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曇天日和

どんてんびより

HOT HOLIDAYS!

「ここが……」
迎賓館かと疑うような豪華な正門、そして奥に見える立派な建物に、荀彧は目を見開いた。
周辺は、青々とした新緑が眩しく輝いている。事前に話に聞いていたとはいえ、一見してはとても競馬場とは思えない。
しかし、レースの結果が出た直後だったのか、方々からうわっと野太い歓声が聞こえた。
場内へと入っていく人々は、男女のカップルや大学生らしきグループ、幸せそうな家族連れなど様々だ。
そんな明るい雰囲気の人波に混じって「いかにも」な剣呑な空気を醸し出す男性もいて、やはりここはギャンブルの場でもあるのだと実感する。
腕時計の針は、10時40分を指していた。約束の時間には少々早いものの、彼からは既に着いていると連絡が入っている。
少し早いが、自分も入場した上で待ち合わせしようと、財布から回数券を取り出した。事前に貰っていたものだ。

「競馬場にようこそ」
「ありがとうございます」
受付の女性に回数券を渡して、正門横の入場口を通った。
目の前のテーブルに積まれたレーシングプログラムを一冊手に取り、まずはと人が何人も佇んでいる方へ向かう。蹄の音といななき、そして獣の臭いを感じた。
これがパドックという場所なのだろう。階段を下がった所に柵で覆われた楕円形の空間があり、馬が厩務員に引かれつつ周回していた。その距離の近さに、荀彧は驚いた。
(そうだ、ここにいるとお伝えしなくては…)
荀彧はスマートフォンの連絡用アプリを起動した。待ち合わせ相手の画面を出し、入場したことと正門側パドック端にいることを伝える。
ほどなくして既読がつき『了解です、向かいます』の返信が来た。

待っている間に少しでも知識を得ねばと、荀彧はレーシングプログラムを広げた。
まずは数ページに亘って出馬表の見方や馬券の仕組み、こぼれ話など多彩な内容が記載されている。
競馬を嗜む人々は、日々これだけのデータと向き合っているのか、と感服せざるを得なかった。
それが終わると本日の出馬表に移る。時間的に1レースと2レースは終わったので、今パドックを歩いている馬たちは3レース目の出走馬ということになる。
「3歳……未勝利戦……」
レース名を見て、少し胸が痛んだ。
予備知識としては知っている。競走馬は経済動物であり、何よりも勝つことが求められると。
1度でも勝てば次のレースに出走でき、勝ち続けて賞金を稼げば、重賞や有名なG1レースにも出走できるようになる。
しかし、レースの勝ち馬は1頭のみ。毎回10頭以上がしのぎを削るのだから、勝者以外の残りは敗者だ。そうして選別を繰り返した結果、1回も勝てない馬が当然出てくる。
9月までに勝ち上がれなかった馬には、厳しい末路が待っていると聞いた。地方競馬でもう一度チャンスを掴む馬もいれば、血統のよい牝馬であれば繁殖のため牧場に帰れることもあるようだが、大抵は行方知れずだと。
競走馬として長く生きるためには、他者よりも速く走り、ひとつでも多く勝ち星を掴まなければいけない。
「……あ」
パドックを回る、一頭の灰色の馬と目が合う。厩務員に引かれて歩く馬の瞳は、とても澄んでいた。
こんなにもあどけない眼差しを持つ動物が、生きるか死ぬかの世界で走り続けているのか。
生半可な動物愛護を振りかざすつもりはないが、柵の向こうには、想像もつかないほど厳しい世界があるのだ。

「おう、兄ちゃん。あの馬が気になるかい?」
突然、横から声をかけられた。
見れば、ビール入りのコップを手にした中年男性がいた。胸ポケットからは赤ペンと馬券購入用のマークシートがはみ出している。
無精髭の生えた顔は赤くなっており、既に出来上がっているようだ。一目で競馬常連客だとわかる。
「は、はい。あちらの灰色の……芦毛、でしょうか。あの馬の目が、とても綺麗だと思いまして」
あまり煙たがっては、逆に変な絡まれ方をされそうだと思い、荀彧は至極丁寧に応対することにした。
相手をしてくれることに気をよくしたのか、男性はニヤリと笑う。
「へへ、そうかいそうかい。あいつは確か2番人気じゃなかったかな。目の付け所がいいねぇ」
パドックには大きな電光掲示板が設えられており、馬の名前、番号、体重、オッズなどが表示されている。
荀彧の目に留まった芦毛は、4番。男性の言うとおり、2番人気に支持されているようだ。
「もうこんな時期の未勝利だけどよ、あいつは前走がやっとデビューだったのさ。だから他の燻ってる馬よりも活きがいい」
「そうなのですね」
「確か前走は追い込んで3着くらいだったかな……そうそう、母ちゃんもこの東京で勝ってるG1馬だし、血統だけ見りゃ一流だ。今日で勝ち上がれるかもしれねぇ」
「以前のレースや血統の傾向も把握されているのですね……数多くの知見を持たれていること、恐れ入ります」
荀彧は素直に感心した。競馬ファンとは本当に、様々な知識とデータを糧としているのだと。
「はっはっは、そんなに褒めても何も出ないぜ、兄ちゃんよぉ」
まっすぐ賞賛されたことで、男性はますます浮かれ調子になった。
荀彧の貌をじっくり眺め回したかと思うと、酒臭いその体を近づけてくる。
「兄ちゃんは競馬初めてか?よけりゃ、このおじさんが色々教えてやろうかい」
「あ、いえ……実は待ち合わせを」
流石にこれ以上関わり合いになるのはまずい、と思った時だった。

