蒼き御旗の下に
夕暮れ時の許昌の街中を、夏侯惇は自宅に向かって歩いていた。午前は軍議に顔を出し、午後はいつも通りに将兵らと鍛錬に励む日々を過ごしている。
目下、軍議で上がる話題は袁術の動向だ。
同盟相手だった呂布は既に亡き者となり、周辺が勢力を拡大している最中でどう動くか。
この件は郭嘉と荀彧が揃って動いているらしく、各所からの報告待ちらしい。
いずれにせよ年内には戦は起こりうる。夏侯惇はそう見ていた。
温かく穏やかな南風が頬を掠めていく。
見上げた空は燃えるような朱に染まり、太陽が西へと傾きかけていた。
「……春、か」
思えば、近頃は日も随分と長くなったと感じる。
細雪の降り積もる下邳にて死闘を演じたのが、つい昨日のことのように思い出されるが。
あれから早くも時は経ち、季節は廻っているのだ。
「ん?」
夏侯惇の視界に、見慣れた人物の姿が入る。
通りの行く手から、こちらへと向かって歩いてくるのが見えた。
「荀彧」
「ああ、夏侯惇殿!偶然ですね」
丁度視線がかち合い、互いに歩み寄って会釈を交わした。
「どうした。今から政務に行くつもりか?」
午前の軍議を終えた後は暇を取っていたと記憶している。しかし荀彧の服装はいつもの装束だった。
夏侯惇の問いに対し、荀彧は軽く首を振った。
「いえ、違うのです。報告が入ったので」
途端に夏侯惇の顔つきが厳しいものになる。袁術絡みの情報かと疑った。
「よからぬ話か?」
「いいえ。むしろ喜ばしい報告です」
荀彧は穏やかな微笑みを見せた。
「先日、殿より軍の旗を新調したいとの仰せがありまして。丁度一枚、試作の染め抜きや刺繍が完成したとのことで、これからそれを見に行くところでした」
「ほう……そうか」
何かと厄介事が続く昨今の中では、確かに明るい報告の部類に入る。
前線においては将兵らの目印となり、また軍の士気を鼓舞する支柱ともなる旗。
それを新しくするという話は夏侯惇には初耳だったし、興味が湧いた。
「そいつは俺も見てみたいな。共に行っても構わんか?」
思わぬ夏侯惇の申し出に、荀彧は一瞬虚を突かれた顔をした。
だがすぐに、一層綻ばせた笑顔を浮かべて頷く。
「ええ、ぜひとも。私だけでなく、将である夏侯惇殿の御意見もお伺いしたく思います」
「俺の意見など、参考にはならんと思うがな」
荀彧の言葉を期待と受け取った夏侯惇は、やや苦笑いを浮かべた。
訪れたのは、許昌宮殿西の一番外れにある室だった。
将兵が常駐する調錬場からは離れた位置であり、滅多に訪れる場所ではない。
扉の入り口では、年配の女官が首を長くして待っていた。
「荀彧様、お待ち申し上げておりましたよ!」
夏候惇も何度か宮中ですれ違った覚えがある。見た目通りの、気さくで明るい女性だ。
荀彧の後ろにいる夏侯惇に気付くなり、彼女は物珍しそうな表情をした。
「まあまあ、夏侯将軍まで。ようこそいらっしゃいました」
「……うむ」
夏侯惇は女官越しに部屋の中を窺った。
途端に渋い顔をし、足を踏み入れるのを躊躇う素振りを見せる。
「夏侯惇殿?いかがなさいましたか」
荀彧が声を掛けると、夏侯惇は若干気まずそうに言った。
「女人が多いようだが……俺たち男が立ち入っても構わんのか?」
「ああ……」
迂闊に男が立ち入りにくい空気を感じ取ったとわかると、荀彧は改めて説明した。
「ここは手仕事や針仕事の場なので、女性が確かに多いのですが…将兵の衣服の修繕や、今回のように軍旗の製作、手入れなどもしていただいております。その依頼や素材の持込等で、私のように男性も出入りする機会はありますので、ご心配には及びません」
