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曇天日和

どんてんびより

荷叶緑

その夜、荀彧が命を受けて寝所に訪っても、帝は共寝を強要してこなかった。
卓に用意された茶を飲み干した後は、窓の外を黙して見つめ続けている。不思議に思いながら、荀彧も静かに同じ茶で満ちた杯を傾けた。
「ああ、月が……出てきましたね」
しばらく経って、昼より初秋の雨を注いでいた叢雲が晴れ渡ってきた。やや欠けた月が、湿った地を煌々と照らし始める。
清けし月光の中に浮かぶ帝の横顔を見つめながら、荀彧も最後の一口を飲んだ。

「頼みがあるのだが」
ようやく帝が口を開いた。向き直ってきた玉貌に、夜毎ここで見せるような昏い熱はない。光のない黒々とした瞳が、今宵は驚くほど凪いでいる。
「はい。私にできることでしたら、何なりとお申し付けを」
荀彧の口からは淀みなく返事が出た。徒事に纏わる懇願でも、政に関わる鬱屈でもないことを先に感じ取れたせいやもしれない。恐らくは、さほど深刻ではなくささやかな望みであろう、と。
「これより外に出たい。蓮を見たいのだが、ついてきてはもらえぬか」
「蓮……でございますか」
ささやかな望み、という荀彧の予感は当たったものの、その内実は思わぬものであった。
蓮が根を張る池は、西宮の近くに位置している。夏の盛りから晩夏にかけては花が咲くので壮観であるが、既に季節は秋。生薬となる種を収穫できるかという頃に差し掛かっており、花を愛でる時期は過ぎている。
それを帝が知らぬ筈はないとは思ったものの、念のため荀彧は訊ね返した。
「陛下。まこと、お望みとあらばもちろんお供いたします。ただ……」
「構わぬ。花を見たいわけではないのだ」
内心抱いた懸念をすべて言葉とする前に、帝はやんわりと首を振って制してきた。
「……かしこまりました」
明言された以上、更に重ねて言うべき由はない。荀彧は深々と拱手の礼を取り、その様を見た帝は椅子より腰を上げた。
「では、行くぞ」



見張りの宦官が驚くのを横目に、省闥を守る兵士たちの礼を背にし、夜の只中を歩く。月光が、松明代わりとばかりに行く先を照らす。
足元で時折跳ねる水音、未だ辺りに濃く立ちのぼる雨の匂い。肌に染み入る涼風が、より強く秋を感じさせる。
禁中を抜けてさほど時も要さぬうちに、目的の場は二人の視界に入ってきた。

「……これは」
荀彧が想像していたよりもそれは、見映えのする景色であった。
水面からすっくと茎を伸ばし広がる、蓮の葉の群生。間からは種を内包する花托がちらほらと顔を覗かせている。
既に麗しき花の姿はなく、一見しては鬱蒼とした緑ばかり、なれど。
「なかなか見事であろうよ」
珍しく、帝は穏やかな笑顔を見せた。それを受けて、荀彧も微笑みを返す。
「驚きました。これほど美しいとは……」
先ほどまでの雨は、蓮の葉に数多の露となって残されている。月白の光明を通した雫は銀色に煌めき、さながら玉が散ったかのようで。
水を弾く蓮の葉であるがゆえの、稀なる艶やかな風景。
「では陛下、雨上がりに蓮がこのようになっていることを見越されて……」
「雨が止むだけでなく、雲も晴れたからな。もしや、と」
「さようでございましたか」
窓の向こうに静かな視線を向けていた横顔が思い出される。この幻想的な光景を、彼の人はいち早く頭の内に思い描いていたのか。

「朕は昔から、蓮の葉が好きで」
「花ではなく……ですか?」
「ああ、そうだ」
荀彧の問いに首肯すると、帝は一番身近の、池の囲い近くまで葉を広げる蓮へ手を伸ばした。
葉の表面を指で軽く傾けると、そこに目がけて雨粒が引き寄せられていく。
八方から集まりひとつの玉となった露は、葉から転がり落ち、池へと吸い込まれた。
「蓮は強い。雨に打たれても決して穿たれることもなく、濡れることもなく。それがなんとも、朕には勇ましく感じられる」
「っ……」
そこで今日初めて、帝の眼差しが翳ったことを荀彧は悟った。
鮮やかなりし花にではなく、雨をも弾く肉厚な葉にこそ心惹かれる。その胸中とは。
「身にかかる露など、己が力で振り払える……そんな、蓮の葉のようになれたら、と。よく思った」
嘆息しつつ、帝は荀彧に視線を投げかけてきた。凪いでいた漆黒の瞳に、哀しくも見慣れた諦観の色が戻っている。
「捻くれたものだろう?花ではなく、葉が好きなどと」
「陛下、そのようなことは……」
荀彧は悲痛な面持ちで頭を振るが、次にかけるべき言葉は探しあぐねた。
蓮の葉に切なる感慨を抱かずにはいられない。それは、この二十にも届かぬ青年帝が歩んできた道程が、塗炭の苦しみに満ちていたことを物語る。
天命を背負い、耐え難いほどの艱難に身を置き続けてきたその瞳には。ただ人とはまるで異なる景色が映り込んでいるのだ。


ふいに、夜風が強くなった。水面が波打ち、蓮が揺れる。刹那、葉の上の露が一斉に跳ね、辺りに飛び散った。
放り出された雨粒は、月光の中できらきらと最後の輝きを放って。宵闇に、池の中に、溶けていく。
「……間に合ったな」
一瞬で様相を変えてしまった蓮を前に、帝はぽつりと呟く。荀彧は静かに拱手し、頭を垂れた。
「まこと……貴重な景色にございました」
ほんの一時の、夢幻の如くの――されど確かに蓮の葉が見せた、凛麗な夜の姿。
しかし、最早それは失せた。銀の露を身に纏っていた蓮など、何処にもなく。青々とした葉が、月夜の下にあるのみ。

「帰るぞ」
帝は踵を返して歩き出した。
「はい」
荀彧も一歩遅れて、彼の人に続く。足元はまだ湿っており、冷たい匂いがなおも方々から漂ってくる。
ただ、背後の蓮の緑だけが。雨など知らぬ顔でいた。




2020/10/05

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