「お待たせしました、文若殿」
抑揚のない声が背後よりかかる。同時に、仏頂面の荀攸が割って入ってきた。
「なんだ、連れがいたのかよ。そしたら邪魔モンは退散しますかね」
男性は残念そうな声を上げると、くるりと踵を返してパドックから離れた。
その背中が見えなくなるまで、荀攸は睨み続けた。
「公達殿、ありがとうございます」
荀彧はほっと息をついた。それを見た荀攸は、非常にばつの悪そうな表情を浮かべる。
「遅れて申し訳ない……何か不快な目には遭わされませんでしたか?」
「はい、お陰さまで」
「ならよかったです。ここには一定数、ああいう面倒くさい輩がおりますので……」
場内は清潔感があるとはいえ、改めて周囲を見渡せば、年季の入った競馬ファンはごまんといる。
そして、情報がモノを言う世界でもあるだけに、中には初心者相手に薀蓄を語りたがる年配も多いのだ。
「では、行きましょう。どこでもご案内しますので」
気を取り直すように荀攸が言った直後だった。

「とまーーれーーー!」

職員による甲高い号令が、パドックに響いた。
それまで周回していた馬と厩務員が止まる。奥を見ると、色とりどりの勝負服に身を包んだ騎手が待機していた。
「これから騎手が乗って、二週してからコースの方に向かうんです」
「そういう決まりなのですね……あっ」
荀彧は、自分の目線の先で待機している馬が、あの芦毛だと気づく。厩務員に鼻面を撫でられ、気持ちよさそうにしていた。
近づいてきた騎手は、真っ青な地に一本、桃色の線が入った勝負服で、よく目立った。
「……あの馬が気になりますか」
荀彧の視線が4番の芦毛に注がれていると気づいた荀攸は、電光掲示板を見上げた。
表示されている情報をチェックし、納得したように頷く。
「さすがは文若殿、目の付け所がいいですね。この時期の未勝利戦ではありますが、あの馬は体質が弱く最近デビューしたばかりで、血統は一流の素質馬です。前走のデビュー戦でも、いい脚を使っていました」
「公達殿もさすがですね。すぐにそこまで説明できるなんて……先ほどの男性も似たようなことをおっしゃっていましたが、競馬ファンの知識量には驚かされます」
「うっ」
荀彧としては感心しただけなのだが、荀攸の方は心中複雑である。
わかりやすく、当たり障りのない内容を口にしたつもりだったが、それでもあの酔っ払いの薀蓄と大差ないのでは、と自問自答してしまう。
「馬の良し悪しは何もわかりませんが……あの芦毛の瞳はとても気に入りました」
「そ、そうですか……では、試しにあの馬の馬券を買ってみますか?」
4番の芦毛と荀彧の穏やかな笑顔を交互に見比べてから、荀攸は申し出た。
「文若殿が見初めた初めての馬ですから、応援の馬券など。いかがでしょう」
「は……はい。では僭越ながら」
荀攸からマークシートとペンを受け取った荀彧は、記入を開始した。
事前に公式サイトなどで、馬券の種類や買い方についてはある程度勉強してきている。
数ある馬券の中でも、1着が的中条件の単勝と、3着以内の入着が的中条件の複勝がセットになった単複馬券を選んだ。
「ここは東京ですので、ここと…あと3レースですから……掛け金の単位のマークも忘れず」
「はい……では100……それから、円……と」
「これで大丈夫です。ではあちらの発券機に行きましょう。単複ですから200円をお忘れなく」
ちょうど、パドックから騎手を乗せた馬が出立し、同時にパドックに詰めていた客も移動していく。
その流れに乗る形で、荀攸と荀彧も建物の中へと入った。


