皐月の風薫る頃【一】
「ああ、今日もいい風ですね」前方から吹き抜ける柔らかい風が、荀彧の頬を掠める。
青に染まった天は澄み渡り、雲ひとつない。
「では、行きましょうか」
荀彧は軽く手綱を叩いた。それを受けて、粕毛がすぐさま軽快に走り出す。
暇をもらった荀彧は、粕毛と共に遠乗りに出てきていた。
ここのところ政務に追われて、外に連れ出す機会を与えられなかった詫びのつもりだ。
幸いにして季節は春、遠出するには絶好の日和だった。
荀彧の愛馬は、温厚で大人しい性格をした粕毛だ。
出会ったのは荀彧が許昌入りして間もない頃で、決して長い年月を共に過ごしたわけではない。
しかし、馬屋の主人から太鼓判を押されて買ったこの馬は、当初から荀彧によく懐いた。
乗り心地もよく、何より、武将たちのような馬術を持ち合わせない荀彧でも言うことを素直に聞く。
曹操軍の傘下に入り、従軍する機会も増えたが、その際も足手纏いにならずいられるのは粕毛のお陰だった。
「はっ、はあっ」
時折声をかけつつ、荀彧は足元で合図を送る。
それに合わせて、粕毛も走る速度を変えていく。
穏やかな向かい風を受けながら、荀彧と粕毛は草原を駆け抜けた。
こうして馬に気軽に乗り、共に走る気持ちよさを知ることができたのも、粕毛のお陰だ。
行動範囲をぐんと広げてくれた粕毛との出会いには、感謝しかない。
淮河をずっと西に走り、滝の近くまでやってきた。
勢いよく流れ落ちる清流から上がる水飛沫が、きらきらと光り輝く。
その美しい光景を眺めながら、荀彧は粕毛のたてがみを撫でた。
「少し、休憩しましょうか」
荀彧は粕毛から降りて、川辺へと歩を進めた。後ろから粕毛もついてくる。
乾いた草地に腰を下ろし、持参した瓢箪を手に取る。
栓を開けて、その中身を飲んだ。冷たい水が、渇いた喉を潤していく。
「…よし」
空になった瓢箪を満たすべく、荀彧は川へと入った。
春だが川の水はまだ冷たく、澄み切っている。
瓢箪を水中に沈めると、コポコポと軽く音を立てながら水が入り込んでいった。
その間、手綱を離された粕毛は、気ままに川べりを歩いて楽しんでいた。
水の感触が気持ちいいのか、時折足踏みしてはパシャパシャと水音が響く。
やがて水遊びが楽しくなってきたのか、粕毛はより深いところへと進んでいこうとした。
「あっ、待ってください」
それに気づいた荀彧は、慌てて粕毛の後を追った。
その瞬間、右足が何かの窪みに嵌り、がくんと落ちる。
「うわっ!?」
体勢を崩した荀彧は、前のめりに倒れてしまった。
幸い咄嗟に手をついたため、全身ずぶ濡れは免れた。
だが、その拍子に荀彧の頭から離れた帽子が、川の流れへと乗っていってしまう。
「あっ!」
慌てて手を伸ばすが、一歩遅かった。
しまったと思った瞬間、バシャァンという音と共に水飛沫が降りかかった。
「えっ!?」
何事かと顔を向けた先に、川の深い方へ泳いでいく粕毛が見えた。
粕毛はすいすいと流れに乗って泳ぎ、流されゆく帽子をぱくりと口に咥えた。
そのまま流れには逆らわず、下流の方へと向かっていく。
荀彧はそれを追いかけて、川べりを走った。
やや流されたところで、粕毛がゆっくりと足の動きを再開させる。
緩やかな曲線を描く河岸までたどり着くと、そこからさっと這い上がった。
川から上がると、すぐに粕毛はぶるりと体を震わせる。水飛沫が方々に飛び散った。
「なんて無茶を…」
追いついた荀彧は、ほっと胸をなで下ろしながら駆け寄った。
粕毛は荀彧に気付くと、咥えていた帽子を突き出す。
それを受け取り、荀彧は少し困ったような笑顔を浮かべた。
