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曇天日和

どんてんびより

青鵲の恋【四】

朝目覚めると、既に荀彧の姿はなかった。
一昨日も夜明け前にこの家を出て行ったから、恐らく今回も同じような時刻に発ったのだろう。
流石に、昨日は宿を取っていた筈だ。申し訳ないことをしたと思う。

今日の調錬は午後からのため、夏侯惇は街に繰り出して荀彧を探した。
昨晩荀彧が店を構えていた場所は、別の女性の行商が来ている。
周囲を見渡しても、荀彧らしき人影は見当たらなかった。
「すまん、ちょっといいか」
真向いにいた万屋の女主人に声をかけた。
物怖じしない気さくさ故に曹操や武将達とも顔なじみで、時には情報も寄越してくれるなど、頼りになる女性である。
「昨日、あそこで果物を売っていた男を知らんか」
「いいえ、今日は見かけておりませんね。また夜に来るかもしれませんよ?」
「夜?」
「昨日の男の人、日が落ちてからあの場で果物を売り始めたんです。昼間から売ればいいのにと思ったんですけど、繁盛していたからいいんじゃないですか?」
「そうか」
生憎、今日は夜襲及び、敵の夜襲に備えるための調錬を行う予定だった。街まで来るのは難しい。
「もしもあの男が来たら言伝があるんだが、ひとつ頼まれてくれるか」
「大丈夫ですよ。あれだけ綺麗な男の方、一度見たらわかりますし」
「余裕があれば、月が高くなった頃に俺の家に来てほしいと」
「かしこまりました」
他人に対して余計な詮索をしないところも、この女主人の長所だ。




調練が終わったときには、やや欠けた月が南の空に輝いていた。
急いで帰ると、自宅の前で彼が所在なさそうに立っているのが見える。
「荀彧!」
走りながら声を飛ばすと、振り返ると同時に穏やかな微笑みが向けられた。
「すまんな、呼びつけておいて待たせるとは。夜襲の調練が長引いた」
「とんでもないです。私こそ、早く着き過ぎてしまったようで」
「話があるんだ、上がってくれ」
玄関扉を開け、中に招き入れた。

「まず、昨日はすまなかった」
椅子に着いて早々、夏侯惇は頭を下げた。
いきなり謝罪から入られたことに対して、荀彧は驚きを隠せない。
「どうして夏侯惇殿が謝ることなど…」
「宿代を踏み倒させてしまったろう」
夏侯惇が机に置いた銅銭は、決して少なくはない金額だった。今度こそ荀彧は面喰らう。
「そんな…大丈夫です。お気になさらないでください」
「俺の気がすまんのだ。取っておけ」
差し戻そうとする手を強引に押し返し、懐に収めるよう促した。
荀彧は困り果ててしまったが、夏侯惇の意思が固いことを知り、申し訳なさそうに銅銭を受け取った。
「私こそ、昨晩もお世話になっておきながらご挨拶せず出てしまい、申し訳ありません。それに昨日は、私の稼いだお金で夕餉をと思ったのに…情けないことです」
「それこそ気にするな」
「そう言われましても。ですので、せめてものお詫びと、茶をお持ちしたのです。先程、万屋の御主人に勧められて買いました」
そう言って、荀彧は懐から茶葉の入った袋を取り出した。
「珍しい、茉莉花を含んだお茶だそうです。通常の茶に比べてとても良い香りで、心を落ち着かせる効果があると」
「高かったのではないか?」
「大丈夫です。その、いただいた宿代をお返しする代わりに…ぜひ」
「では、もらうとしよう。ちょうどこれもある、一緒に食うか」
机に置いてある籠を真ん中に置く。二日前、荀彧が差し出した棗がまだ残っていた。
「あのっ。よろしければ、私にお茶を淹れさせていただきたいのです。台所をお借りしても?」
「かまわんぞ。折角だしな」
「はい」
荀彧は籠を取って、そのまま台所のある部屋へと入っていった。
ほどなくして、棗を切る音、お湯を沸かすための火が着く音が聞こえる。
血なまぐさい戦場を駆け回ってきた自分にはほとんど縁のなかった、生活の音。
「ふっ…」
夏侯惇の胸の奥に、何ともいえない穏やかな心地が芽生えた。