「……ふふっ、『がんばれ!』ですか」
発券された馬券を手に取った荀彧は、笑みを零した。
馬名の上に大きく太字で『がんばれ!』と印字されているのが、微笑ましく感じる。
「通称『がんばれ馬券』です。文字通り、馬が馬券圏内に入る……頑張りを期待して買う馬券ですので、馬ファンが応援の意味で買うケースが多いかと」
「なるほど……好走してくれたら嬉しいし、勝ったら尚のこと、というわけですね」
「はい。あ、レースが始まります」
ターフビジョンと呼ばれる電光掲示板に、ポップなアニメーションが流れ出す。
終わると同時に赤旗を振る職員が映し出され、ファンファーレが流れた。アナウンサーの実況中継の音声も聞こえてくる。
朝方に荀攸が押さえていたスタンド席から、二人はレースの発走を見守った。

「少し、出遅れてしまいましたね」
ゲートが開いて一斉に馬が飛び出したが、4番が一頭だけ後方に置かれている。芦毛だからよく目立った。
「大丈夫、これからです。あの馬は末脚勝負なので」
「は、はい」
荀攸の語気が、なんとなく自信ありげに感じられた。
その表情は常と変わらぬようでいて、しかし目には、いつにない光が宿っている。
「そろそろですよ」
最終コーナーを通過し、いよいよ最後の直線へ。密集していた馬群が一気にばらけた。
「……よし」
横で荀攸が小さく頷く。4番の芦毛は集団から一拍遅れる形で、外側へと向かった。
「……あっ!」
騎手が鞭を入れる。それが合図だったか、芦毛は急にぐんぐんと伸び始めた。
一頭、二頭、三頭。後方集団の馬たちがほとんど脚を上げて後退していく横を、あっという間に追い越していく。
あと、残り200m。先頭にいるのは、一番内側を走り続けていた1番の馬だ。
ゴール板が近づくたび、周囲の観客の叫びも激しくなる。
「が…頑張れっ……頑張ってください!」
思わず、荀彧も声が出ていた。
これに勝てば、あの芦毛は次のレースに行ける。競走馬として走り続けられる未来が待っている。
だから、どうか。

「……よしっ!」
短く叫んで、荀攸が膝を叩いた。荀彧も思わず、歓声を上げる。
「か、勝ちましたね……!」
最後の最後。目覚ましい末脚だった。
粘り込みをはかる1番を、最後の一完歩で、きっちり捉えたのが見えた。
ターフビジョンに、入線のスロー映像が流れる。間違いない。4番の芦毛が、頭半分出ている。
「文若殿、おめでとうございます」
微笑みながら、荀攸が手を差し出す。荀彧も握り返した。
「勝った馬はあそこで、記念撮影や表彰が行われます。見ていきますか?」
「本当ですか?なら、ぜひ」
二人は席を立った。荀攸が指差した場所、ウィナーズサークルの前には、既に人だかりができていた。

馬が出てくるのを待つ間に、ターフビジョンの着順表に『確定』の赤字が灯った。
同時にアナウンスが流れ、配当額も表示された。周辺から悲喜交々な声が聞こえてくる。
「4番の単勝は450円……複勝は150円ですね」
「そうですか……」
荀彧は手元のがんばれ馬券を眺めた。
つまり、200円で買ったこれは、600円となって戻ってくることになる。
「来ましたよ」
荀攸がそう言うと同時に、カメラマンたちが一斉にシャッターを切り出した。
レンズが向けられた方角に目を凝らせば、厩務員に引かれてやってくる芦毛が見えた。
芦毛がウィナーズサークルの真ん中に立ち、周りに騎手や馬主といった関係者が整列したところで、しばし撮影が行われる。
荀彧もスマートフォンを取り出し、カメラを起動した。フラッシュ機能を切ってから画面を向ける。
勝利の喜びに笑顔になる人々、そしてどこか誇らしげに佇む芦毛が画面一杯に映った。

「……勝てて、よかったです」
帰っていく芦毛の後ろ姿を眺めながら、荀彧は感慨を込めて呟いた。
当たり外れは関係なかった。ただ、心惹かれた馬が勝負を制した、それが何よりも喜ばしかった。
「ええ……もしかすると、秋には大きなレースも狙えるかもしれません」
荀攸の目から見ても、4番の芦毛はインパクトが大きかった。
今日は勝ち上がりと見込んで軸にした馬券を買っていたが、ここまで目覚ましい勝ち方をするとは。
春先にクラシックレースを賑わした馬たちにもひけを取らない。これぞ、血の成せる業か。
あとは体質だろう。脚の速さも大切だが、丈夫なことも、よい競走馬になる条件だ。


