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曇天日和

どんてんびより

月に偲ぶ

荀彧がようやく執務室を出た時、既に夜は更けていた。
このところ、兵糧や拠点、兵馬の拡充等、兵站の準備に関する報告が次々と来ている。
それらを取りまとめるのには日中だけでは足らず、夜まで時を費やすことが多くなっていた。
宛城で喪失した戦力の立て直しも急務であったし、大きな犠牲の上に手中に収めた宛城、新野一体の整備も並行して行う必要がある。
自然と、荀彧は多忙の中に身を置かざるを得なかった。


「…あ」
渡り廊下を歩いていると、向こうに大きな人影が見えた。
月明かりも手伝い、一目見て一体誰なのかがはっきりとわかる。
「こんばんは、許褚殿」
人影の主を悟ると、荀彧は穏やかに声をかけた。
「あ、あれぇ。荀彧様でねぇか」
「えっ…?」
振り向いた許褚の顔を見て、荀彧は戸惑った。
平時は人懐こい笑顔を絶やさない彼の頬が、濡れている。
丸く愛嬌のある目は、赤く滲んでいた。
「一体、どうなさったのですか?」
「うん、なんかなぁ…あの月見てたら、おいら、また悲しくなっちまっただ」
許褚が見上げた先を、荀彧もつられて見た。
南の空に浮かぶ月が、冴え冴えとした輝きを放つ。
よく見ると満月よりも少しだけ、下弦が欠けていた。
「あの夜も…こんな、ちっと欠けた月だったなぁって」
その言葉に、荀彧はハッとする。
許褚が一体何を、誰のことを思って泣いているのかを悟り、顔を曇らせた。
「そう、ですね。そうか…もう、ひと月になるのですね」
決して忘れていたわけではない。
だが政務に悩殺され、考える余裕がなかったのだ。
そうこうしているうちに、既にあれからひと月も経っていたことに気付いた。

「ううっ…典韋ぃ」
堰を切ったように、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。
「ごめんなぁ…おいらもあの時、一緒だったらなぁ…」
「許褚殿…」
喪われた人を思い、泣くたびに窄まっていく大きな背中。
涙に震えるその背を、荀彧は優しく撫でてやった。
そのことに気づいた許褚は、頭を振って、両の手で涙を拭う。
「す、すまねぇだよ。あんなに、たくさん泣いたのになぁ…」
典韋が息を引き取った夜、許褚も曹操に呼ばれて、夏侯惇や夏侯淵らと共に献杯をした。
重苦しい空気の中で、ずっと泣き言を言って、寂しさを引きずって。
それでもけじめをつけるためと。最後は皆しめやかに、その夜を過ごした。
それ以来、欠けた分を補おうと、許褚なりに頑張ってきたつもりだ。
だが、それでも。
ついこの間まで、当たり前だった存在が隣にいない。
その空白をすぐ埋められるほど、許褚は器用に気持ちを切り替えられる男ではなかった。
「おいら、こんな泣いてばっかりで、駄目だなぁ…まだまだ、悲しいんだぁ」
「駄目だなんて、そのようなことはないです。どうか、ご自身を責めないでください」
「荀彧様?」
許褚は、驚いて荀彧を見つめた。
きっぱりと言い切った声色は、いつも以上真剣そのものだったからだ。
「そう簡単に、喪ったことを割り切れるものではありません。許褚殿の嘆きは、人として当たり前の心ですよ」
「でもなぁ、曹操様も、夏侯惇様たちも…みーんな泣かないで頑張ってるだ。なのに、おいら…」
曹操も夏侯惇も夏侯淵も、典韋の亡骸を前にして涙は一滴も零していない。
だが、それは決して非情な訳ではないことは、許褚も理解していた。
己の軽挙が招いたと謝罪を口にした曹操からは、誰よりも後悔の念を感じた。
彼を見込んで親衛隊へ引き立てた夏侯惇は、当初賈詡とは目も合わさぬ程怒りを滲ませていた。
典韋の死は、誰もに惜しまれ、誰もが悲しんでいる。それを内に秘めて、皆戦っているのだ。
涙を上手く我慢できない自分を、許褚は少しだけ情けなく思っていた。

