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曇天日和

どんてんびより

LOVE,HOLIDAY.

午前の軍議を終えて城を出たところで、荀彧はその姿を目にした。
「曹休、殿……?」
許都が誇る大通りの向こう側。曹休と兵士が、それぞれ馬を引き連れながら歩いている。
馬と共にいる曹休、というのはここでは見慣れた光景だ。しかし常日頃のそれと明確に違ったのは、連れている馬の毛色だった。
曹休の愛馬といえば金色のたてがみを持つ栗毛の筈だが、今、彼の横をゆるやかに歩いているのは粕毛。
それが自分の愛馬であると気づいた荀彧は、咄嗟に駆けた。

「曹休殿、お待ちください」
「これは荀彧殿!」
声をかけられて振り返った曹休は、いつも通りの爽やかな笑顔を見せた。鹿毛を連れていた兵士も一礼をする。
荀彧も微笑みを返し、何故に自分の愛馬と一緒なのかを訊ねた。
「私の粕毛が、いかがなさいましたか?」
「ああ。今ちょうど、軽い放牧から連れ帰ってきたところなんだ」
「えっ……わざわざ曹休殿が、ですか?」
荀彧は目を瞬かせた。その様子を見て、傍らにいた兵士が説明する。
「曹休様は御手すきの際、軍馬の手入れや放牧をこうして手伝ってくださっているんです。ありがたいことにございます」
見れば、日頃から厩舎に詰めている兵士だった。通常、軍馬の世話というのは彼らの領分である。
武将や軍師たちも、折に触れて愛馬の面倒は見ていた。ただし普段は政務や調練、それぞれの本分で多忙であるが故に、厩舎の兵士に一任しているのが実情である。
曹休の馬への愛情は衆目の知るところではあるし、愛馬の世話に勤しむ姿は荀彧も幾度となく見かけたものだ。しかし自身の馬以外にまで心を砕いているとは。
「申し訳ありません。本来であれば、自分の馬の世話は自分がすべきところを」
荀彧が頭を下げると、逆に曹休は申し訳なさそうに顔を曇らせた。
「あ、いや……俺が好きでやっているだけだから、そのように気にしないでほしい。むしろ、馬を勝手に連れ出してすまなかった」
「いえ、とんでもない。外に出られて、さぞ嬉しかったでしょう……」
よかったですね、と声をかけながら、荀彧は粕毛の柔らかな鼻を撫でてやった。粕毛は嬉しそうに目を細めると、もっと、と言わんばかりに鼻先をぐいぐいと突き出す。
主に擦り寄って甘える馬の姿を、曹休は微笑ましい心地になりながら見つめた。
「ははは、やはり主のことが一番なんだな」
「ええ……甘えん坊で困ります」
荀彧は苦笑しつつ、自分の胸へ鼻面を押し付けてくる愛馬に手を添えた。


「それにしても、この粕毛は穏やかでいい馬だ」
厩舎へと行く道すがら、曹休は感心した様子で荀彧に話しかける。
「勝手に飛び出したりするやんちゃな馬もいるが、この馬は本当に落ち着いてるんだ」
「ええ、お陰様で。温厚な性格で乗りやすい、と薦められまして……」
荀彧の脳裏に思い起こされるのは、許に腰を据えたばかりの頃のことだ。
今後は従軍の機会も増えると思い、そろそろ己の馬を見繕わなければと立ち寄った馬屋にて、ただ一頭だけいた粕毛に目を惹かれた。
馬屋の主人から性格の良さを力説されたことも後押しとなったが、何よりも決め手になったのは、つぶらで黒々とした優しい瞳。熟考した上で購入しようと思っていた筈が、気づけば二つ返事で粕毛を買っていた。とにかく気に入ってしまったのだ。
「ああ……荀彧殿に相応しい馬だと思う。馬もよき主と巡り合えて幸せだな」
主にぴたりと寄り添いながら歩く粕毛を見て、曹休は満面の笑みを浮かべて頷いた。



