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曇天日和

どんてんびより

鶏鳴

思うよりも、秋は深まっている。そのことを肌で感じた。
起き上がってまず目にするは、未だ明け切らぬ夜の気配。薄闇に包まれた景色は、ようとして見えず。
窓から静かに吹き込んでくる風も、気づけば幾分と冷えたものに変わっていた。

しばらくして、東の空が白んでくる。周囲の輪郭も静かに、ゆっくりと露わになっていく。
傍らに横たわる美しき貌も、また。
「荀彧……」
事がすべて果てた後、既にその身は宦官の手で清められ、寝着を纏わされている。
いっそ過ぎるほどに整えられており、下半身を覆う上掛けにすら、寸分の乱れもなかった。
これほど近くにいるというのに、寝息は聞こえない。身じろぎ一つ、見られない。
杞憂だとわかっていても胸の内がざわめき、思わずその頬に手を添える。肌は、温かかった。
「う………」
吐息が聞こえ、ようやく安堵する。彼の温もりが、確かにここにあることに。
しかし落ち着けるかと思った心は、一瞬にして掻き乱された。

「へい……か………おやめ……くだ……さ…………」

眉間に皺が寄り、か細くも切なる言葉が唇から零れ落ちる。
指一本とて体を動かせないほどに疲れ果て、昏睡しているであろうに。
「…………っ」
夢の中でまで、自分は彼を責め苛んでいるのか。夢の中でまで、彼は自分に縋ろうとはしないのか。
罪悪感と苛立ちが、糾える縄の如く絡み合う。そして、まざまざと思い知らされる。
結局、自分はこうして彼を苦しませることしかできず。彼もまた、決して自分に心を預けることはない。
恍惚の表情で睦言を囁いてくれる姿など、夢幻の内にすら見当たらない、と。


喔喔……喔喔……


鶏の声が響き渡った。天まで届けとばかりに、勇ましく、強い音が。
再び窓の外を見やった時、頭上の空はより清爽な蒼となり。その遥か向こう、東天は鮮やかな紅に染まっている。
間もなく、陽は昇ってこよう。鶏が告げしは朝の訪れ。

「ん…………う……っ」
背後で微かに揺れ動く気配と、小さな息遣いを感じた。
振り返ると、固く閉じられていた瞼が、睫毛を揺らしつつ開かれるところだった。
「………へい、か…」
一晩を越しても未だに赤く濡れたままの目と、視線がかち合う。
幾度も喘いでは涙を流し続けたその瞳は、なまじ美麗な形であるだけにかえって痛々しく見えた。
「っう……」
起き上がろうとする仕草を見せるも、荀彧の眉は辛そうに顰められた。
全身、特に腰に痛みを抱えているであろうことは、無体を働いた自分が一番わかっている。
手を伸ばし、背中に腕を回してやると、ようやく彼は上体を起こすことができた。
「申し訳、ございません……」
「構わぬ。すべて……朕の所為だからな」
「陛下……」
言葉を失い、力なく首を振る。その様に、臍を噛む思いがした。
この類稀なる美貌に相応しき表情どころか、このような憂い顔しかさせられない。
ただただ苦痛に歪ませ、悲嘆に沈ませることしかできない自分が、歯痒くてならない。


喔喔……喔喔……!


また、ひときわ甲高い雄鶏の声が鳴り響く。
あの紅き空の果てまで突き抜けていくように朗朗たるそれは、声明に思えた。我は、ここに在りと。
この窓から見えずとも、ゆうに思い描ける。胸を張り上げ、空に向かい高々と鳴く鶏の勇姿が。

「同じ『とり』でも、こうも違うか」
詮なき感傷が、ため息と共に吐き出される。
「同じ、とは?」
意味を図りかねるという口調で、荀彧は問うてきた。
無理もない。それに、今の一言で何もかも見通されても、居たたまれない気がした。
「すまぬ。大したことではない……朕は、光和四年の生まれ……辛酉だ」
そこまで言うと、荀彧も察して嘆息した。
「左様で、ございましたか……」
「ああ……くだらぬだろう」


母代わりとなって育ててくれた太后との日々を、時折思い出す。
鶏が羽を伸ばす庭先に連れ出しては、そこでよく語ってくれたものだった。
貴方様の干支は、辛酉。朝を告げる鶏の如く、今にきっと、この世に夜明けをもたらす御方となりましょう、と。
今考えれば、せめてもの慰めだったのだろう。母を失い父帝にも見放され、縁なく生きる我が身を憐れんでの。

董卓に担がれる形で帝となり、腹違いの兄が容易く玉座より追い落とされ死にゆく様も見た。
何かひとつ間違えば、自分も死ぬ。己が矮小な存在でしかないと自覚するのに、時は要さなかった。
董卓亡き後も、我欲に目が眩んだ者たちに追い回され、流れた末にこの許昌まで辿り着き。
曹操の庇護の下で身の安寧は得ても、やはり大して変わらない。
朝を告げるどころか、乱世のつつ闇の中にあって声ひとつ上げられない。ましてあの、雄鶏の如く堂々たる声など。


