menu

曇天日和

どんてんびより

氷雨の幻

「っあ……やぁっ……あ、んっ……!」
「は……あ……」
ぎしり、ぎしりと、寝台が鈍く軋む。互いの荒い息遣いが、冷えた暗がりに響き渡る。
「あぅ……あ、やっ!へ、陛下っ……っ、んんっ、う」
突き上げられる苦しみに喘ぐ間もなく、唇を塞がれた。舌を差し入れられ、ひとしきり蹂躙されて。
その性急な行為から窺えるのは、微かな苛立ち。
「言ったはずだ……ここでは、私は……帝ではない…」
「っ……もうし、わけっ…………あぁっ!」
謝罪の言葉は、最後まで紡ぐこと叶わず途切れた。下腹部へと伸びた指が芯に触れ、先走りを溢す鈴口を擦り上げてくる。
腹の内に突き刺さった熱と、直に与えられる愛撫は、容赦なくこちらの理性を掻き乱していく。
「あ、っ……劉協、さま……っ!もう、およ、し、にっ……あ、いやぁあ……!」
望まれた名を、やっとの思いで、懇願と共に口にして。しかしそれも結局は悦楽に呑まれ、嬌声へと変質する。
一度始まった行為は、止まることはない。すべて貪り尽くされ、果てるまでは。
「あ、ああっ、ああ!やめ、っ、あ、んっ!」
にわかに、腰を激しく揺さぶられる。扱く手つきが早まる。追い詰められるほど、声も上擦っていく。
「っあ、うっ……やっ!?」
己のはしたなさに、耐えきれなくなって。抑えようとして口許を覆うも、その手はすぐさま払い除けられた。
絶望のまま見上げたそこに待ち構えていたのは、陰に染まった中に浮かぶ、情欲の眼。
「どうせ、雨だ。私しか聞いていない……っ」
「あ……っ、ぅああああ!?」
まるでそれは、咎め立ての如く。内を深く抉られ、思わず叫んだ。辛うじて見えていた輪郭も、ついにぼやける。
「ああっ、あ……っ!りゅ、きょ、さまぁっ!おやめ、くださっ、あっ、あああああ……っ!」
もう、何も見えない。何も考えられない。聞こえるのはただ、自分の情けない悲鳴と――――










ひどく、寒い。凍えるようだ。
身を震わせながら、荀彧は瞼を開けた。未だそこは夜の只中。目を凝らしても、辺りはようとして窺えない。
ただ、ざあざあと激しい雨の音ばかりが、耳に入ってくる。相当強く降っているようだ。寒く感じるのはそのためか。
「っう……」
必死で起きようとするが、どこもかしこも鈍痛が走る。痛みをこらえることには、最早慣れた。さりとて体がままならぬ苦しみは、常に同じ。
特に痛む腰をかばいながら、やっとの思いで上体を起こす。
「ん……っ」
くちゅ、という水音が股下で響いた。冷やりとした感触が肌を刺し、靄がかっていた頭も覚醒させられる。
互いに幾度も吐き出し合った、情交の澱み。未だ粘りを伴ったままで残されているそれは、羞恥を否応なく煽った。
刹那、汗が一筋、胸元を伝う。それも肌身には冷たく感じられ、背筋が震えてしまう。思わず身を捩ったその時、手が軽くぶつかった。
「あ……っ」
焦りながら手を引っ込め、自身の胸へと縫い留める。寝着の下の肌は、汗に濡れたままだ。
体も清めず、まして薄い寝着一枚のみ纏った状態。それは自分だけではなく、傍らで眠るこの御方も同じではないか。
(いけない……)
不覚だ。猛る想いに溺れた挙句、何もかも投げ出して、先に気を失ってしまうなど。
ここは宮中の寝所ではなく、自分が所有する別宅。居たたまれないほどに気を回す宦官もいなければ、こちらの使用人も一人として呼ぶことのない、閉ざされた場だ。
御身を労わるのは、我が役目であるというのに。後始末ひとつできず、この冷え切り汚れた寝台で寝かせてしまった。
このままでは互いに、体の調子を崩してしまうやもしれない。己が身はともかく、万一、若き玉体に何かあれば。
「っく……」
痛みに動きを阻まれてなどいられない。無理矢理に寝台から降りて、足を引きずりながら歩く。幸い、目も既に夜陰を見通せるようになっていた。
奥の棚まで向かい、そこから洗い晒しの布と厚手の上掛けを引っ張り出した。そして再び、寝台へと戻る。
ひとまずはと、敷布を濡らしている精を拭き取り、その上から別の布を押し当てた。
「……失礼、いたします」
眠る人へと手を伸ばす。腕や首、寝着から垣間見える箇所の肌に、そっと布を当てていく。起こさぬよう気を払いながら、大方の汗を拭いた。
できることなら寝着も着替えさせてやりたいと思うが、それでは無理な目覚めを強いることになる。
今はせめてもと、首元まで覆うように上掛けを被せた。

