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曇天日和

どんてんびより

曹操魚頭めしあがれ!

「っつ……」
右肩にずんとした痛みを感じ、荀彧は棚の竹簡へ伸ばそうとした手を止めた。
肩を幾度か回しつつ、左手で軽く揉む。自己判断でも、凝り固まっていることは感じた。
武芸の鍛錬も折に触れて行っているとはいえ、執務室で筆を握っている時間の方が圧倒的に長い。肩凝りはつきものといえる。
「……仕方ありませんね」
幼い頃はどれほど書に明け暮れようとも、このように重く枷のような痛みとは無縁だったものだが。
硬くなってしまっている我が身に苦笑しつつ、改めて荀彧は目的の竹簡を引き抜いた。

「荀彧、いるか?」
渋みの利いた低い声が響いた直後、その声の主が書庫へと入ってきた。
「探したぞ」
「夏侯惇殿……いかがなさいましたか?」
突然現れた夏侯惇は、やや焦った様子と見受けられた。
「忙しいところすまんな。実は孟徳が、軍議の後から頭痛が起きたと訴えている」
「本当ですか」
荀彧は咄嗟に、午前の間行われた軍議の場を思い起こした。
「確かに、時折蟀谷の辺りは押さえていらっしゃいましたが…」
曹操が慢性的な頭痛持ちであることは、近しい者の大多数が知るところ。
眉間や蟀谷を押したり、顔をふいにしかめたりする様は、最早日常的な光景だ。
午前中の軍議でもそういった仕草は何度か見られたものの、それでもいつもと変わらぬ範疇という認識だった。
「本人が言うには、今朝も華佗の世話になって、軍議の間は問題なかったらしいんだがな」
「な……その上で頭痛が起きていると」
荀彧は驚きに目を見開いた。
華佗の治療を受けた上で尚も、頭痛が発症しているというなら、相当の重症ではないか。
もしかしたら、何か重篤な病かもしれない。
「でしたら、早く華佗先生をお呼びしなくては」
「頼む。たかが頭痛と馬鹿にもできんからな」
そう言いつつ、夏侯惇は眉間に寄せた皺をくっと押さえた。
隻眼となって以降、夏侯惇も頭痛や疲労感に悩まされるようになった一人だ。その厄介さはある程度身に染みている。
「わかりました、今すぐ参りましょう」
荀彧は今しがた手に取った竹簡を戻すと、夏侯惇と連れ立って書庫を出た。



「……ところで、夏侯惇殿」
救護室へと向かう最中、ふと荀彧の中にある疑問が湧いた。
隣を歩く夏候惇を見やり、訝しげに視線を送る。
「どうして華佗先生の許へと直行せず、私をお探しに?」
曹操の大事とあらば、夏侯惇の性格であればすぐさま行動を起こしそうなものだ。
何故、自分を探すなどという回りくどいことを。
「……俺が行くより、お前が取り次いだ方が奴も素直に動いてくれるだろう」
目線を泳がしつつ、夏侯惇は忌々しげに言った。
「夏侯惇殿、何もこのような時まで……」
流石の荀彧も困惑した眼差しを送る。もしやとは思ったが、実に単純な理由。要するに、自分から華佗には会いたくないのだ。
夏侯惇も、華佗の前では一人の患者なのだが、困ったことに一方的に毛嫌いしていた。
本来ならば、彼もまた定期的に診察を受けねばならぬ身。荀彧も何度か進言しているが、それも悉く突っ撥ねている。
そんな状態が続いている最中に華佗の許へ行けば、恐らくは嫌味の嵐だろう。後ろめたさもある、というのは感じ取った。
「確かに華佗先生は辛辣かもしれませんが、決して人の悪い方ではございませんのに」
数多くの修羅場を潜り抜けて来た猛将が、医師一人を前にしてこのように渋り、自分を頼る。思わず荀彧は苦笑した。
それを見て、夏侯惇はやや意固地な声を上げる。
「お前は奴のお気に入りだから、そんな呑気に構えていられるんだ。鍼と一緒に罵詈雑言を刺し込まれる俺達の身にもなってみろ…ちっ」
今までに受けた悪口の数々を思い返しては、また眉間が軋む心地がした。
武将からしてみれば、あれほどまでに厄介な相手もいないのだ。
救護室の世話になるのは、圧倒的に武働きに従事する者が多い。そして華佗は、彼らに対してやたら厳しく、気難しい。
「それは華佗先生が、病や怪我、人の命に、真摯に向き合っていらっしゃるからではないでしょうか。故に、軽く考えているように見える方に対しては、厳しくお諌めになるのでしょう」
華佗ほどに人体の探求と己が技術の研鑚に努め、病人と向き合う医師など、見たことがなかった。
夏侯惇の言うように、将兵らが辛辣にやり込められている所は何度も目撃している。それは曹操に対しても同じくで、時々ひやりとさせられる。
しかしその背にあるのは、医師としての野太い信念に他ならない。それをこそ、荀彧は好ましく思っていた。
「わかっている。だがな……」
荀彧の言い分も理解できるし、真理だ。何より、夏侯惇自身があの医師の腕を認めている。
とはいえ、人としてとことん反りが合わないというのも、また事実。理で片をつけられない部分が、華佗を忌避してしまうのだ。
情けなくはあるが、こればかりは本能に近いものであり、どうしようもなかった。
「……とにかく!奴にはお前から上手く言ってくれ」
苛立ち紛れに、夏侯惇は頭をガリガリと掻いた。
「はい、お任せを」
この分では、一生二人がわかり合うことはないのだろう。それも致し方なしか。
内心残念に思いながら、荀彧は頭を下げた。