「そうか……では、俺も失礼する」
「ええ、どうぞどうぞ。少し散らかってますけど、お入り下さい」
女官にも促され、夏侯惇は荀彧と共に初めて目にする場へと入り込んだ。
窓辺から夕日が射し込む中、女性たちがそれぞれの持ち場で繕い物をしている。
中には成人前らしき少女たちもおり、一生懸命に組紐を編んでいた。
「わっ、夏侯惇様」
女性たちも夏侯惇が来るのは意外だったようで、驚いた顔つきをする者もいた。
「すまん、邪魔をする。続けてくれ」
手つきが止まってしまった若い女性に、作業の続きを促す。
女性はハッとして、慌てて針を動かすのを再開した。
「荀彧様、こちらです。いかがでしょうか?」
女官はたたまれた布を差し出した。
「ありがとうございます。では早速……」
荀彧は受け取ったそれを丁寧に広げていく。
夏侯惇も隣から覗き込んで、出来上がりを確認した。
「うむ、これは」
青を貴重とした肌触りのよい薄手の布。
中央には黒々と染め抜かれた「曹」の字が踊る。
周囲は紫紺の上品な縁取りが施され、金糸の刺繍が日を浴びて穏やかな煌めきを見せた。
布の細部までひとつひとつ確かめつつ、荀彧は笑顔で頷いた。
「素晴らしい出来ですね。染めの色も以前の旗よりもしっかりと出ていますし、刺繍も非常に細かい」
荀彧は、横にいた夏侯惇の前にも旗を差し出した。
「夏侯惇殿は、ご覧になってみていかがです?」
「そうだ、な……」
布や刺繍の善し悪しなどを判別する目は養われていないと自覚している。
だが、以前使用していた旗と比べれば間違いなく、一段格が上がったと感じられた。
「これを背後に掲げられた上で戦に赴くと思えば、腕が鳴るな」
「その一言をお聞きしたかったのです」
にこやかに微笑む荀彧を見て、夏侯惇も軽く笑った。
「孟徳も喜ぶだろう。以前より見栄えはいいが、派手な訳でもない。これぐらいが丁度良いのではないか」
脳裏に、絹地を惜しげもなく使い、金糸銀糸をふんだんに取り入れた袁家の軍旗が浮かぶ。
どんな土煙舞う戦場でも目立つあの豪奢さは、名族所以ではあろう。
しかし夏侯惇の趣味にはまるでそぐわなかったし、曹操も決して華美な装飾を好む方ではなかった。
「殿は質素を貴ぶお方。ですが今や、殿は帝を戴く立場にあらせられます…」
「その曹孟徳が掲げる旗が、あまりに粗末では決まりが悪い。そういうことだろう」
荀彧が更に続けようとした言葉を、代わって口にする。
説明するまでもなく意図を理解してくれた夏候惇に、荀彧は真っ直ぐな視線を向けた。
「ええ。陛下の威徳を目に見える形で示すという意味でも、こうしたところに気は抜けません。殿もその必要性から、お命じになられたかと」
「成程な」
夏侯惇が頷いた、その時だ。
「うっ……う、ううう」
急に、背後からすすり泣く声がした。
振り返ると、先程夏候惇に驚いていた若い女性が顔を手で覆っている。
「ちょっと、大丈夫?」
傍らにいた女性陣は、彼女の周囲をを取り巻いて口々に声を掛けた。
「あんた今日、一日根詰めてたから……」
「これでも食べなさいな」
差し出された菓子を涙ながらに頬張りつつ、女性はひたに頭を下げる。
「すみません……本当にすみません」
「わかるよ、辛いよね。あんたちゃんと頑張れてるからね。でも無理しちゃいけないよ?」
涙を止められない女性の背中を、皆はかわるがわる撫でてやった。
「あの子は、先日下邳で旦那を亡くしたばっかりなんですよ……呂布に斬られたとか」
女官の言葉に、夏侯惇は右目を見開いた。
「……そう、か」
冬から春への移り変わり程度では、夫を失った悲しみを癒すには不十分だろう。