「許褚殿も、立派に務めを果たされています。それに…」
荀彧の目がそっと伏せられる。
「人の上に立つ者、動かす者は、私事の感情を表に出しづらい立場です。それを見せることで、付き従う者たちに余計な動揺を与えてしまいかねないが故に」
だからこそ、心を押し殺してでも前に進む必要があった。
かといってそれが徒に繰り返されれば、心もまた疲弊していく。
「…時折、本心がどこにあるか、わからなくなるときがある。そんな時、許褚殿のような方を見ると、皆はとても安心するのです」
「ええ?なんでだぁ?」
許褚は大きく目を見開いて首をかしげた。
そうした一挙手一投足こそが、答えなのだと。荀彧は微笑みながら言葉を紡ぐ。
「貴方はとても素直な方です。楽しいときは優しく笑い、悲しいときは涙を流す。そんな、当たり前のことを当たり前にできる。その純粋さが、殿や皆の支えです」
覇道を行く曹操、そして自分たちは、時に修羅とならねばいけない。
その過程でどうしても掌から零れ落とし、見失いかけるものも多くある。
「泥を被り、血を流してでも歩む道の中で、皆荒むこともありましょう。そんな時、許褚殿の真っ直ぐさは、皆を人に戻してくださる。私たちが本当に感じていることを表に出してくださる。心を、失わずに済むのです」
「うーん…そうかぁ?」
「思えば、典韋殿も戦場以外では穏やかで実直な方でした。その典韋殿が戦場で出会って見込んだのが、貴方だった。きっと通じ合うものがあったのでしょう」
田畑を荒らすなと曹操軍に襲いかかってきた許褚を相手に、一心に打ち合い。
誤解が解かれた後、許褚が軍に入ることに太鼓判を押したのは、他ならぬ典韋だ。
彼なら信頼が置けると言い切った。曹操も気に入り、新しい親衛隊の一員として許褚を受け入れた。
「…そうだなぁ。典韋とは、最初から気が合っただなぁ」
典韋の、豪快な笑い声が蘇ってくる。
あれだけ激しく戦った後だというのに、何の遺恨も残さず自分を認めてくれて。
一緒に御大将の敵をぶっ飛ばそうぜ、と笑い飛ばす姿に、元気を貰ったのだった。
だが、一緒にと言ってくれた彼はもういない。それは曲げようのない現実。
「ん~…でも、おいら一人で、典韋みたいに曹操様を守れるだかなぁ」
「許褚殿…」
戦場で虎痴と異名を取る彼のいつになく弱気な様に、胸が痛む。
大らかな笑顔の下で、許褚は許褚なりに、ずっと悩んでいたのだ。
その葛藤に誰も気づいてやれなかったことを、荀彧は申し訳なく思った。
「殿を一番近くでお守りする親衛隊だからこそ、殿にとって何も憂いなく心安らかに、信を預けられる方であってほしいのです。典韋殿にできたこと、許褚殿であれば必ず果たせます」
せめて少しでも救いになればと、荀彧は言葉を尽くした。
「これからもどうか、そのままの許褚殿でいてください。裏表のない貴方だからこそ、殿は背を気にせずに前へと進めるのです。勿論、私たちもです」
その巨体に宿すのは、類稀な武勇だけではない。
喜びや悲しみをそのままに表せる純粋さ。
それは皆の逆立つ心を癒し、そして二心なき強固な忠義を形作る。
彼もまた、曹操の傍らに必要な才の持ち主なのだ。
「そんな風に言われると、嬉しいなぁ…」
許褚に、ようやくいつもの笑顔が戻った。そのまま、外へと視線が注がれる。
「うん。おいら、典韋の分まで頑張るだよ」
天上の月に向かい、静かに拝礼する。荀彧もそれに続いた。

「おいらはそろそろ、曹操様の部屋の見張り番があるんだぁ」
「そうでしたか。お役目ご苦労様です」
「荀彧様は優しいだなぁ。慰めてくれて、ありがとなぁ」
許褚は屈託のない笑顔でお礼を言ってから、その場を離れた。
遠ざかる大きな背中に、荀彧もまた微笑みながら一礼する。
「…これからも、よろしくお願いします」


直後、後ろから別の足音が近づく。
それに気づいて振り返るのと、名を呼ばれたのはほぼ同時だった。
「荀彧」
「夏侯惇殿…」
ふいに現れた存在に、驚きの声を上げる。
夏侯惇は荀彧の横に並ぶと、腰に手を回してその身を抱き寄せた。
「っ、夏侯惇、殿?」
急なことに、思わず手の主を見上げた。見下ろしてくる視線とかち合う。
「お前は本当に人を誉めるのが上手いな」
傍らで聞いていて、素直に感じたことを夏侯惇は口にした。
「そう、でしょうか?」
「ああ」
才と長所を見抜き、それを誇張も不足もなく言葉を尽くして語る。
人を何よりも重視する曹操にとって、荀彧の公正なる才がどれほどの助力になったことか。
「もし許褚でなかったら、妬いていた」
「…お戯れを」
思いがけない冗談に、荀彧は小さく笑った。

夏侯惇もまた、外に浮かぶ白銀の月に視線を注いだ。
「ひと月も経つか…」
その言葉で、自分と許褚のやりとりをほぼ最初から聞いていたと知る。
話の腰を折るまいと、今まで身を隠してくれていたのだろう。
「…あっという間だな」
この男ならば孟徳を任せられると信を置き、頼りにしていた。
故に夏侯惇にとっても、典韋の死は大きかった。
悲しみと痛みは、常に胸の内にはある。だが、それを表に出す暇はどこにもなかった。
乱世は、誰の死も待ってはくれない。
そうこうしているうちに、いつか本当に薄れて、消えていく。

「…お前の言うとおりだ。あいつみたいな奴がいるから、孟徳も俺達も何とかなっている」
「ええ、本当に…」
だからこそ。感情を素直に出せる存在がいてくれることを、有り難く思う。
時に自分達が置いていかざるをえないものを、拾い上げてくれる。
記憶の彼方へと去り行く故人が、久しぶりに実感を伴って脳裏に映った。

「許褚殿のお陰で、思い出すことができました。典韋殿の声を。お姿を」
「…ああ。俺もだ」
残された右目が、僅かな寂しさを伴って細められた。




2018/05/13

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