「華佗先生、失礼いたします」
荀彧は一礼してから救護室へと足を踏み入れた。
「……華佗先生?」
二度、三度と部屋を見回す。しかし、目当ての人物はどこにもいなかった。
まだ日は高いし、そもそも救護室には鍵がかかっていなかったから、既に本日終いということはないだろう。
「……っ?」
荀彧の鼻を、覚えのある匂いが掠めた。この僅かにツンとした、爽やかな芳香は。
「どうした。いないのか?」
出てこない荀彧を気にして、夏侯惇も救護室へと入ってきた。
「ええ……一時的に席を外されているだけ、だとは思うのですが」
「ちぃっ。肝心な時にいないとは……ん?」
夏侯惇の鼻がぴくりと動く。同じく匂いに気づいたらしい。
「生姜か?」
「はい……煮出しているのやもしれません。見てまいりますね」
匂いが奥の方から漂っていることを察した荀彧は、台所が設えられている小部屋へと向かった。

「華佗先生、いらっしゃいますか…?」
覗き込むようにして、荀彧は声をかけてみた。
「これは……」
華佗の姿はなかったが、台所の竈に置かれた小鍋から、仄かに湯気が立ち上っている。
近づいて鍋を覗くと、生姜が湯に戻されていた。
「何か、足りない素材を調達しに行かれたようですね。すぐお戻りかと思いますが」
「……仕方あるまい」
夏侯惇は、眉間を押さえながらため息をついた、その時だ。

「おやまあ、珍しいこともありますな」
驚いたような声が、背に覆い被さった。
振り返った夏侯惇は、目に飛び込んできた男の格好に、思わず眉を吊り上げる。
「……昼間から釣りとは、いい身分だな」
華佗は日除けの笠を被り、貧相な釣竿を肩にしていた。左腕には竹籠を抱えている。
元より見た目に頓着しない男ではあるが、今はどこからどう見ても、暇をもて余した釣り人だ。
「なんです、たまにしか来ないくせして。私が少し外出していた程度で文句を言える筋合いですかな?」
華佗も負けじと、狐のような鋭い目で夏侯惇を睨み返す。
いきなり険悪な雰囲気が漂う二人の間に、荀彧は慌てて割り込んだ。
「華佗先生、お忙しいところ申し訳ありません!お頼みしたいことがございまして」
「これはこれは……貴方様のお願いとあらば、聞かないわけにはいきませんね」
夏侯惇の背後から現れた荀彧を見るなり、華佗は打って変わって優しい微笑みを向けた。
「実は」
「わかっておりますとも。曹操殿の頭痛が、一段と重いのでしょう?」
「え……っ」
驚きのあまり、荀彧は口許を抑えた。まだ何も言っていないのに、何故。
それは夏侯惇も同じくで、右目を大きく見開いた。
「何でわかった」
「それにしても、ちょうどよいところに来てくれました」
問いには答えず、華佗は竹籠の蓋を開いた。びちびち、と妙な水音がする。
気になって、夏侯惇と荀彧も覗き込んでみた。
「これはまた、見事な……」
魚が一匹、籠の底で体をうねらせていた。かなりの大きさだ。
「こいつは……ハクレンか?」
「おや、わかりますか。それなら話が早いですね」
一発で魚の名を言い当てた夏侯惇に対し、華佗はニヤリと笑った。
かと思うと、ハクレンの尾を引っ掴み、竹籠から引っ張り出してみせる。
「では夏侯惇殿。こやつを捌いてくれますか」

