青鵲の恋【二】
世話をしてみて思ったのは、本当に大人しく扱いやすい鳥だということだ。無駄に鳴いたり、翼をばたつかせたりといったことは一切しない。
脚が癒えるのを待っているかのようで、夏侯惇が自宅にいる時はもちろん、留守の間も一日静かにしていた。
「飯だ」
「ヒュイ」
調錬から帰ってきた夏候惇が、餌と水を取り換える。
その時だけは、少し羽を動かして優しく鳴く。
出された雑穀もガツガツとは食べず、静かにゆったりと啄む。見た目通りの優雅さだ。
「お前、もっと食ってもいいんだぞ」
大きい鳥ではないが、与える量に反してあまり食べないのは気がかりだった。
だが、決して機嫌が悪いとかそういうことではないらしく。
指を伸ばすと、嬉しそうに頬を摺り寄せてくる。
「…むう」
夏侯淵が、自分に懐くのでは、と言った時はくだらないと思った。
動物から好かれるような見た目ではないと自覚がある。
故にこの鳥が、捕まえた自分を怖がらずに寄って来る真理が掴めなかった。
ほどなくして、華佗の言った通りに新しい風切羽が生え。
十日も過ぎる頃にはすっかり揃ってしまった。
「随分と早い回復ですな」
珍しく驚いた口調で華佗が言う。
「そんなに早い方なんですかい?」
「ここまで綺麗に生え揃うには、もう少しかかると思ってたんですがねぇ」
添え木を外し、丹念に脚も触診する。幸いこちらも完治したようだ。
「…で、本当に野生へ帰すと?」
「当たり前だ。俺の家に閉じ込める理由もない」
「えー…」
夏侯惇の変わらない意志に、夏侯淵と華佗は嘆息した。
もっとも、華佗にしてもここまで鳥が早く治るのは計算外だった。
世話をする間に互いに情も湧き、野生の能力も衰えるのではという懸念から忠告していたのだ。
十日と少し程度なら、ある程度は仕方ないかとも思える。
救護室から外に出て、夏候惇は自分の手に鳥を乗せる。
最初は戸惑った様子だったが、鳥は完治した脚でがっしりと夏候惇の手を掴んだ。
「惇兄~、本当にいいのかよ?」
「こいつがいるべきは、あの空の上だ」
夏侯惇の見上げた先に、雲一つない青空が広がっている。
「ヒュイ」
鳥が鳴いた。
風切羽の揃った翼を、勢いよく羽ばたかせる。
それを合図に、夏候惇は思い切り手を空へと突き上げた。
手から、脚が離れる。周囲に青い羽根が舞い散った。
鳥は力強く、天へと飛び立った。
「おおっ」
広げた翼が、日の光を浴びて透き通る。
その美しさと眩しさに、夏候惇も夏侯淵も思わず目を細めた。
「いやぁ、ホントに綺麗な鳥だったよな」
「ああ…」
鳥は二人の頭上で三回ほど旋回し、そのまま東の方へと飛び立っていった。
何事もなく数日が過ぎた。
夏候惇はその日、珍しく午後から自宅にいた。
朝から、あまり体が思うように動かなかったのがきっかけである。
『惇兄無理すんなって、丁度いいから今日はもう休みにしようや』
無理をしたところでその後に響くと、経験から知っている。夏侯淵の助言に従い、調錬は途中で切り上げた。
兵士にも休むように言い渡し、帰宅してからはすぐ横になって休息した。明日まで引きずらないためである。
「雨か…」
どうやら、思い切って休んだのは正解だったらしい。
久しぶりにゆっくり寝台で寝たことで、夜になる頃には調子は戻っていた。
おまけに目覚めてみれば、外は雨が降っているようだ。
自宅へ戻る時に、夏侯淵が持たせてくれた茶と生姜を煮出す。
これを飲んでからもう一度横になろう。そう思った時だった。
コツ、コツ、と。
玄関扉が叩かれる音がした。
『あ、あの…すみません』
聞こえてきたのは、落ち着いた涼やかな声。
恐らくは、若い男性だ。
『どうか、一晩だけ…お助け願えませんか…』
