menu

曇天日和

どんてんびより

桃始華

よく晴れた昼下がり。
午前中に政務を終えてしまった荀彧は、許昌の中庭を散策していた。
勿論、他にやるべきことを探そうとすればいくらでもある。
しかし、珍しく郭嘉に説教されてしまったのだ。


『荀彧殿。折角午後の仕事がなくなったというのに、また書庫へ行く気かな?』
『ええ。ちょうどいい天気ですから、棚の整理や虫干しでもしようかと』
『生真面目なのだから。私のように昼間から遊んだら……とまでは言わないけど、少しは気分転換したらどうだい?』
『しかしそう言われましても……わっ』
『こんなに肩を凝らせて……外の空気も少しは吸わないと。そうだ。今、中庭の桃がちょうど満開なんだ、行ってごらんよ。きっといい気晴らしになるから』
『は、はあ』


書庫へ行こうとしていたところを、郭嘉に見咎められた。
普段は他人の働き方についてとやかく言わない人だが、今日は妙に強引だった。
先程、彼に揉まれた肩を自分でも揉んでみる。
「……ふう」
あまり自覚はなかったが、確かに凝り固まっていた。

昨年秋に帝を許昌に迎え入れてから、約半年といったところか。
宮殿の改修に向けて資材調達、屯田制の導入と準備等、内に関わる業務が増え、それに尽力していたらいつの間にか年は明けていた。
中庭に植えられた桃も満開をやや越して、強く風に煽られると花弁が舞う。
ついこの間雪がなくなったと思ったのに、あと少しすれば新緑が眩しい季節も来てしまうだろう。



「珍しいな、お前がここに来るなど」
振り返ると、声の主が庭の入口から歩いてくるのが見えた。
「夏侯惇殿……」
微笑んで会釈をすると、夏侯惇も軽く手を挙げて応える。
「花見か?」
「そう……ですね。気晴らしです」
「なるほどな。確かに、顔が青白いぞ」
「えっ」
意外な言葉に、思わず荀彧は自らの頬に手をやる。
ここに鏡などないから、自分が今どんな顔色をしているかはわからない。
しかし夏侯惇にそう言われるのであれば、あまり健康な見た目はしていないのだろう。
「お前たちには、俺たちには及びもつかん苦労があるだろうしな。だが、無理はするなよ」
「……ありがとうございます」

なんとなく、郭嘉がああまで強く気晴らしを勧めた意図を悟った。
きっと今の自分は、自分で思う以上に疲れて見えているし、実際そうなのだ。
これだけ肩を凝らしても顧みていなかったのは事実だし、最近自宅と城の行き来ばかりしていた。
食事は取っているし、休息も適度にしていたつもりだが、やはり人はそれだけでは足りないのだろう。
「やはり、日の光もたまには浴びなくてはいけませんね」
苦笑しつつ、荀彧は目の前の桃を見上げる。
よく見る桃よりも数段色濃く、紅に近い鮮やかさが目に眩しい。
日光が透けて、より美しく輝いていた。

「そういえば、夏侯惇殿はどうしてこちらまで」
「俺は調錬の休憩中だ。よくここに来る」
「ああ、そうだったのですね。知らぬこととはいえ、失礼いたしました」
「いや気にするな。しかし……」
夏侯惇もまた、咲き誇る桃の花を見上げる。
「今年は咲くのが早過ぎたな。つい先頃蕾だったというのに、盛りも過ぎた」
「そうなのですね」
ここを訪れる機会が多いということは、桃の開花していく様も見届けているということだ。
少しだけ、残念そうに見えた横顔の理由が理解できた。
「今日は風も強いしな……一気に散ってしまうかもしれん」
「ええ……本当に。勿体ないことです、っ」
瞬間的に強い風が吹き、思わず荀彧は帽子を押さえた。
こうして二人並んで桃を見上げている間にも、花弁はどんどん散っていく。
夏侯惇の言う通り、今日は風が強い。
もしかしたら、これだけ咲いた状態で見られるのは今日が最後かもしれない。
「間に合ったようで、よかったです」
「ああ。いい時に来たな」
夏侯惇は一瞬笑いかけたが、すぐにその笑顔を引っ込めた。
不思議に思って見つめ返すと、今度はそっぽを向かれてしまう。
失われた左目を覆う眼帯のせいで、彼がどんな表情をしているのか全く分からなかった。
「あ、あの……どうかされましたか?」
何か気を悪くしてしまったかと思い、荀彧は慌てた。
その様子に今度は夏侯惇が申し訳なく思ったか、ぼそっと呟いた。

「俺が花見を楽しむなど、らしくなく映ったかと思ってな」

思わぬ返事に、一瞬固まった。
だがすぐに腹の底から、何とも言えないおかしみが溢れてくる。
「……ふふっ」
思わず口元に手を当てて、笑ってしまった。
そんな荀彧を見て、夏侯惇はますますばつの悪い顔をする。
「わかってる、自分が花を愛でる姿など似合わぬことくらい……」
「これは、失礼しました。どうかお許しを」
頭を下げつつ、荀彧は笑顔で言葉を続けた。
「私は、季節の移ろいに思いを馳せられる夏侯惇殿の御心を素晴らしいと思いますし、また羨ましいと感じました。私など、郭嘉殿に言われるまで桃のことに気づきませんでしたから」
「外にいる俺と、内で仕事をしているお前とでは違うだろう。仕方あるまい」
「いいえ、気の持ち様ひとつです。私の心も存外、枯れていたことに気付かされました」
言いながら、荀彧は中庭を囲む城壁を見上げた。
いつも執務室や書庫へ行くために往来している、渡り廊下の窓が見える。
少し目配せをすれば気づく距離にあって、何も知らなくて。
今更ながら、思い知る。外の季節に目を向けることもなく忙しくしていたことを。
「お陰様で……たいへん、よい気晴らしになりました」
「そうか。よかったな」
夏侯惇は今度こそ笑って、荀彧の肩を軽く叩いた。
その時だった。