厩舎に辿り着くと、まず先に兵士が入口の扉を開けて、鹿毛を中へ引き入れる。粕毛を連れた曹休と荀彧は、その後に続いて入った。
中ほどまで来たところで、馬房から馬が一頭、にゅっと顔を覗かせた。来訪者の顔をまじまじと見つめてくる。
「李典殿の黒鹿毛だな。見てくれ、ここの星が綺麗だろう?」
曹休は、鼻先を揺らす黒鹿毛の額を撫でてやった。その額には、瞳の大きさ程の円い白斑がある。
「他の方の馬も、見分けがつくのですね」
荀彧とて、見慣れた自分の粕毛や、曹操の絶影であれば遠目にもわかる。しかし鹿毛や黒鹿毛が圧倒的に多い軍馬集団を、一頭一頭見分けるのは至難の業だ。
「曹休殿は、具体的に馬のどこを見て判別していらっしゃるのですか?」
粕毛を馬房に収めながら、荀彧は訊ねてみた。
「そうだな……顔の白斑の形や馬装、あとは脚でも判断しているな。例えば、そう……」
即答しつつ、曹休は斜め向いの馬房へと視線を向けた。そこでは栗毛の馬が軽く首を振っている。
「夏侯淵殿の栗毛は、四本の脚のうち、三本が白いんだ」
曹休はしゃがみこんで、栗毛の足元を指さした。まさしく言葉の通り、両前脚及び右後脚が白い毛で覆われている。
「それに対して、こちらの……曹仁殿の栗毛も、脚を見てほしい」
左隣の馬房、やや小柄な栗毛が大人しく飼葉を食んでいた。柵の合間から見えるその脚を、荀彧も眺めてみた。
「あっ……本当です。白いのは左の前脚だけですね」
他の脚は全て、体毛と同じ栗色をしている。あまり気に留めたことはなかったが、こうして見てみればその違いは明確だ。
「星の形も面白いだろう」
曹休が指差した箇所にある栗毛の額の星は、なるほど特徴的な形をしていた。やや折れ曲がった形をしており、鉤針のようにも見える。

「なるほど、毛色が同じでもこんなにも違いが……え?」
感心していた荀彧の肩に、突然こつんと何かが当たる感触が走った。
振り返ると、真っ黒い馬の鼻面が目の前に迫っていた。
「わっ。失礼しました」
荀彧は慌てて飛び退き、馬に謝った。
豪奢な馬装こそ外しているが、この漆黒の毛は荀彧でも見間違うことはない。曹操の愛馬にして唯一無二の名馬、絶影である。
ひときわ大きく設えられた馬房の中、ぬぅっと立つ姿には風格が感じられた。
「絶影はやはり他の馬と違うな……殿の乗る馬としてこれほど相応しい馬もいない」
曹休は深く頷きながら、羨望の眼差しで絶影を見上げた。
「ええ。いつ見ても、黒い毛並みが美しいですね……」
荀彧も改めて、その威容を眺め回す。
宵闇の如き青毛は、曹操軍の誇る軍馬集団の中でもただ一頭、絶影だけの毛色だ。
「赤兎馬も無論、凄まじい馬だったがな……」
かつて虎牢関に立ちはだかった鬼神、呂布と、その愛馬である赤兎馬の姿を曹休は思い返した。
絶影をも凌ぐ巨体に、煮え滾るような血の色をした毛並み。赤く血走った目は吊り上がり、前に立つ者全て踏み潰さんとする激しい闘争心。今も目に焼き付いている荒々しき雄姿だ。
馬中の赤兎とはよく言ったもので、単純な脚力だけなら間違いなく赤兎馬が最強だろう。されども。
「この落ち着きや、動じない性格は、絶影ならではだと思うんだ」
絶影の堂々たる佇まいもまた、威圧すら覚えるものではある。しかし黒曜石のような瞳はどこまでも澄んでおり、凪のような静けさを秘めていた。
「……本当に馬がお好きなのですね」
じっくりと絶影を見つめる曹休からは、馬への愛情がひしひしと伝わってくる。その一途さ、真摯な眼差しを、荀彧は微笑ましく思った。
「ああ、大好きだ!この真っ直ぐで愛らしい瞳も、走る雄大な姿も……」
更に目を輝かせて、馬への想いを曹休が語り始めた直後、その声は聞こえた。

