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曇天日和

どんてんびより

追慕の碧

蒼天を見上げながら、帝はほう、と白いため息をついた。
禁中内からの眺めと違い、外に出て見る空は、高くて広い。壁や窓、切り取り遮るものがない景色は、鮮やかだ。
冬の空は夜も、そして昼も澄んでいる。人気のない南宮は、普段に比べると随分静かだった。それがまた心地よい。

一時とはいえ、この宮殿にて喧噪を撒き散らす者がいない。それだけで、こうも凪ぐものか。
董卓は今朝方より、配下を連れて狩りに赴いている。あの体格からは想像もつかないが、董卓が弓馬を得意としているのは帝も知るところだ。
憂さ晴らしと称しては城を出て、ありったけの鹿や虎を狩り、愉悦に浸る。涼州出身の者は馬と近しい生活を送るため、董卓様もやはり血が騒ぐのでしょう、とは女官の話だ。
相変わらず董卓は、奔放で身勝手で、そして恐ろしい。されど、その我欲の思うままに任せた行動が、時にはこうした静寂を作ることもある。
帝にとって、あの酷薄な視線を気にしなくて済む貴重なひとときだった。
それを知ってか近侍の者らも、董卓が出払った日中に限っては、帝がひとりで禁中近辺を出歩くことを目溢しするようになった。
いずれの門にも警護兵は控えているため、どのみち、外まで行けないことは見越してのことである。

南宮に設えられた中庭には、小さな池がある。朝方の厳しい冷え込みの名残か、薄い氷がいくつか浮いているのが見えた。
「……うっ」
肌を刺すような冷たい風が吹きつける。風に煽られた池面が細波を立て、氷片がカチカチとぶつかり合う。
帝ははぁっと息を吐いて己が手を温めつつ、玲瓏な氷の音にしばし聞き入った。


「もしや、陛下……」
「わっ」
背後から声をかけられた帝は、慌てて振り向いた。そして、視界に飛び込んできた人物が誰かを認めるや、目を大きく見開く。
「荀、彧……?」
「申し訳ございません、驚かせてしまいました」
荀彧はすぐさま、跪いて拱手した。その物腰は、つい先日、星を共に眺めた夜と同じように流麗であった。
わずかに上げた顔からは、凛とした切れ長の瞳が覗く。その瞳を覆う長い睫毛が、瞬きで揺れた。
「どうして、ここに……」
「はい。新しい竹簡、ならびに筆を納めに、尚書府まで参りまして……その帰りでございます」
帝の問いに淀みなく答えてから、今度は荀彧が同じことを訊ねた。
「陛下は、どうしてこちらに?御座所から遠くはありませんが、やはりおひとりでは……」
帝の耳には荀彧の涼し気な声が染み入り、そして目には、眉を曇らす端整な貌が映り込む。
この間の夜のように、身を案じてくれていることは十二分に伝わった。
「あ……ええと、その…………っ」
ただ、董卓の居ぬ間に羽を伸ばしているだけだ、と。そう説明すれば済むことだ。
なのにどういうわけか、帝の喉は堰き止められたかの如く詰まってしまった。
これではまた、いらぬ心配をかけてしまう。とにかく、話さなければ。そう思うほど、言葉が出てきてくれない。

「あっ、陛下……どうか、そのように緊張なさらないでください」
董卓が狩りに出ていることは、荀彧も聞いている。あの男の気配を感じない日に、ひとりで散策したいと思うのは道理だ。
それに、今は見通しの良い白昼。周囲の者たちもある程度、黙認していると察せられた。少なくとも、先日のように夜に独り歩きされるよりはましとの判断だろう。
咄嗟にそこまで思い至らず、つい訳を問うてしまったことを悔いつつ、荀彧は言葉を続けた。
せめて、いたわしいほどに硬くしている心身が解れてくれれば、という想いで。
「不躾にもお訊ねしてしまい、申し訳ありませんでした。お話ししたくないことであれば、無理に仰らなくても構いません」
至極穏やかな声色と共に、優しい微笑みが浮かんだ。

