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曇天日和

どんてんびより

約束しよう、勝利の杯を

夢でも見ているのか。
何故。どうしてここに、貴方が。
茫然と立ち尽くしたまま動けずにいる眼前で、美しく不敵な微笑みが浮かぶ。

「さあ、行こうか。この撤退の先で、必ずや勝利を得るために」










「近頃、どうにも落ち着かぬな。兵や民は大丈夫、なのか…」
拝謁した直後、帝の口から零れたのは不安の声だった。
「申し訳ありません。陛下の御心を煩わせてしまいましたこと、お詫び申し上げます」
荀彧もまた、表情を曇らせる。帝がこうも憂い顔を見せる気持ちは、十分に承知していた。
何しろ赤壁からここまで、怒涛の戦続きである。しかも赤壁は敗北。更に先日は、この許昌の城下まであわや戦場になりかけたのだ。
実のところ、赤壁の損害は人々の口の端に上がるような深刻なものではない。そもそも先日の危機的状況は、謀略の名の下に敢えて招いた事態だ。
しかし、許昌が未だかつてなく動乱したのも事実。軍の中枢による深謀遠慮など知る由もない者らにとっては、間近に迫った戦火など恐怖以外の何物でもなかったろう。
無論、一連の血腥い話は帝の耳にも届いており、玉座に在り続ける胸の内は穏やかではなかった。
帝の気がかりを慰撫すべく、荀彧は懇切丁寧に語った。
「ですが、どうかご安心くださいますよう。赤壁では確かに、我が陣営は勝利を得られず、撤退を余儀なくされました。しかし、軍備は諸将のお働きにより、既に立て直されています。なればこそ、勢いに逸った呉軍を迎え撃つことができましたし、先日の逆賊による乱も、迅速に鎮圧かないました。防備も見直された今、一時は動揺していた民も日常を取り戻しつつあります」
「……わかった。そなたがはっきりと言うのなら、そうなのであろう」
荀彧の朗々とした淀みない説明に安堵するかのように、帝は深く頷いた。
その上で今一度、心配そうな表情を浮かべる。
「しかし荀彧……そなた、少し痩せたように思う。くれぐれも無理はするな」
「っ……痛み入ります、陛下」
心遣いに畏まりながらも、荀彧はその言葉に内心で嘆息した。
政に戦線の支援にと、追われる日々を送ってはいる。だが、所詮は許昌に留まっている身。
曹操の魏公就任の話も立ち消えとなった今、荀彧を疲労させるのは純然たる多忙でしかなかった。

ふいに、最前線に従軍中である顔が思い浮かぶ。
私などより、彼の方が、よほど。





「気にし過ぎ……と言ってやりたいところだが、恐らくあんたの懸念は正しい」
「……ありがとうございます」
目配せに従い、荀彧は杯を差し出す。賈詡の手で満たされていく様を、黙って見つめた。
「何しろ赤壁で負けた後は、ここまで連戦連勝と来たもんだ。いっそ不気味なまでに、ね」
「ええ…実に鮮やかで……出来過ぎた話です」
「まあ、俺は楽で助かるが」
薄く笑うと、賈詡は一息に酒を呷った。空となった杯をやや乱雑に卓へ置いては、ため息交じりに呟く。
「あの性急さ、ちょいとばかし俺も覚えがある。本当、あの頃によく似て……いや、それ以上か」
賈詡の脳裏に去来するは、下邳で呂布を仕留めた頃の彼の姿だ。
享楽者でありながら、縦横無尽に策を打ち出しては、曹操の行く道を支えていた。
顔色が日毎、悪くなっていくのも構わずに。
「まったく……こうも忙しなくされたら、奢りたくとも奢れないね。杯を交わす暇すらありゃしない」
「やはり、そうなのですね」
思わず荀彧は、身を乗り出し気味に反応した。それを見た賈詡の顔から、笑みが消える。
「…で?」
凡人であれば逃げ出したくなるような、鋭く探る視線。暫しの逡巡の後、荀彧は口を開いた。
「少し、前の話です。夜半に何処かへ赴く姿をお見かけしました。後を追ったのですが…」