ひひぃん……

随分と弱々しい嘶きだった。
思わず曹休と荀彧は顔を見合わせ、すぐに声がする馬房へと足を向けた。
「いったい、どなたの馬でしょうか……?」
声の主はすぐに見つかった。李典の黒鹿毛がいる右隣の馬房、鹿毛がひっそりと立っている。
馬の顔を見るなり、曹休は顔をしかめた。
「お前は……楽進殿の馬じゃないか。ずいぶん疲れて、どうしたんだ」
鹿毛の目の周囲は、素人目にもわかるほど不自然に黒ずんでいる。顔立ちも、どことなくしょぼくれているように見えた。

「…………まさか、厩でお二人にお会いするとは思いませんでした」
入口の方から驚いたような声が上がった。
顔を向けると、鹿毛の主たる楽進が目を丸くしていた。
「楽進殿!これはちょうどよいところに。貴方の馬に元気がないんだ」
「うっ……やはり、そうでしたか」
曹休の言葉を聞くなり、楽進は落胆して項垂れた。『やはり』という言葉が引っかかる。
「何か、心当たりがおありなのでしょうか?」
「その……ですね……」
荀彧から問われると、楽進はやや言い淀む気配を見せた。しかしすぐに首を振り、意を決したように口を開く。
「お陰様で、近頃の戦では常に先陣を切らせていただいております。ただどうにも、馬に無理を強いているような気がしまして……」
楽進は恥ずかしながら、と前置きした上で正直に話り始めた。
「元々私は文官でしたので、乗馬を正しく学ぶ機会もありませんでした。殿の旗揚げの際、軍についていくため必死で覚えたようなもので」
「えっ。そうなのですか?」
楽進といえば、精鋭の集う曹操軍においても常に一番槍の功を譲らぬ将である。
戦に勇ましく赴く姿からは想像もつかない内容を打ち明けられたことに、荀彧は少なからず驚いた。
「いつもあれほど果敢に馬を走らせて、並外れた気迫を感じていました。そうでしたか、人知れずお悩みになっていたのですね……」
「あ、ありがとうございます。恐縮です」
慌てた様子で楽進は頭を下げたものの、表情は気まずい。
「先日も、馬上での調錬があったのですが。李典殿の馬は調錬後も首をピンとしていたのに、私の馬はとても静かで……なんだか気になってしまい、様子を見に来たのです」
馬房の中で俯く愛馬の姿を見やると、楽進はため息をついた。
「申し訳ないことをしてしまいました。やはり、私の乗り方に問題があるような……」
「楽進殿、それならちょうどいい!俺の馬を貸すから乗ってみないか?」
それまで黙して話を聞いていた曹休が、急に声を上げた。
「えっ!?そ、そんな、畏れ多いこと!」
次の戦にて馬を貸す、という意味で受け取った楽進は、驚愕して思い切り首を振った。
しかし曹休は屈託なく笑って、向かいの馬房を見上げる。金色のたてがみが眩しい尾花栗毛が、相槌を打つようにふふんと鼻を鳴らした。
「大丈夫だ。俺の馬は気力もあるし気性もいいから、振り落とされる心配もない」
曹休が首元を撫でると、栗毛は耳をぱたぱたと動かす。まるで会話をしているかのようだ。
「なるほど……楽進殿、これはまたとない機会だと思います」
申し出の意図を察した荀彧も口を添える。
「乗り方の癖など、曹休殿の目から見て判断していただけることも多いかと。ここはぜひ、提案を受け入れてみてはいかがでしょうか」
「はっ!そういうことでしたか!」
その言葉で楽進も合点がいった。困惑していた顔がぱっと明るくなり、目を輝かせながら曹休を見つめる。
「ならばぜひ、曹休殿のご指導ご鞭撻をお受けしたく。よろしくお願いいたします!」
「俺もそんなに大したことは言えないと思うが……自分の感覚だけでは気づかないこともあるからな」
「それではお二人とも、場所を変えますか?」
荀彧が声をかけると、二人は笑顔で大きく頷いた。
「では、今から放牧地に行こう」
「はいっ、では準備を!」
曹休は馬房の衝立を外して、愛馬を出す。その間に、楽進は厩舎奥にある自身の鞍を取りに走った。