「う…………」
しかし、荀彧に笑顔を向けられた帝は、かえって硬直してしまった。
胸の内で言葉になったのは、目の前の微笑みに対する純粋な感想。
(きれい、だ)
これまでにも、荀彧と接する機会はあった。
最初に相対したのは、荀彧が守宮令に任官された直後。しかしその時は、拝謁する姿を冕冠の旒越しに眺めたに留まった。
禁中を抜け出し、星を見ていた我が身を探しに来てくれた日は、夜のこと。燭台の焔の中、整った顔立ちが揺らめく様は記憶に新しい。
しかしながら、これほどまでにはっきりと顔を見たのは、今日が初めてだ。
陽光の下で見る荀彧の姿は、顔貌は。帝の想像よりもずっと、輝くばかりに美しい。男でこのような人は、見たことがない。
「うぅ…………」
その顔に見られているというだけで、胸がざわめき、体が震えてしまう。これは荀彧の言うように、緊張なのだろうか。
されど、同じ緊張でも、董卓を前にした時とはまるで違う。あちらは頭から爪先までが凍えるような、薄ら寒い感覚。
今、荀彧を目前にして帝の体を巡るのは、熱だ。顔が、熱い。喉の奥が、苦しい。

「あの、陛下っ」
顔を火照らせ、黙りこくったまま震え始めた帝に、いよいよ荀彧も戸惑ってしまう。
(もしや、この寒さが御身に)
そう疑ったのは、帝の装束が存外、質素であるからだ。
深い碧に染まった、上品な仕立ての衣ではある。しかし、この時期に纏うには随分と薄い布地に見えた。
「畏れながら。もし、寒さが堪えるようでしたら、一度お戻りになってお召し替えを……」


「いやだっ!」


冷えた空気を、甲高い叫びが貫いた。
「っ……申し訳ありません」
荀彧は慌てて、地に擦りつけんばかりにして頭を下げた。
帝もまた、思いの外、激しい調子で声を荒げてしまったことに自分で驚いてしまう。
「あ……ちが……ちがうのだ……その、だからっ……」
何か言わなくては。謝らなくては。そう思うほどに、落ち着かなくなり、また言葉に詰まる。
こうやって、結局何も言えないままで終わるのか。焦りと絶望感が、帝を襲った。

「陛下……」
荀彧の胸もまた、締めつけられる思いだった。
感情を正しく言葉に乗せるという行為が、どれほどに難しいことか。ましてや十にも満たぬ、常に抑圧された環境下にいる幼帝なのだ。
周囲の大人に幾度となく緊張を強いられては、満足に言葉にすること叶わず。そのたび、失意の底に落とされていたのだろう。
されども、今にも泣きそうに顔を歪ませながら、帝はもがいている。口にしたい思いの丈がある。痛いほどに伝わってきた。
「……大丈夫です。どうか、焦らずに」
懸命な御心に、報いたかった。最後まで言葉を聞き届ける臣下でありたかった。
今は何も、力になれぬ身であろうとも、せめて。その一心で、荀彧は再度、微笑みかけた。
「ゆっくりで……よろしいのですよ」
「……ゆっ、くり」
優しさに溢れた言葉は。帝の耳に、心に、響いた。
荀彧は、自分を急かしていない。待ってくれている。こちらが、思いを言葉にできるまで。
「っ……」
胸に閊えているものが、取れていく気がした。ゆっくりで、いいのだ。ゆっくり。
「ふう…………はぁ」
帝は深呼吸をした。冴えた冬の空気は喉を、胸を、そして頭の内も冷やしてくれるようで。
いくらかすっきりとした頭で、もう一度、落ち着いて考えを巡らせた。