「朕も、あのように高々と……己の在りし様を、思いを表せるなら……っ」
そこまで漏らして、慌てて頭を振った。
己の無力さを嘆くばかりか、鶏を羨むなど。傍から見てどんなに滑稽だろう。
「……本当に、すまぬ。笑ってくれ」
「っ……」
隣を見やれば、やはりというべきか、荀彧は当惑した表情を浮かべていた。
生半な同情や慰めの言葉が一番応えると、彼は承知している。だから、黙すほかないのだ。
また、困らせてしまった。この目映いばかりの彼を、自分は消沈させてばかり。
そんな顔をさせたいわけではないのに。彼には穏やかな微笑みこそが、何よりも――――

「……荀彧、そなたは」
思えば、この人の曇りなき笑顔にこそ心を奪われたのだ、幼き自分は。
重苦しく血腥く、人の悪意ばかりが臭う洛陽にて、彼という存在はなんと凛麗であったろう。
恋慕に近い憧れを以て仰ぎ見ていた、あの頃。その面影は今、目の前にある。
洛陽から今日までの間に、我が身は子どもから大人へと変わった。少なくとも、それだけの歳月は流れている。
なのに、彼はいったいどうだろう。
確かに守宮令にいた頃から比べれば、歳は重ねている。しかしその美貌は未だ色褪せていない。
それどころか沈着さと艶を増して、より際立っているようにすら思えた。この人は、老いるということはないのか。
生じた思いは素朴な問いとなり、口を衝いて出た。
「そういえば、聞いたことがなかった。そなた、いつの生まれなのだ」
「は、はい……私は、延熹六年の生まれにございます」
「延熹……」
この王朝は、事あるごとに改元してきた。人伝あるいは文書による見聞きの覚えあれど、流石に生まれる前の元号は把握し切れていない。
黙りこくっていると、荀彧は更に続けた。
「干支でしたら、癸卯でございますが」
「癸、卯…………」
天井を仰ぎ、頭の中で計りながら辿っていく。辛酉より遡ること、十八でその干支は浮かび上がった。

「そう、か……癸卯……」
自分が十にも満たない頃、彼は成人して役職に就いていたのだから、当然ではある。
しかし、改めて目の前の容姿を眺め回してみるが、十八も上とは。
三十の声を聞いたであろう身近な者たちの姿を思い起こしても、誰一人として荀彧とは重ならない。
「……兎、か」
そして次第に、言い表し難い感慨が湧いてくる。存外、可愛らしい獣の巡り合わせであると。

「っ……くし」
急に背筋を寒気が駆け抜けると共に、くしゃみが出てしまう。
「陛下、っ……」
荀彧はすぐさま、自身の上掛けを手に取った。
体が痛むためか、動きはぎこちない。しかし懸命に腕を伸ばし、上掛けをこちらの肩に被せてきた。
「近頃、朝晩の冷え込みが厳しくなってまいりました……お召し物はそろそろ、厚地のものに……」
彼はこうやっていつも、この身を二心なしに案じてくれる。
周囲を取り巻くあらゆる存在に振り回されてきた自分にとって、それは喜びであり、また悲しみでもあった。
荀彧は確かに、優しさを与えてくれる。だがそれは、臣下として、また個人としての誠意に因る。
身を焦がすような、ただひとりに向ける情愛は、そこには存在しない。
「……そなたが、温めてくれ」
もどかしさが募るまま、彼の手を取って引き寄せた。
「あ、っ……陛下……っ」
驚いた荀彧は、頭を振った。離れたいという意思は伝われど、体をその通りに動かせないでいる。
それをいいことに、逃れられないよう抱きすくめた。それこそ、兎を懐に抱え込むように。
「いけ、ません……もう、朝がっ……」
「いやだ、いやだ……行かないでくれ……!」
こちらの情念を嗅ぎ取り、微かに震える体を、更に強く抱きしめた。
寝着越しの体温が、肌に沁みていく。どんな暖よりも、温かい。この人を手離したくない。されど。


喔喔……喔喔……!!


嗚呼、夜が終わる。半ば耳障りと思うほどに、鶏が激しく叫ぶ。
愚か者め、いい加減目を覚ませ――――そう、嘲笑われている気がした。
「…………すまぬ」
手を離すときは、いつも断腸の思いだ。
「……失礼、します」
荀彧は決まり悪げに頭を垂れた。寝台から降りるため、痛みをこらえて身を捩る。
幾度体を重ね、長い夜を共に過ごしても。陽が差し込めばこうやって、彼はこの手からすり抜けていく。
心を我が物とできない限り、満たされることはない。だから、また求めるしかなくて。

「また、今宵も来るのだ」
離れる寸前の彼の手を掴み、寝台へと縫い留める。
「え、陛下……あっ……や……!」
戸惑った隙を衝いて、寝着の襟から覗く首筋へ唇を寄せ、吸い上げた。
唇を離したそこに、真新しい所有痕が浮かび上がる。

「必ず、来い」

我が鶏鳴、朝を告げる音に非ず。
ただ、日暮を待つのみの。闇夜に恋い焦がれる、意地汚き囀り。




2019/10/29

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