「心配しましたよ。ですが…本当にありがとうございます」
その言葉を聞くと、粕毛はぱたぱたと耳を動かしながら顔を突き出してきた。
「ふふっ…」
首筋や胸に鼻先を擦りつけてくるのを、荀彧は微笑みながら受け止める。
穏やかで、頼もしくて、時々甘えん坊で。
そんな愛馬が、愛おしかった。
背後でがさり、と音がした。
「っ」
振り向きながら鏢を構える。黄巾の残党か、あるいはどこぞの野盗か。
緊張感に包まれながら、荀彧はその瞬間を待った。
にゃあ、という鳴き声と一緒に、その影は飛び出してきた。
荀彧はほっとして、鏢をしまう。
光沢のある毛を持つ美しい黒猫だ。まるで宮殿で飼われているような小綺麗さがあった。
猫は、目の前に現れた荀彧と粕毛をじいっと見つめてくる。
もう一度、にゃあと鳴いたかと思うと、素早く荀彧に飛びかかってきた。
「わっ」
あっという間に猫は荀彧の肩に乗り、我が物顔で居座ってしまう。
「おや…一体どちらから来たのですか」
微笑みかけながら顎を撫でてやると、猫は気持ちよさそうに目を瞑った。
ごろごろと喉を鳴らしながら、荀彧の首筋に顔を寄せる。
人に慣れた様子は愛らしいものではあるが、一方で訝しむ点もある。
「迷い猫、でしょうか…でも…」
この近くに人家はない。かといって、単なる山猫とも思えぬ品があった。
横で、ひひんと短い嘶きが響いた。
そちらに目をやると、粕毛がぷいっと鼻面を背けている。
どうしたのかと首筋を撫でてやると、今度はくるりと顔を向けてきた。
刹那、鼻先をずいっと伸ばし、猫の額を小突いたのだ。
押し退けられた猫は、荀彧の肩から飛び降りた。
「あっ」
猫は荀彧と粕毛を見上げると、今ひとたび、にゃあと軽く鳴いた。
それが別れの挨拶だったか、体を反転させると、勢いよく草むらの中へと逃げていってしまった。
「…いけませんよ」
猫を追い払う形になってしまった粕毛に、荀彧は少しだけ呆れた眼差しを向けた。
しかし粕毛はそれに構わず、今まで猫がいた肩へと頬を摺り寄せる。
そのべったりとした甘え方を見て、つまりやきもちかと気づいた荀彧はため息をついた。
「仕方のない子ですね」
自分を主人と認め、懐いてくれるのは本当にありがたい話だ。
しかし、こんな素振りは初めて見た。温厚だとばかり思っていた彼にも、意外な面があるものだ。
『馬は、心を許した人に生涯忠実な生き物なんだ』
ふと、いつぞや聞いた曹休の言葉を思い出す。
もちろん、馬が生き物であるということは、当たり前の事実だ。
しかし一頭一頭に、それぞれ性格や感情があるという感覚は、馬に接しなければ学べなかったかもしれない。
言葉は通じなくとも、その穏やかな瞳が、嘶きが、首の動きが。心を伝えてくる。
一生懸命に忠を尽くそうとしてくれるその健気さが、嬉しかった。
「大丈夫ですよ。私は貴方の主人ですから」
頬を優しく撫でると、安心したように粕毛は荀彧の胸へと頬を押し付けた。
日が落ちる頃、荀彧と粕毛は許昌の厩舎まで戻ってきていた。
「今日は楽しかったですね。ありがとうございます」
鼻先を撫でながら粕毛に礼を言い、やってきた厩舎詰めの兵士に手綱を渡す。
兵士は一礼をして、粕毛と共に馬房へと向かっていった。
大人しく兵士に従う粕毛の後姿を見届けてから、荀彧は帰路についた。
今宵も静かな眠りの時が、厩舎に訪れる。
粕毛もまた、心地よい疲れにその身を揺蕩わせ、寝藁に頬擦りをした。
「そこのお前。お前だよ」
急に、人の声がかかった。
粕毛は目を開けて、臥せていた首をもたげる。
馬房の衝立に、小さな影が乗っかっているのが見えた。