どうして、あんな風に叫んでしまったのか。
荀彧の言った言葉が、気に障ったからか。
でも、荀彧はただ、服を替えた方が、と言ってくれただけなのに――


「――この服は、母上のものなのだ」
口が、動いた。
「祖母上が、母上の残した服を……ぬい直して、作ってくれた服で……だから、脱ぎたくなかったのだ」
胸元をぎゅっと掴みながら、訥々と。しかしようやく、帝は伝えたかったことを言った。
帝も、この服が薄地なのは承知だ。荀彧がそれを心配して進言してくれたこともわかっている。
それでも、着替えた方がいいと言われた瞬間、沸き上がったのは拒否の心だったのだ。
「そういうことで、いらしたのですね」
訳を知り、荀彧も深く頷いて納得した。
帝は霊帝の第二皇子であるが、生母は帝を産んですぐ病に伏し――否、弑されたと聞く。
養育者であった董太后も、権力争いの果てに洛陽を追放され、失意のうちに亡くなった、と。
産みの母と、育ての祖母。この質素な碧い服には、喪われし肉親へのよすがが宿っている。それはあまりにいたいけな、追慕の表れであった。
「陛下にとって大切なお召し物とは知らず、ご無礼を申し上げました。どうか、ご容赦くださいませ」
荀彧が己の非を詫びると、帝はばつが悪そうに首を振った。
「い、いや。荀彧は心配して言ってくれたのだ。わたしこそ、すまない……それに……」
少しばかり言葉を探す様子を見せたのち、帝はぼそりと呟いた。
「もしかして、こんな色は、似合わないと思われたかと……」
「えっ……」
思いもよらぬ発言に、荀彧は面食らった。しかしすぐに、笑って首を振る。
「そのようなこと、露ほども思いませんでした。たいへん、上品な染め具合で……お母君のお人柄が偲ばれますね」
「ほ、本当か?」
「もちろんにございます。陛下にも、とてもよくお似合いです」
幼い玉体を包む碧は、初夏の木陰のように深く、爽やかな。瞳に、安らぎを与える色。
かつて纏っていた人の、貞淑な品格をも感じさせた。


「……あの、陛下っ。陛下っ」
何も反応を示さぬ帝に、荀彧は不安を覚えた。どういうわけか、今度こそ固まってしまっている。
「あの……私、また何かお気に障るようなことを」
「っ!違う!違うのだ!」
突如、帝は憑き物が落ちたかのように表情が戻り、慌てふためきながら叫んだ。
見る見るうちに顔は真っ赤に染まっていき、落ち着かない様子で体を揺らす。この急な変化に、荀彧も驚いて帝の顔を覗き込んだ。
「陛下、顔が火照ってらっしゃいますが……」
「だ、だいじょうぶだ……ええと……そのぉ……っ」
至近距離に、荀彧の美しい貌。思わず帝が後ずさった、その直後である。

「っ!」
バーン、と激しい銅鑼の音が、冬空に響き渡った。
「あれは……」
それまで穏健な雰囲気を醸していた荀彧の表情が、さっと厳しいものになった。
まして帝の背筋は、嫌でもぴんと張り詰めてしまう。それもその筈、あれは董卓の帰還を告げる音。
夕方近くまで帰ってこないことの方が多いのに、今日は随分と早い。収穫が大してなかったのだろうか。
「は、早く帰らねばっ……うあっ」
帝は慌てて踵を返そうとしたが、その瞬間にがくりと膝が笑った。
「陛下っ!」
頽れそうになった帝を、荀彧は寸でのところで抱き留める。
顔は紅潮しているが、体は冷やされて縮こまっていた。この寒さの中、長時間留まっていたところから急に動こうとしたせいだろう。
自らの足ではしばらく歩けないであろうと察した荀彧は、意を決して帝を抱き抱えた。
「私でよろしければ、御座所までお送りいたします」
「えっ……あ……」
帝は呆気に取られたが、こくこくと頷いた。荀彧も頷き返すと、帝を胸に強く抱き込み、小走りで禁中へと向かった。



あれは、即位礼を終えてすぐのことだった
お気に入りの、この碧い衣を纏って禁中から出た瞬間。姿を見咎められ、激しく叱責された。
眉を吊り上げ、大声でがなり立てる董卓の姿は、今も恐怖として帝の心に刻まれている。

『ええい!仮にも天子様がみすぼらしい格好で出歩かれるとは!この火徳の王朝を継ぐ御身でありながら、そのような色……!没収いたしましょう』

着替えを強制され、危うく取り上げられそうになった。咄嗟に女官が別の衣とすり替えたことで事なきを得たが、以来、董卓の目が及ばない時にしか着られなくなった。
董卓の命で仕立てられた新しい装束は、黒地に赤や金の派手な装飾ばかりで、目に痛かった。袖を通せば、やたらに重たかった。
どんなに煌びやかで、たくさんの絹が使われていようと、それが自分に相応しいとはどうしても思えない。
帝にとっては、母が遺し、そして祖母が作り直してくれたこの衣こそが、我が至上の装束。それを否定されることは、自分を。そして母や祖母を否定されることと同義であった。