『郭嘉、様……!?おいおい荀彧様、馬鹿言っちゃあいけませんぜ。あのお方はとっくに亡くなったでしょう?』
姿を見失った先で、せめて行方を知らないかと酒場の店主に声を掛けた。
その返事は、荀彧の背を凍りつかせるものだった。
『だ、大丈夫ですか?荀彧様、疲れてるんじゃありませんか…?』
真っ青な顔で、心底から気遣われている。口裏を合わせているという風でもない。それ以上は何も聞けなかった。

『ああ、郭嘉様かぁ……久方ぶりにその名を聞きました。突然、いかがしました?』

『いやですよ、からかってるんですか?荀彧様ってば、案外趣味がお悪うございますなぁ』

『はあ、あんな上客、滅多にいませんからね。化けてでもいいから、もう一度お目にかかりたいものですわ…』

他の店で話を聞き出そうとしても、ほぼ同じ結果に終わった。
ある者は久しく聞かなかった名に驚き、ある者は不謹慎だと眉を顰め、またある者は在りし日を懐かしみ。
確かなことは、彼はこの街にとって過去の人であるということ。その認識は、自分たちのようには覆されていない。
つまり、一度として足を踏み入れていないのだ。あれほどに愛していた、夜の華やぎと喧騒の中に。


「んー……まあ、復帰してから従軍に次ぐ従軍だ。寄りつく暇もないのはあったろうが」
賈詡は口の端を釣り上げた。ただし目に笑みは戻っていない。
「どうやらあの男、本気で乱世に片をつける気らしい」
「……はい」
ようやく、荀彧も杯に口をつけた。久方ぶりに喉を通る酒の味。彼が何を置いても好んでいる筈の味。
それを享受する愉悦を投げ捨てて、彼は今、誰よりも生き急いでいる。
すべてはただ、曹操のために。天下のために。










またしても、戦勝の吉報が届けられた。
ほどなく建業より、駐屯組ではない将兵らが帰還する。一時引き揚げとなった者の中に、その姿もあった。

「郭嘉殿」
朝焼けが目に眩しい城の中、久方ぶりに廊下を歩く背を見かけた荀彧は、声をかけた。
「ああ、荀彧殿……久しぶりだね」
振り返ったそこに、相変わらずの蕩けそうな甘い笑みがある。そう、相変わらず、その筈。
しかし思い込むほどに、荀彧の目は些細な違和を捉えてしまう。
「お加減は……いかがですか?」
「ああ……平気だよ。いつも気にかけてもらってすまないね」
少し瞬いた後、郭嘉は苦笑を浮かべた。
身の不調をはっきりと悟られたことがある相手からの、案じる問い。流石にそれを、端から無碍にはしづらいらしく。
「でも、本当に調子はいいんだよ。これも、皆が小気味よく策を成功させてくれるお陰…かな」
「郭嘉殿……」
その言葉を、できることなら信じたい。されど強がりに聞こえてしまうのは、隠し切れない気配のためか。
瞳の下に、うっすら残る青い隈。色が抜け落ちた、以前にも増して白い頬。
この目に映る彼は、決して健やかな姿とはいえない。
「もちろん、荀彧殿にも感謝しているよ。此度の遠征でも、兵站の配置に増援の機、すべて完璧だった……ありがとう」
「もったいないお言葉です。それが、私の役目ですから…」
軽く頭を下げた後、荀彧はこのまま引き止めようと更に言葉を続けた。やはり、彼には休息が必要だ。
「それより、ここまで夜通しの行軍でお疲れでしょう。少しお休みになっては」
「おっと、これから朝一番で曹操殿と帝に戦況の報告をしなくては……では、また」
こちらの意図を嗅ぎ取ってか。立ち話は無用とばかりに踵を返し、郭嘉は早足で立ち去っていく。
「あ、お待ちくださ……っ?」
追いかけようとしたが、その時、何かがふわりと浮かび、荀彧の目の前を横切った。
それに気を取られ、視線を泳がせたわずかな隙に、郭嘉の背は曲がり角の向こうに消えていた。