しばらくすると、湯気の立つ二つの器、切り分けられた棗の入った皿を盆に載せて荀彧が運んできた。
部屋の中に、茉莉花の芳しい香りが漂う。
「…いい香りだ」
一口飲んで思わず感慨を漏らした。体が温まると同時に、心が落ち着いていくのがわかる。
そして何より、今まで飲んできた茶と違ってまろやかな味だ。
荀彧も同じように、茉莉花茶の香りと味に浸っていた。
「ええ…おいしいです」
「そうだな。初めて飲んだが、茶にしては味も良い」
夏侯惇は思いのほか早く、全て飲み干してしまった。棗をつまみにゆっくりと味わうつもりが計算外だ。
「もう一杯もらってもいいか?」
「ああ、すみません。もっと多くお湯を用意すべきでしたね。また沸かしてまいります」
荀彧はまた台所へと戻っていった。
皿の上の棗を一切れ取り、口に放り込む。爽やかな山の甘みがした。



ふいに、玄関扉をドンドンと叩く音がした。
『夏侯惇の旦那、すみません、俺の話を聞いていただけませんか』
扉越しに、聞き覚えのある濁声が聞こえる。
こんな時間帯に迷惑な、と思いつつ、夏侯惇は扉を開けに行った。
「お前は…何だこんな夜更けに」
いつぞやの行商人の男だった。何やら、必死な様子である。
「いや、旦那に一生のお願いがありまして…あの鳥、やはり俺に売ってくだせぇ」
「鳥、だと」
「あの青い鳥は俺にとって一攫千金の瀬戸際なんでさぁ。ようやく見つけたあいつを、やっぱり諦めきれません…」
もう半月も前の話を蒸し返してきたことに、驚くと同時にうんざりした気持ちになった。
わざわざ自分の家を訪ねてきた執念には恐れ入るが、やはり商人の考え方や常識はあまり理解が及ばない。
夏侯惇をため息をついて、一発で諦めてもらうための通告をした。
「あの鳥は完治してもう逃がした。ここにはいないぞ」
「なっ…そんなぁ……」
商人はがっくりと項垂れ、その場に膝をついてしまった。

「お待たせしました…どなたかいらしたのです?」
ちょうど、荀彧が二杯目の茉莉花茶を運んできた。
「んん?あ……!!」
夏侯惇の間から見えた荀彧を見た瞬間、男の目がにわかに輝きを持った。
「あ…っ!?」
荀彧もまた、穏やかで美しかった表情が驚愕で歪む。
その場に固まってしまった彼の手は、盆ごとお茶を取り落してしまった。
器が床に叩きつけられる音、そして間髪入れず、飛び散る水音が部屋に響く。
「荀彧、大丈夫か!?」
突然色を無くしてしまった荀彧に夏侯惇は駆け寄った。
咄嗟に、長椅子に置いてあったさらし布を取って床に押し付ける。
床の木目に沁み込むよりも早く、零れ落ちた茶が布に吸い込まれた。
「っ…も、申し訳ありませんっ」
思わぬ失態に荀彧は謝り倒す。だが、内心はそれどころではなかった。

「へえ…旦那、これまたとびきりの美人じゃありませんか。お目が高くていらっしゃいまさぁ」
先程までの憔悴しきった姿はどこへいったのか。
妙な生気を取り戻した男は、舐めつけるような眼差しで荀彧を見る。
その視線に、荀彧は震えて俯いた。
「っ…!!」
「…俺の客人を不躾な目で見るな。帰れ」
夏侯惇が、殺気を伴った目で男を睨みつける。しかし男は平然としていた。
「こりゃあ無粋ですんません。それと、先ほどは失礼しやした。今回のことはすっぱり諦めますんで………ね」
軽く一礼をして、男はその場を去った。
あまりの態度の違いに不信感が芽生えるが、まずは消えてくれたことに安堵する。

「どこか火傷していないか」
茶を取り落したときに熱湯を浴びてはいないかと、荀彧の体を調べる。
幸いにして服に多少かかっただけで、大きな被害にはならなかったようだ。
「申し訳ありません…折角のお茶をっ…」
「そんなことはいい。器も割れてないし、お前が無事ならよかった」
「っ…」
まだ、震えが止まらない荀彧の肩をさする。
「…大丈夫だ、落ち着け」
「は、はい」
荀彧は、か細く返事をするので精一杯だった。

