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曇天日和

どんてんびより

花王に香無し

「それにしても、よく降る雨だ」
頬杖を突いたまま、郭嘉は気怠い眼差しを窓の外へ送った。
晴れていれば見える筈の景色は白く烟り、水音は絶え間なく、人気もまばらな食堂に響く。
春の終わりとはいえない時期。思いがけぬ長雨は、季節を巻き戻したかのように空気を冷やしていた。
「こうも雨続きでは、宵の月を愛でながらの宴も楽しめないね……つまらないな」
「まったくですよ」
郭嘉が至極残念そうに呟けば、向かいに座っていた満寵も頷きつつ捲し立てる。
「私も早く試したいと思っている罠がありまして、徐晃殿とお約束しているんですが。これでは土が柔らかくなり過ぎで……はぁ、当分は無理かなぁ」
「お二方。雨を前に消沈するのは結構ですが、負うべき責務は果たしてください」
満寵の隣に座る荀攸が、やや苛立った声で釘を刺した。眉間には皺が寄り、『現実から目を逸らすな』と目で訴えてくる。
郭嘉と満寵は顔を見合わせ、肩を竦めた。
「おやおや……荀攸殿、随分とご機嫌斜めのようで」
「まあ、春とは思えぬこの雨では、皆苛立ちが募っても致し方な……へっくし!」
寒気に背筋を震わせ、満寵は短くくしゃみをした。
「ううっ、寒いなぁ」
「この寒さの中、そのように前を寛げていればやむなしかと……」
荀攸の視線が、満寵の上着へと向いた。またも留め具が掛け違えられている。
最早当たり前にも近い光景ではあるのだが、今日は下着も中でずれているらしい。覗く肌が寒々しかった。

「ところで荀攸殿、荀彧殿は?」
二杯目の茶を口にしたところで、郭嘉が尋ねる。
三人がこうして半端な時間に休憩を取っているのは、午前の軍議が長引いたためだ。しかし同じく軍議に参加し、予定がずれ込んでいる筈の荀彧だけ、姿を現す気配がない。
「近日中に、帝に奏上する文書を纏めねばならないそうで、今日はいいと」
「そうですか……いや、尚書令とは大変ですね」
戦働きに集中できる自分たちとの違いに、満寵は溜め息をついた。

「……失礼します」
ふいに、荀攸が席を立ち上がった。
「あれっ、もう行くのかい?」
「竹簡や書簡の整理くらいなら、俺も手伝えますので」
軽く頭を下げると、荀攸はつかつかと早足で食堂を出て行く。
その、やや枯れた空気を醸し出す背中を見送った後、郭嘉と満寵は互いに苦笑した。
「……やれやれ、本当に生真面目な一族だ」
「それが美徳ではあるのだけれど、ね」





「すみません、公達殿……わざわざこちらに出向いていただいたばかりか、このようなことをお願いしてしまって」
荀彧は申し訳なさそうに、隣席する荀攸へと視線を送った。
竹簡を広げては中身に目を通し、報告元、そして内容別に纏めて重ねる。後に見た者が確認を取りやすくするためである。
軍師である彼にこんな雑務を任せてしまっていることに、荀彧は少なからず罪悪感を覚えた。
尚書府の人出が足りず、手をつけようにもつけられていなかった領域のため、ありがたくはあるのだが。
「いえ、お気になさらず」
眉一つ動かさず、荀攸は作業を繰り返し行っていく。
荀彧が独りで背負う煩雑さを少しでも請け負えるのであれば、この程度は負担とは感じなかった。

