いけないことだと知っているのに。
窓から覗く銀色の月を眺めながら、荀攸は酒を呷った。「……今宵は、満月でしたか」
「こうして月を眺めて、酒をいただくなど…いつ以来でしょうね」
苦笑しつつ、荀彧も杯に口をつける。久しく飲んでいなかった酒の味が、喉を潤した。
昨秋から年明けにかけて多忙を極めた政務も、春の終わりを迎える頃には目処が立った。
久方ぶりといっていい、ゆとりある宵の暇。ここまでの慰労も兼ねて、折角ならばと自宅での酒席に招いたのは、荀彧の方からだった。
しばらく酒を飲む機会を逸していた荀攸としても、誘いを特別断る理由はなかったし、むしろ気遣いを嬉しく感じた。
酒にありつきたいとは思えど、郭嘉あたりと騒がしい夜の店で飲む気は今のところ起きなかった。それだけ、膨れ上がった任務に疲弊していたということだろう。
荀彧の自宅でなら、使用人の用意する上品な肴と酒で、日頃の喧騒を余所に落ち着いて過ごせる。今は、そういう時間が欲しかった。
「文若殿。髪紐が」
杯を片手に穏やかな談笑が続く中、ふと荀攸は気づいた。
平素はきっちりとひとつ縛りで纏められている髪が、緩やかに崩れていこうとしている。
「えっ。あ……本当ですね」
指摘された荀彧も、自身の異変に気づいた。
平服に着替える際は髪紐を結び直しているのだが、今日は結び方が甘かったようだ。
「気づいてくださってありがとうございました、公達殿」
荀彧は、緩んでしまっている結び目に手を伸ばした。しゅる、という微かな音と共に、紫の髪紐がほどかれる。
豊かな黒髪が、肩口にふわりと広がった。
「っ……」
下ろし髪となった荀彧の姿を、南中に輝く月が照らし出す。
淡い月光の中に浮かび上がる端整な貌に、思わず荀攸は目を奪われた。
「すみません、お見苦しいところをお見せして」
断りを入れてから、荀彧は整えようと髪を手に取った。その直後、意外な言葉がかけられる。
「よろしければ、俺が……やりましょうか」
「……えっ?」
突然の申し出に、荀彧は驚いて荀攸を見つめた。荀攸も、自分で自分の言った台詞に戸惑ってしまう。
「あ、いえ……その…」
次の言葉を探しあぐねる荀攸に、荀彧は二、三度と目を瞬かせたが、すぐに笑みを浮かべた。
「…そうでした。昔、公達殿にも髪を結っていただきましたね」
荀彧の脳裏に、懐かしいやりとりが蘇る。荀攸は成人前で、自分に至ってはようやく十の声を聞くかという頃の話。
ある日荀攸の自宅を訪ねた際、扉にあったささくれに髪紐を引っかけてしまったことがあった。髪紐は勢いよく切れてしまい、結い髪は当然乱れて。
その様を見た荀攸は、すぐに自室へと呼び寄せ、髪を整え直してくれたのだ。
「では、お言葉に甘えて……お願いしてもよろしいですか?」
髪や肌を傷つけることないようにと、優しく丁寧に結ってくれた手つき。往時の記憶に思いを馳せながら、荀彧は微笑んで髪紐を差し出した。
「は……はい」
荀攸は慌てて杯を置き、髪紐を受け取った。席を立って、荀彧の真後ろへ回る。
何故こんなことを自分から言い出してしまったのかと、内心焦りながら。
「失礼、します……」
目の前の黒髪に、そっと触れた。絹糸のように艶やかで、指通りがよい。
かつて結い上げた時も、ごわついた自分の髪と違ってなんと綺麗なのだろうかと驚嘆したものだ。
今この手に取るのは、あの頃と少しも変わらぬ、瑞々しさを保った髪。清廉で見目麗しいと評判の、彼そのものを表すかのよう。
細心の注意を払いつつ、荀攸は指先で髪を梳きながら、己の左手へと髪を纏めていった。
根元を握ったところに髪紐を当てて、手早く回していく。最後にくっと引き締めてから結び目を作った。
「このような感じで、よろしいです……か……」
束ねた髪から手を離そうとして、荀攸は息を呑んだ。
平服の襟元より、すっと伸びあがるように弧を描く項。髪を結ったことで再び露わになった場所は、白く滑らかで。
「公達殿?はい、綺麗に結っていただき、ありがとうございます……あの、公達殿?」
完全に手が止まり、反応が返ってこないことを訝しんで、荀彧は声をかけた。しかし荀攸の耳には聞こえども、心まで届いてはいなかった。
どうしても、目が離せなかった。匂い立つような色香を湛えた、その首筋から。
「…………っ」
自覚は、している。このような感情を持つことは、許されぬのだと。同じ血族の間柄で、子を成せぬ男同士であれば尚更に。されども。
今、目に映る彼を見て。ひたすらに美しいと感じ、強烈に惹かれてしまうこの心を偽ることは、できない。
「公達殿……っ、あ!?」
やはり返事がない荀攸を心配し、少し振り向こうとした刹那、荀彧は小さな悲鳴を上げた。
いきなり、首元に柔らかな感触が押し当てられた。そこから伝わる熱い何かに、背筋がぞくりと粟立つ。
「やっ…………こ、公達、どのっ……あ……」
項に、口づけを施されている。そのことに気づき、荀彧の頬は紅く染まった。
戯れはおやめください、と振り払えば済んでしまう話だ。なのに、それを咄嗟にはできなくて。
突然の荀攸の行動に、一方的に与えられる愛撫に。ただ、惑乱することしかできずにいた。
「文若、殿……」
唇を離したそこに、赤黒い痕が残される。降り積もった雪の中、ひとつだけ踏み抜かれた足跡のように。
穢れなき純白に落とされた、己が浅ましき想いの形は、昏い欲を的確に煽った。
思えば何故、急に髪結いをやらせてくれなどと自分から言ってしまったのか。初めから、わかっていた筈だった。
「愛して、います。文若殿」
耳元で低く囁きながら、荀攸は震える荀彧の体を抱き込んだ。
彼に、触れたい。彼のすべてを、俺のものにしたい。
いけないことだとは、知っている。
されども、いけないことだからこそ、踏み越えてしまいたくなる。
攸彧の日のお題企画に寄稿させていただきました
2019/05/19