『陛下にも、とてもよくお似合いです』
荀彧の腕の中で、帝は先ほどの言葉と笑顔を思い返す。
(似合うと、言ってもらえた)
穏やかな声で、はっきりと。決してお世辞などではないことは、あの心からの微笑みで伝わった。
初めて、この服を――母や祖母を想うことを、認めてもらえた気がして。たまらなく嬉しかった、けれど。
(はずかしい)
ようやく、帝は自覚した。どうして、今日最初に会った時も、そして先ほども、言葉が出てこなかったのか。胸や顔が熱くなるばかりだったのか。
恥ずかしかったのだ。荀彧の綺麗な瞳に見つめられ、笑顔を向けられることが。
こんな風に優しく接してくれる大人など、誰もいなかったから。どうしていいか、わからないのだ。
(……いい、香り)
帝は、荀彧の胸に頬を寄せた。あの星降る夜と同じ。柔らかく、凛とした香の匂い。
「陛下、暫しの御辛抱です。もう少しですよ」
胸元でもじもじと動く帝に気づき、荀彧は帝の背中を優しく撫でた。その手の、温かさといったら。
不思議な人だ、荀彧は。あまりに綺麗で、まっすぐ見たら、緊張してしまうのに。どうしてこんなに、安心もできるのだろう。


「ああ、陛下っ……!」
禁中へと続く省闥の向こう、首を長くして待っていた女官が悲鳴に近い声を上げた。
その女官に向かい軽く一礼すると、荀彧は帝を降ろして跪いた。
「では陛下、私はこれで失礼いたします……御身、ご自愛くださいませ」
「あ……あり、がとう」
帝はぎこちない声ながら、なんとかお礼の言葉を述べる。
「はい……では」
最後にもう一度微笑むと、荀彧はすっと立ち上がった。そのまま、踵を返して足早に去っていく。
颯爽たる背中が見えなくなるまで、帝はじっと見つめ続けた。

「陛下、ようございました。董卓様が思いのほか早いご帰還で……」
省闥をくぐると、女官が命拾いしたという表情で駆け寄ってきた。
荀彧が向かった方角をちらりと眺め、首をかしげる。
「それにしても、先ほどの貴公子はいったいどなたでしょう」
「守宮令に勤めている荀彧だ。庭にいたところを、わざわざここまで連れてきてくれたのだ」
「さようでございましたか。お見た目通りの、心優しい方で助かりましたわ」
女官としては、帝を送り届けてくれた者が、優し気な文官であったことに安心したらしい。
ほっと息をつくと、拱手しながら笑いかけた。
「さあ、董卓様がこちらに参内されないうちにお着替えを……あら、よい香りがいたしますね?」
「そ、そうか」
香の匂いを指摘され、帝の胸がどきりと高鳴る。
つい今しがたまで、心地よく荀彧の胸に縋りついていたことを思い出し、また恥ずかしい気持ちになった。
「はやく、はやく着がえよう」
いつもは重くて煩わしい筈の天子の衣だが、この時ばかりは早く着たくてたまらなかった。





董卓の監視下に置かれたままの政務も終わり、また、夜が来る。
寝所に戻った帝は、真っ先に装束が収納されている引き出しに手をかけた。その中から、碧の服を引っ張り出す。
顔を押しつけてみると、まだ微かに、残り香を感じることができた。
(……荀彧)
服を手にしたままで、帝は寝台に寝転がった。
窓からの月光に照らされ、布地もより鮮やかに彩られていく。
顔も知らぬ母を想うことが許される、大好きな碧。今日に限ってそこにくっきりと浮かぶのは、あの優美な微笑み。

(母上は、どうだったのだろう)
香の匂いに癒されながら、ふと帝は思った。
母が香を嗜んでいたかなど、今となっては知る由もない。生前の母を語れる人など、どこにもいない。
されど、もしかしたら。母もまた、このような香りを纏い、優しく包み込んでくれたのだろうか。今日の、荀彧のように。

「……はは、うえ」
この衣を抱いて眠るとき、いつもはもっと悲しくて、心細いのに。今宵は何故か、いい気持ちだ。
目に映るは、母の色。思い起こすは、荀彧の温もり。
「じゅん……いく……」
次第に、瞼が重くなっていく。心地よい気怠さが、体を包む。


もしかしたら、今夜。会えるだろうか。
夢だけでもいい。この短夜のひととき、この碧き衣に宿っている優しき面影を、辿って。
どうか、この身を。恋しい人たちの元へ――




2019/12/25

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