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曇天日和

どんてんびより

彷徨う星

守宮令の戸締りを終えた荀彧は、長く暗い廊下を歩いていた。
時折、隙間から差し込んでくる風が冷たく、身を縮こまらせる。

洛陽入りしてから初めての冬を迎えていた。
故郷の潁川もそれなりに冬は厳しいが、より北にあるこの地はやはり幾分寒く感じる。
黄河の向こう岸、北東に聳える雪山より吹き降ろす寒風は、人の身には堪えるもの。
「……はあ」
曲がりなりにも宮殿内部だというのに、吐く息が白い。
帰宅したら、何か温かい茶でも淹れようか。ぼんやりと考えた時だ。

「おい、大変だっ!」
知り合いの文官が慌てた様子で駆け寄ってきた。
この寒さだというのに汗をかき、息を切らしている。ただ事ではなさそうだ。
「一体どうされたのですか?」
荀彧の問いに、文官は本当にただ事ではない事態を告げた。
「陛下が行方知れずだ!どこを探してもいらっしゃらない!」




荀彧も捜索に加わり、宮殿の方々を捜し回った。
あちこちで文官や武官とすれ違い、確認し合う。まだ誰も見つけられていなかった。
「おいぃ、どうすんだ。見つからなかったら…」
「董卓様がこのことを知ったら…」
「滅多なことを言うもんじゃないぞ!」
皆が口々に喚き散らす。その顔は不安で真っ青になり、中には震え出す者もいた。
恐らく、捜索隊の誰もが脳裏に浮かべているのは、同じ顔だろう。今この宮中で最も権力を持つ男の、酷薄な笑みを。
董卓にとって帝は大切な存在である。『己の権限を行使する』その一点のみにおいて。
故に、帝の御身から目を離し、行方不明にしたとあっては、恐ろしい罰を喰らうのは目に見えていた。
「皆さん、落ち着いてください。陛下はまだ幼い身…お一人の足で遠くまで行けるとは考えられません」
荀彧も勿論、帝の安否を誰よりも案じていた。しかし、ここで焦っては行動が雑になるだけだ。
「だが、もしも賊に連れ去られた、などであったら…!」
「それはないと思います」
怯えながら悪い想像を口にした文官を、毅然とした声で制した。
「洛陽周辺では李傕殿や郭汜殿の部隊が目を光らせています。よしんば宮殿内部に侵入されたとしても、張遼殿や呂布殿が賊を見逃すはずがありません。それに…」
「それに?」
「……陛下は幼い上に小柄です。ですので、私たちが思うよりも、大人の目を掻い潜る術に長けているやもしれません。書庫や壁の陰など、宮中内部で人目に付きにくい場所に再度当たってみましょう」
つい口から出そうになった言葉を呑み込み、尤もらしいことを言って取り繕った。
取り乱すだけだった文官や武官たちも、荀彧の言が効いたのか、表情に落ち着きが戻る。
「そ、そうだな…もう少し詳しく捜してみようか」
「確かに、私も動転していて…かなりの場所を見落としている気もします」
「はい…では私も、今一度捜しに行ってまいりますね」
荀彧は一礼して踵を返し、捜索隊の一団から離れた。

「………っ」
表面上こそ涼しい顔を崩さずにはいられたが、内心は穏やかではない。
もう少しで、自分も『滅多なこと』を口にするところだった。

――それに、賊が侵入したとして、狙うは陛下ではなく董卓殿の方では。

あの場には董卓付きの武官もいた。それこそ言葉にしていたら、と思うと背筋が凍る。
だが、賊がもし入り込んだとしてその身柄を狙うのであれば。今一番その対象となるのは董卓で間違いない、その思考を覆すつもりはなかった。
悪政と暴挙の限りを尽くし、国中を恐怖に陥れている男。今、この国で最も怒りと恨みを買っている人物といってもいい。
黄巾の乱以降、ただでさえ混迷を極めているこの国が、あの男によって更に寿命を縮められようとしている。
それを何とかしたくとも、閑職の守宮令を任されている荀彧にできることは、ほとんどなかった。それが毎日、歯痒かった。
「陛下…」
流石の荀彧も、心中に靄ついた不安が過ぎる。帝は一体どこへ行ったのだろうか。
ただ、帝が突如として姿を消した理由。それが思い当たらない訳ではなかった。