「……っくし」
急な寒気に襲われ、荀攸は咄嗟に口許を覆った。音に気づいた荀彧が、はたと筆を止める。
「公達殿、大丈夫ですか?」
「はい。失礼しました」
「この寒さですからね……一体、どうしたのでしょうか」
荀彧は窓の外を見やった。朝から絶え間なく降り続ける雨は、未だに止む気配がない。
「確かに、よく降る雨です」
食堂で郭嘉が呟いた言葉を、荀攸も口にした。いい加減、日差しが恋しくなる肌寒さであるのは確かである。
腕の辺りを撫で擦る荀攸を見て、ふと荀彧は思いついた。
「ああ、そうでした。冬に使っていた上掛けがまだあったかと……」
「文若殿、俺などに気遣いは無用ですから」
わざわざ席を立った荀彧に、荀攸は慌てて声をかける。多忙な彼を支援するために来たのに、逆に気を遣わせてしまっては本末転倒だ。
「いえ、私も使おうと思いまして。夜になると、更に冷えますし……少々お待ちください」
どうにか遠慮しようとする荀攸に苦笑しつつ、荀彧は執務室の奥へと向かった。


奥扉を開けたそこには、仮の寝台が置かれた小部屋がある。
夜通しの政務になる時はこの場にて仮眠を取るため、ある程度必要な物品は揃えていた筈だ。
記憶を頼りに、荀彧は寝台横に設えた棚の引き出しに手をかけた。
「ああ、よかった」
幸い、目当ての物はすぐに見つけられた。
畳んで収納しておいた紺色の上掛けを二枚、引き出しから取り出す。
日が出ていた頃に一度虫干ししていたおかげで、埃臭さはなかった。これならば、荀攸を不快にさせることもないだろう。

「……困りましたね」
雨垂れの音に引き寄せられるように、荀彧は小部屋の窓の近くへと歩み寄った。
春の陽気が訪れたかと感じた、その矢先の長雨だ。こうまで降り続く春の景色は、あまり記憶になかった。
この寒さでは、麦などの生育にも影響が出そうであるし、兵糧庫の湿気も気になる。将兵らにとっても、外で調錬できない日が続くのは体にも毒だろう。
天の機嫌を推し量るわけにはいかないが、さすがに、明日か明後日までには上がってくれないものか――――そう、思った時だった。

「……え?」
窓の下には、東の庭園が見える。女官たちによって日々手入れされている、花壇がある場所だ。
そこに、誰かがいた。この雨の只中、ただひとりで。赤と黒の豪奢な装束を纏い、冕を頭上に冠った青年が。
「っ……あ……!?」
誰であるかを認識した瞬間、荀彧は慌てて窓から身を離した。

「文若殿……いかがしました?」
慌ただしく戻ってきた荀彧を見て、荀攸は首を傾げた。
「あっ……すみません、お待たせしました。どうぞこちらをお使いください」
荀彧は、その手に持っていた上掛けを一枚、荀攸へと手渡す。
「わざわざ、申し訳ありません」
「いえ。それで……こちらこそ本当に申し訳ありませんが、いったん席を外します。留守をお願いできますか?」
「え、文若殿……」
「すぐに、戻ってまいりますので」
一礼すると、荀彧は足早に執務室を出て行ってしまった。思いがけぬ行動に、残された荀攸は呆気に取られてしまう。
「……?」
どうということはない、何がしかの忘れていた所用かもしれない。なのに、何故か荀攸の胸の内はざわりと騒いだ。
直前に見た、彼の表情のせいだろうか。まるで、何かに驚いたような、焦ったような。





「陛下……!」
庭まで駆けつけた荀彧の視界に、花壇の前に立ち竦む帝の姿が飛び込む。
いつからこの場にいたかは判別がつかない。しかし濡れそぼった黒い装束は、相当の間佇んでいたことを如実に表していた。
「どうして、このような……」
冬の終わり、似たような背を目の当たりにしたことが思い出される。あれは、星がひときわ煌めく夜だった。
彼の人はたったひとりで朝堂の屋上に佇み、夜空に見入っていた。その華奢な背に、寂寥を負いながら。
「この寒さは、御身に障ります。戻りましょう」
荀彧は小走りに駆け寄り、手にしていた上掛けを肩へと羽織らせた。それでも帝は、何も反応を示さない。
「陛下……お願いです。このままでは」
いたたまれない心地になった荀彧は、装束から覗いている帝の手を取った。冷たく濡れたそこに、温もりはほとんど感じられない。
「貴方様にもしものことがありましたら、私は……」