「「は?」」

呆気にとられた夏侯惇と荀彧の声が重なった。
「ああ、泥抜きなら井戸水でしっかりやってきましたよ?とりあえず捌くだけで結構ですので」
「そういう問題ではないわ!」
「華佗先生。あの、私たちは、殿の頭痛のことで……」
夏侯惇の怒りは尤もだ。荀彧も、あまりの急な展開に混乱する。
ここには曹操の頭痛の件でやってきたのであって、何故いきなり、魚を捌かなければいけないのか。
しかし、華佗はあくまでも泰然として言い放った。
「ええ、ええ、もちろん。ですから、曹操殿の頭痛を治してほしいのなら今すぐやってください」
「な ん で だ !」
夏侯惇渾身の怒声が、救護室に響いた。それでも華佗は動じるどころか、呆れた眼差しを返す。
「なんでもです。いいからさっさとやんなさい」
「おんのれ……!」
言葉尻までぞんざいな扱いを受け始め、いい加減、夏侯惇の額に血管が浮き上がる。
だが、これ以上押し問答をしても無駄だろうとは経験則で知っている。
仕方なくハクレンを受け取ると、夏侯惇は乱暴な足取りで台所へと向かった。
「か、華佗先生……これは一体、どういう御趣向なのでしょう?」
理解不能な状況に、さしもの荀彧も途方にくれるばかりである。
華佗はただ、愉快そうに笑った。
「ご心配なさらず。曹操殿の頭痛、必ず治してごらんにいれましょう」

「ええい、くそっ!」
こみ上がってくる怒りを露わにしながら、夏侯惇は包丁を握った。
「なんで俺がこんなことを…!」
口ではそう文句を呟くが、手つき自体は思いのほか冷静だ。
ハクレンをまな板の上に押さえつけると、迷いなくえらに刃を差し入れる。
「あ…………」
今しがたまで生きていたハクレンが、あっという間に捌かれて、下ろされていく。
流れるような速さで行われる作業に、荀彧は思わず見入ってしまった。
「……餓鬼の頃はよく、孟徳や淵と釣りをしたものだ。その場で焼いて、皆で喰らったりしてな」
荀彧の視線に気づいたのか、夏侯惇はふっと表情を緩めた。
「物珍しいか?」
「っ、はい。申し訳ありません、無遠慮に眺めてしまって……」
はっと我に返り、荀彧は詫びた。その上で正直に告げる。
「夏侯惇殿のお手並みが素晴らしくて。つい、見入ってしまいました」
「そうか」
短く返事した夏侯惇の口の端に、笑みが浮かぶ。
荀彧に褒められたのは、満更でもなかったらしい。先ほどまでの怒りは和らいでいた。