残った布でようやく、自らの腹や股にへばりついた白濁を拭い去る。そのままもう一度、荀彧は棚の前へと足を運んだ。
濡れた寝着を脱ぎ去り、汚れた布と共に近くの籠へ押し込める。
「う……」
寒い。芯から凍てつくように。降っているのは雪ではないかと錯覚したくもなるが、屋根を打ちつける水音は変わらずに雨だ。
この別宅に足を踏み入れた時、そして、帝が現れた時。雲は厚かったものの、まだ月明かりは見えた筈。まさかこうも雨の激しい夜になってしまうとは。

替えの寝着を身に纏い、更に上から羽織を着込む。次に足は、竈へと向かった。
「っぐ……っ」
その場にしゃがみ込む、ただそれだけの動作が思いのほか辛い。痛みに眉を顰めつつ、竈下の炉に手を差し入れた。
まだ、焼けるような熱を感じる。ほっと一息つくと、荀彧は竈横にある青銅の火鉢と木製の長箸を引き寄せた。手にした長箸を炉に突っ込み、炭を掻き出す。
未だ中心部が赤く燻っていることを確認してから、火鉢へと入れた。この寒さでもう火種は消えていると思ったが、これならば。
「……よかった」
竈近くの小棚から壺を取り、中身を見る。まだ松脂が残っていた。
小さな欠片状になったものをいくつか見繕い、火鉢の中へと落とす。ややあって、独特の臭いを薫らせながら火が熾った。
最後に、煙除けのため粗い目の籠を火鉢に被せ、寝台近くの卓に置く。これで少しは、暖の足しとなる筈。

雨夜の闇に沈んでいた部屋が、炭火によってわずかながら明るく照らし出された。寝台に横たわる、彼の人の寝顔も。
「劉協、様……」
ここでの逢瀬では、ただ人としての扱いを望まれた。特に名の拘りは強く、「協」と呼ぶことを常に求められる。
誰の目も届かぬ場所でくらいは、帝という立場を離れた一人の己でありたい。年若い彼の人がそう切に願うのも、無理からぬこと。
だが、昏々と眠る横顔は、決して安らかとは言い難い。今も尚、満たされないままでいることを物語っていた。

雨音が、更に強くなった。果たして夜明けまでに止むだろうか。今の荀彧にはそれが気がかりだ。
今日は二人とも、特別に雨支度をしていない。ここより城までは遠くないが、近頃の朝は身を切る寒さだ。加えて、雨の中を歩かせるのはあまりに忍びない。
どうか、この御方が目を覚まし、帰るその時までには――――


ガタリ、と鈍い音が響いた。
「っ!?」
反射的に身構え、方々を見渡す。何か物が落ちた形跡はない、であれば、外だ。風に何かが煽られたか。
否。今夜は確かに雨そのものは酷くなっているものの、風はさほどでもない。ならば。
(誰、か)
荀彧はすぐさま、上掛けを帝の頭まで隠れるように被せた。
そのまま足音を殺し、まずは書棚の近くへと向かう。間より護身用の鏢を引き抜いてから、改めて窓際の壁に取りついた。

