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曇天日和

どんてんびより

月飼い

「ん…」
情事の気だるさを残す体を、荀彧はゆっくりと起こした。
隣にいた筈の存在は、寝台にはなく。
「郭嘉、殿…?」
彼は窓辺で、何かを見つめていた。楽しそうな、そしてどこか寂しげな表情で。
「ああ、起きたのかい」
自分を見る視線に気づいた郭嘉が、優しく微笑んだ。
「何をなさっておいでですか?」
「ふふっ。荀彧殿も見てごらんよ」
郭嘉は、窓辺に置かれた水盤に視線を落とした。
寝着を整えて近づいてきた荀彧も、その存在に気づく。

「月が…」
水が張られた水盤の中に、満月が浮かんでいた。
時折、夜風に吹かれて水面が揺れ、輪郭があやふやになる。
「ね?綺麗だろう」
郭嘉は、まるで子どものように無邪気な笑顔を見せた。荀彧も微笑みを返す。
「ええ、とても…このようにはっきりと映り込むものなのですね」
「前の満月に、戯れ程度にやってみたら思いの外美しくてね。ああ、こうして月を飼うのもいいなって」
「月を飼う、ですか…」
荀彧は瞼をしばたかせた。随分とまた、詩的な表現を持ち出してきたものだ。
「だって…どれだけ手を伸ばしても届かない月が、こんなすぐ傍にあるって、楽しくないかい?」
郭嘉は、すらりと伸びた指先を水盤に入れた。途端に水面に波紋が走り、月が形を崩していく。
その様を見る郭嘉の瞳に、僅かな切なさが宿った。
「ああでも…結局は触れられないんだよね」
すっと指を離せば、また水が揺らぎ、ゆっくりと凪いでいく。
そしてまた、空と同じ形の月が映し出される。
「…そうですね」
荀彧もまた、形は確かなのに決して人の手にはできぬ月を見つめる。
暫し、二人は寄り添いながら、水盤を眺め続けた。


「夜の間だけ傍にいて、朝と共にすうっといなくなる…そんなつれない所も、好きかな」
そう笑うと、郭嘉は荀彧の肩に置いていた手を腰へと這わせた。
火照りの残る体が、びくりと揺れてしまう。
「っ、郭嘉殿…んっ」
抗議の声を上げようとした唇が、さっと塞がれる。
触れるだけの軽い口づけを落とした郭嘉は、悪戯っぽい微笑みを見せた。
「ふふっ。まるで、貴方のようだよ。荀彧殿」
「そう、でしょうか」
「うん。冴え冴えとした美しさも、月と同じ。本当…愛しいな」
「……っ」
荀彧は、合点がいかなかった。
想い人から月に例えられ、愛の言葉を囁かれて。決して心が踊らないというわけではない。
ただ、自分が月に重ねてもらえる程のものだろうかという思いはあった。
「私は、貴方の方が余程…」
そう言いながら、荀彧は郭嘉の髪に手を伸ばした。
絹糸のように柔らかく、光を通すほどに色素の薄い髪。水面に浮かぶ月の色と同じ。
戦場にどれだけ身を置こうと日焼け跡ひとつできない肌が、白く浮かび上がる。
「郭嘉殿こそ、月のようです…その、とても、綺麗で」
恥ずかしさに俯きながらも、素直な想いを口にした。
夜の帳の中で微笑む姿が、これほど似合う男を他に知らない。

郭嘉は少しばかり驚いたように目を見開いたが、すぐに笑顔を浮かべた。
「おや。そんなに褒めてくれるなんて、嬉しいよ」
腰に回した手が、荀彧の背中をつっと撫で上げる。
その繊細且つ意図を持った手つきに、思わず荀彧の口から吐息が洩れた。
「あっ…だ、だめです…もう、今日は…っ」
距離を置こうと伸ばした手は、あっさりと絡め取られてしまう。
顎に指がかかり、上を向かされた先に、熱っぽい視線が待っていた。
「夜はまだ長いよ。月もまだ…ここにいる」
柔和な微笑みの中に、雄の情が孕む。
「月はいなくなってしまうけれど、貴方のことは朝まで帰したくないな」
囁きながら寝台へ押し戻し、覆い被ってくる郭嘉を、荀彧は茫然と見つめるしかなかった。
「郭嘉、殿っ…」
押し倒される最中、水盤の月が一層揺らめくのが見えた。










がたり、という大きな音によって目が覚めた。
慌てて顔を上げ、辺りを見回す。落とした竹簡が目に入った。
それを拾いながら、荀彧はため息をついた。
数えるほどしかない竹簡に、古ぼけた文机。見慣れてしまった、狭い執務室の光景がそこにある。
許昌に留まるよう言い渡され、ここに押し込められてどれ程経っただろう。

夢を、見ていた。
渾沌の先に目指すものを見据え、乱世の夜明けを迎えんと信じて走り続けていたあの頃。
互いの宅で戦場の策を、国の明日を語り、時には睦言を交わし合う。
そんな、密やかで青い春の日々。

どうして急に、彼の夢など見たのだろう。
そう思った刹那、窓から煌々と明かりが差し込んでいることに気づく。
吸い寄せられるように、荀彧は立ち上がって窓辺に向かった。

「ああ…」
思わず知らず、感嘆の声が上がる。
満月が、青白く輝いていた。雲ひとつない空の中では、一層のこと鮮明で。
氷のごとく冴えた光は眩しく、しかし何故か荀彧には温かく感じられた。

