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曇天日和

どんてんびより

宵越しの溺れ酒

「公達殿、流石にその…飲み過ぎでは…」
空になってしまった酒瓶の山を横目に、荀彧は心配そうな表情を浮かべた。
目の前で尚も杯を呷る顔色に、特段大きな変化はない。かつて成人を迎えた際の宴席で、大人に勧められるまま飲んでいた時も彼はそうだった。当時、子ども心にこの方は酒が強いのだ、と感じたのを思い出す。
あれから月日が巡り、こうして自分も成人し、洛陽で再会して。暇な夜には互いの宅に通い、酒を酌み交わすようになってから暫く経つ。それにしても、今宵の荀攸は酒の巡りが悪いと感じた。量もそうだが、何よりも不安を覚えたのは。
「いつもと大して変わりませんよ」
「ですが…」
たとい顔色が同じであろうと、目は明らかに違った。暗く据わった、焦点の合わない瞳が揺れている。
それに荀攸は、酔いが回ったときはもう少し饒舌だ。それも通り過ぎ、今はひたすらに酒を飲み干している。

「今宵は、ここまでにいたしましょう。明日に障りますから…っ」
新しい酒瓶を開けようとする手を咄嗟に制した。
次の瞬間、勢いよく手首を掴まれる。驚いて目の前を見ると、恨めしげな視線がそこにあった。
「…ならば、酒の代わりに貴方が酔わせてくださいますか」
「えっ…こ、公達殿、お待ちを…あっ!?」
想像を越えた力で引っ張り上げられたかと思うや、背後の寝台へと連れていかれ、投げ出された。驚く間もなく、のしかかられる。
「公達どのっ!?や、あっ…!」
平服の合わせ目に手がかかった。広げられ、露になった首筋に顔が埋まる。
「文若殿っ…」
耳許で熱い吐息混じりに囁かれ、生温い舌先が肌を伝っていく。突然の仕打ちに荀彧は慄き、か細く訴えた。
「やっ…こ、公達、どの…おやめくださっ…ぁ……」
抗おうと伸ばした手首は再度掴まれ、寝台に張りつけられた。今や自分の方が上背もあるのに、振りほどこうとしても荀攸の体はびくともしない。
このまま一体、何をされてしまうのか。焦燥と恐怖が、心の臓を叩き始める。

「……っ?」
突如、首をなぶる唇が離れた。それに伴うように、荀攸の体の重みが増していく。何故か手首を戒める力は弛んだ。
「…公達、殿?」
恐る恐る声をかけるが、返事はない。もしやと思った直後、静かな息が聞こえた。それは二、三度と規則正しく響く。どうやら思い違いではないようだ。
ほう、と息をついて、荀彧は解放された手を荀攸の背へと回した。寝息と同じ間隔で、ゆるりと上下するそこを、優しく撫でる。
「お辛い……のですね」
冷静になってきた頭を巡らせれば、思い当たる節はある。董卓への憤懣、何も為せていない己への慚愧。
それは自分もまた、この地に足を踏み入れてから嫌というほど感じてきたこと。日頃の鬱屈を紛らわせる筈の酒が、今宵は彼を行き場のない沼へ沈めてしまったのだろう。

「っ…!」
ふいに先程の強い瞳を思い出し、体が硬直する。
まさか荀攸が、こんな風に悪酔いすることもあるとは思ってもみなかった。潰れるのが早かったからよかったものの、もしあのまま続けられていたら、どうなっていたのだろうか。
「いけ…ません…」
必死で頭を振り、訪れたかもしれない光景の様を追い払う。
同族の男同士でなど、あってはならない。その禁忌を勢い任せに踏み越えさせてくる深酒の恐ろしさに、荀彧の背筋は震えた。
一歩違えてしまえば。彼は、呑まれ溺れる危うさを秘めているのだ。









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2019/02/14

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