「朕がいなくなった方が好都合ではないのか」

ようやく開いた帝の口から、驚くほど投げやりな言葉が飛び出した。
しとどに濡れた上、諦めの滲んだ表情は、あまりに痛ましく。荀彧は頭を振りながら、両の掌で帝の手を包み込んだ。
「陛下の公明な御心も、受け継がれし御威徳も……この乱れた世を平らかとできる、唯一無二の希望にございます。決して、いなくなられた方がよいなどとは……っ!」
必死で説いた言葉は、虚しくも手と共に振り払われる。
帝の暗い眼差しが、じっとりと荀彧へ注がれる。深い悲しみ、そしてどこか、詰るような意思を感じた。

「……情けない、な」
決まり悪げに視線を逸らした帝は、目の前の花壇へ向き直った。
そこには真紅をはじめとした色とりどりの牡丹が植えられており、まさに満開の時節を迎えている。その筈であった。
しかし今そこには、物寂しい風景のみが広がっている。
「っ……はい。勿体ないことに、ございます」
長雨に晒され続けた牡丹は、花の盛りを悉く潰されていた。
本来であれば美々しく咲いていたであろう花は、花弁が雨に打たれて、形を崩してしまっている。
季節外れの寒気にやられた蕾は、茎が根元から折れて、腐り落ちていた。最早、雨が止んだところで取り返しがつく状態にはない。
「この程度の雨で、あまりにも脆いとは思わぬか」
帝はぼそりと呟いた。伸ばされた右手が、牡丹に触れる。次の瞬間。

ぐしゃり。

「な……」
鈍い音と共に、紅が泥土に散らばり堕ちる。荀彧は茫然と、その光景を眺めた。
たった今、牡丹を握り潰した帝の手が、次いで隣の牡丹をも引き千切らんとして伸ばされる。
「っ、陛下!おやめください、陛下っ!」
我に返った荀彧は、血相を変えて帝に取り縋った。しかし、帝は止まらない。右手ばかりか、左手も。
目に留まる牡丹を、片っ端から毟っては投げ捨てていく。
「脆い……なんと、醜いっ……!」
「陛、下……っ」
昂る気持ちのまま牡丹が蹂躙されていく様を、荀彧は見つめることしかできなかった。


「はぁ……は……」
牡丹の残骸で二人の足元が埋め尽くされる頃になって、ようやく帝の動きが止まった。
肩で息をする帝の背をいたわしく撫で擦りながら、荀彧は悲痛な声で進言した。
「陛下……これ以上は、いけません」
帝は黙りこくっていたが、促されてようやく足が動き出す。そのまま二人連れ立って、雨を凌げる廊下まで戻った。

「このまま、御座所まで……っ!?」
お送りすると言おうとしたところで、荀彧はいきなり抱き寄せられた。
「陛、下っ……!?」
あの満天の星の夜と、同じように。腰に回された手に、強い力が籠められる。
帝の装束にたっぷりと含まれた水気が、布越しに伝う。肌を刺さんばかりの冷たさと、相反するような激しい熱情が、荀彧の息を詰まらせた。
「い……いけませんっ。どうか、お離しくだ、さ……あっ!」
狼狽えているうちに、首元に顔を埋められて。刹那、ひりついた痛みが荀彧を襲った。
「あ、あっ……」
首筋に吸いついた帝の唇から、柔く生暖かい舌が覗いた。そのまま、荀彧の耳朶の裏へと這っていく。
濡れた体で抱きすくめられてしまい、冷やされてしまった荀彧の身には殊更に堪えた。背筋がぞくりと逆立ち、震えてしまう。
荀彧の体から力が抜けていくのを感じ取った帝は、背後の壁へと追い詰めた。
「やっ、陛下……んぅっ!?」
背を壁に押し付けられるや、荀彧の唇は強引に塞がれた。歯列を割って入ってきた舌に、言葉も、息すらも、奪われる。
「ん…ぁ……ぅ……あ……んぁっ……!」
左頬を捕らえられ、腰にはしっかりと腕が回されて。どこにも逃れることはできず。
帝の思うまま貪られるに身を任せることしか、荀彧には許されなかった。

