menu

曇天日和

どんてんびより

惑いの一献

「今夜はお招きいただきまして、ありがとうございます」
「いえ。それでは早速……」
荀攸は酒壺を手に取ると、用意していたふたつの杯に酒を注いだ。美しい黄金色で満たした片方を、荀彧の目の前へ差し出す。
微笑んで受け取ったものの、荀彧はわずかに心配そうな顔を覗かせた。
「しかし……繰り返しで申し訳ありませんが、公達殿は本当に……大丈夫なのですか?」
「勿論です。むしろ、今夜しかないなと思いましたので」
「では……遠慮なくいただきますね」
「ええ、では……乾杯といきましょう。此度の遠征こそ、勝利を願って」
「はい……そして、公達殿のご健勝とご活躍を願って」
互いに掲げた杯を近づけ、かちりと小気味良い音を響かせる。それを合図に、二人して静かに一杯目を飲み下した。



『実は、先日の……茶のお礼をしたく思いまして。今夜一献、いかがですか。俺の家で』
『えっ……よろしいのですか?明日から公達殿は……』

それは、午前の軍議が終わった直後のこと。突如として荀攸の方から、荀彧を酒席に誘ってきた。
招待してくれたことは純粋に嬉しく思うものの、荀彧は不安げな視線を送る。
何しろ荀攸は、明日より満寵と共に定陶攻めへ赴く身だ。酒席のせいで、貴重な時を奪うことにはならないか。
しかし荀攸は気にするなとばかりに、力強く首を振った。

『準備は万全です。むしろ、出立前だからこそ……文若殿と酒でも酌み交わせればと思いまして』
「公達殿……わかりました。では今夜、伺わせていただきますね』

そして、夜。荀彧は約束通りに、荀攸の自宅を訪ねたのだった。
澄み切った空より、月明かりが目一杯に部屋まで射し込んでくる。すっかり夜更けというのに、雰囲気は明るく感じるものだ。
明日もまた、良き晴天となるだろう。窓の外を眺めて、荀彧は朧気に感じていた。



「ふふっ、それにしても、このように香り高いお酒もあるものですね。本当に、おいしい……」
いつになく陽気な声で荀彧が笑った。頬は夕焼けを写し取ったかのようで、睫毛の下から覗く瞳は潤んでいる。
やはり、気づいていない。既に思わず知らず、己の身に深く酔いが回っていることを。それもその筈、まだ二杯目なのだ。
「でも、公達、どのは……よろしい、のですか……?やはり甘い、お酒では……物足りな……」
「いえ……文若殿に喜んでいただこうと思って、用意したものですから」
「そうです、か……ありがとう……ございま、す……?」
蕩けた笑みをこぼしたかと思うと、荀彧の首がこくりと傾く。半ば夢心地になってきた様子を見るや、荀攸はすっと席を立った。
荀彧の背後に回ると、わずかに揺れる肩を支え、腰に手を回して立ち上がらせる。
「文若殿……こちらで、少しお休みください」
「あ……はい……?」
促されるまま、荀彧は背後にあった長椅子へと連れられ、そこに横たわった。
頭がくらくらとする感覚すら、今は気持ちよく。身を委ねているうちに、瞼が閉じられる。
やがて静まり返った部屋に、淑やかな呼吸の音だけが聞こえるのみとなった。

「花梨酒、お気に召していただけて何よりです……文若殿」
荀攸は傍らに座り、無表情のまま荀彧を見下ろした。伸ばした指先で、上気した頬をつっとなぞる。
今、この手の内にある無防備な姿に、薄暗い歓喜が湧いた。



つい先日、程昱から詫びと称した花梨酒を受け取った。
茶の件のせいで疑り深くなっていたため、その場で一口飲ませてもらった。思っていたより甘く、するりと喉を通っていく、が。

『……随分と、強くありませんか?』
『流石は酒慣れした荀攸殿だ、ご明察。しかし飲みやすいと思わないかい?』
『ええ。恐ろしいほどに』

果実そのままを頬張っているかのような芳香と甘味。しかし、この飲みやすさこそが罠だ。恐らく、花梨を漬け込んでいる酒自体はかなり強い。
なんだってこんなものを、と当惑していたら、程昱の薄い唇がにいっと弧を描いた。穏やかな――しかし底意地の悪い微笑み。

『君、近く出陣だろう。しばらく荀彧殿とも会えなくなるんだし、それでいい夜でも過ごしたらと思って』
『……余計なお世話です』
『あっははは。まあ、その酒をどう使うかは君次第だけどねー……あんまり放っておくと、いつ誰にかっ攫われるかわからんよ?』