「文若殿。この競馬場には五ツ星ホテルのレストランもあるんです。今日はぜひそちらに」
荀攸の声は、やや上機嫌だった。
何しろ先のレースでは、荀彧に初当たりを経験させることができた上、自身も会心の的中である。
払い戻しで返ってきた額を以てすれば、普段縁のないレストランにも行ける。
荀攸の中では完璧な算段だった。それに待ったをかけたのは、他ならぬ荀彧だった。
「あの、公達殿……私は、普段ここで公達殿が召し上がっているものをいただきたいのですが」
「ですが、文若殿の口に合うかどうかは……」
競馬場に食事処は数あれど、立ち食い、食べ歩きとなる店が多数を占めている。
品行方正な家庭で育った荀彧にそれを強いるのは、荀攸としては気が引けた。
「お気遣い、ありがとうございます。ですが今日は……公達殿が普段、どのように競馬に親しまれているか……その空気感を、私は学びたくて」
荀彧とて、荀攸が最大限気遣ってくれているのは肌で感じている。
しかし本当に見たいのは、変に気負ったり、格好をつけようとする彼ではない。
日頃より寡黙を貫く荀攸が、競馬という趣味の世界で楽しむ姿を。自分が知らない世界にいる彼の姿をこそ知りたかった。
「わがままかもしれませんが……ぜひ、おすすめの場所に連れていってください」
頭まで下げられ、いよいよ荀攸は面食らった。
「い、いえそんな、わがままなんて……承知しました、では、その……立ち食いでよければ……」
「はい!一度してみたかったんです、立ち食い」
荀彧は溌剌とした表情で答える。
行き交う人々の何人かが物珍しそうに見てきたのを、荀攸は鬱陶しげに睨み返した。

「いかが、ですか?」
「……とても美味しいですよ。街中のお店にもひけを取りませんね」
ボロネーゼをどんぶりで、しかもプラスチックのフォークで、そして立ち食い。荀彧には何もかも初めての経験だ。
しかし、パスタは思いの外よくゆで上がっており、味つけも上々だった。
満足げに食べる荀彧を見て、荀攸も内心ほっとしながら明太子パスタを啜った。
流石に牛丼やラーメンというわけにもいかず、悩んだ末の選択だった。とはいえ、競馬場グルメコンテストで1位に輝いた人気のパスタ屋ではある。
「さて……」
荀攸は腕時計を眺めた。時刻はまだ11時半前。第4レースが始まる時間だが、午前中はもうレースはいいだろう。
今日の目的は、あくまでレジャー施設としての競馬場を楽しんでもらうこと。
この競馬場には、まだまだ見所が沢山ある。ただの賭博の場ではないと、知ってもらいたかった。
「文若殿。よろしければ、このあとは乗馬センターの方まで行こうと思います。そこならもっと間近に馬と触れ合えます」
「本当ですか?ぜひお願いします」
荀彧は期待に微笑みを浮かべた。


訪れた乗馬センターではちょうど、誘導馬とのふれあいタイムが開催されていた。
列に並んだ人々が、順番に馬の鼻先を撫で擦る。荀彧たちもその列に並び、いよいよ順番が回ってきたところだ。
「馬は、鼻先の皮膚がとても柔らかいんです」
「は、はい」
荀彧は恐る恐る、鼻に指を置いてみた。ふに、と指が沈む。驚くほど柔らかい。
「わぁ……本当ですね……」
鼻筋を優しく撫でつつ、荀彧はその感触を愛でた。
その間、馬はうっとりとした表情を浮かべ、おとなしくされるがままにしていた。
「なんて、可愛らしい……」
荀彧にとって、馬がまったく縁遠い存在だったわけではない。直近で、馬を間近にする機会もあった。
先日のGWの話になるが、上司である曹操のホームパーティに招かれた際のこと。
自宅で繋養しているからぜひ見てほしいと、曹操の愛馬、絶影を間近に見させてもらったのだ。
自慢の馬だけあって美しく、また乗馬用ということで大人しくはあった。しかし、雄大な雰囲気を漂わせていた絶影には、畏れ多くてついに触れなかったのだ。
だからこんな風に、直接馬と触れ合うことができたのは、人生で初めてかもしれない。
馬とはこんなにも愛おしい生き物であったのかと、胸がじんわり熱くなる。
「…………」
そうやって瞳を輝かせている文若殿こそ可愛らしい、とはさすがに同族権限でも言えない荀攸だった。


乗馬センターを後にした二人は、競馬博物館へと足を運んだ。
ここでは世界各国の競馬の歴史、高名な競走馬や専門用語の解説など、競馬に特化した展示がされている。
その中でもひときわ目を引くのが、実寸大のゲート模型やゴール板のレプリカなどだ。
「こんなに大きいのですね」
「ええ……」
二人はまじまじと見つめた。180㎝と恵まれた身長の荀彧ですら見上げる形になり、偉容に驚く。
「前に、馬場開放で見たときもその大きさに驚きましたが」
「馬場開放……とは?」
また初めて聞く用語に、荀彧は首をかしげた。
「最終開催日の、レースがすべて終わった後に行われます。文字通り馬場を開放……つまり、一般客が実際の芝コースに立ち入りできるんです」
「あの芝の上を歩けるんですか…!」
競走馬が実際に走った場所を歩けるとは、競馬ファンにはたまらないサービスだろう。
それでなくとも、あの青々とした芝の上を歩くのは気持ちよさそうだと、荀彧にも想像がついた。
「俺も以前、郭嘉殿や賈詡殿と行きまして。その際、本物のゲートやゴール板を目の前で見ました」
「そうだったのですね……いつか私も、参加してみたいものです」
荀彧が笑うと、荀攸は少し驚きつつ、しかし嬉しげに頷いた。
「文若殿がそう言ってくださるなら…今度は、その日に合わせてお誘いしますよ」
荀攸としては、荀彧が純粋に興味を示してくれたのが有り難い。この時点で本日の目的はほぼ成功、と言えた。