夜更けに見知らぬ訪ね人。怪しいことこの上ない。
声そのものに、賊徒のような裏は感じられなかった。とはいえ警戒するに越したことはない。
夏侯惇は懐に刀を忍ばせつつ、扉を開けた。
そこには、夏侯惇の推測通り若い男性が立っていた。
青い服を纏った体は雨に濡れており、小刻みに震えている。
「…どうした?」
「すみません…先程、ようやくこの許昌にたどり着いたのですが、どこの宿も空いてないと言われまして…」
「そうか」
「あの…お願いです。一晩だけ、この軒下でかまいません。雨を凌がせてはいただけないでしょうか?」
切れ長の瞳が、静かに訴えかけてくる。
本来なら赤の他人を、それも夜に来た人間を家に入れるなど、この乱世で酔狂に近い。
だが、目の前の男に殺気は感じなかった。
万一、刺客などその手の類いだとしても、間違いなく勝てるという自信もあった。
少し逡巡した後、夏侯惇は扉を大きく開ける。
「それ以上濡れて、倒れたらどうする。狭くていいなら中に入れ」
「えっ」
戸惑う青年の手を取り、夏侯惇は部屋の中へと引き入れた。
椅子に座らせ、綿のさらし布を渡す。
「これで身体を拭くといい」
「よろしいのですか?」
「濡れ鼠で部屋の中にいられても困るからな」
「あっ。は、はい」
青年はおとなしく夏侯惇の厚意に甘えた。その間に、夏侯惇は器二つに煮出した生姜茶を流し込む。
「少しは足しになろう」
茶を差し出すと、青年は申し訳なさそうに首を振った。
「そんな、ここまでしていただくつもりなど」
「俺が今から飲むつもりだったんだ。お前も付き合え」
「は、はい…では、いただきます」
夏侯惇と青年は共に茶を飲んだ。決して旨いものではないが、生姜のすっとした香りは心地よい。
「…はぁ。ありがとうございます。体に染み入ります」
穏やかな微笑みを浮かべて、青年は礼を述べた。
よくよく見れば、相当な美青年である。
人の美醜に興味のない夏侯惇も、目の前の彼には美しいという形容詞しか思い付かない。
印象に残る切れ長の瞳に凛々しい眉、鼻筋も唇の形も整っている。
顔の輪郭や体格、声から男性とはわかるものの、間違いなく生半可な女性よりも美しかった。
質素ではあるが、趣味のよい意匠が施された青の装束も、彼の清潔な美貌を引き立てている。
世の中にはこういう男もいるものだと、夏侯惇は感心しながら見つめた。
「本当にありがとうございました。申し遅れました、私は荀彧。字を文若と申します」
青年は今一度、深々と頭を下げて名乗った。
「夏侯惇。字は元譲だ」
「夏侯惇殿…あの。お礼をさせてもらってもいいですか?」
「なんだ」
「私はその、ここより北東部から交易のために参りました。よろしければ、いくつか品を受け取ってくださいませ」
荀彧は、腰に下げていた大きな麻袋を机の上に置いた。
その中から、猿梨や桃、棗といった果物を取り出す。
「お前も行商なのか」
「はい。私の出身の近くは果物がよく取れまして」
「だが売り物だろう。いいのか?」
夏侯惇が手に取った桃は、際立って形がよかった。
許昌付近は痩せた土地として、不名誉な意味で有名である。
これだけ質の良い果物なら、全て売ればそれなりの利益が出る筈だ。
「いいえ……ぜひ、受け取ってください。恩人ですから」
恩人とはまた大袈裟な、と夏侯惇は軽く笑う。
だが荀彧は、とても真剣な眼差しだった。
「…わかった、ではもらおう。せっかくだから口直しに今食うか」
夏侯惇は懐の小刀を取り出し、その場で桃の皮を剥き始めた。
器用に六等分にし、手近に置いてあった小皿に置く。
「お前も食え」
「いえ、私はそんな」
遠慮する荀彧だったが、夏侯惇は強引に一切れ渡した。
「……では、お言葉に甘えて」