「はっ!はぁっ!」
曹休と荀彧が見守る中、楽進は一心に放牧地を栗毛と共に駆け回る。
「楽進殿、馬上でも姿勢が崩れませんね……お見事です」
楽進の真っ直ぐに伸びた背に、荀彧は感嘆の声を上げた。馬上でも決して不安定になることのない姿は、一本気な彼の性格を表すかのようだ。
ところが荀彧とは対照的に、曹休は幾分鋭い視線を楽進に注いでいた。
「うーん……楽進殿、更に速く走るよう命令を!」
曹休の声が飛ぶ。
「わかりました!はぁっ!」
楽進は思い切り栗毛の腹を蹴った。栗毛もそれに応え、全速力で駆ける。
放牧地の埒を飛び越えんばかりの勢いだが、そこは流石、曹休と苦楽を共にした愛馬だ。全力の走りながら、埒沿いにぴたりと張り付いている。
金色のたてがみを靡かせて駆けゆく様は、非常に見映えがするものだった。
「うん……うん……よし。そこで止めてくれ!」
二週ほどしたところで曹休は納得したように頷き、停止の号令をかけた。

「曹休殿、いかがでしたでしょうか?」
栗毛を引き連れて戻ってきた楽進が、すぐさま講評を伺う。曹休も軽く首肯し、すぐに話し始めた。
「もしかしたら、楽進殿は踵に力を入れ過ぎかもしれない」
「踵……ですか?」
思ってもみなかった指摘に、楽進は慌てて己の踵を見やった。
「楽進殿は馬を走らせるとき、踵だけで同じ合図をしているように見えた。でもそれだけでは、馬はいつも全力で走れ、走れ、と言われているような気になるかもしれないと思ったんだ」
「い、言われてみれば!」
「ああ……確かに、そうかもしれません……」
曹休の指摘に、当事者の楽進はもちろんのこと、傍らで聞いていた荀彧もはっとさせられる。
「楽進殿の騎乗姿勢は文句のつけようがないほど綺麗だ。つまり問題があるとすれば、足の使い方かと思って」
「それで、何度も加速の合図を出すように促していたのですね」
曹休が繰り返し加速させるよう命令を出していた意味に、荀彧も納得した。
馬上の姿に気を取られがちだが、その間に曹休は楽進の足元をつぶさに観察していたということだ。
「例えば俺は、太腿の動き、手綱を持つ手の位置でも合図を送るようにしている」
そう言うなり、曹休は素早く栗毛に跨った。
微かに太腿を動かすと、栗毛はぴんと耳を張り、すぐに常歩を始めた。
少し歩いたところで、曹休は手綱を持つ拳をたてがみの近くに置き、やや前傾姿勢を取る。それに合わせて、栗毛もタタタッと軽快に足を速めていく。
最後に曹休が踵で腹を強く蹴ると、それを合図に栗毛は駆け出し始めた。
「お、おお……馬との呼吸が完璧です!」
「ええ、まさに。人馬一体とはこのことですね」
流れるように展開していく曹休の乗馬術に、二人は目を見張った。

「よし……よく頑張った」
一周してきた曹休は、颯爽と栗毛から降りた。
すぐに首筋を撫でてやると、一仕事終えた栗毛は嬉しそうに曹休へ鼻先を擦り寄せる。
「あくまでも、これは俺のやり方だ。楽進殿も自分なりに馬への合図を考えてみたらいいと思う」
「なるほど。勉強になりますし、まずは参考にさせていただきます!」
楽進は改めて意気込んだ。
「では、あとは自分の馬で練習するのが一番いいな。楽進殿の鹿毛が回復次第、今度は遠乗りで実践してみよう」
「はいっ、よろしくお願いいたします!」
話がまとまったところで、曹休は荀彧の方へと振り向いた。
「そうだ、荀彧殿もいかがだろうか?」
「私も、ですか?」
急に話を振られて戸惑う荀彧に、曹休は続けて話す。
「たまには放牧地だけでなく、広い場所で粕毛を走らせるのもよいかと思ったんだが」
「そう、ですね……」
ここ数ヶ月、厩舎に粕毛の顔を見に行くことはあっても、外出はしていない。時間を取らなければと思いつつも、政務に追われてなかなか踏ん切りがつかなかった。
こちらの顔を見るなり甘えてきた粕毛の姿を思い出し、荀彧はほっと息をついた。たまには暇を貰って、愛馬のために時を費やすことくらい許される筈だ。
「では私も、お邪魔でなければご同道させてください」





