獰猛な勢いで燃え上がり、天をも衝く勢いで一帯を明るく焦がした。
国の都が。洛陽が、焼け落ちていく。
凄惨な光景を、荀彧はただ悄然と眺めるしかできなかった。
「がっはっはっ、よく燃えよるわ。どうじゃ、これだけの炎、そうは拝めぬであろう?」
董卓は驚くほど無邪気に、それこそ幼子のように笑った。
頭上から降り注ぐ高笑いが、荀彧には随分遠くから聞こえるように感じた。
「そういえば貴様の格好、随分と胸が寂しかったな。これでもくれてやるか」
荀彧の白い胸元を見やった董卓は、足元にあった箱の蓋を開いた。
そこから何かを取り出して、荀彧の首にかける。
「これ、は…?」
青い瑠璃の下がった首飾りだ。
突然自分へと寄越された装飾品に戸惑いを隠せない。
しかし次に続いた董卓の言葉が、荀彧の全身の血を凍り付かせた。
「さっき帝の墓から掘り起こしてきたのよ」
「…っ!?」
「がはは、さすがは歴代皇帝の副葬品、豪奢なものばかり!土に埋めておくには勿体ないわい。使ってこそ価値が出るというにな」

この馬車の前後に連なる、いくつもの馬車と荷車。
直前まで、何らかの積み荷を運ぶ作業をしていた兵士たち。
董卓の体からかすかに漂った、土の気配。
「あ、ああ…ああっ…!!」
全ての事象が、頭の中で繋がる。
導き出された答えは、天をも畏れぬ真の大逆。

「は、外してくださいっ!このような行為…赦されることではありません!!」
荀彧は、悲鳴に近い声で叫んだ。董卓は一切動じずに口の端を上げる。
「ふふん、誰の赦しなど求めておらんわ」
「董卓殿…貴方という方はっ!鬼畜の所業の数々、いつか必ず報いを受けましょう…!!」
切れ長の瞳にあらん限りの侮蔑と憤怒を燃やしながら、荀彧は睨み据えた。
それが董卓の獣心を煽るしかないとしても、叫び、糾弾せずにはいられなかった。
我欲の趣くままに。民を、そして国を蹂躙する男の、醜悪さを。

「奴隷の癖によく吠えよる」
冷笑しながら、董卓は荀彧へと襲いかかった。
「っ、触らないでください!やあっ…!」
縛り上げられた体は容易く押さえ込まれ、首元に噛み付かれる。
体中を這い回る手はすぐさま胸と股の間に辿り着き、苛烈な責めが加えられた。
「あっ、は、う、んん…っ!」
一度達した上、媚薬を嗅がされて鋭敏になっているが故に、否応なく震えが走ってしまう。
吐息混じりの嬌声を必死で抑えようとする荀彧を、董卓は容赦なく嘲った。
「がっはっは、随分と今日は感じやすいのぉ!奴らに慣らしてもらったせいか?」
「や、やめてくださっ…あ、やぁあっ!!」
一段と中心をきつく擦り上げられ、荀彧は咽び泣いた。
「こんなにここを固くしおって!そこまでわしに触れてもらいたかったのか?」
「んんっ!や…っ!は、離して、くださっ…あ、ああぁっ!!」
快感は荀彧をあっという間に絡め取り、括り上げ、そして追い詰める。
再び限界が近づき熱量を増した芯を、董卓はとどめとばかりに扱き上げた。
「そぅら、ここがいいのだろう?この淫乱めがっ!」
「ああっ!あ、やぁあああああっ!!」
荀彧の視界が真っ白に染まった。
先から迸った蜜は董卓の手を伝い、馬車の床へと零れ落ちる。
その様子を、董卓は心底から愉快そうに嗤い飛ばした。
「くくく…我慢できずに帝の馬車を汚すなど、貴様も随分と面の皮の厚い奴隷だな?」
「ひ、うぅっ…おゆるし、くだ、さ…」
罵倒を受けながら、帝の墓土を暴いたその手で蹂躙され。
国を辱しめた男を相手に足を開き、果てることしか許されないのが、今の自分。
「あ、ああ…」
身も、心も、ずたずたに引き裂かれて。
声にならない声と共に、涙が溢れて頬を濡らしていく。
雫は胸元の瑠璃にも落ち、悲しい輝きを放った。