「………うっ」
廊下の突き当たりまで来たところで、一段と強い冷気が体を襲った。
寒さに指を凍えさせながら、手にした燭台を向ける。上階へと続く階段が見えた。
「…あ」
日頃、その階段に続く扉は閉じられている筈。何故ならその先は、既に使われなくなった見張りの屋上。
その扉が開き、階段が見えているということは、つまり。



「陛下…!」
階段を昇り切った先の扉を開けると、そこに捜していた姿があった。
「あ…」
小さな人影がびくりと揺れる。燭台の光に照らされた顔は白く、そして怯えた目をしていた。
これ以上刺激しないよう、できるだけ穏やかな声で話しかける。
「失礼いたします…守宮令の、荀文若にございます」
「ああ…荀彧、か……おどろかさないでくれ」
「大変失礼いたしました」
荀彧は燭台を置き、畏まった。帝はその姿にじっと見入る。
淡い光の中に浮かぶ、美しく整った顔立ち。それに目を細めつつ、ぼそりと呟いた。
「…よかった、董卓じゃなくて」
掠れた、小さな声だった。しかし凍てついた空気は、その言葉を荀彧の耳にも届けた。
「……陛下」
何故このような場所に、一人でいるのか。その推測に確信を持つ。
董卓と、その息がかかった者たちに周囲を固められ、傀儡として弄ばれる日々。その苦しみは想像を絶するものがある。
すべてが嫌になり、たった一時逃げ出したくなっても、それは責められるものではなかった。

「うぅ……っ」
緊張が解けた反動からか、急に帝は体を震わせ始めた。
「っ……御身に触れる御無礼、どうかお許しを」
そう前置きしてから、荀彧は上掛けを広げた。万が一と思い持参した私物だった。
帝の体を包み込み、その上から優しく抱きしめる。
「あ……」
小さく冷え切った体に、荀彧の温もりが伝わっていく。
やがて、与えられる優しさに縋るように、帝は荀彧の胸元をきゅっと掴んだ。
「…このような場所にいては、御身に障ります。帰りましょう」
一人でいられる時の終わりを告げる言葉。帝にとっては、残酷でしかない言葉だ。
そのことに胸を痛めながら、荀彧は帝の背を撫でた。
「…………」
帝は何も言わず、荀彧の胸から顔を離す。そのまま、ぼんやりとした眼差しで頭上を見上げた。
「…きれいだ」
「えっ?」
「冬の空は、きれいだな」
幼い口から零れた感慨に、思わず荀彧も空へと視線を送った。
「…はい。空が澄んでいます」
帝が言う通り、そこには息を呑むほど美しい星空が広がっていた。
冬の寒さは厳しく、容赦なく人の身を削り、肌を裂くような冷たさに乾き切っている。
しかしその澄み切った空気こそが、星を輝かせる。どの季節よりも、清冽に。

「わたしは日が落ちてからずっと、ここにいた。ずっと、空を見ていた」
帝の人差し指がすっと伸び、ある一点を指し示す。
「あれは…」
細石のごとき星々が散らばる北の空に、淡く黄色に光る一つ星が浮かんでいた。
「陛下……もしや、天の帝に祈りを?」
「…いいや」
帝は力なく首を振った。そして、寂しげに言う。
「まったく動かぬな…と思って」
時と季節の巡りに従いながら動く星たちの中、ただ一つ変わらぬ場所にそれは在る。
古来その様を天宮の玉座、即ち天上の帝の坐す所として、地上の帝は祈りを捧げてきた。
「…帝は、動いてはならぬものなのか」
今にも泣きそうに瞳を揺らめかせながら、帝は荀彧を見た。
「帝だって、たまには別の場所へ行ってみたいとは思わないのだろうか。ずっとあそこにいるのはつらくないのか」
「っ、それは…」
坐して動かぬ天の星。それはこの帝にとって、決して事実のみを受け取れるものではない。
洛陽の宮殿を出歩くこともままならぬ、そんな己の境遇を重ねてしまうほどには、あの星が寂しく映るのだ。
突如天命を背負わされた幼子に、あの北辰を尊び仰ぐ意味など、まだ理解できる筈もなく。
「確かに、天の帝は動きません。そのことを窮屈に思われるのも道理です、が……」
一体、何と言えば。どう言葉にすれば、この方の無聊を慰められようか。
必死に思いを巡らせるうち、ふと、いつか眺めた夜空が脳裏に浮かぶ。