数日後の早朝。
厩舎前には楽進、曹休、そして荀彧の三人が揃い、愛馬に跨る光景があった。
「折角ですから、淮河のあたりまで参りましょうか」
「それはいいですね。眺めも抜群ですし、馬に水も飲ませてあげられます」
「よし、では行こうか。はぁっ!」
先導役の曹休が軽く栗毛の腹を蹴り、さっと駆け出す。すぐさま楽進と鹿毛もそれに続いた。一拍遅れて、荀彧も粕毛と共に、二人の後を追う。
「「いってらっしゃいませ~」」
曹操軍きっての勇将二人と、軍師が一人。
物珍しい組み合わせを、厩舎詰めの兵士たちは揃って見送った。



「楽進殿。もう少し太腿に力を入れて、ふくらはぎで押してあげるといいかもしれないな」
横についた曹休が、横から的確に助言していく。楽進もそれに合わせて懸命に実践した。
「了解です……っ!」
今までのような一本調子にならないよう、何度か軽めに合図を送る。踵からの合図でないことに鹿毛も気づいたらしく、まずは速歩で進み始めた。
「凄くいいな。その調子だ!」
「はいっ!」
楽進も早速手応えを掴めた喜びに、笑顔で返事した。
流石は、一足飛びの活躍で将の座へと駆け上がった楽進である。その上達の速さを、荀彧も後ろから感心しながら見守っていた。
「素晴らしいですね、楽進殿……飲み込みが早くていらっしゃる」
「元より、鹿毛も従順な性格なんだろうな。覚えが早い」
曹休もまた、主の動きに合わせる鹿毛を見て感慨深げに言った。
そのまま、ちらりと荀彧の方を振り向く。
「そういえば、荀彧殿も負けず劣らず姿勢が綺麗だな!」
「本当ですか?なら、この馬のおかげですね」
乗馬訓練は受けたことはあるが、一線級の将たちに及ぶべくもないことは自覚している。馬に送る合図なども、曹休のように細かく定めているわけではない。
それでも、こうして気軽に馬を駆れるようになったのは、すべて粕毛のお陰だった。
簡単な合図でも従い、軽やかな足取りで大地を進む。故に、馬上でも不安定にならずにいられる。
「貴方のお陰で褒められましたよ。ありがとうございます」
久しぶりにその背の乗り心地を味わい、荀彧はたてがみを優しく撫でた。



視界が開けてくる頃には、楽進と鹿毛の呼吸もかなり合うようになっていた。
「はぁっ、はっ、せいっ」
楽進の合図や発声にも硬さが取れ、滑らかな動きで鹿毛へと指示を出す。それに鹿毛もさっと従い、速度を変えながら走る。
「はっ」
手綱を少しだけ後ろに引くと、鹿毛は少しずつ減速し、ゆっくりと止まった。
「ど、どうでしょう。鹿毛は疲れてませんか?」
恐る恐る楽進は訊ねた。
曹休は回り込んで鹿毛の様子を見ると、すぐに笑顔を浮かべる。
「大丈夫だ。鼻息も荒くないし、全然疲れていない。むしろ楽しそうだ」
「本当ですか!ああ…よかったです。これなら今後も、馬を潰さずに済みそうです」
心からの安堵の溜息を吐き出すと、楽進は愛馬の頭を撫でて労った。

「あ、お二人とも。もうすぐ淮河ですよ」
視界の向こうできらきらと輝く川面に気付き、荀彧は目を細めた。
「そうか。よし……」
曹休は少しだけ逡巡すると、突然二人に提案してきた。
「慣れてきたところで、川辺まで競走といかないか?最後に従軍のつもりで、全力を出そう!」
「ええっ?」
いきなりの申し出に荀彧は面食らうが、楽進の方は俄然、乗り気だ。
「わかりました!この楽文謙、胸をお借りするつもりで曹休殿に挑みます!」
「ああ、負けないぞ!はぁっ!」
曹休は一声叫ぶと、思い切り栗毛の手綱を叩いた。すぐさま、栗毛が今日一番の速さで猛然と駆け出す。
「なんの、一番槍であれば譲りませんっ!」
負けじと楽進も、踵で鹿毛の腹を強かに蹴る。全力の合図を悟って、鹿毛も走り出した。
「あっ、お二人とも!お待ちくださ……ああ……」
剣幕についてけず、荀彧は全速力で去っていく人馬二組を茫然と見送った。
粕毛と共に取り残されてしまい、途方に暮れたその時である。