「っ……ぁ……はぁ……は……」
ようやく唇を解放される頃には、荀彧の頭は霞んでいた。
浅い呼吸を繰り返し、足りない息を必死で取り込む。眦は生理的な熱を持ち、涙が滲み始めた。
「荀、彧……っ」
苦しげな声で、帝が名を紡ぐ。右手が、荀彧の頬をねっとりと撫で回す。
指先から伝わるのは、糸のように絡みつく明確な欲。

「あ……へい、か…………っ」
光の消え失せた瞳が。果ての見えない闇が、荀彧の眼前に迫り来る。
頬を弄んでいた右手は、ついに胸元へと伸ばされて。外套の留め具を握り締めてきた。
「っ……」
呑み込まれゆく恐怖が、荀彧の喉を締め上げる。言葉が、出てこない。

「…………!」
急に、帝の動きが止まった。
「っ……ぐ…………」
忌々しそうに表情を歪めたかと思うと、突然、荀彧から手を放した。
握り締めた拳を戦慄かせ、何かを振り払うかの如く頭を振る。そのまま踵を返し、足早に去っていった。
「あ……」
残された荀彧は、よろよろと壁に凭れかかった。
ただぼんやりとした眼差しを、帝が消えていった方へと注いだ。


「文若殿っ!」
足音と共に、名を呼ぶ声が届く。
はっとして振り向いたそこに、驚愕を顔に貼りつけた荀攸がいた。
「文若殿、これはいったい……!?」
「いえ、その……っ」
言葉を濁そうとする荀彧だったが、刹那、肩をがっしりと掴まれる。
「何事ですか」
問い質そうとする荀攸は、抑え切れない怒りを滲ませていた。

荀攸の眼前にあるのは、濡れそぼり、覚束ない様子で壁に凭れる荀彧の姿だった。
装束の首許はしどけなく乱れ、凛とした切れ長の瞳が潤んでいる。嫌に黄色く感じる左頬は、よく見れば人の手の形をしていた。
これが無体の証左でなくて、いったい何だというのか。
「……っ、失礼します!」
荀攸は指を伸ばして、軽く荀彧の頬を払った。黒手袋の先が、鮮明な黄色に変わる。
擦り合わせたそれは水に溶けた粉のようであり、匂いもない。強いて言えば、微かな草の香りがした。
「花粉……?」
自分で呟いたその言葉に、はたと荀攸は辺りを見回す。
「確かこの辺りに、牡丹が植えられ……っ」
視線の先、雨に濡れた花壇に気づいた荀攸は、思わず言葉を切った。
ある筈の花が、ひとつもない。無惨にも首からもがれており、地面には大量の紅い花弁が散らばり、泥に塗れていた。明らかに、人の手に拠る暴挙の痕跡。
「……なんということ」
女官たちが日頃、帝のためにと手間暇かけて整えていることは荀攸も知っている。いかなる目的であろうと、手を下すなど許されざる行為だ。
「文若殿、貴方を襲った者の顔はわかりますか?」
「っ……申し訳ありません。顔を隠していましたし、突然襲いかかられたのではっきりとは……」
問われた荀彧は、咄嗟にそう釈明した。

真実を告げるのは、容易い。
しかし、話してしまえば。彼の人の乱行が白日の下に晒されるのも、遠い話ではない。
さすれば、彼の人の周囲は口さがなき噂で溢れるに違いなかった。そして噂が広まるほど、王朝の庇護者たる曹操にも跳ね返ることになるだろう。
この地に帝を奉戴し、帝都となって半年近く。新しい政の体制がようやく形となりつつあるのだ。下手な内乱を招くような事態は、何としても避けたかった。
まして。ましてこのような信じ難い感情を向けられていることなど、悟られてはならない。絶対に。