荀彧は桃を口にした。普段自分達が接している男たちとは違い、とても綺麗な食べ方をする。
孟徳でもここまで品よくはないなと、夏侯惇は笑ってしまった。
「あの、何かおかしかったでしょうか?」
「いや何でもない」
先に荀彧に食べさせたのは、一応は毒を疑ったからである。
荀彧は遠慮こそしたが、躊躇わずきちんと完食した。少なくとも果物に仕掛けは施されていない。
そこまで判断ができた上で、夏侯惇は桃を口にした。
「うまいな」
柔らかい果肉で、驚くほど美味だった。
許昌ではたまにしか食べられない、しかも硬い桃しか知らない夏侯惇にとって、これは別物だ。
「これなら許昌で高く売れる」
「本当ですか?ありがとうございます、よかった…」
お墨付きをもらって、荀彧はとても嬉しそうに笑った。
その純粋な喜びを前に、夏候惇は武人として残しておいた警戒心を解く。
「お前には恐らく大きいだろうが、これを使え」
夏侯惇は、箪笥から自分の代えの平服を取り出して荀彧に渡した。
「夏候惇殿、ここまでしていただくわけには」
「乾き切ってない服で寝たら体に障るぞ。あと俺はここで寝られるから、お前が寝台を使っていい」
夏侯惇が顎でしゃくったのは、大の大人二人掛けは出来る長椅子だ。
「あまりにも恐れ多いことです…私は床で寝させていただければかまいません」
「気にするな。孟徳に押し付けられた時は呆れたものだが、意外とこれも寝心地がよい」
元は曹操が購入した長椅子で、別宅で使用しようと発注をかけたものである。
ところがいざ完成すると、曹操が思っていたよりも派手だったらしい。その後、従兄弟の気安さから夏候惇に押し付けられたという経緯があった。
初めは辟易したが、寝台代わりとして使ってみると浅く寝る分にはちょうど良く、今では重宝している。
「お前は旅の疲れもあるだろう。ゆっくり休んでおけ」
「…お心遣い、痛み入ります」
荀彧は申し訳なさそうに頭を下げてから、服を着替え始めた。
湿り気の残る青い装束を脱ぎ、下着を取る。
武人と比べてしまえば華奢だが、均整のとれた白い体が露わになった。
男の裸をまじまじと見て楽しむ趣味などない。
だが夏候惇はつい、長椅子に横になりつつ荀彧の着替える姿から目が離せずにいた。
ここ最近は、戦場で命を燃やすための男の肉体か、女官たちの嫋やかな女性の姿しか見ていない。故に、戦を知らぬ男の体というものが、新鮮に映った。
「すまんな大きくて」
背が高いおかげか身丈はあまり問題なさそうだが、肩幅や腰回りはやはり合っていない。
しかし荀彧は軽く微笑んで、今一度頭を下げた。
「とんでもない。一晩、お借りいたします」
「ゆっくり休め」
「はい、お休みなさいませ」
二人は短く言葉を交わし、それぞれ眠りについた。
物音で目が覚めると、既に自身の装束に着替え終わる荀彧の姿が目に入った。
窓の外を見やれば、夜が明け行くという頃の薄青が見えた。雨は上がっているようだが、日は出ていない。
身を起こした夏候惇に気付き、荀彧は慌てた様子で振り返る。
「申し訳ありません、起こしてしまいましたか」
「構わん、俺も朝の調錬と軍議があるのでな。しかしもう行くのか」
「はい。本当に昨晩はお世話になりました…」
借りた平服を律儀にたたんで、寝台の上に乗せる。
荀彧が支度を整えている間、夏候惇も起き上がって玄関扉の方へ向かった。
扉の鍵を開けて外に出る。白みつつあるが、まだ一面の星空だった。
「気をつけろ。許昌も安全ではないぞ」
見送るに当たり、一言だけ忠告する。
「はい、夏侯惇殿。突然押しかけた私に過分なお優しさ…心より感謝いたします」
深々と礼の意を示して、荀彧は夜明けの許昌へと消えていった。
2018/04/14