一応、共に競馬場でつるむ仲間はいる。職場同僚でもある郭嘉と賈詡がそうだった。
しかし三人の時は大体、朝からビールを呷り、馬券対決で一喜一憂し、最終レースが終われば居酒屋に飛び込み酒という酒を飲み干して……
要するに、およその人が想像する競馬ファンの域を出ない行動をしている。
そもそも荀彧を競馬に誘うことにしたのも、競馬後にしこたま飲んだ翌日、三人して酒の臭いを漂わせたまま出社したのを見咎められたのが発端だ。
翌日まで残るほどの酒を飲み、金を賭ける競馬場とは、心身の健康に悪影響なのではと。荀彧に心配されても仕方のないことではあった。
心配を解消させるためにもどうにかしろと郭嘉や賈詡にせっつかれ、また自身としても競馬のマイナスイメージを払拭してみせんと、今日こうして荀彧を呼んだわけである。
初手から面倒な競馬ファンに絡ませてしまう不手際こそあったが、それ以外はここまで、順調も順調だ。
「では、そろそろ移動しましょうか」
気がつけば、時計の針は14時半を指していた。残るは11レース、すなわちメインレース。ここで馬券をビシッと決め、本日の終いとしたい。
そしていつもの居酒屋ではなく、荀彧を誘うに相応しい店で、ゆったりと余韻に浸りつつ夜を過ごす。昼は出鼻を挫かれたが、今度こそ。
多少邪な考えを巡らせていることは露ほども顔に出さず、荀攸は再びのパドックへと荀彧を誘った。


「午前中とはまた、全然空気感が違いますね…」
荀彧は方々を見渡して驚嘆した。朝の3レースとは比較にならないほどの人が、パドックに押し寄せている。
熱心にカメラを向ける人、馬の様子を食い入るように見つめる人、新聞に予想を書き込む人、様々だ。
「競馬において、11レースがその日のメインレース…一番大きなレースですので」
そう説明しつつ、荀攸もまた、パドックを真剣な目つきで眺める競馬ファンに変身していた。
パドックを周回する馬に熱視線を注ぎ、気づいた部分をレーシングプログラムの出馬表に書き込んでいく。
さながら勝負師といった気配で、傍らにいる荀彧も、なんとなく近寄り難い気分になる。
「-16が痛いな……調教はよかったが、あちらは発汗……と。3と10は切り」
「は、はい」
荀彧は馬を見た。荀攸の言うように、6番の馬は前走から16キロも減っている。極端な馬体重の増減はプラス要素にはならないと、荀彧にも察せた。
10番の馬は二人の厩務員に引かれており、どことなく落ち着かない。ゼッケンから白い泡のような汗も垂れていた。
「公達殿、7番の馬はいかがです?あちらも+10と出ていますが」
「ああ、問題ありません。7番は前走-10で着外でした。今回は中間、きっちり調教を積んで戻してきている証左。むしろ毛艶もよく好気配です」
「な、なるほど……」
膨大な情報を処理し、予測しつつ結果を導く。このプロセスは確かに、熟慮型の荀攸を刺激する要素に満ちている。
思えば同僚であり、彼の競馬仲間である郭嘉と賈詡も、この手の思考推察をさせたらピカイチの強さがある。なるほど、趣味にするのも頷けた。
彼らにとっては単なるギャンブルではなく、知力を試されるゲームの感覚なのだろう。

「……よし。これで」
一呼吸置くと、荀攸はマークシートに次々と印を入れていった。
1番人気に指示されている11番の馬は堅いと見て、そこに人気薄を絡めて買い目を組み立てる。
中でも荀攸の一押しは、2番の栗毛の馬だ。ここ数戦パッとしない戦績で、16頭中10番人気に甘んじている。
しかしこの馬は1400m戦、それも東京コースの相性がよく、激走する時がある。本日のメインも東京1400m、調教タイムも良いとあっては狙う価値もある。
今日は内枠なのもポイントが高い。そして跨る騎手は、インの立ち回りに定評があるベテランだ。
この馬が内埒沿いに、人気馬を横目にしつつすり抜けてくる姿が見えた。この馬が3着に入るだけでも、配当は…