小さな体を激しい慟哭に震わせる姿がいたたまれなく映った。
「かくいう私の息子も、だいぶ前に虎牢関で死んじゃいましたけどね」
「何っ」
初めて聞く話だった。年齢的に、とうに成人した子はいるだろうとは思っていたが。
驚きを隠せない夏侯惇を見て、荀彧が横から口を添える。
「夏侯惇殿。ここは殿が、ご主人やご子息を戦で失くされた女性にも手に職を、という思いから設けられた場なのです。寄る辺を失い、路頭に迷わぬようにとの配慮で……」
「そうか……では、ここにいる者たちは」
改めて、部屋に集っている女性陣を見回した。
組紐作りに勤しんでいたのは少女だが、ほとんどの女性は皆、一定の落ち着きが備わっている。
それぞれに秘めたる悲哀があると思い至れば、それも納得だった。
「行儀見習いで入ってる女の子もいますけどね。ほとんどはそうです」
「すまん、言いにくいことを聞いてしまったな」
「とんでもない!第一、こちらから話を振ったんですから」
夏侯惇が謝ると、女官は慌てたように手を左右に振った。
しかし直後、僅かにその明朗な表情が翳る。
「ただ、その……呂布をやっと倒したと話を伺えた時は、少しホッとしましたね」
小さく紡がれた言葉に、内にある親心の悲哀が滲んでいた。
女官はいつになく真面目な表情を浮かべ、改まった様子で二人を見た。
「死んだ息子や旦那たちのためにも、曹操様には乱世を治めていただきたいのです。どうぞ、お納めくださいますよう」
「かしこまりました。殿もきっとお気に召すと思います。そうなれば更に忙しくなりますが……」
荀彧もまた、誠心誠意を込めて礼を返した。夏侯惇もそれに続いて頭を下げる。
「それが私たちの仕事ですから!これからも、どうぞお任せくださいませ」
笑い飛ばした女官は、既にいつもの気さくな笑顔に戻っていた。
「殿、失礼いたします」
宮殿最上階から黄昏の空を眺める背中に向かって、荀彧は声を掛けた。
「何用だ?」
振り返った曹操の前に、広げた旗を差し出す。
「旗の試作が完成いたしました。どうぞご査収ください」
「早かったな」
曹操はすぐさま旗を受け取り、それをつぶさに眺めた。
ひと通り見渡した後、満足そうな笑みを荀彧へと向ける。
「一度でこれだけ仕上げてくるとは、流石よな」
「では」
「明日にでも針子たちに伝えてくれ。よくやってくれた、そして更に励んでくれと」
「かしこまりました、ではこちらの様式通りに」
肯定の意思を受け取った荀彧は、深々と頭を下げた。
「次の戦では、この旗を翻しながらの行軍となるか」
「うむ……」
夏侯惇の言葉に頷きつつ、曹操の視線は再び外の景色へと注がれる。
「ここも一段と賑わいを増してきたものだ」
曹操は静かに呟いた。彼の眼下には、夜へと移っていく許昌の街並みが広がる。
夏候惇と荀彧も曹操の隣に立ち、共にその先を眺めた。
大通りでは居住する民や行商人、老若男女問わず多くの人々が行き交う。
その中に、今日一日の仕事を終えた針子の女性陣が連れ立って歩く姿が見られた。
東の調錬場からは、今も若い将兵らが鍛錬を続け、張り上げる声が聞こえる。
「家財を売り払ってまで兵をかき集めたのが懐かしいな」
挙兵した頃の陣容を思い起こし、夏侯惇は嘆息した。
少数精鋭と言えば聞こえはいいが、身内と若い無名の将だけで構成されていた心許なき時代。
そこから数年足らずで許昌という拠点を持ち、軍師や青洲兵らを引き入れ、そして帝を戴くまでになった。
時には戦や謀の前に多くの命を喪いつつも、弛まず地盤を築き上げてきた結果が、今の許昌である。
「この中原において、殿の名は一段と確たるものになっています」
確信を持って荀彧は言った。