「今日は宿は取っているのか、荀彧」
念のために聞くと、荀彧は力なく首を振る。
「い、いいえ。夏侯惇殿と茶を飲んだら、故郷に一度帰るつもりでおりました。おかげさまで、こたびは全て売れました故」
「なら、まだ帰るな」
「え……っ」
突然の申し出に、荀彧の目が見開かれた。
「今のお前を独りで歩かせたくない。せめて夜明けまでいろ」
「ですが、夏侯惇殿のご迷惑…っ!?」
言い終わらないうちにその身を抱きすくめられる。
突然のことに、荀彧の喉の奥はひゅっと鳴り、息が詰まった。
「…俺がいつ迷惑と言った?」
低くて張りのある声が耳元に響く。荀彧の背中を、ぞくりとしたものが駆けた。
「震えているのに強がるな。いいから泊まっていけ」
「夏侯惇、殿…」
強張っていた体から、力が抜け落ちていくのがわかる。
自分に寄り掛かってきたのを見計らい、夏侯惇は荀彧を横抱きにした。
「あっ…」
「相変わらず軽いな、お前は」
そのまま寝台へと寝かしつけ、自分もまた共に横になる。
至近距離で目が合った荀彧の表情は、まだ戸惑いと怯えが見られた。

「お前、あの男と知り合いか?」
恐らく何も言うことはないだろうと勘繰りつつも、一応は問うた。
あの男も、荀彧も。お互いを見て様子が変わったのは一目瞭然だからだ。
「っ……すみません」
「わかった」
詮索するつもりはない。ただ、彼にとってあの男が忌まわしい存在であることは十分伝わった。
夏侯惇は改めて荀彧を抱き寄せ、頭を撫でる。
「俺がいる。だから安心して寝ろ」
「…はい」





荀彧が目覚めた時、窓から見える空はかなり白んでいた。既に星も見えない。
「っ…」
思った以上に自分は寝入ってしまったようだ。もう夜明けはすぐそこだ。
荀彧は夏侯惇を起こさないよう、そっと腕の中から抜け出した。
「夏侯惇殿…」
この逞しい腕の温もりが、自分を恐怖から救い、安らぎを与えてくれた。
そのことに感謝し、同時に胸が張り裂ける思いがする。
この腕の中にずっといられたら。この方の優しさにずっと包まれていられたらどんなに幸せか。

出会えただけでよかったのだ。せめて、救われたことへの礼だけでも言えればと。
なのに、想いは日毎に膨れ上がる。自分に求めることなど許されないのに。

寝台で未だ眠りの中にいる男の顔を覗き込む。
髭を蓄えた精悍な顔つきは、実に穏やかな寝顔をしていた。
勇猛且つ厳格な将の裏側にある優しさを、荀彧は知っている。

「ありがとう、ございました」

たった一言、別れの言葉を告げて背を向けた。



外へ出ると、朝焼けの空と日の出の光が荀彧に降り注ぐ。
刹那、荀彧の体が淡い青色の光を帯び始めた。
人の体の輪郭が溶け、腕からふわりふわりと青く輝く羽が現れる。
月が空にある時間帯だけ人となり、太陽の光によって術は解けていく。
人から鳥へ。あるべき姿へ、あるべき場所へ―――。



「させねぇよ」
背後で低い声がした。
驚く間もなく後ろから羽交い絞めにされ、何かが荀彧の口元を塞ぐ。
「んぅっ!?んん、うぅっ…!?」
甘ったるく熟れた香りが、鼻と喉を衝いた。
瞬間、焼け付くような感覚が荀彧を襲う。

酒だ。

気づいたときにはもう遅く、熱が体を支配する。
翼が生え揃い、完全なる鳥の姿に戻ったが何もできなかった。
「キュイ…キュウ…」
飛び立つことを許されなくなった鳥は、そのまま地面に這いつくばる。

「今度こそだ」
男の手に、黒い鳥籠がぶら下がっていた。






2018/04/17

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