「終わったぞ」
まな板の上に、綺麗に下ろされたハクレンの身と頭が並んだ。
「はいはいご苦労様です。では、曹操殿をこちらまで連れてきてください」
華佗は竈の火の具合につきっきりで、夏侯惇の方を見もせずに次の指示を出した。
傍若無人極まる態度に、夏侯惇の額に再びの青筋が浮かぶ。
「何なんだ一体……!」
「夏侯惇殿、どうかここは抑えて……私も共に参ります」
荀彧は宥めるのに必死だった。自身もよく飲み込めていない状況だが、今ここで諍いを起こすのは避けたい。
「おっと、私から逃げてはいけませんよ、荀彧殿」
揃って台所を立ち去ろうとする二人を、華佗がすかさず制した。
「荀彧殿は、私の手伝いをお願いします」
「えっ……は、はい。私にできることでしたら何なりと」
咄嗟に荀彧は畏まった。華佗は、にんまりと笑みを浮かべる。
ろくでもない空気を察知した夏侯惇は、射殺さんばかりの視線を向けた。
「何をさせる気だ」
「嫌ですね、何でもかんでも疑り深い性分とは。素材を仕分けてもらうだけですよ」
涼しい顔で華佗は言い放ち、さっさと出ていけと言わんばかりにしっしっと手を払った。
「……荀彧。無理難題を吹っ掛けられたら逃げろ」
「だ、大丈夫です夏侯惇殿。殿をよろしくお願いします」
戦場並みの殺気を漲らせる夏侯惇に胃を痛めながら、荀彧は頭を下げた。
ずかずかと去っていく足音に混じって、歯軋りの音も聞こえたような気がする。

「さて……」
一息ついた華佗は、魚の乗ったまな板をどかして、新しいまな板と包丁を用意した。
その上に小鍋で湯戻ししておいた生姜を並べ、一気に刻んでいく。
「荀彧殿。後ろの棚から、私が言う薬を出していただけますかな」
「かしこまりました」
「まずは一番右の上段から棗の実を六粒。それと、下の段の白芍を……」
「は、はい……」
棚も見ず、生姜を刻みながら指示を出す華佗に面食らう。棚のどこに何を置いてあるか、完璧に把握していなければできない芸当だ。
記憶力に心服しながら、荀彧はひたすら言われた通りに生薬を取り出していった。

「華佗先生、こちらで全部……わっ」
荀彧が声をかけようとすると、ジャッと大きな音が耳を劈いた。
既に華佗は、次の作業に移っている。火にかけられた大きな鍋から油が跳ね返り、生姜の焼ける匂いが漂った。
「ああ、近づくと危ないですよ。ちょっとそのままで……よいしょっ」
華佗は、夏侯惇が捌いたハクレンの頭を手に取った。そのまま、鍋へと無造作にぶち込む。
ジュワッという激しい音と共に、炎と煙が立ち上った。
ひとしきり頭を鍋に焼き付け、焼き色がついたところで、華佗は更に脇に置いていた小鍋へと手を伸ばす。
残っていた生姜の戻し汁を大鍋へと流し入れると、ぶわりと湯気が沸き立った。
「さあ、貴方が用意してくれた薬の出番です」
「は、はい……こちらを」
荀彧は、生薬で一杯になった竹笊を華佗へと渡した。
それを受け取った華佗は、さっと目を通した上で、中から複雑に絡み合った根を手に取る。
「今回は特に、これが肝でしてね」
「こちらは……当帰でしたか?」
先ほど華佗から受けた指示を思い返し、荀彧は当該の生薬の名を口にした。
「当帰は、経絡の痛みに効能があるのですよ」
「経絡の、痛み……?あっ、もしや」
合点の行った荀彧の表情を見て、華佗は満足そうに微笑む。
「色々試すうちに、これが魚の出汁ともよく合うと最近わかりましてな」
そう言って、手早く当帰をまな板に乗せた。生姜と同様に、細かく刻んでいく。
「荀彧殿。こちらを片っ端から鍋へ放り込んでください」
「はい」
荀彧は華佗の指示通り、刻まれた生薬を次から次へと鍋に入れていった。
次第に、鍋の中身がぐつぐつと沸騰していく。
「頃合いですかな」
すべての薬草が入ったところで、華佗は夏侯惇の捌いたハクレンの身をすべて入れた。
「あとはここに、青菜や葱などを入れて、塩で締めれば完成です」
「そういうことだったのですね」
ようやく意図を得心できた荀彧は、目の前で煮える鍋を見て深く頷いた。
しかしその上で、困ったように眉を下げる。
「それならそうと説明してくだされば、夏侯惇殿もあのようには……」
「いやあ、説明しようにも、こんなもの作ってる暇があったら鍼を打て、と急かされるのが関の山かと思いましてね」
華佗は大袈裟に肩を竦めてみせた。