有能な将兵らが顔を揃え、乱世の只中にあっても街は活気を帯びる。
目指す先は尚遠く。だが確実に、目に見える形で曹操は己の道を歩んでいる。
「これも、お主らやここに集った者らがいればこそよ」
曹操は、手にした旗印に視線を落とした。
くっきりと浮かぶ自身の姓は、愛する者を喪いながら生きる者たちの手で染め抜かれたもの。
この字の下には無数の想いが宿り、そして力が集う。
「これからも頼みとさせてもらうぞ」
ちらつき始めた星々を見上げながら、曹操は両脇に立つ二人へ告げる。
「言われるまでもない」
「今後とも、才の限りを尽くします」
二人の言葉は一切の間を置かずに返された。
「死にたくなくばどけ!この夏侯元譲の刀の錆にされたい奴はかかってこい!」
高らかに叫びながら、夏侯惇は容赦なく麒麟牙を振るう。
その迫力に押され、袁術軍の兵士たちは一人、また一人と倒されていく。
見てくれだけは上等な鎧を誂えてもらっていようと、明らかに士気も練度も低かった。
「夏侯惇殿っ!」
後方で鋭い声がした。刹那、近くの樹木から事切れた兵士が落ちてくる。
その手には、毒矢が握りしめられていた。
「お怪我はございませんか」
振り返ったそこには、配下と共に駆け付けてきた荀彧の姿があった。
弓兵の死体の首を確め、突き刺さった鏢を引き抜く。
見えない危機から救ってくれた荀彧に、夏侯惇は素直な感謝の意を示した。
「助かったぞ。しかし、ここまで出てきて平気か」
淮河沿いに位置するこの拠点からは、寿春北西の城壁を一望できる。逆に言えば敵の懐にも近い。
「お気遣い、痛み入ります。ですがこの拠点は何としても押さえたく思い馳せ参じました……皆さん、お願いします」
荀彧は早速配下に指示を出し、拠点の検めと整備を行っていく。
「袁術軍は、近隣の村で略奪を繰り返していると報告がありました。満足な兵糧が調達できていないのでしょう。恐らく、立て直して打って出てくる程の余裕は残されていません」
「ふん……それなら丁度いい。喉元近くが押さえられたとわかれば、慌てふためくであろうな」
「はい。既に淮河を渡った夏侯淵殿たちも北西より進軍されています。略奪も行えないとなれば、いよいよ袁術軍は……」
夏侯惇と荀彧は、淮河の向こうに見える寿春の城壁を見据えた。
これ以上ない派手な意匠で以て、僭称する国号の『仲』が強調された旗が掲げられている。
自らを帝と名乗る男の、浅ましく虚飾に満ちた威が透けて見えた。
「お前たち、こちらも旗を掲げろ!」
兵長に向かい号令をかける。
すぐさま、用意されていた軍旗が高々と空へ掲げられた。
雲一つない蒼天の中、峻厳なる『曹』の字が風に揺れる。
朝日を受けて輝きながら棚引く様を、この場にいる皆が万感の思いで見上げた。
夏侯惇は僅かに口角を釣り上げ、荀彧に向き直る。
「……なかなかいい」
「ええ」
荀彧も、引き締まった顔つきで頷いた。
この蒼き御旗の下に、曹孟徳の名の下に集う者同士として。
今また、目指すべき志を、確かなものとする。
「ここは任せたぞ」
そう声を掛けつつ、夏侯惇は待機させていた栗毛に跨った。
荀彧は拱手の礼を捧げ、頭を垂れる。
「承知いたしました、夏侯惇殿」
夏侯惇は黙って頷き、後ろに控えている配下たちへ声を張り上げた。
「袁術は目前だ。帝を騙る愚者など孟徳の敵ではない、進め!」
夏侯惇は麒麟牙を掲げ、栗毛の腹を蹴り上げた。嘶いた栗毛は主の意思に従い猛然と駆け出す。
その背後に、軍旗を翻らせながら兵士たちが続いた。
「……御武運を」
怒涛の勢いで遠ざかっていく部隊を、荀彧は静かに見送った。
2018/07/29