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曇天日和

どんてんびより

至上の一振り

ぼたり、ぼたりと、重苦しい水音が鼓膜を揺らす。
とめどなく溢れてくる血が、彼の顔を。鎧を。赤黒く染めていく。
最早、誰が見ても手で押さえてどうにかなるような状態ではなかった。
「ぐっ…」
「夏侯惇殿っ…!」
ふらついた夏侯惇の肩を、荀彧は咄嗟に支えた。
一度は麒麟牙を構え直して息巻いていたが、眼球という急所を射抜かれてまともでいられる筈がない。
「衛生兵を!急いでください!」
矢の雨をどうにか回避できた兵士を見つけ、荀彧は指示を飛ばした。
血に塗れゆく夏侯惇の様子に青ざめていた兵士も、荀彧の焦った声に背筋を伸ばす。
「は、はいっ」
「いいっ!」
兵士の返事をかき消すように、夏侯惇が拒否の言葉を叫んだ。
「っ…夏侯惇殿!」
荀彧は、構わず行けと兵士に目配せしてから、夏侯惇に向き直った。

「…すぐに孟徳が来る。それまでに…周辺一帯、を。押さえる…っ」
得物を握りしめる力すら失いつつあっても尚、夏侯惇は闘争心を捨てていない。
いや、その闘争心だけで今、立っているようなものだ。
必死に押さえつけている左手の間からは、尚も血が流れ出している。
どくどくと脈打つ音が、この至近距離ではっきりと荀彧の耳にも聞こえた。
「無茶です、そのお怪我では」
「行くぞ」
制止の手を振り払ってまで、夏侯惇は城外へ向かおうとする。
だが、その足取りは覚束なかった。
流れ落ちる血が、夏侯惇の命の源すら押し流しているような気がした。

「なりませんっ」
体が、先に動いていた。
両の手を広げて、行く手に立ちはだかる。
「荀彧…退け」
夏侯惇は、険しい視線で荀彧を睨み据える。
血を失い青くなったその顔はさながら幽鬼のようであり、しかし迫力は武人のそれだ。
自分に注がれた圧に、背筋が一瞬震える。しかし言葉通りに退く気はなかった。
今ここで通してしまえば、この方は文字通り命を燃やして戦い抜くだろう。そして本当に、燃え尽きてしまう。
それだけは、させてはいけない。

「夏侯惇殿。貴方は我々軍師を己が目とするとおっしゃいました」
荀彧もまた、夏侯惇を真っ直ぐに見据える。つい先刻、彼が口にした決意を言葉にしながら。
「それはすなわち我らの策謀の剣となることと同義」
「…異論はない。存分に使え」
夏侯惇は舌打ちをした。理屈の言い合いで軍師に勝てる筋道が見当たらない。
ただでさえ、血が足らない状態だ。息も上がってきている。
このままではあっという間に言い包められて後方へ押し込められる。それは軍師としては正しい判断だろう。
だが武人としての誇りが、それに易々と呑まれてしまうことを許せずにいた。

「お前と問答している暇は…」
「夏侯惇殿」
言葉でのやり取りを拒む夏侯惇を、一際鋭い調子で制す。
涼しげな瞳に、氷のごとき青白い冷たさが宿った。
なんとしてもこの方を、止めなくては。
「貴方は一振りお選びになる際に、手入れの行き届かぬ刃こぼれた剣をお選びになりますか」
張りつめた覚悟が、荀彧の言葉を制止の刃へと変える。
「…っ」
夏侯惇の喉の奥が鳴った。刹那、思わず歯を軋ませる。
何よりも己が得物を大切に扱う武人にとって、屈辱を伴う決定打。
「私は使うのならば、刃こぼれも柄ゆるみもない万全の剣を所望いたします」
荀彧は尚も厳しく言い放った。
言葉の重みは、確実に心を突き刺す。それでも。
この方の執念を一時でも和らげてくれるのであれば、今は辞さない。
自分が望む刃は、血塗られて欠けた貴方ではないのだ。
「夏侯惇殿、どうか」
凛とした声と共に、荀彧の頭が下げられた。

「私に曇りなき至上の一振り(貴方)を」

「ふ…言ってくれる……」
荒い息遣いの中から、悔しさの滲んだ声が漏れる。
「今の俺、は、鈍ら刀…か」
「……」
礼を著しく欠いた物言いになったことは、十分承知している。
罵倒を受ける覚悟も、できていた。
だが、次に聞こえてきたのは思いの外、静か且つ諦めに近い声色だった。
「…わかった」
ハッとして、顔を上げる。全身を濡らす血に彩られ、蒼白な顔で揺らめく夏侯惇がそこにいた。
「少し…休む」
支えを求めて、足元から頽れる体を抱きとめた。
べたりと、肩の付近に粘り気を伴う水分の感触が走る。
それと同時に、血の臭いがより一層濃いものとなって荀彧を取り巻いた。
「後事は任せた、ぞ」
「はい、お任せを」
それっきり、言葉を失くした夏侯惇の背中を撫でる。
顔からは血の気が失せていたが、体はまだ温かく、脈もはっきりしていた。
鼓動が聞こえてくる安心感に、荀彧は小さく息を吐いた。