今までどこか茶化すような雰囲気だった程昱から、突如笑みが消えて。
鋭い視線と共に、ぼそりと告げられたのは。

『同族、って繋がりに、胡座をかくなってこった』



忠告が、耳に痛い。
先日、荀彧と程昱が二人でいる様に、思いの外動揺して。それが嫉妬の感情だと結論が出た瞬間、悟ってしまった。
自分で思うよりも、この年下の叔父に焦がれていることを。他の男に寄り添う姿を、自分は望んでいないということを。
程昱とのことは、ただの下世話な思い過ごしで済んだ。しかしこの先どうなっていくかなど、誰にもわからない。
少なくとも今回の件は、可能性が示されたといっても過言ではない。いつか、荀彧が誰かの隣に立つことを選ぶかもしれない。そうなった時には、同族という縁などあまりにもか細くて。
程昱はそれを見透かして、気を回してくれたのだ。同じ主君を仰ぐ者同士であり、幼き頃より親しんできた甥と叔父。今の間柄ではいられなくなるかもしれない、その「いつか」が嫌なのであれば。行動で示せ、と。

「文若殿……」
もしかしたら、常に弁えている荀彧のこと、大して酔いもせずに終わるかもしれない。それならば、和やかな酒宴で済む。
そう言い聞かせながら、しかしどこかでこうなることを期待して、花梨酒を差し出した。
そして今、彼は驚くほど呆気なく呑まれてしまい、目の前に横たわる。望んでいた姿が、ここにある。
「う……ん……」
眠ったまま、わずかに荀彧が身じろぎをした。彼自身の香と花梨の香りが混ざり合い、妖しく艶美な匂いとなって立ち上る。
花に吸い寄せられるが如く、顔を寄せた。紅を差したように色づいた唇に、己の唇をそっと、押し当てて。
なんて、貴方は甘いのだろうか。なんて、美しいのだろうか。俺の、愛しい叔父。
右手を衿元へと伸ばし、寛げれば、白い肌が露となる。氷、もしくは玻璃のように透き通って見えた。
嗚呼、このまま、すべて。貪ってしまいたい。内に燻る想いのままに、その先まで――――


「……っ!?」
指先が首筋に触れた、刹那。その温かな場所が、とくんと脈打つ。
理性を引き戻すには十分だった。がばりと跳ね起き、溺れそうになった悦びを振りほどいて。
そして待ち構えていたのは、底の見えない恐怖と罪悪感。冷や水を浴びたように、全身が冷たくなっていく。

――――俺には、できない。

いつか、今の間柄でいられなくなるとしても。ここで酒に諾々と流されて「今の間柄」を壊して、果たして先に何が待っている。
このまま騙す形で想いを遂げて、それで自分は満足なのか。だとしたら、それは。彼の心と誇りを傷つけた上でしか成り立たぬ、独りよがりの狂喜。
そんなものを嬉々として望むほど、自分は愚かであったのか。

「……申し訳、ありませんでした」
昏々と眠り続ける彼に、そっと上掛けをかける。幼い頃に何度もそうしたように。
「お休み、ください」

そう、自分たちはこれでよい。互いに心を許し合い、信頼すべき同族の間柄のままで。
こうして、貴方を近くに感じていられる。このささやかな幸福を、許されている身なのだから。





「危うく、貴方に乗せられて道を誤るところでした」
「おんや酷い言い草。私は真剣に君たちの今後を憂いているのに。あの酒、悪酔いはしないから結構高いんだぞ」
「それはどうも。やはり余計なお世話です」
晴れ渡る空の下、許都の東門は遠征軍の面々で沸き返っている。その一角にて、荀攸と程昱は剣呑な視線を交わしていた。
「後悔しても知らんからな」
程昱は冗談抜きに落胆の溜息をついた。
気だるげな様子も満たされた気配も感じさせず現れた荀攸を見て、およそは理解したものの、やはり残念という気持ちが勝る。
そんな程昱を尻目に、荀攸が愛馬の黒鹿毛に跨ろうとした時だった。