「…天の帝が動かぬこと。それが民草にとって、どういう意味をもたらすかはご存知ですか?」
「それは……いったい、なんだ?」
帝は首を傾げた。憂いばかりだった表情に、ようやく子どもらしさが覗く。
知らないことを知りたいと思う純粋な期待が、その目に満ちていく。
思いを真正面から受け止めながら、荀彧は語った。
「天の帝が坐すは、必ず北です。夜半に旅をする者たちや、迷い人にとっては月よりも…そしてどの星よりも、道標となります」
故郷から旅してきた道半ばの夜。あの時は三日月で、そのぶん星明りは強かった。
大小様々に煌めく星々の中、ただ一つ動かぬままでいる北の星。
あの光の位置を頼りに、方角を見定め。そしてこの、洛陽まで来た。
「常にそこに在る帝の光…そのおかげで、人は惑わずにいられます」
動けぬ寂しさを憂いている相手に、何故動かぬかを説いても、何にもならないかもしれない。
ただ、それでも。動かざる星によって救われる者がいる。せめてその意味だけでも、伝わればと。
「そう、か……動かぬことで…人の助けになっているのか」
暫し目を瞬かせた後、帝は納得したように頷いた。幾分、大人びた表情で。
「それが帝の役目…なのだろうな。うん、わかった」
「……はい、陛下」
本来ならば、帝から帝へと伝えられるべきなのだろう。生き方も、心得も、覚悟も。
しかし父帝は既に亡く、先帝はそう歳の変わらぬ少年。彼の人に国を背負う孤独を教え、寄り添える存在は、どこにもいない。
こんなにも聡いのに。時代の渾沌はあまりにも、幼き帝に対して無情だった。

「でも、荀彧……うわっ!?」
帝はもう一度、空を見上げた。
その刹那、体の芯より凍りつきそうな北風が吹き荒れ、二人を襲った。
「陛下っ、っう…!」
咄嗟に北へと背を向けて、帝の体を強く抱き込む。
「す、すまぬ荀彧!さむい思いをさせた…」
自分を守ってまともに寒風を浴びた荀彧に、帝は慌てて詫びた。
その優しい心映えが嬉しく、荀彧は微笑みを返した。
「いいえ、私のことはお気遣いなさらず……では、戻りましょうか」
「……うん」
帝は小さく頷き、荀彧の胸元へと頬を寄せる。温かい人肌、柔らかな香り。
幼子の凍えた心を温め、そして深いところへと根ざすには十分なほどの、優しさに満ちていた。

























執務室を出た荀彧は、暗くなった廊下をひとり歩いていた。
窓越しにも伝わってくる、夜空の星の輝き。また、冬が巡ってきたと実感する。
「え…?」
窓の向こう、屋上に人影が見えた。見張りの兵士かと、最初は思った。
だが。その人影が頭に冠するものの形に気づいた瞬間、ざっと血の気が引く。
荀彧はすぐさま駆け出した。あの屋上へと続く階段を目がけて。



「陛下っ…」
階段を駆け上がり、屋上へと躍り出るや荀彧は呼びかけた。
息を切らした声を受け、ゆっくりと振り向く。
今宵は上弦。西へと沈みゆく月光が、その玉体と顔を照らし出す。
「お一人でこのような所へ…今日は一段と寒うございます。どうかお戻りを」
「よい。朕に構うな」
近づいてきた荀彧を、帝は力のない笑顔で拒んだ。
「ですが…」
「星を見たくなった。それだけだ」
荀彧の困惑の視線から逃れるように、帝は天を仰いだ。冷たい空気に彩られた星が一面に煌めく。
その美しさに見入る眼差しもまた、冷たかった。
何も言えぬまま、せめてもと荀彧はその傍へと歩み寄る。