「これは……」
廊下の床に舞い落ちた物を拾い上げる。乾燥し切った、何かの葉。
「っ」
臓物を、鷲掴まれる心地がした。





「……失礼します」
主がいなくなって久しい。そうとわかっていても、ここに入る時、声をかけずにはいられないのだ。
がらんどうとした救護室に、荀彧は足を踏み入れた。

赤壁での戦を控えた過日、華佗は曹操の不興を買って処刑された。
それ以来、この救護室は管理する主を失ったままで、今日に至っている。
時折曹操が招き入れた医師や薬師が出入りすることはあるものの、誰も正式に典医として常駐するには至っていない。
将兵らも、独自に知り合いの医者や市井の薬師に頼る者が多くなり、自然とここに人は寄りつかなくなった。
唯一、荀彧だけが。政務の合間に足を運んでは身を休ませたり、使用人に清掃させる等していた。
華佗が残した生薬も多く残されており、乞われれば、それらを求める者たちに渡す役も引き受けている。
救えなかった後悔と慚愧が、そうさせるのかもしれない。華佗という異能の才をむざむざ失わせた側の、せめてもの責務として。

救護室の一番奥の部屋に、生薬の収納された棚がある。荀彧は真っ直ぐそこへ向かった。
懐には、先ほど拾った葉を忍ばせている。彼の身から落ちたと思しきもの。
今の季節、まだ樹木は青々として、落ち葉には早い。ならばやはり、彼の落としたものと見てよかった。

この葉には、見覚えがある。

自分は医の道に明るくない。だがかつて、この場の主だった者と、交流の末に得た知識の蓄積はある。
見当違いでなければ。否。この場合、見当違いであった方がどれほどましだろうか。
徒にざわめく胸の奥で、仕舞い込んだやりとりが蘇ってくる。


『もう長くないでしょうな』
『っ………!』
色良い返事を期待していたわけではなかった。覚悟していた筈だ。
明らかに命を削るような咳をする彼を見た時から。最期まで、己が成すべきを成したいと訴えてきた目を見た時から。
しかし、華佗の言葉は容赦なく、どこかに一縷の望みを託していた己が愚かさを炙り出す。
『……まったく。誰も彼も、己の体ひとつ顧みるってことをできないのですから』
『……………』
『すみません……貴方には、下手な期待を持たせたくなかったので』
それ以上の言葉を紡げずに俯く荀彧に、華佗は申し訳なさそうな視線を送った。
しかしその直後、聞き捨てならない台詞が吐き出される。

『まあ、対処する術がまったくないとは言いませんが』

瞳が見開くのがわかる。情けないとは思いながら顔を上げた。
『何か…あるのですか?』
『残念ながら、人の道にはえらく反しております』
華佗は大げさに嘆息したかと思うと、棚から一つの麻袋を引き出してきた。
ゆっくりと目の前に差し出された、その刹那。華佗の目と声色が瞬時に冷え切る。
『この世の毒草にはいくつか、目覚ましい強壮作用を持つものがございます。煎じて飲むと、上手くいけば一時、体を蝕む苦しみから解放されますし、気力も取り戻したように見える。ただし必ず成功するとは限りません。苦痛にのたうち回って終わるだけかもしれない。そして、どちらに転ぼうが結局は……』


「『避けられぬ死が待っています』」


華佗の遺した言葉を反芻しながら、それを棚から引き抜く。
あの日あの時見たものと同じ、麻袋。しかし外から見てもわかるほどに、中身が少なくなっている。
封を開け、乾いた音が擦れ合う中に手を差し入れて。指に触れた一枚を、そっと摘まみ上げた。


あの時は、試されているのだと思った。突然、あのような話を自分に持ちかけてくるなど。
厳冬の月より凍てついた、こちらの心を抉るような華佗の目。今も尚、瞼の裏に焼きついている。
命の理を捩じ曲げてまで、生かしたいか。己の人倫を問われている気がした。


『……できません』
断腸の思いで首を振った。
彼の命、救えるものなら救いたい。しかし、このような遣り口は望まない。
既に死を覚悟している彼に対して、人の道に外れた術を使ってでも生きてほしいと願うのは、こちらの傲慢だ。
『貴方なら、そう仰ると信じておりました』
わずかに口許を緩ませると、華佗は即座に手を引っ込めた。
冷徹無比な視線がようやく常の気配に戻り、その上で寂しげな色を帯びる。
『治すべきものを治すのが医師にございますれば。そう容易く、人の命まで操りたくはないものです。それが惜しい輝きに満ちていた、とて……』