今になって、夢を見た理由を思い知る。
月光が、呼び起こしたのだ。かつて愛した男の輪郭を。

「郭嘉、殿」
嗚呼。やはり貴方こそが、月。

「…郭嘉どのっ」
見上げる荀彧の瞳に、涙が滲んだ。
彼は既に亡く、あの頃の自分も今や遠く。
望まぬ暇を与えられ、無味乾燥な毎日が過ぎ去っていくのを眺めることしかできない。
「う、ゴホッ」
腹の奥からせりあがる異物感に、鈍い咳をいくらかする。
押さえた手のひらに、生温い感触が伝った。
こんな風にやつれ、何もできずにいる自分を見下ろして、貴方は何を思うだろう。
「っ……」
血の付いていない左手を、窓の外へ伸ばした。
すぐ目の前にあるのに、決して触れることの叶わぬ月を前に、指が泳ぐ。

「…あ」
荀彧は近くの棚に駆け寄り、使われていない水盤を取り出した。
窓辺に置き、水差しから水を注いでいく。
たちまち、水面の真ん中にそれは浮かんだ。
空よりも幾分小ぶりな月が、揺らめきながら荀彧の顔を照らし出す。

水盤に、指をそっと差し入れた。
まるで荀彧から逃げるように月は水に溶けていき、輪郭を失ってしまう。
暫くすると、また水面は平らかになり、月が形を確かにする。
「本当に…つれないですね」
荀彧は自嘲気味に、水盤の月へ笑いかけた。










「っ、はぁっ…や、郭嘉、どの、もう…だめっ…!」
たった一夜で、何度達すれば気が済んでくれるのか。
既に窓から見える空は瑠璃色に非ず、白み始めているというのに。
果ての見えない愛撫に、身も心も限界を越えていた。
「ふふっ…まだ、離さないよ」
郭嘉はにっこりと微笑み、尚も荀彧の肢体を貪らんとしていく。

その活力は、いったいどこから湧いてくるだろう。
七年という隔たり。それがかくも恐ろしいということは、抱かれるようになってから思い知らされた。

「あ、ああっ!むり、です、これ以上は、っ…もう、や、あああぁあっ!」
最早自力では動かせなくなっている腰を何度も揺さぶられ、またも快感が弾け飛んだ。
「っく…荀彧、どの…!」
郭嘉もまた、荀彧の中に己の精の限りを注ぎ込む。
全てが終わると、初めて疲れた表情を見せた。

「っ、はあ…」
ふと、その視線が窓の外へと向けられる。新しい朝が、そこまでやってきていた。
水盤にいたはずの月も既に姿を消し、何も映っていない水面が揺れる。
「…だんだん、朝が嫌いになる」
少しだけ眉を顰めながら言うと、郭嘉は荀彧へと倒れ込んだ。
精根尽き果てた荀彧の体に縋りつき、強く抱きしめる。
「夜なら…何もかも覆い隠してくれるのにね」
「っ…かく、か…どの…?」
耳元で響く声が、いつになく弱々しい。
目に入った彼の首筋は、朝日のせいか、いやに白く見えた。










思えば、彼が弱音を吐いたのはあの時だけだ。
既に命の刻限を悟り、人知れず葛藤し続けていたのだろう。
彼の不自然に咳き込む姿を目にしたのは、あれから随分経ってからだ。
黙っていてほしいと強く懇願してくる目に、迷いはなかった。覚悟を決めた者の顔つきだった。

どれほどの未練があっただろう。
志半ばで道を閉ざされると知った時の無念は、察するに余りある。
それでも、彼は粛々と自分の運命を受け入れたのだ。

「っ…!」
頭の中にかかった靄が、急に晴れた気がした。
そうだ、彼は。
残された時を、精一杯に生き抜いたではないか。
最期まで殿のため、国のために才を尽くし、静かに現世を離れていった。
望んだ先を見られないとわかっていても、彼は成し遂げたのだ。己の、成すべきを。
「郭嘉、殿。申し訳ありません」
何を自分は、燻っていたのだろう。
たとえ、もう自分が用済みの存在だとしても。
殿の往く道の果てが、かつて思い描いた形ではないとしても。
己が才を尽くし、成すべきを成し遂げる。
それが、彼から後事を託され、殿が拓く世を支えると決めた自分の使命だ。
限りあるこの命、せめて最期を迎えるその時まで。全てを出し尽くす。

内政に関する竹簡を全て押しのけ、棚にしまい込んだ竹簡の束を広げた。
魏の置かれている現状、孫呉、劉備の動向。
目こそ通していたが、今一つ実感を伴って入ってこなかった情報を、片っ端から頭に叩き込む。
執るべき策、そこから導き出される先の光景。
頭の中に、道筋が見えていく。



気づけば、執務室は明るくなりつつあった。
窓辺に再び寄り、水盤へと視線を落とす。
真ん中で煌めいていた月は、水盤の端の方に寄り、柔らかく光を放っていた。
荀彧は微笑みながら、水盤を両手で掲げた。

最後まで、力の限り走れ、と。
立ち止まった背を押しに、彼は舞い降りてきてくれたのだ。
ならば、向かおう。自分の成すべきを成しに。
そう遠くない先で再び会えた時、恥じることなく彼の前に立てるように。
「ありがとうございます、郭嘉殿」
窓の外へと、水を捨てた。
月は完全に輪郭を失い、消えていく。
見上げた西の空に、薄くなった月が淡く煌めいた。


「行って参ります」
久方ぶりに戦装束へと袖を通し、執務室を出る。
荀彧の顔に、迷いは欠片もなかった。




2018/07/12

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