「よう、俺のこと覚えてるか?」
闇に紛れた中に、銀色の双眸が浮かび上がった。
更に、雲間から覗いた満月の光が、その小さな影の輪郭を確かにする。
「今日の昼、淮河のところで会っただろう」
見覚えのある美しい黒猫が、粕毛を見下ろしていた。
粕毛は何度か瞬きをしつつ、その黒猫をじっと見つめる。
「そうそう。覚えててくれて何よりだ」
黒猫は満足そうに頷いた。一本だと思っていた尾が、二股に分かれる。
「俺は仙界の住人でな。仙狸、っていう者だ。よろしくな」
自己紹介を終えると、仙狸はひょいと飛び退いて、粕毛の首筋に飛び付いた。
殆ど真後ろにいるような状況だが、馬の視界からは、たてがみにしがみ付いた仙狸がよく見える。
粕毛は耳を動かしつつも、黙って仙狸の言葉を聞いていた。
「今日はお前に、ちょっと話があるんだよ」
妙に畏まった物言いをしたかと思うと、仙狸は単刀直入に斬り込んだ。
「お前、ご主人様のこと大好きなんだろ?」
粕毛の耳がぴたりと止まった。それを見て、仙狸は笑いながら己の額に前足をやる。
「そりゃあわかるさ。あんなに主張してたらな」
何せ荀彧の首に纏わりついたところを、額をやられてどかされた身だ。
嫉妬しているのは一目でわかった。
「しかもあのご主人、綺麗だもんなぁ…いい匂いしたしなぁ」
その言葉を聞いた瞬間、粕毛の耳がきゅっと絞られた。
慌てて、仙狸は弁解する。
「おいおい怒るな。別にお前の主人に取り入りに来たわけじゃない。ここからが大事な話だ」
仙狸の目が、ぎらりと光った。
粕毛の首元から飛び降り、粕毛の前に降り立つ。
その瞬間、猫の輪郭がぐにゃりと曲がった。そう思う間もなく、するすると影が大きく伸びる。
「お前どうする?こんな風に、人になれたら」
真っ黒な髪の毛を持つ、端整な青年が姿を現した。
先程までの猫と全く同じ声、そして銀色の瞳が、にこやかに粕毛を見下ろしてくる。
「俺は永い時を生きるうちに、いつの間にか人の言葉も覚えたし、人の姿にも化けられる力を得たんだよ。そこで、だ。この力、折角だからお前にもあげるよ」
すらりと伸びた手が、粕毛のたてがみを撫でてくる。
「何でもできるぞ?ご主人様に鼻っ面押し付けるだけじゃなくてよ。この腕で抱きしめることもできる」
そう言いつつ、仙狸は粕毛の首元へと腕を回した。
主人のものとは違う、しなだれかかるような雰囲気に、粕毛は違和感を覚える。
だが、何故か振り払うという心地にもなれず、粕毛はじっとしていた。
「頬擦りも思いっきりできる、口吸いだってできる。何より、言葉が通じるようになる…いいことだらけだろう?」
粕毛の耳が、俄かに激しく動いた。しかし、すぐに動きを止めてしまう。
仙狸は笑い飛ばしながら言った。
「大丈夫さ。人の形になるだけで、お前から馬としての力は奪わない。見てろよ」
そう言ったかと思うと、仙狸は勢いよく飛び上がった。
一息に馬房の衝立をすり抜けたかと思うと、そこから垂直に厩舎の壁を伝っていく。
あっという間に天井に辿り着き、そこからばっと飛び降りた。
かなりの高さであるにもかかわらず、音もなく着地に成功する。
「な?俺も姿形が人になるだけで、能力は猫のままさ」
仙狸は再び衝立を越えて、粕毛の前に姿を見せた。
よくよく見れば、その手から、人のものではない鋭利な爪が生えている。
「走りたかったら、ご主人を抱っこして走ればいい。人になれば今よりも近くご主人の傍について、守ってやれるんだぜ?」
最後に、仙狸は真正面から粕毛を見据え、真顔で語りかけた。
「悪い話ではないと思うんだが、な?」
2018/09/14