今思えば。華佗は、知っておいてほしかったのかもしれない。
犠牲と引換えに、一時だけでも命を呼び戻せてしまう術が存在することを。
禁断の道を選び取ってしまった者が払う、代償の大きさを。
そして、すべて見越していたのかもしれない。彼ならば、その道を躊躇いなく行くであろうことを。
ならばその苦しみを解し、寄り添い。命果てる日まで、せめて支えとなれ、と。


「………ああ」
天井を仰いだ。
指先が引き上げた葉は、同じ色に枯れ、同じように丸まって乾燥していた。










今日の陽も傾くという頃、荀彧は久しぶりにその扉を叩いた。
「郭嘉殿……いらっしゃいますか?」
声をかけ、返事を待つ。どうかここにいてほしいと願いながら。
やがて中から足音が響き、こちらへ近づいてくる。ギィ、という軋む音を立てて扉が開いた。
「やあ……どうぞ」
「はい…失礼いたします」
頭を下げながら、懐かしい空間へと足を踏み入れた。

「ふふっ、こんな格好で出迎えてしまってすまないね」
軽く笑う彼の姿は、常の装束でもなければ平服でもなく。寝着姿に上掛けという格好だ。
よく見れば、奥の寝台には皺がある。今まで横になっていたらしい。
「いえ、こちらこそ申し訳ありませんでした。お休みのところを…」
謝りつつ、荀彧は目の前の卓に視線を落とした。置かれている耳杯は満たされている。
仄かに漂う香りから、茶だとすぐに察した。
「いいや……大丈夫だよ。それよりどうしたんだい、そんな改まって」
棚からもうひとつ耳杯を取り出すと、郭嘉は荀彧の前に差し出した。
茶壺より注がれていく、薫り高い茶。何でもないような光景なのに、胸が詰まった。

かつて、互いの宅に通い合っては共に語らい、共に夜を明かしたあの頃。
訪いの挨拶に差し出す一杯は決まっていた。
自分がもてなす側の際は、茶。そして彼は、酒。必ずと言っていいほどに。

「いただきます」
初めて振る舞われた茶の杯に、粛々と口をつけた。爽やかな苦みが喉を潤す。
耳杯を置いてから、荀彧は切り出した。
「……殿より、郭嘉殿にお渡しするよう仰せつかった品がございますので、参じました」
「なるほどね……随分と仰々しい荷物だと思ったら」
郭嘉も察したように頷く。視線は、荀彧の脇に置かれた典雅な包みに注がれていた。
「どうぞ…お納めくださいますよう」
尚書令然とした表情で、荀彧はそれを静かに荷解いた。

「これ、は…」
郭嘉の眼前に広げられたは、蒼穹を写し取ったかの如く色鮮やかな衣。
窓からの夕陽を浴びて、絹はより一層光沢を放ち、施された金刺繍は絢爛な輝きを見せる。
滅多なことでは動揺を見せぬ郭嘉も、余裕の微笑みを消し、真剣な眼差しでそれに見入った。
「…赤壁からここまでの目覚ましいお働きを讃え、特別に誂えさせたと、殿よりお伺いしております」
「それは…参ったな。まだ道半ばというのに、こんなにも素晴らしい衣をいただくなんて。気が引けるよ」
「いえ…謙遜されることはありません。郭嘉殿の功に相応しい装束かと」
困ったように破顔する郭嘉に、荀彧はあくまで凛然とした令君の眼差しを向ける。
「ただ、かなり以前のお召し物と同じ寸法で誂えたとのこと。今の郭嘉殿に相応しいかどうか、気がかりで…」
一呼吸置いてから、斬り込むようにしてその言葉を放った。

「できれば今、この場でお召しになっていただけますか」

遠くで、烏の鳴き声がする。風が、窓の格子をざわめかせる。
ただそれのみが部屋に響き、やがて静まり返った。
互いの呼吸の音も聞こえてこない静寂が、互いを包む。


「……ふ。お針子の女性たちも、気が気でないだろうからね。確かめさせてもらおうかな」
破ったのは、郭嘉の方であった。
嘆息しつつ包みを持ち上げると、寝台へ向かう。そこに装束が広げられる。
彼は背を向けたまま、寝着の帯を解いた。肩がまず露わになり。脱いだ白布は、するりと床へ落ちた。