「公達殿。あの……5番の馬は、公達殿から見ていかがですか?」
己の最終予想に想いを馳せている横から、荀彧が控えめに尋ねてくる。慌てて荀攸は5番を見た。
「はい、5番……何か気になりましたか?」
「その……先日見た、殿の絶影に少し似ているなと思ったので」
「あ、ああ……そうですね」
荀攸も、荀彧と同じタイミングで曹操の絶影を見ている。荀彧の言いたいことは伝わった。
5番は出走馬唯一の青毛で、馬体重も500キロあった。真っ黒く、堂々たる馬格を持った絶影に通じるものがある。
確かに、こうして見ていると不思議と見栄えがよく映る。
(しかし……流石に)
5番。悲しいかな、本日のぶっちぎり最低人気。しかも歳は7歳と、競走馬としては高齢である。
近走成績も2番の馬よりずっと悲惨なもので、2ケタ着順を何度も繰り返している。
遡れる範囲でやっと成績らしい成績というなら、1年半前の特別レースで勝利を飾ったのが最後だったか。
いくら馬体がよく見えるとはいえ、その他で推す要素が見当たらない。
「あっ、すみません。ただ私の目にそう見えただけですので……」
慌てて荀彧は弁解した。5番の馬が最低人気であり、見向きもされていないのは承知している。
「い、いえ。折角文若殿が見定めた馬に、申し訳ない」
すっかり馬券師目線で思考していたことを、荀攸は恥じた。
「俺達のようにある程度詳しくなってしまうと、データや経験則から抜け出せなくなる時もあります。ですので文若殿は俺など気になさらず、いいと思った馬を応援してあげてください」
その言葉に、迷いのあった荀彧の表情がぱっと明るくなった。
「……ありがとうございます!では、やはり私は、あの5番のがんばれ馬券にしますね」
そう言うと、荀彧はマークシートを取り出して記入を始めた。その嬉しげな様子で、荀攸も一安心できた。


「凄い人ですね」
荀彧は四方を見渡し、パドック以上に観客のひしめき合う様に圧倒された。
午前中はまだ空席が残っていたスタンド席も、前後左右、ほとんどが埋まっている。
眼下に広がるコース前の柵越しには、馬の勇姿を間近に見ようと、大勢の観客が詰めかけていた。
「これでも少ない方です。明日のG1ともなれば数万単位で入りますし」
「は、はあ……」
事も無げに言われた言葉に、思わず途方に暮れてしまう。
競馬の誘いがあった際、G1の日は避けるからと荀攸が言っていた理由がよくわかった。

職員が赤旗を降ると、ファンファーレが鳴り響いた。
ターフビジョンに、ゲート前で輪乗りをする馬たちがズームアップで映り込む。
断然人気の11番が真っ先に映し出されたが、実に落ち着いた様子でゲートの中へと入った。
奇数番の馬が収まると、続けて偶数番の馬たちもゲート内に誘導される。その時、気がかりな様子が映った。
「あれ、2番の馬が……どうしたのでしょう」
「え、あ」
本日の荀公達肝入り、2番がゲート前でやたら嫌がっている。なかなか入ろうとしない。
おかしい、あんな風に我儘な馬ではなかった筈だが。
「……よし、よし」
2番の抵抗も長くは続かなかった。騎手に尻尾を引っ張られると、諦めたかゲートに入っていく。
あまりにも暴れるようだと心配だったが、あの程度ならどんな馬にもよくあることだ。問題ない。
残るはゲートの大外、16番の馬。こちらはスムーズに入った。ついに発走だ。

『スタートしました!』

「~~~~~~~~~~~~~~~~~!!」
声にならない、呻きともつかない音が、荀攸の喉から吐き出された。
ゲートが開いて一斉に飛び出した馬たち。が、お世辞にも揃った綺麗なスタートではなかった。相当ばらついている。
中でも一頭、内側で妙に立ち遅れてしまった栗毛が見えた。その馬番は、2番。
(なんっ、で!?)
2番の馬が出遅れたなんて話は、未だかつて聞いたことがない。そんな気性難ではない筈。
スタートを決めて先行集団に取りつき、内からスルリと抜けてくる。これがこの馬の勝ちパターンだ。
何故今日、よりによって、このタイミングで出遅れる!?
早くも荀攸は絶望的な気持ちになった。大きく出遅れた2番は、なんと最後方を走っているではないか。
決め手になるような末脚を持っている訳ではないからこそ、先行策が大事なのに。
「こ、公達殿、大丈夫ですか!?どこかお加減でも」
顔を真っ青にしてしまった荀攸に気づいて、荀彧も慌てた。
「もっ、申し訳ない……お気になさらず」
荀攸は必死で、己の体勢を立て直した。郭嘉と賈詡の前ならばともかく、荀彧の前で醜態を晒すわけにはいかない。
落ち着け荀公達、まだ始まったばかりだ。競馬は何が起こるかわからないから面白い。
改めてターフビジョンを見やった。2番は確かに最後方だが、ぴったりと内埒に張りついている。
流石はこの道30年のベテラン騎手だ、まだインから抜けてくる機を諦めていない。まだだ、まだ終わらん!