「そう……ですか」
視線を合わせようとはしない不自然さを、荀攸が見逃す筈もなく。
事態は、思う以上に深刻であると察せられた。荀彧がこのように動揺し、且つ、仔細を語ろうとしないとは。
いったい誰なのだ。彼をここまで追い込んで、憔悴させるなど――――

「ん……?」
荀攸の視界が、荀彧の装束の腰の辺りを捉えた。そこにも黄色い汚れが付着している。
それもまた、くっきりとした人の手に象られていると認識した瞬間、荀攸の内で嫌悪感が頂点に達した。
「っ……!!」
牡丹を無粋に荒らした手で、荀彧を襲った上、痕を残して。まるで、彼は我が物であるとでも言わんばかりの傲慢さを感じた。
「文若殿、このままですと染みになってしまいます。速やかにご自宅に戻って、着替えを……!」
思わず知らず早口になりながら、荀攸は手を伸ばして荀彧の腰の汚れを払おうとした。
「っや……!」
腰に手が当てられた瞬間、荀彧はびくりと体を震わせ、半歩後ずさった。
「も、申し訳ありません!」
慌てて荀攸は手を放した。先ほどと違い、断りも入れず触れてしまった己の不用意さに気づかされる。
荀彧もまた、思うよりも惑乱していることに気づき、焦った表情になりながら謝った。
「こ、こちらこそ、申し訳ありません……!少し、驚いてしまって」
「いえ、俺が急いたばかり、にっ……!?」
後悔しながら己の手を見て、荀攸は打ちのめされた。

黒革の手袋が、まだら模様の黄色に染まっていた。不気味なほど、鮮烈に。





「陛下……!?」
董承は、自分の全身から血の気が引いていくのを感じた。
今の今まで禁中にいるものとばかり思っていた帝と、省闥で鉢合わせたのでは無理もない。
しかも帝は、全身ずぶ濡れだ。目も当てられない姿で佇んでいる。
「ああ……すまんな、勝手に抜け出して」
力のない笑顔が向けられる。
それを見た董承は、弾かれたように帝へと駆け寄った。
「い、いけませんっ!早く着替えを!」
装束から何からすべて、雨にやられている。
とりあえず肩の上掛けだけでも取ろうとしたが、董承の伸ばした手は拒絶された。
「いい」
「ですが、こちらもかなり濡れて……陛下?」
狼狽する董承の耳に、微かに漏れ聞こえる声が入る。
「っ……はは……ははは……」
「陛下……っ」
それが帝の自嘲であると気づいた時、ぞっとするほどの恐怖が董承の背を駆け抜けた。
上掛けを握り締める帝の左手には、血の筋が浮き出ている。

「よい、香りだ」

雨水に流されることなく漂う、想い人の香の匂い。抱き寄せた温もりが、ありありと呼び起こされて。
「っ……」
黄色く染まってしまった右手に、視線を落とした。
鼻を近づけて、嗅いでみても。そこからは何の匂いもしなかった。

「荀彧……荀、彧っ……」
うわ言のように、帝はその愛しき名を繰り返す。
激情のままに彼をこの腕に閉じ込め、頬を汚して。彼を見つめた時、どうしようもない征服感に囚われた。
自分と同じ汚れに染まり、怯える彼。ああ、やっと。やっと。我が手の内に。
際限なく膨れ上がり、破裂寸前だった想いは、聞こえた足音が踏み抜いていった。足音に邪魔されなければ――――
否、無駄である。どうせ今頃、雨によって。そして駆けつけた足音の主によって、牡丹の汚れは洗い流されていることだろう。

嗚呼、そなたは、狡い。
こんなにも近くに、そなたの香りを。その姿を。感じることができるのに。
そなたという人は、こんなにも私を。心を。容易く縛り上げるというのに。

香り無き者が爪痕を残すことなど、夢のまた夢。




2019/05/07

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