この別宅の存在を知る人は、決して多くない。ここを借り受けることを許可した曹操と古株の使用人、あとは郭嘉や満寵、荀攸といった限られた面々だ。
だが、曹操がここを来訪したことは一度としてなく、使用人はこちらから用向きを言伝てない限り、無断で来たりはしない。
見知った仲間たちこそ、約束もなしに訪れることはたまにあった。されどそれなら、入口の扉を叩いた上で正々堂々と名乗り出る筈。
他に考えられるとしたら、董承あたりか。しかし彼であれば、もっと無遠慮に。そして真っ先に帝を呼ぶに違いないだろう。

今しがた聞こえた音は、確かにこの窓の向こうから。
抑え気味ではあるが、殺気を感じる。そして音を立てたきり、息を潜めたままの気配。想像しうる誰にも合致しない。
夜盗の類に負けるつもりはないが、今の痛みを抱えた体で果たして、どれだけ立ち回れるか。窓の外にいるのは一人のようだが、もし、囲まれていたら。
嫌な思考ばかりが、頭を過る。それでも、何としてもこの場を乗り切らなくては。
(陛下……っ)
背後の寝台、上掛けに覆い隠された人影をちらりと見やる。この御方を守れるのは今、自分だけ。
強かな雨の音を聞きながら、荀彧はひたすら、その瞬間を待ち構えた。


(……おかしい)
気づけば、雨脚がいくらかましになった。ここまでにかなりの時を要した筈だが、乗り込んでくる様子はない。
確かに殺気混じりの気配を感じられたのに、それとても段々と曖昧になってくる。
もしや、殺気立っていたのはこちらの方だったか。危うい状況を前にして、些細な音に気を回し過ぎたのか。
そう決めつけてしまうのも危険だ。気を抜いたその瞬間、帝の御身を危機に晒すやもしれない。だからといって、このまま漠然とした不安に苛まされて夜を明かすのか。
せめて、ただの物音か、それともやはり人であるのかは確かめたかった。もしも、人であれば。怪しい輩であれば、即刻仕留めるまでだ。
「っ……」
意を決して、荀彧は窓枠に手をかけた。ゆっくりと外開きにしたところで暫し待つ。誰も入ってこない。
いよいよ鏢を構え直して、窓辺に立った。窓枠からわずかに身を乗り出し、右を、そして、左を――

「――公達、どの」

息が詰まった。夜であるが故の見間違いだと思った。思い込みたかった。
しかし目の前で白い息を吐き、しとどに濡れた男の輪郭は、荀彧がよく知る男のものであった。
「あ……っ」
窓枠を握る手が、かたかたと震える。もう一方の手からは鏢が滑り落ち、床に散らばった。
何故、ここに。何故。いつから。では、あの音の主は。殺気の主は。
されど、一向に問いの言葉が出てこない。
「…………」
辺りの闇よりも尚深い、真っ黒な瞳が見上げてくる。雨に冷やされた外気よりも尚凍えた眼差しを伴って。
その奥で、静かな怒りが――覚えある殺気が揺らめくのを見て取った。
やはり。すべて、見られていたのか。すべて、聞かれていたのか。ここでの許されざる行為を。あられもなき声を。
「っ……」
悟った瞬間、ついに耐え切れず、顔を背けた。

「夜分に、失礼しました」
何一つ感情の籠らない声が、耳を貫く。
「っ、公達殿っ……!」
はっとして、もう一度見つめ返そうとした時には遅かった。既に荀攸は背を向け、茂みの中へと歩き出していた。
暗闇に、濡れそぼった小柄な背中が溶けていく。ただ、ゆっくりと歩いているように見えるのに、それはあっという間の出来事だった。


「荀彧」
耳元で、吐息交じりに名を囁かれた。
「……っ!」
ぞわりと背筋が浮き上がった刹那、背後より抱きすくめられる。
「どうしたのだ、そんなに震えて。窓を開け放していては寒いだろうに」
いつにない、柔らかな声だった。しかしそこには、抗うことの許されぬ圧が潜んでいる。
震えを止められず、さりとてその場から動くこともできず。声も、出せなかった。
「そうか……そなたでも、何かを怖いと思う時があるのだな……」
「あ……」
後ろから回されていた手が、いったん窓枠へと伸ばされる。目の前で閉じられていく窓を、その向こう、雨に烟った夜陰を。茫然と眺めた。