「…いつか洛陽でも、こうやって共に星を見たな」
空へと視線を送ったまま、帝はひとりごちた。
その言葉に、荀彧の脳裏にもまた、在りし日の光景が呼び起こされる。
「はい…覚えておいででしたか」
「忘れるものか」
今まで覇気のない声だった帝の語気が強まった。
何もわからぬまま、自分は雁字搦めな存在であると。ただそれだけをわかっていたあの頃。
忘れたくても忘れることのできぬ、遥か遠い日の思い出。

「あの時、ひとつ聞き忘れたことがある」
ようやく帝は、荀彧へと向き直る。表情は暗く思い詰めていた。
「何故天の帝は、存外弱い光しか放てぬものなのだろうな」
「えっ…?」
いきなり放たれた問いへの答えを、荀彧は持っていなかった。
時が止まったかのように動けぬ荀彧を前に、帝はすっと天上を指差す。
「帝の星とはいいしな…結局は、周りの星々の光には勝てぬではないか」
「陛下…何を、仰せです…」
荀彧は声を震わせながら、悲痛な面持ちで首を振る。
一瞬で悟ってしまった。帝の言葉が、単に北辰の光を語っているわけではないと。
その真意はあまりにも哀しく、自分で自分を虐げるものだ。
「あの星など…天の帝の近くにあったら今すぐ呑み込んでしまいそうだ。なんと強い光だろう」
帝の視線と指先は、北から南へと移る。青白き天狼の星が鋭く輝いていた。
「…背丈だけは、こうして一丁前になったのにな」
帝は自嘲気味に笑い、荀彧へと一歩近づく。
共に星を見た夜から廻った月日は、幼子の背を伸ばし、華奢な青年へと変えていた。
寒さに独り凍えていた眼は今、既に荀彧と似たような目線にある。
「曹操や、そなたのような星の前では暗く霞むほかない、か」
「え……あっ!?」
突如、伸ばされた手が荀彧の身を抱きすくめた。
「こうしてそなたを近くに置いて、光を呑み込めば…朕はもっと、輝けるのか?」
「陛下っ…何を……っ」
肩と腰を抱く手に、強い力が籠る。放すまいという明確な意志。
今までに見たことも、感じたこともない激情が、自分を捕らえている。
驚き。それ以上に恐怖だった。いきなりこんな感情をぶつけられることが。しかも、その相手は。

「……っ」
帝の鼻を芳香が掠めた。上品で、柔らかで。
寒さに耐え凌いでいた自分を包み込んでくれた、思い出の。
あの日の夜、この人は心から自分の身を心配して、慈しみ、そして守ってくれた。なのに今は、自分の腕の中で怯えている。
あの時と同じ香りを纏っているのに。あの頃と少しも変わらぬ美しさなのに。
「…すまぬ、荀彧」
帝は大きくため息をついて、戒めを解いた。
身柄を解放された荀彧は、茫然とした心地のまま、目の前の帝を見つめる。
「陛、下…」
惑い揺れる瞳は、どの星よりも綺麗に思えた。
この光を取り込んだところで、それは我が物ではない。自分はかき消されるだけ。

「さすがに寒いな。そなたに風邪を引かせたら曹操に睨まれる」
初めて、年相応の若さを湛えた笑顔が浮かぶ。
「まさか気づかれると思わなかった。帰るとしようか」
「……はい」
ようやく見えた微笑みが無理に作られている哀しさに、荀彧はただ頭を下げた。




「ああ…やはり天の帝は動かぬな」
後宮の入り口で荀彧と別れ、帝はひとり寝所へと向かう。
その途中、唯一外を見渡すことのできる廊下から、今一度夜空を眺めた。
月はついに沈み、他の星も僅かに位置が変わっている。変わらぬのは北を示す、かの星。

かつて荀彧は教えてくれた。天の帝が坐して動かぬ意味を。
あの時、本心ではやはり寂しい役目だと感じた。やはり帝は動いてはならぬのか、と。
だが、その寂しさと孤独に耐え、動かずにいることができる。それが帝の強さだと、今ならばわかる。

いざ動くことになった時、そこでようやく、現実に気づいたのだ。
洛陽から長安へ、再び洛陽に戻り、そして許昌へ。自分はただ流されゆくだけの、脆弱な帝だと。

「朕は…彷徨うだけだ」
最早、誰の道標にもなることはできぬ。




2019/01/26

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