花茨のお気に入り
苛ついた気持ちを隠そうともしないまま、董白は城内を闊歩していた。理由はごく簡単なものである。城下で人気の茶菓子を購入するよう、従者に命じたのだが、待てど暮らせど戻ってくる気配がない。
それもその筈、董白が目をつけた茶菓子は、行列ができるほど人々の耳目を集める逸品なのだ。
「まったく……あいつ日頃から鈍くて愚図だとは思ってたけど、今度こそクビね」
董白は吐き捨てるように言った。
容貌は、あの董卓の孫娘とは思えぬほど可憐に整っている。
しかし、苛烈な性格を窺わせる厳しい目つき、酷薄な声色は、やはりこの洛陽を牛耳る董一族の象徴ともいえた。
彼女の従者は哀れにも、昼の厳しい陽射しに晒されながら今も並んでいる。しかしそんなことは、董白は知る由もない。
知ったところで、何を馬鹿正直に並んでまで買ったのだと詰るだけ詰って、宮殿から追い出して終いだ。
「ああっもう……!」
些細なことでも、思い通りにいかねば気が済まない。腹の内の怒りを抑え切れぬ董白であったが、ふと、彼女の耳はその音を捉えた。
「……何よ」
涼やかな楽の音色。奏者の巧拙などはわからない。
だが、こんな乱れた精神で聞いているにも関わらず、厭な気持ちにはならなかった。
「ふぅん……」
わずかに董白の表情が和らぐ。
彼女にとって、楽など得体の知れぬつまらぬ音か、感情を逆撫でする喧しい音でしかなかった。
しかし、今聞こえる調べはそうではない。まるで水のように、耳にするりと入ってくる。
要は、邪魔ではない音。それだけで董白にとっては及第だ。
そこそこ殊勝な者の顔くらいは見てやろうかと、董白は音のする方へと足を運んだ。
楽の主は、中庭にいた。
細い指先を軽やかに動かしながら、箜篌を奏でる。そのたびに、あの音色が生まれては董白の耳へと入り込む。
一心に弦を弾く伏し目がちな横顔は、ある者が目にすれば、なんと清廉な美女かと思うだろう。またある者が目にすれば、なんと憂いに満ちた表情をするのかと思うだろう。
しかし董白は、そのどちらでもなかった。見苦しくない見目だと、その程度の感想だった。
「……あ」
近づいてくる足音に気づいて、指が止まる。董白の方を振り向いた面立ちが、微かに戸惑いの色を見せた。
「申し訳ありません、つい無心で奏でておりました。お耳汚しをお許しください」
「別にいいわよ。お前の音、まあまあ聞いていられるから」
「は、はい……ありがとうございます」
箜篌を胸に抱きながら、楽の主は董白の前に跪いた。
嫋やかで慎ましい所作も、やはり悪くない。宮中の女官ではない筈だが、ここにいるということはそれなりの身分だろう。
「お前、名は何と言うの?」
「畏れながら、董白様の御耳に入れていただくほどの者では」
「生意気ね。この私が名を聞くということは、私相手に名乗ってもよいという誉れを賜っているのよ。大人しく受けなさい」
董白は眉間に皺を寄せた。これがその辺りの取るに足らない女官で、今この手に鎖分銅を持っていれば、跳ね飛ばしていたかもしれない。
しかし不思議と苛立ちは軽いものに終わり、あとはただ、相手の言葉を待った。
楽の主も董白の視線に観念して、静かに口を開く。
「大変、失礼いたしました……蔡邕が娘、蔡文姫と申します」
「…ああ。なるほどね」
正体が知れた瞬間、董白は頷いた。
蔡邕は珍しく、董卓が重用している文官だ。たまに鬱陶しいことを言うのだと愚痴を零す祖父の姿を見たことがある。
しかし、気に入らぬ者は罷免も処刑も辞さない董卓が、何故か蔡邕だけは見切ることなく傍に侍らせていた。
その意味が、董白には今ひとつわからなかった。ただ、とりあえずお気に入りであるとだけ、認識していたのだが。
「そう……お前があの、蔡邕の娘」
知らず知らず、董白の口の端に笑みが浮かぶ。それは、今まで頭の片隅にあった疑問の氷解を意味した。
恐らく、祖父にしても理屈ではないのだろう。感覚的なものなのだ、蔡邕を手元に置いているのは。
目の前で畏まる、血を受け継いだ者の姿を見て、董白も納得した。
「おじいさまから話は聞いているわ。覚えめでたき父親がいることに、感謝しなさい」
そう告げたかと思うや、董白はしゃがみ込んだ。淑やかに俯く蔡文姫の顎をとる。
「あ……っ。董白様…?」
驚きに見開かれた瞼から、瑠璃のように澄んだ瞳が覗いた。
ああ、やっぱり。これは本当に悪くない。いるものだ。どういうわけか、見ていても不快を覚えぬ存在が。
「面白いものに出会えたわ、蔡文姫」
ようやく自分も見つけられたようだ。きっと、これが。『お気に入り』という感情。
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2019/08/28