「……荀彧」
「っ……んぅっ」
顎を取られて振り向いた先で、彼の人の唇が待ち構えていた。優しく、温かく。そして逃れられぬ口づけ。
角度を変えるたびに腰を撫で上げられては、足元から力が抜けていく。
「ふ、ぁ……っ……」
畏れ多くも、玉体に寄り掛かる格好となってしまう。それを待っていたかのように、腰を抱く腕の力が強くなった。
「大丈夫だ……何も、怖いことなどない」
頬をゆるりと撫で上げながら、穏やかな微笑みを浮かべ。その微笑みのままに、彼の人は告げた。

「そなたが見たのは、幻だ」

「――――――!!」
声にならない悲鳴が、喉の奥を裂いた。咄嗟に口許を抑えたこちらを、面白おかしげな視線が突き刺す。
その目は心底から、笑っていた。動揺する自分を。
「ああ、こんなに体を冷やしてしまって……共に温まろうではないか」
穏やかな口ぶりで、その腕は強引に寝台へと誘っていく。嫌だと心が叫ぶのに、せき止められたかの如く言葉を紡げない。
「あ、あっ……!」
寝台に押し倒されるや、纏い直した寝着を乱された。間を置かず、露になった肌へ口づけを落とされていく。
「やあっ、ん……っ!」
伸ばしかけた手は絡め取られ、頭上に押しつけられた。首筋に舌を這わせ、耳朶を弄びながら、彼の人は残酷に囁きかけてくる。

「怖い幻など、私が忘れさせてやろう」

心の臓が、握り潰されたように痛い。嗚呼、真に幻であれば、どれほどよかっただろう。されど。
幻として葬り去ることなど、できない。あれは。あの人は――――

「あっ!うあっ!もう、やめ……っ……あ、いやあああああああああっ!!」
押し流されていく。言葉も、想いも、すべて。










とっくに承知していたことだ。
荀彧が帝に手籠めにされた挙げ句、求められては夜を共にし続けていることを。
帝を推す者、曹操を推す者。どちらの泣き所にもならないために、彼は口を噤むことを選んだ。
それを知りながら、何もできぬまま。あろうことか、自分は蓋をした。心のどこかで期待したのだ。あの夜に見たものは、すべて幻だったと。
それがどれほど愚かしい行いであったかを、今夜まざまざと思い知らされた。

何故あの時、余計な勘が働いたのだろう。何故いつものように、入り口の扉を叩いて彼を呼ばなかったのだろう。
それなら、きっと彼は出てくることもなかったし、それで諦めがついたのだ。
なのに、背後に回ってしまった。彼の所在を確かめようと、窓から見てしまった。眠る帝に寄り添う彼を。「劉協様」と名を呼ぶ彼を。
その切なく情を秘めた声を聞いた瞬間、自分でも抑え難い怒りが沸いた。窓枠を揺らさずにいられぬほどの。

大きな音を立てた瞬間、ようやく我に返り後悔した。確実に、気づかれた。
すぐにその場を離れたかったのに、足は震えて動けず。ただ壁に張りつき、息を押し殺して時を待った。
どうか、このまま。外など見ないでくれ。必死の願いも、叶わなかった。

彼が窓を開け放った時、この身を濡らす雨は怒りを凍らせ、虚しさへと変えていた。
観念して見上げたそこに、悲愴な表情を浮かべた彼がいて。闇に慣れた目は、残酷なまでに貌をよく映した。
雨ではない何かにしっとりと濡れた首。そこに遺された、肌色よりもくすんだ痣。

結局、逃げた。見なかったことになどできぬというのに。ようやく震えの止まった足は、真っ先に逃げることを選んだ。
そうすることでしか、内で崩れていく自分を保てそうになかった。


やがて雨が止む。氷のように冷たかった雨が。少しずつ東より空が白み、されど雲は、今しばらく退きそうにない。
色濃く残る雨の匂いを掻き分けながら、重苦しくぬかるんだ道を、ただ歩む。

荀攸の頬は、まだ濡れていた。




2019/12/02

top