『連れてきたぞ』
入り口から、夏侯惇の声が飛んでくる。荀彧はすぐに台所を出て向かった。
「失礼しやす!」
真っ先に救護室に入ってきたのは、典韋だった。
その背に曹操が背負われているのを確認し、荀彧は寝台へと案内する。
「よぉし。殿、着きましたぜ」
典韋は慎重に膝を折って、曹操を寝台へと下ろした。
すかさず、隣に座した荀彧が曹操の背に手を添える。
「うむ……皆、世話をかけたな」
寝台に腰掛けた曹操は、すぐに右手で額を抑えた。声も鈍重であり、かなり具合が悪そうだ。
「お二人とも……ここまでありがとうございます」
曹操を背負ってきた典韋、そして背後に付き従っていた許褚へと荀彧は礼を述べた。
「これくらい、親衛隊として当然でさぁ」
典韋は白い歯を見せて笑ったが、すぐに表情を曇らせる。
「早く、殿をなんとかしてやってくだせぇ……見てらんねぇです」
「うん。曹操様、すんげぇ顔色悪いだよぉ。ほんとに大丈夫だかぁ」
許褚も、正面から悲痛な面持ちで曹操を覗き込んだ。心から心配しているのが伝わってくる。
「華佗め……これで治せなかったら相応の覚悟はしてもらうぞ」
最後に入室した夏侯惇は、台所の方に向かって厳しい視線を送った。

「あれ?なんだか、いい匂いがするぞぉ?」
ふと、許褚が眼をくるりと動かした。
「お気づきになられましたか。今、華佗先生が殿のために準備されていまして…」
「できましたよ」
荀彧が説明しようとしていたそこへ、布巾で鍋を抱えた華佗が姿を現した。
寝台横の卓上に鍋敷きを置いて、鍋を据える。
「さあ曹操殿、お召し上がりください」
仰々しく、華佗は鍋の蓋を開けた。籠っていた湯気と匂いが、わっと広がる。
「むう……」
曹操は額から手をどかし、目の前に現れた鍋へと視線を落とした。
夏侯惇たちも、一斉に鍋の中身を覗き込む。
「おほほぉ!うんまそうだなぁ~」
真っ先に歓声を上げたのは、食物に目がない許褚だった。次いで、典韋も目を丸々と見開く。
「すげぇ!豪勢な鍋ですなぁ」
「ほう、これは……さっきのハクレンか?」
鍋の中央に浮かぶ魚頭に気づき、夏侯惇も俄然、興味津々といった面持ちになった。
意味も分からず捌くことを要求されたハクレンが、このような変貌を遂げるとは。
「さっ、荀彧殿」
「はい」
華佗から椀と匙を受け取った荀彧は、早速木杓子で中身を掬い取った。
汁、魚身、野菜を満遍なく盛りつけ、匙と共に曹操へと差し出す。
「殿、どうぞこちらを」
「うぅむ……」
曹操は、まじまじと椀の中身を眺める。匂いは確かにそそられるものがあった。
まずはとゆっくり口をつけ、出し汁を軽く啜ってみた。
「……これは、美味い」
すぐさま、褒め言葉が飛び出した。更に汁を飲み、匙で中身も一緒に食べ始める。
「一体、何を仕込んだかは知らぬが…お主もやりおるな」
曹操はにいっと歯を見せつつ、目の前の華佗を見上げた。
それが気に食わなかったらしく、華佗はふふんと鼻を鳴らす。
「毒でも盛ってあるとお思いでしたか?」
「殿。こちらの鍋には、華佗先生がお選びになった生薬が配合されています。経絡の痛みに効くそうですよ」
剣呑な空気を回避しようと、荀彧は横から口を出した。
曹操はやや驚いたように、鍋の中身を見返す。
「薬が入っているとは思えぬ味だな……それに、魚の臭みもない」
「なるほど……それで、あの生姜か」
夏侯惇は納得したように頷く。最初に見かけた生姜は、生臭さを消すためのものであったのだ。

