玉にも瑕
正月も明けて数日。降り注ぐ陽光には、早くも春の兆しが感じられる。しかし折を見て吹きつける風はまだ冷たさを残しており、帝は身を震わせた。風に煽られ、梅の枝も揺れた。嘉徳殿の門前の梅には、薄紅の蕾が数多見える。あと少しで開花といったところだろう。何とはなしに、じっくり見入っていた時だった。
「陛下。ご機嫌麗しゅう」
「あっ、荀彧……」
穏やかな声に振り返れば、清廉な青い衣を纏い跪く姿があった。相変わらずその物腰は流麗で美々しく、思わず帝は背筋を伸ばす。
次いで深く呼吸をすると、胸の内に豊潤な匂いが入り込んできた。心の臓が、とくりと波打つ。
「ええと、その……わたしは、この梅を見に来た……だけだ。みな、そのことは知っているぞ」
慌てて胸を押さえつつ、余計な心配はかけまいと帝は言葉を連ねた。その懸命な様に、荀彧は何度も頷きながら微笑む。
「さようでございましたか……未だに蕾ですが、仄かな色味が美しい梅ですね」
「そ、そうであろう……だから、その……」
その後の言葉がうまく続かず、帝は視線を泳がせる。正面を向くと、荀彧の笑顔を見て、目と目を合わせることになるからだ。
恥じらいが先に立つと顔も見れず、会話はこうも難しくなるか。改めて感じた、その時だ。
「っ!」
「うわっ!」
いきなり、風が吹き荒れた。帝は咄嗟に、顔を袖で覆い隠した。梅枝は軋んでわななき、衣の裾が激しくはためく。
直後、遠くでカツン、と何かが落ちる音がした。
「……だいじょうぶか、荀い、く……あれ?」
袖を下ろした帝は、眼前の荀彧を見て二度、三度と瞬きをした。それは、まったく予期せぬ光景で。
「もっ、申し訳ありません陛下!このようにお見苦しい様を……」
いつになく慌てた様子で、荀彧は平身低頭畏まる。その頭上に、いつもの帽がない。
どうやら今の風で持っていかれたらしく、ならば先ほどの金属音こそ、帽が落ちた音だろう。それにしても。
「荀彧……そなたの髪……」
突風で荒らされた、という言い訳を立てようにも、ひとくくりにしている髪が簡単に乱れるとも思えず。まして、今の今まで帽の下に隠されていたのだ。
では頭頂部の髪が、やけにうねった癖を伴っているのは。
「実は……隠せるからと思い、髪の結い上げには気を遣わぬままでいることも多いのです。特に、早出の日などは……」
決まり悪げに苦笑しながら、己の無精を白状する。想像もしていなかった。あの荀彧が、このような表情を見せるなど。
「っ……くく……あははっ」
「まこと、お恥ずかしい限りです。申し訳ありませんでした」
「あ、いや!ちがうのだ。気を悪くしないでくれるか」
思わず笑ってしまったことを、帝は慌てて詫びた。決して、嘲ったり蔑んだ意図はなくて。
「その……完璧に見えるそなたにも、そういうところがあるのかと……何やら、ほっとしたのだ」
ひと息つくと、帝の緊張は和らいだ。荀彧はいつも凛々しく、佇まいに隙がなく。何かにつけては董卓に叱責される己が身と比べ、いかに優れたことかと仰ぎ見て。
そんな彼にも、思わぬ一面がある。それを伺い知れたことが、何よりも帝は嬉しかった。
「陛下……勿体ないお言葉です。私など、至らぬ点ばかりにございますのに」
荀彧も改めて拱手し、微笑みを返した。
日々抑圧され、息詰まる思いであろう彼の人が、ただ一時でも幼子らしい感情を発露できた。それを物語る屈託のない笑顔に、心温まる思いがした。
「そうだ、帽を探さなくてはいけないな。わたしも行こう」
思い出したように言うと、帝は我先にと駆け出した。荀彧も慌ててその後を追う。
「あっ、お待ちください陛下!私のためになど、畏れ多く……」
「気にするな!それより、早く見つけて被らぬと、そのくせっ毛がみなに知られてしまうぞ」
追いかけてくる荀彧に向かい、帝は笑いかける。玉の如しと憧れの人にも、ほんの些細な瑕は有り。知り得た喜びに、瞳はきらりと輝いた。
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2020/03/17