「……え?」
ドドドドドという、地響きにも似た音が耳に入る。
ただならぬ気配にいち早く気づいた粕毛が強く嘶き、首を天高くもたげた。
「うわっ」
荀彧は慌てて、その首にしがみつく。直後、粕毛は横っ飛びをした。まさに、その瞬間。

ゴウッと、真一文字。

「あ、あれ、は……」
体勢を立て直した荀彧の目に、真っ黒な風が映った。



曹休と楽進の戦いは熾烈を極めていた。
楽進と鹿毛も力を温存していただけに、気力有り余る走りで食らいついてくる。しかし曹休と栗毛もまた、曹家千里の駒の呼び名に相応しい走りで引き離そうとしていた。
「もうすぐだ!」
二人の目の前に、淮河の川面が迫ってくる。
「まだまだ、行きますよ!」
両者一歩も譲らぬ白熱した戦いも、いざ決着の時。最後に向けて意気込みを見せた、刹那。
突如、二人の頭上が真っ暗になった。

「え?」
「は?」
見上げたそこに、黒々とした馬の腹。
弓なりに曹休と楽進を追い越し、そして。

バシャアアアン!

「「わぁあっ!?」」
水飛沫が曹休と楽進に降り注いだ。前方からの豪快な水攻めに、栗毛も鹿毛も足を止めてしまう。
慌てふためく人馬を前に、愉快そうな声がかかった。

「どうやらわしと絶影が、一番槍だな」

青毛の堂々たる馬体を淮河に立たせる馬と、その主が勝ち誇った笑みを浮かべていた。
着地の瞬間、自身らもまた派手に濡れたのはご愛嬌といったところか。

「と、の……?」
まさか主君がこんな場に現れるとは思わず、曹休も楽進も絶句する。
「お主たちもまだまだ……よな」
顎が外れんばかりに唖然としてしまった二人の様を眺めて、曹操は満足そうにくつくつと笑った。

「……殿!」
遅れてようやく、荀彧と粕毛がやってきた。
全員が全員ずぶ濡れになってしまった姿に当惑し。その元凶たる主の姿を見やって、荀彧ははっきりと顔を顰めた。
「殿……お戯れが過ぎます」
「たまにはよかろう」
他の諸侯からも一目置かれ、あるいはその名を怖れられる曹孟徳が。臣下相手に馬の競走でむきになるなどいったい誰が想像するだろう。
こういう妙な部分で発揮される意固地さ、配下をからかうようなところもまた、主の性格ではあるのだが。



「まさか一番槍が殿と絶影とは……驚きました。完敗です!」
「絶影の脚力に跳躍、そしてそれを容易く操る殿……お見事としか言いようがありません!」
焚火を囲んでからというもの、楽進と曹休はずっとこの調子だ。
離れ業をやってのけた人馬に対し、童子のように興奮しながら惜しみない賞賛を注ぐ。
曹操も淡々と聞き流しつつ、まんざらでもない様子だ。
「まあ多少の無茶が利くのも絶影の力あってこそ、ではあるな」
「あの……流石に、無茶が過ぎると思いますが」
横から荀彧が釘を刺した。馬の勢いに任せてあんな芸当を毎度やられては、臣下として気が気ではない。
「万が一、着地に失敗したら、どうなさるおつもりなのです」
「絶影がそんな下手を打つはずがなかろう」
「いえ、ですからそういう問題では……」
荀彧はがっくりと肩を落とした。