コツ、コツ。

「え?」
何かに突かれる音と感触が、足に走った。
不審に思った荀彧は、自分の足元を見やる。
「っ……わぁっ!?」
視界に入ったのは、自分の革靴を突く丸々とした毛深い灰色の何か。
それが何であるかを理解するより先に、荀彧は小さな悲鳴を上げて目の前の存在に抱きついた。
「ッチチ、チッ」
荀彧の革靴から強制的に降り飛ばされたそれは、めげることなく地面へと着地した。
そのまま長い尻尾を振り乱し、物凄い速さでその場を駆ける。
あっと思う間もなく、城壁の隙間へと消えていった。

「……鼠は嫌いか?」
「っえ……あ!?」
聞こえてきた夏侯惇の声で、我に返る。
そして、恥ずかしい状況になっていることに、やっと荀彧は気づいた。
「すっ、すみません夏侯惇殿っ、私っ……!」
鼠に大仰に驚いたばかりか、その勢いで目の前にいた夏侯惇に勢いよく抱きついてしまった。
しかも、夏侯惇は動じることなく、腰からがっちりと受け止めてくれている。
曹操軍の軍師ともあろうものが、何をしているのか。
「わ、私っ、鼠だとわからなくてっ……すみません、こんな失態っ……」
必死に弁明する荀彧を見て、今度は夏侯惇の口から笑いが漏れる。
「っくく……お前のそんな姿を見る事になるとはな」
「か、夏侯惇殿っ、およしくださいっ……」
背中に回された手で、ぽんぽんと赤子をあやすように叩かれた。あまりの恥ずかしさと申し訳なさで、荀彧は縮こまる。

その瞬間、今日一番の突風が吹いた。
「わっ!」
「っ……!」
桃の花弁が勢いよく散らされ、荀彧と夏侯惇に吹きつけられる。
あっという間に、帽子も飛ばされてしまった。
「大丈夫か?」
風はすぐに収まった。夏侯惇がやっと荀彧を降ろす。
「も、申し訳ありません」
荀彧はすぐに夏侯惇から離れ、転がってしまった帽子を取りに走った。
「汚れてないか」
「っは、はい……大丈夫です」
追いかけてきてくれたらしく、振り向いて目の前にいた夏侯惇にどきりとする。
まだ、取り乱した姿を見られたことへの恥ずかしさが消えていない。
思わず、荀彧は視線を逸らした

「……っくく」
また、夏侯惇がおかしそうに笑った。
「よかったな」
「な、何がでしょうか……?」
戸惑う荀彧の頬を、無骨な指が優しく撫でてくる。
「顔に、赤みが戻った」
頬を染めた荀彧の顔を見て、夏侯惇は満足そうに笑った。
「やはりお前は、その方がいい」
「か、夏侯惇殿……んっ!」
恥ずかしさの極致に達して上ずった声が出そうになったが、その口は夏侯惇によって塞がれた。
唇を押し当てられ、荀彧の頭が真っ白に染まる。
「……根を詰めるなよ。白すぎるお前も考え物だ」
唇が離れたと思う間もなく、夏侯惇の不敵な笑みと隻眼に射抜かれる。
その雄々しさに、思わず喉の奥が詰まった。
「じゃあな」
踵を返し、悠々とした足取りで中庭を去っていく。
その後ろ姿を、荀彧は熱に浮かされたまま見送った。



「おや、荀彧殿」
どこか覚束ない足取りで廊下を歩いていると、郭嘉に声をかけられる。
「か、郭嘉殿…」
気まずい相手に出会ってしまったものだ。
今の自分はかなり赤面しているに違いない。一体何を言われるか気が気でなかった。
「どうしたんだい、その顔」
案の定、荀彧の顔を覗き込んで郭嘉が言った。
しかもそれは心配の声ではなく、うっすらと笑みが含まれていた。
「ふふ。だから言っただろう?きっといい気晴らしになるって」
そう笑うと、郭嘉は荀彧の髪に手を伸ばした。
「……えっ?」
ふいに伸ばされた手に驚く間もなく、何かが髪から摘み取られる。
その指先には、桃の花弁があった。
郭嘉はそれに軽く口付けし、にやりと笑いながら荀彧に渡す。
「桃に感謝しないとね、引き合わせてくれたことに」
「っ……郭嘉殿、まさかっ」
夏侯惇は休憩中よく中庭に来ると言っていた。それを知っていて、目の前の彼は。
「じゃあね、荀彧殿。貴方が健康な顔に戻ってよかったよ」
「か、郭嘉殿っ……!」
思わず声を上げるが、郭嘉は颯爽と横をすり抜けた。
追いかけることもできず、策士が角へ消えていくのを見送る。
羞恥に染め上げられた荀彧の頬は、掌の花弁と全く同じ色をしていた。









まり様の惇彧イラストを元に創作させていただいたものです。
素敵なイラストをありがとうございました!
2018/05/09

top