最終コーナーに差し掛かり、縦長だった馬群が一気に凝縮されていく。
2番は変わらず内にいる。頼む、そのままキープして内からこじ開けてくれ。
祈る思いで、荀攸は2番に視線を注ぎ続けた。

ついに最後の直線。騎手のアクションも目に見えて大きくなり、皆一斉にスパートがかかる。
客も一気にヒートアップし、場内が本日最高に沸き返った。
大衆の産み出したうねりのような歓声の中、ついに荀攸が叫ぶ。

「差せぇーーーーーーーーーっ!!」

「こ、公達殿!?」
今日初めて競馬場に来て、驚かされたことはたくさんある。しかしこれこそ、本日最大の衝撃かもしれない。
ここまで目の色を変え、喉を潰さんばかりに叫ぶ荀攸など、未だかつて見たことがなかった。
彼の中に、これほどまでの激情が眠っていたのか。
「差せ、絶対に3着まで持ってこい、イ○タァアア!!」
「公達殿、落ち……」
言いかけて、荀彧は押し黙った。この場合、落ち着け、という方が野暮だと悟る。
それよりは自分も、目の前の光景をしっかり見届けなくては。

陽炎揺らめく坂下から、馬群が駆け上がってくる。なんという速さだろうか。
ゴールを、そして1着という栄光を目指して、全身全霊で走る人馬が、目の前を通り過ぎる。
これがサラブレッドの走り。ああやはり、とても美しい。
「頑張れ……!」
一番外を走る青毛の馬体に向かって、荀彧は小さな声援を送った。

「よし、よしっ!」
内に、わずかなスペースが生まれた。2番が迷わずそこに突っ込んでいく。
先頭は既に、11番が悠々と抜け出した。その後ろに、7番が追い縋る。ここまでほぼ読み通り。
あとは3着争いだ。目を皿のようにして見れば、内をこじ開けた2番がちょうど抜け出したところだった。
完璧だ!そう叫びかけた直後である。
「え?」
そこでようやく荀攸は気づいた。一頭真っ黒な馬が、大外から矢のような勢いで迫っていた。
なんだ、あれ。いや待て。待て、違う!2番残せ、頼む、残――――

「あ、っ……!」
体勢が決した瞬間、荀彧は切れ長の瞳を丸くして驚いた。
いくら見間違えようにも、あの黒光りの馬体とゼッケン5番を誤認することはない。
慌てて、ターフビジョンの着順表を見やる。すんなり番号が点滅した。1着「11」。2着「7」。
そして、3着に堂々「5」の文字が浮かぶ。
「あ……当たっ、た……?」
手元にある、がんばれ馬券に視線を落とした。このまま確定すれば、複勝だけとはいえ見事的中である。
最低人気の馬の好走が難しいとは承知だ。荀攸があれだけ過去実績、状態の良し悪しを精査しているのを見ればわかる。
表示された馬の人気には、それなりに理由が存在するのだ。
それでも馬が生き物である以上は、何が起きてもおかしくない。これもまた、競馬。しかしまさか、本当にこのようなことがあるとは。

番号の点滅が止まり、確定の赤字が灯った。午前中に続けての的中だ。
いわゆる、ビギナーズラック。それでもやはり、自分の目で決めたあの馬を応援して、よかったと思えた。
「や、やりました。公達ど、の……公達殿っ!?」
ひと息ついて荀彧が隣を見やると、そこには灰の如く燃え尽きている甥の姿があった。
つい先ほど、聞いたこともない声量で叫んでいた姿からの落差が、あまりに大きい。
「何故……5番…………何故、出遅れ……」
蛙の潰れたような声で、うわ言のように繰り返す。その手には、外れ馬券が握り締められていた。
一応、的中していないわけではない。1番人気の11番と、4番人気の7番の馬連は当てた。だが、それは最低限のラインだ。
本線であった三連複は、5番が入っていない。11番を軸にして、手広くマークしているのに。
荀攸の視界が、着順表を映した。「5」の下に、無情にも4着を示す「2」が踊る。せめて、せめてそこが逆ならば!
だがしかし、一度確定したそれは覆せない。アナウンスが流れ、ターフビジョンに配当表が映し出された。
「きゅ、98、万……!?」
どよめきが広がった。三連単はあわや100の大台に乗りそうな額だ。それより落ちる三連複ですら、17万円。
逃した魚の大きさに荀攸が改めて唖然とする一方で、荀彧もまた目を瞬かせた。
「複勝で、2700円……?そんな……」
がんばれ馬券の購入代金は200円。それが、一瞬にして2700円に化けたことになる。
「……お、おめでとうございます」
「あ……ありがとう、ございます」
なんとも微妙な空気が、二人の間に流れた。