「……………!」
咄嗟に、口許を抑える。しなければ、悲鳴を上げていたかもしれない。
それほどまでに、荀彧の目に映った光景は想像を絶していた。
端整な彼の貌からあまりにもかけ離れた、異様且つ不気味な背。

耳にしたことがある。死して後、暫しの時を経た体には、それは悍ましき紫色の痣が浮かぶ、と。
聞けば、体に残る血が、皮膚に近いところに現れるのだという。
知識としては知っている。しかし、前線の危地に身を置いていた頃ですら、裸の死体を具に検分した経験はない。
実際にどのような見た目かなど、知らない。知る筈もないのに、容易に思い至ってしまった。
嗚呼。これか。これなのだ。この背に浮かぶ痣こそが、死の刻印。

最早人の肌の色を成していない背が、真新しい装束で覆われていく。
その様を、悄然と眺めるしかなかった。


「さて、どうかな」
にこやかに振り向いたその姿は、あまりにも壮麗で、峻厳で。
大袈裟ではなく、神々しい、とすら思った。
「うん……流石は曹操殿が直々に雇い入れたお針子たちの仕事だ。とてもいいね」
「……本当に、よく……お似合い、です」
喉から絞り出した声は、自分でも情けなくなるほど震えていた。
それに苦笑しながら、彼はゆっくりと近づいてきて。伸ばされた手に、頬を取られた。
白く乾いた指先が、眦に滲んだ涙を拭ってくる。
「ふふっ……ずいぶんと涙脆くなったね」
「郭嘉…殿っ」

できることなら、今すぐにでも寝着を着せ直して、寝かせてやりたかった。
そして、心から訴えたかった。どうかもうこれ以上、戦場へと赴いてくれるな、と。
しかしそれはできない。しては、ならない。
どれほどの決意を秘めて、どれほどの苦しみを抱えて、彼がここまで舞い戻ってきたことだろう。
医師でありながら、命の理を歪める道を彼に指し示した華佗の胸中、いかばかりであっただろう。
それぞれが、大きな代償を払い。それでも天下のため、曹操のためにと、禁を犯して。

蒼く気高き衣の下に隠された、醜く痛ましき姿。それに自分も、皆も支えられ、生かされていると思い知る。
今ここに、彼がいてくれなければ。天下を目前としたこの域にまで辿り着くこと、果たして成せていたであろうか。
ならば、自分が彼の歩みを止めることなど許されない。自分が成すべきはただ、黙って共に彼と在ること。


「荀彧殿。ひとつだけ、お願いを聞いてほしい」
透き通った瞳が、柔らかくも強く、こちらを射抜いてくる。
「実は此度ばかりは、柄にもなく願掛けをしていてね。成すべきを成すまで……酒は口にしない、と」
「………」
黙って頷いた。詭弁であるとはわかっていた。口にしないのではなく、できないのだと。
今の体で気安く酒など飲もうものなら、長らえた筈の命もそこで尽き果てるだろう。
それほどまでに彼が綱渡りの中で生きていることは、あの背が物語っていた。
「だから…次に飲む酒は、最高の祝杯と決めている」
「郭嘉殿、それは……」
彼が望むは、曹操の覇業。そして、すべてを成し遂げた先に待っている美酒。
最高にして最期の祝宴への、誘いの言葉。

「お付き合い、いただけるよね?」
夕焼けに染まった郭嘉の顔に、歴然とした深い翳が差した。


「……はい。殿が乱世を越えた暁には、必ず」
彼が背にする紅は、落日の火。今ひとたび掴み取りし命の刻限は、ひたひたと、背面に忍び寄る。
その日は、もう遠くない先で絶対に訪れる。だから、なんとしても。
今度こそ命が灰となって燃やし尽くされてしまう、その時までに。天下を、我らで。
「荀文若……最後まで、郭嘉殿をお支えいたします」


約束しよう。
貴方と、勝利の杯を交わすため。




2019/09/23

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