「さて、お二人にはご協力いただきましたからね。どうぞ」
華佗は、夏侯惇と荀彧にも椀を差し出した。
「な……っ」
いきなりの厚意を不気味に感じた夏侯惇は、眉間を寄せてしまう。
それを見た華佗は、瞬間的に冷たい視線を送った。
「そうやって眉を顰めるから、目に負担がかかるのでしょうが。どうせまたしばらく来ないつもりなら、しっかり食べなさい」
「っぐ」
「荀彧殿も、たまにはご自身を労わらないと。あんまり肩を凝り固まらせると、いずれは頭にも響きますよ」
「華佗先生……」
それぞれ抱える症状を言い当てられ、夏侯惇も荀彧も押し黙らざるを得なかった。
ここは素直に厚意を受け取るべきだと察し、そっと口をつける。
「おお……」
「なんと、これは……」
想像以上に、魚の出汁が香り高い。時折感じる薬味も、いい塩梅だ。
曹操の言うとおりで、生薬独特の臭いや味も感じなければ、魚由来の生臭さもなかった。
薬膳料理の一環とは思えないほど、美味である。
「うう~ん……」
舌鼓を打つ三人を見て、羨ましくなったらしい。許褚が寂しそうに呻いた。
それを見た曹操は、笑いながら華佗にかけ合う。
「世話をかけたのだ、二人にも食べさせてやってはくれんか」
「仕方ありませんねぇ」
ため息をつきつつも、華佗は一旦席を立った。
台所より椀を二つ抱えて戻ってくると、許褚がぱっと明るい笑顔を見せる。
「曹操様、本当においらたちも食っていいだかぁ?」
「す、すいやせん!殿や旦那たちのための鍋だってのに……」
「ここまで孟徳に付き添った礼だ。気にするな」
夏侯惇は、木杓子で掬った中身を典韋の椀に注ぎ入れた。次いで、許褚にも注いでやる。
二人は早速、頬張った。
「いや、こりゃすげえ!薬入りだなんて、とても思えませんぜ」
「……うん!本当だぁ!すんげぇうめぇよぉ」
見ているこちらが満腹になりそうな笑顔である。微笑ましく思いながら、荀彧は曹操へと向き直った。
「殿、まだたくさんございます。おかわりはよろしいですか?」
「ふ……もらおう」
曹操は含み笑いを浮かべつつ、荀彧に椀を渡した。
日頃の毅然とした姿も麗しいと評判だが、優しく甲斐甲斐しい荀彧の姿も悪くないものだ。
暫し、救護室は鍋を囲んでの団欒の場となった。



「殿、お加減はいかがです?」
鍋を皆で食して暫くした後、曹操は改めて寝台へと横になった。
荀彧の見る限り、救護室に運ばれてきた時に比べれば顔色が回復している。
「……大分、楽になったぞ」
「そっかぁ。すぐに治って、ほんとによかっただよぉ」
許褚はほっと胸を撫で下ろした。
「世話のやける……」
口ではそう言うも、夏侯惇にも安堵の表情が見て取れた。
魚を捌けと命じられた際は理不尽極まりなく思ったものだが、今は曹操の手助けになれたという実感の方が上回る。
「殿、頑張り過ぎですぜ!昨日も一晩中、孫子の兵法ってのと向き合ってたんでしょう」
「孫子……なるほど、そういうことでしたか」
典韋の口から出た言葉に、荀彧は頷いた。
近頃、曹操は暇さえあれば孫子を読み込んでいる。その上で独自の解を思案し、註を書き記すという煩雑な作業もこなしていた。
頭痛を持病としている上で、根を詰めて作業に取り組めば、こうなるのも致し方ないだろう。
「殿、熱心なのは結構ですが、典韋殿の仰るとおりです。どうか、あまりご無理はなさらず」
「まったく、夜にそこまでせんでもよかろうに」
「わかったわかった、すまんな。これからは養生するゆえ」
夏侯惇の呆れ混じりの眼差しに対し、曹操は苦笑いで返した。
その瞳には、いつもの曹操らしさが戻ってきている。ひとまずは、と荀彧が安心した時だった。