「あの……公達殿、なんだかその、申し訳ありません……」
正門へと向かう道すがら、荀彧はいたたまれなくなって謝った。
いくら自分は当たったといえども、これだけ傍で意気消沈されると、非常に気まずい。
何せ、自分が応援していた馬が激走したために、荀攸は寸でのところで万馬券を逃がしたのだから。
「違うんです、これも勝負……文若殿はお見事でした……ただ、俺が……」
荀攸の纏うオーラは最早、敗残兵もかくやというべきか。肩がどんどん落ち窪んでいく。
違うのだ。別に荀彧が応援していた馬のせいで自分が外れたとか、そんな八つ当たりをしたいのではない。
ただ、ひたすら情けないだけだ。5番の激走を見抜けず、袖にした己の不明が。

正門近くまで来た時、ちょうど競馬グッズを売るための屋台が見えた。
馬のぬいぐるみやボールペン、お菓子やタオルなどが陳列されている中、荀彧ははっとしてある一点を見る。
小さく頷くと、意を決したように荀攸へ声を掛けた。
「公達殿、少々お待ちいただけますか?買い物をしてきます」
「え、ええ……どうぞ」
「ありがとうございます。すぐに戻りますね」
荀彧は足早に屋台へ近づくと、店員に何事か告げた。どうやら、買うものはもう決まっているらしい。
手早く会計を済ませる荀彧の背中を、荀攸はぼんやりと見つめていた。

「お待たせしました。どうぞこちらを」
戻ってきた荀彧は、今しがた購入したものを荀攸へと差し出した。
「本日、楽しませていただいたお礼です。折角ですから、お金は何か、記念になるものに換えさせていただきたいなと思って」
小さな馬がドット柄のように刺繍された、ネイビーブルーのネクタイだった。
「今日は競馬の楽しさを教えていただいて、ありがとうございました。またぜひ、ご一緒させてください」
「ぶ、文若殿……」
思わぬ心遣いに、荀攸は面食らった。今日の当たりを、自分への礼の品にしてくれるなんて。
それなのに、自分はなんという体たらくを晒しているのだ。
思い出せ、当初の目的を。競馬のマイナスイメージを払拭し、そして競馬とは何かを、荀彧に知ってもらうこと。
もう、とっくに成功しているではないか。こんなに優しく、満ち足りた笑顔を向けてくれるのだから。

「礼をするべきはこちらです。今日はお付き合いいただき、ありがとうございました」
襟を正した荀攸の顔は、勝負に散った馬券師から、いつもの寡黙な仕事人に戻っていた。
「文若殿、俺も買い物をしてきます。少しお待ちください」
「えっ。は、はい。どうぞ」
「失礼します」
そう言って、荀攸も屋台へと駆け寄った。閉門間際で、職員は既に撤収作業を始めようかという雰囲気だ。
「申し訳ありません、よろしいですか」
「あ、どうぞ~。何をお求めです?」
間一髪声掛けが間に合い、職員が前へ出てくる。
荀攸はちらりと視線を送ってから、購入の意思を伝えた。

「あの、ストライプ柄の。ワインレッドのネクタイを一本、お願いします」







「……どうやら、作戦は成功したみたいだね」
「あははあ、こりゃけしかけといて正解だな」
数日後、オフィスの食堂にて、郭嘉と賈詡は顔を見合わせにんまりと笑い合った。
「何々、何の話です!?」
二人の只ならぬ笑い方を察して、満寵が定食トレイを片手に割り込んでくる。
「満寵殿、ネクタイがケチャップまみれになるよ」
「おっとご注意ありがとうございます。で、どうしたんですか?」
郭嘉の指摘に慌ててネクタイを押さえつつ、それでも興味津々に満寵は二人を見比べた。
賈詡は笑いながら、親指で件の方向を指し示す。
「ん~、いや。なんでも新品ってのは、清々しくていいもんだと思ったまでさ」



「……あ、公達殿。そういえば、馬場開放はいつ行われるのですか?」
「それは6月の、最終開催日ですね。では、やはり次はその日に行きましょうか」
「はい。よろしかったらぜひ…楽しみにしております」
「……競馬場をお気に召していただけたなら、何よりです」
楽しげに次の予定を語り合う荀攸と荀彧の胸で、馬の刺繍入りのネクタイが真新しい光沢を湛えていた。

はてさて、次回の熱い休日ではどんな結末が待っていよう。




攸彧の日現パロ企画に寄稿させていただきました
2019/08/10

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