「本当に絶影は名馬ですね!あの出で立ちといい、堂々とした佇まいといい……!!」
早口でまくしたてながら、楽進は川べりの馬たちに視線をやった。
栗毛、鹿毛、粕毛が三頭一列に並んで、ごくごくと水を飲んでいる。
「あれ?」
絶影はただ一頭、座り込みながら昼寝を始めていた。ある意味これも、堂々とした佇まいではある。
「……ふふっ」
馬たちのそれぞれ微笑ましい姿に、自然と荀彧の顔も綻んだ。
その様を見て、曹操も軽く笑う。
「お主もよい気晴らしになったのではないか」
「それは、確かに……」
日頃できない粕毛との遠乗りも叶った。 また、政務ではあまり顔を合わせない将と接するのも新鮮な心地だ。城に籠ってばかりで、凝り固まっていた身や心も解れたという実感はある。
主の破天荒な登場の仕方には、肝を冷やしたが。

「そういえば、殿はいつから俺たちのあとを?」
突っ込むべき点が多過ぎて後回しになっていた素朴な疑問を、曹休が投げかけた。
「わしも久々に遠乗りでもするかと厩舎に行ったら、丁度お主らが出立するところだった。珍しい取り合わせだと思ってな。お主ら、何故一緒にいたのだ」
今度は曹操が疑問をぶつけてきた。
「実は、私が馬の乗り方に悩んでまして、曹休殿と荀彧殿に相談に乗っていただいたのです。実際に足の使い方、合図の出し方を助言していただきました!」
「楽進殿の鹿毛が回復次第、遠乗りで実践しようということにしたのです。荀彧殿は、俺から誘いました」
「久しぶりに、粕毛を連れ出してあげたいとも思ったので……暇をいただき、申し訳ありません」
「ほう、そうか……馬繋がりとはな」
三者の言い分を聞き、曹操はますます笑みを深くした。接点とは、思ってもみないところで、預かり知らぬところで自然とできるものである。



「……おや、また蹄の音がするような?」
楽進が微かに捉えた音について呟いた瞬間、曹操の眉がぴくりと動いた。それを荀彧が見逃す筈もなく。
「殿…………あの、まさか」
嫌な予感が駆け巡った、その刹那である。


「もーーーとくぅううう!!」


鬼の形相をしながら、同じく鬼の形相の栗毛を走らせる猛将が遠くに見えた。
失われていない右目が真っ赤に血走っているであろうことが、この距離でも伝わるほどの迫力を伴っている。
「か、夏侯惇殿!?」
「あれは相当、お怒りだぞ……」
「…………」
楽進と曹休は呆気にとられ、予感が的中してしまったことに荀彧は頭を抱える。
「むう、焚火がアダになったか」
曹操は至極冷静に言うと、すぐに指笛を鳴らした。
今の今まで眠っていた絶影がさっと起き上がり、曹操の傍へと駆け寄ってくる。
「ふ。なかなか楽しい休日であったぞ。ではな」
悪びれもせず三人に告げたかと思うと、曹操は颯爽と絶影を駆って淮河の西へと逃げていった。
すかさず夏侯惇も馬首を西へと向け、その後を追う。

「典韋も許褚もつけずに外へ出るなと何度言えばわかるんだお前は!待てぃ孟徳!!」
「はっはっは、絶影に追いつけるのであれば進言を聞き入れてやってもよいぞ」
「ふざけるのも大概にしろ!おのれ今日という今日は許さん!!」

丁々発止というにはあまりにも、あまりにも大人気ないやりとりを続けながら、人馬二組が遠ざかっていく。
取り残された三人の間に、なんともいえない沈黙が流れた。

(……また、どなたにも仰らずに城を抜け出たのですね)
荀彧は心底、呆れ果てながら脱力した。
曹操の脱走騒ぎは今に始まったことではない。政務を放り出すくらいはかわいいものである。
問題は行先も告げず、親衛隊の一人も護衛につけないまま行動に移してしまうこと。そのたびに夏侯惇がああして怒り散らしながら連れ戻すこと、もう幾度目か。
「殿もその……相変わらずだな……はは、は」
「あの活力は一体、どこからくるのでしょうか……」
曹休も楽進も、褒められたものではない主の行動には苦笑いを浮かべるしかなく。

そんな人間様の喧騒などつゆ知らず。
外の世界を満喫した愛馬たちは、身を寄せ合いながら木陰でくつろいでいた。




2018/09/05

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