「本っ当に反省している人は、この期に及んでまで自分を案じてくれる配下を騙し通そうとはしないかと」
和やかな空気が一転、氷のような一撃が背後から飛んでくる。
「古馴染みの将も親衛隊も、尚書令すら欺こうったってそうはいきませんよ、曹操殿」
「か、華佗、先生……?」
不気味な微笑みに、思わず四人は寝台から後ずさった。
入れ替わりに、本来の仕事道具たる鍼を構えた華佗が、ゆらりと曹操へ近づく。
「私は気づいてましたよ、朝の段階で。お昼を過ぎた頃にはまた頭痛が悪化するだろうと」
「……あっ」
そういえば、と荀彧は思い出した。
華佗は、こちらが用件を言い出す前に、曹操の頭痛で自分たちが来たことを言い当てたのだ。
何故、と思う間もなく華佗のやり口に巻き込まれてしまい、問い質すことなく放っていた疑念が、にわかに浮かび上がる。
「朝に治すこともできましたけどね。どうせなら痛い目見てもらって、だまくらかした人たちに詫びを入れる機会を与えてさしあげようかと」
「ほう……」
曹操の口の端が歪んだ。にじり寄る華佗と、視線がぶつかり合う。
刹那、華佗の目がぎらりと輝いた。

「曹操殿。昨晩は相当、お楽しみでいらっしゃいましたな。お気に入りのおなごでも取っ捕まえましたか?」

「……おい孟徳」
「あの、まさか」
即座に理解した夏侯惇と荀彧の表情が固まる。
「こりゃあ一体、どういう……」
「な、なんか、怖いだよぉ……」
わかっていない典韋と許褚は、ただ顔を見合わせておろおろするしかない。
「よろしい、お二人にもわかるように説明しましょう」
華佗は、鍼を曹操の蟀谷近くにぴたりと当てた。
「孫子の註釈で疲れたなど真っ赤な嘘。それが故だというなら、荀彧殿や夏侯惇殿のように、肩や目を酷使して筋が固くなっている筈です。ですが、今朝の曹操殿にそんな症状は見られなかった。代わりに、随分と心の臓の動きが速くて、朝なのに血の巡りが良過ぎました。要するに、興奮状態が抜け切っていなかったということ」
息継ぎなく語る華佗の姿は、罪状を問い詰める武官もかくやという圧がある。
「……夜通し悦に浸っていたお姿が容易に想像つきましたよ。 私の目は誤魔化せません」
「ふ……お主、そんなに監察の任をしたいなら、司隷校尉にでもなるか?」
観念したように、曹操は一息つく。しかし含み笑いは崩さなかった。
「いえいえ、私は一介の医師に過ぎませんので。あとの裁きは皆さんにお任せいたします」
心底からの意地悪い笑みを作ると、華佗はさっさと奥の台所に引き上げてしまった。

「曹操様……おいらたちに、嘘ついてたんだかぁ?」
沈黙を破ったのは、許褚だった。愛嬌豊かなつぶらな瞳が、みるみるうちに悲しげに曇っていく。
典韋もまた、剃り上げた頭を抱えて悄気てしまった。
「そりゃねえですぜ、殿……もし、わしらがいないところで何かあったら、わしらの立場が~」
「殿……お二人を騙してまで、単身夜の街に出向くなど流石に度が――――」
これには荀彧も呆れ、問い詰めんとした時だ。
傍らから発せられる凄まじい怒気に気づき、慌てて口をつぐむ。
どうやら、自分の出る幕はなさそうだ。

「孟徳」
今日一番の、どすの利いた低い声が発せられた。
つい先刻まで、皆で鍋をつついたとは思えないほどに救護室の温度が冷え切る。
「……いや、孫子の註釈をしていたのは真だ。少々、行き詰まってだな」
曹操は口調こそ平静を装うも、流石に夏侯惇の方は見ようとしない。
その態度こそ、華佗の指摘の全肯定に他ならなかった。
「その行き詰まりの解消のためだけに典韋と許褚を騙した上、遊んで体調を崩し、俺たちに午後一杯潰させるほどの迷惑をかけたわけだ」
「……そういう、ことになるな」
次の瞬間、最大級の雷が落ちた。