「じ、荀彧様、夏侯将軍は…っ」
駆け付けた衛生兵たちが、二人の周囲を取り巻く。
「ご無事です、早急に治療を」
「はっ」
次第に重みを増していく体に無理をさせぬよう気を付けつつ、衛生兵たちにその身柄を預ける。
両脇から抱き抱えられる形となったが、夏侯惇は大人しくそれに従った。
時折よろけながら衛生兵と共に遠ざかっていく背中は、いくぶん小さく見えた。

(あれだけの傷を負われてなお立たれるとは)
今更ながら、その常人ならざる精神力と体力には恐れ入る。
並みの人間であれば射抜かれた時点で痛みにのた打ち回り、気が触れていてもおかしくはない。
それを今の今まで耐え凌いだどころか、刺さった矢を自ら引き抜くという荒業までやってのけたのだ。
流石は、従兄弟として曹操の旗揚げから付き添い、修羅場を潜り抜けてきた武人というべきか。
(全く、ご無理をなさる…)
その凄まじさは、驚嘆するべきものがある。だが、心の臓に悪い。
あそこまで無理をして戦い抜いた先に、望むべき形での勝利があるとは限らない。遅かれ早かれ、反動が必ずや来る。
もしも止め切れていなかったら。彼の背後で、死が嗤って手招きをしていただろう。

軍師であるが故に。哀しいかな、命が平等ではないことを荀彧は知っている。
彼は間違いなく、この軍にとって失ってはならぬ命だ。
兵を数十人、いや数百人単位で失おうとも、彼一人の命には代えられない。
(あの方の武は、殿の覇業のために必要不可欠)
ここで失うわけには、いかない方。

「…っ」
手の震えが止まっていないことに、漸く気づく。
これは、何を以ての震えなのか。何を今更、怯えているのか。
(かような事態、この乱世では)
自分のものである筈なのに、儘ならない手をぐっと握りしめる。
情けないことだ。人が傷つく瞬間、命果てる瞬間など、従軍してから数え切れないほど見てきた。
そして今しがたも多くの将兵が命を散らし。目の前で夏侯惇も、あわやという重傷を負った。
誰もが、死と隣り合わせで生きている。そのことに、いちいち躊躇してなどいられない。
(……いや…違う…)
そんな現実は百も承知で、今まで、ここまで駆け抜けてきた。
ならば何故だろう、今回に限って。
一体私は何に怯えている?

(いけません)
何故か逸っていく脈に動揺しそうになり、胸を押さえた。
今はただ、己が責務を全うせねば。
夏侯惇が戦える状態に非ず、援軍も未だ到着していない今、この城の命運は自分に握られている。
一時凌いだとはいえ、いつまた伏兵、あるいは立て直した本隊に攻め込まれるとも限らない。狼狽えている暇などないのだ。
「急ぎ軍を再編いたします、各隊の報告を」
踵を返した荀彧の顔は、玲瓏な軍師のものに戻っていた。






結果として兗州を守り抜くことはできたが、被害は甚大なものとなった。
将兵は傷ついた心身を癒すことに努める他なく、内政に携わる者たちは早急な軍備の立て直しに追われた。
荀彧もまた、許昌に戻ってきてからは腰を落ち着ける暇もない日々を送っている。
数多くの書簡と竹簡を抱えて、右往左往して。それが自分の、日常になりつつあった。

「荀彧」
無味乾燥な日々の繰り返しの中、突然その瞬間は訪れた。
自分の名を呼ぶ聞き覚えのある声に、目が自然と見開くのがわかる。
「―――待たせたな」
振り返ったそこに、彼はいた。
誂えた黒い眼帯をしていても、醸し出す空気は変わらない。
残された右目は、曇りのない光を湛えてこちらを見つめてくる。
「これよりは存分に振るえ」
にっと緩んだ口元から、頼もしい言葉が紡がれた。
「っ、夏侯惇殿」

ああ。

胸の奥が瞬時に、温もりで満たされていく。
繁雑な日々の中に押し遣っていた蟠りが、氷解していく。

そうか、あの怯えは。

「おいっ、書簡が!」
まさか手にしたものを放り投げてまで駆け寄ってくるとは思わず、夏侯惇は慌てふためく。
そんな姿すら、今の荀彧には目映くてたまらなかった。
曹孟徳の覇を支えるに、なくてはならない方で。
そして最早、自分にとってそれだけの存在に留まらない。
失われるかもしれぬという現実に怯む程に、強い意味を持つことを悟る。

そう。この感情は―――


「お待ちしておりました」

私の、至上の一振り。
愛おしく思えてならないのだ、貴方を。









吉見キヨ様の惇彧漫画を文章に起こさせていただいたものです。
素敵な漫画をありがとうございました!
2018/06/24

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