「奉先様、痛みますか?」
夜明けが近くなった虎牢関の陣幕で、貂蝉が呂布の手当を続けていた。
日暮れまで関羽とやり合った際に、呂布の手足にもいくらかの傷は出来上がっていた。
呂布にしてみれば大した怪我ではない。だが、貂蝉の献身は何よりの癒しだった。
「大事ない。お前こそ平気か。疲れているだろう」
「いいえ…奉先様の勇姿に、どれ程励まされたか」
それは紛れもない、貂蝉の本心だった。
策謀のため、歌舞も武芸も磨いてきたとはいえ、女が戦場で舞うのは想像を超えた恐怖を伴った。
それを打ち消してくれたのは、呂奉先の武に他ならない。
圧倒的な力を誇り、兵士を薙ぎ倒していく彼の姿は、貂蝉の心を真に震わせるに値した。
「安心しろ貂蝉。珍しく骨のある奴が相手になった故につい戯れてしまったが、今日こそ必ずまとめて叩きのめしてやる」
「心強いお言葉を、ありがとうございます」
貂蝉はにっこりと微笑みながら頭を下げた。
その瞬間、呂布の目に、燭台の明かりに照らされた項が飛び込む。
陶器のような白い肌に残された、一点の赤黒い曇り。
「お前…この、首の跡は」
呂布は思わず、貂蝉の肩を押さえた。
貂蝉は戸惑いつつ、目を逸らして声を潜ませる。
「奉先様…私のことを想ってくださるなら、どうか、後生です。それ以上は」
「貂蝉…!」
呂布の脳裏には、醜い巨体を揺らしながら嗤う男の姿が浮かんでいた。
言いようのない感情が、呂布の腹の内で暴れ出す。

「貂蝉殿!洛陽より伝令を名乗る者が来ております!」
張遼が陣幕へと駆け込んできた。
自分を名指しされたことに、貂蝉は首を傾げる。
「私に、ですか?」
「この者ですが、心当たりはございますか?」
張遼は、後ろに控えさせていた男を貂蝉の前へと促した。
「お嬢様!」
男は、貂蝉を見るなり恭しく跪いた。
汗と土埃に汚れてはいるが、貂蝉も一目見るなり誰であるかを察する。
「っ…張遼様、この方は間違いなく私宛の伝令です。間者などの心配はありません!」
「わかり申した」
張遼は一礼し、さっと陣幕の外へと退出する。

「お義父様が伝令として雇っている使用人なのです」
貂蝉の簡潔な紹介に、呂布も納得した。つまりは王允の伝令ということになる。
「一体何の用だ」
呂布の問いに、使用人の男は顔を上げた。
鉄面皮と主人の王允に評されているその顔が、かすかに歪む。
「火急の案件にございます。董卓殿、独断により昨晩に洛陽を捨て、長安へと向かわれました!」
貂蝉も呂布も、あまりの衝撃に目を見開く。
「そん、な!?」
「何だとぉっ!?虎牢関が抜かれた訳でもないのに、何を腑抜けたことを!!」
驚きと同時に怒りを露わにする呂布へ、尚も使用人は通達する。
「どうやら、汜水関が抜かれた時点でそうする心積もりだったようです。我が主曰く、恐らく呂布殿がいる故、簡単に虎牢関は突破されまいと見越した上での暴挙と!」
「では…董卓様は最初から長安へ向かうつもりで、時を稼ぐために奉先様たちを虎牢関へ…!?」
一体、自分たちは何のために戦っていたのか。
全て董卓の、身勝手な思惑通りだったというのか。
父と自分の目論見は、初めから破綻していた。その事実が、貂蝉を徒労感に苛ませる。

「おのれ…おのれぇ董卓!」
呂布の怒りは、頂点に達した。
「貂蝉を泣かせたばかりか、俺を虚仮にするとは、いい度胸だ…!」
「それで、お義父様は…!?」
長安への同行を余儀なくされたのではないかと思い、貂蝉は声を震わせながら訊ねた。
「王允様は、洛陽郊外の隠れ処に避難する故、このことを一刻も早くお嬢様と呂布殿にお伝えせよ、と。長安へは同行せず、お二人の無事のご帰還をひたに願っていらっしゃいます!」
使用人の言を受け、呂布は目を伏せて押し黙った。
しかし、すぐにその目は見開かれ、貂蝉へと向けられる。
「…貂蝉、直ちに陣払いだ。洛陽まで戻るぞ!」
「奉先様っ…よろしいのですか?」
呂布の素早い決断に、貂蝉は少しだけ驚いた表情を見せる。
時間稼ぎのための戦だったとはいえ、志半ばで戦場から退くのは彼の本意とは思えなかった。
そんな貂蝉の心配を察したように、呂布は毅然と言い放った。
「俺は腰抜けの保身のために戟を振るうつもりなど、毛頭ない」
一段と、得物を握る手に力が籠る。
その顔からは、悪鬼羅刹も裸足で逃げ出しそうなほどの怒気が溢れていた。




2018/07/22

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