「もぉおおおおおおとくぅううううう!!」





「だ、旦那方……本当に申し訳ありやせんでした…」
「おいらたちがちゃあんと見張ってたら……ごめんなぁ」
典韋と許褚は、大きな体をひたすらにすぼめて、頭を下げ続けた。
それがいたたまれなくて、荀彧は首を振る。
「どうかお二人とも、そのように気に病まないでください」
「ああ。お前たちの責任ではないからな」
もちろん、夏侯惇も二人のことを責める気はない。
しかし声はいまだに刺々しく、鬼の形相のままである。
並みの兵が目の前にすれば生きた心地がしないであろう目つきで、救護室の中の方へ視線を投げた。
「……自業自得だ」


『っぐぐ……華佗よ、痛みが悪化しておらぬか』
『文句言えた立場ですか?』
『いや、明らかにその刺し方はわざと…ぬううっ!?』
『これで朝まで足は動かせません。今日はしっかりお休みください』
『貴様……』
『ああそうです、ついでに歯の治療も今日中にやっておきますかねぇ?』
『やめろ!それだけはやめぬか!』


寝台で交わされているであろう、大人気ないやり取りが外まで聞こえてくる。
「……はあ」
荀彧は深くため息をついた。
己が主の資質を疑ったことは一度もない。しかし、こうして脱力するような目に遭わされることも間々あるのが困り者だ。
「では……私たちはこれにて失礼いたしますね。殿をよろしくお願いします」
気持ちを切り替え、荀彧は頭を下げた。
夏侯惇も嘆息しつつ、夜通し救護室で見張ることになった二人を交互に見る。
「あれでは逃げ出すことは叶わんだろうがな。頼んだぞ」
「はいっ。お二人とも、気をつけてお帰りくだせぇ」
「うん、また明日なぁ~」
帰路につく夏侯惇と荀彧の背中を、典韋と許褚は見えなくなるまで見送った。



「孟徳め……今日という今日は絞られろ」
すっかり日が落ちてしまった空を、夏侯惇は恨めしげに眺めた。
一番振り回されたのは、間違いなく夏侯惇である。そう簡単に怒りが収まらなくても無理はない。
「……本当に、本日はお疲れさまでした」
味わわされた労苦を慮りながら、荀彧は労りの言葉を口にした。
「それは、俺がお前に言う台詞だ。すまなかったな、くだらんことに付き合わせて」
夏侯惇は慌てたように荀彧へと向き直った。
午後の政務を放り出させた上、ろくでもない理由が原因の騒動に巻き込んでしまったという負い目が、ばつの悪い表情となる。
「いえ、そんな……確かに大変ではありましたが」
苦笑しながら、荀彧は右肩を揉んだ。それは、書庫にいた際は重い痛みを感じた箇所。
「心なしか……肩が楽になった気がいたします」
その申告に、夏侯惇もはたと気づいて、自身の眉間を押さえてみる。
「……確かに、な」
眉間に少なからず蓄積していた痛みは、確かに和らいでいた。
「少なくとも、華佗先生の鍋をいただけたことは……殿にとっても、私たちにとっても、最高の薬だったようですね」
「……ああ」
屈託のない笑顔を覗かせた荀彧に、つられて夏侯惇も笑った。

「そういえば、あの鍋に使った生薬は覚えているか?」
ふと、思い出したように夏侯惇は足を止めて訊ねてきた。
急な問いに、荀彧は首をかしげる。
「はい。記憶していますが……?」
次に返ってきたのは、思わぬ申し出だった。
「いつか暇な日があれば、と思ってな……今日の詫びだ、ハクレンを釣ってきてやる」
「夏侯惇殿……それは」
驚きと共に、この目で見た光景が脳裏に甦ってくる。
いとも容易く魚を扱う夏侯惇の姿は、珍しくもあり、そして頼もしく映ったものだ。
あの姿を、また拝むことができる。それも、自分のために披露してくれると。
じわり、じわりと、期待に胸が膨らんでいくのを感じ取った。
「では……ぜひ、お願いできますか?」
思いがけない優しさに感謝しながら、荀彧は微笑んだ。
「ああ」
任せろという言葉の代わりに、夏侯惇はぽんと荀彧の肩を叩いてみせる。
互いに鈍痛から解放された足取りは、軽くなっていた。





2019/04/30

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