「公達殿、お待ちくださいっ……すみません、遅れてしまって」
「っ……」
慌てて駆けつけてくる荀彧の姿を見て、流石に荀攸も鐙にかけようとしていた足を下げる。
程昱はちらりと荀攸を一瞥してから、にこやかに荀彧を出迎えた。
「やあ、おそようさん。君が寝坊とは珍しいじゃないか」
「お恥ずかしい限りです。まさか公達殿のご出立に気づかず朝まで寝てしまうなど……」
「いやそれなら、起こしてやらなかった荀攸殿も悪いだろう。叔父上に恥をかかせるなんて、意地悪だねー」
「…………」
すかさず差し挟まれた嫌味に憤怒がこみ上がるも、荀攸は何も言い返せなかった。
結局のところ、昨夜しでかしたことの羞恥に耐えかね、逃げるようにして出てきたのだ。自分が悪いことに変わりはない。
「……その、申し訳ありません。俺もその、結構起きたのが遅く……つい」
目線を上げてしまえば、確実に荀彧の――昨日勢いで口づけてしまった唇が目に入る。それができず、どうしても荀攸の歯切れは悪くなる。
対する荀彧も、遅刻した申し訳なさから平謝りだった。
「いいえ、こちらこそ昨日は、あのように美味しいお酒をご紹介くださったにも拘わらず……大変、失礼いたしました」
「あの、文若殿が謝らないでください。本当に、俺が……」
もう一度荀攸が頭を下げようとしたとき、陣太鼓が鳴り響いた。行軍の合図である。
「……では。荀公達、出陣します」
荀攸にとっては、僥倖の音だった。即座に軍師の顔に切り替えると、待たせていた黒鹿毛に跨る。
荀彧と程昱もまた、留守を預かる文官の姿に立ち戻り、恭しく拱手を捧げた。
「ご武運を、お祈りいたします」
「満寵殿の手綱もしっかり離さないように」
「……心得ました」
二人の挨拶を背に、荀攸は馬首を巡らせた。黒鹿毛も勇ましく嘶くと、先を行く行軍に合流すべく歩き出した。


「っ…………」
一度だけ、荀攸は馬上から背後を振り返った。
真摯に見つめてくる荀彧と、やっと目が合った。これほど遠くからでも、やはり端整な顔だとしみじみ感じる。
その彼の瞳に今、自分が映っている。自分だけを、映してくれている。それだけで、想いは満ちる。
改めて、荀攸は前を向いた。そう。これでよい。自分たちは、これで。

「荀攸殿、おはようございます!」
同じく戦線に同行する満寵が、景気よく挨拶してきた。背には策に使うのか大荷物を背負っている。
「おはようございます。あの……馬は大丈夫ですか?」
荀攸は軽く会釈するも、つい心配になって声をかけた。
重荷を背負わされているせいか、心なしか彼の跨る栗毛に元気がない。それなりに暴れ馬であったと記憶しているが。
「ははっ、軽ければ軽いで扱い辛いんですよ彼は。かえってこれくらいの負荷の方が、大人しくしてくれます」
「……途中で愛想つかされませんよう」
嘆息するも、荀攸は一言忠告するに留めた。満寵の攻城策あっての遠征だ。入念な準備をした上での参陣なのだから、これ以上とやかく言う気はない。
満寵も信頼を感じ取ってか、目を光らせながら深く頷いた。
「ええ、ご心配なく。では、呂布軍に一泡吹かせてやりましょうか」
「期待しています」



荀攸と満寵がついに行軍と合流したのを見届け、荀彧はほっと息をついた。
「よかった……間に合って」
「ご苦労さん」
程昱がそっと肩を叩いて慰労するも、荀彧は力なく首を振った。
「私としたことが、不覚でした……昨夜、公達殿にとても美味しい花梨酒をご馳走になったのですが、まさか呑まれてしまうなんて」
「過ぎたことをそう気にせずとも。君だって日頃そこまで熟睡できてないんだから、よかったろ?」
「その……恥ずかしながら、とてもぐっすりと眠れて。それに、目覚めもよかったのです。公達殿の前ということで、つい……気が緩んでしまったかもしれません」
ほんのりと頬を染めつつ、荀彧は声を潜めて告白した。
この麗しくも艶やかな様を前にして、手を出さず終いとは。内心塩辛い思いになりつつ、程昱はあることに気づいて意味深に笑った。
「そしたら、結果よしということにしときなさい。あ、だけどこの後登城するんなら、湯浴みはした方がいいよー」
「え?は、はい」
「何せ、荀彧殿自身が、花梨になったみたいだもの」
「…………えっ!?」
酒の匂いを暗に指摘されたと自覚した瞬間、荀彧の顔が耳まで真っ赤になった。
その、常日頃の彼には見られない急激な変化が面白おかしくて、程昱は更に意地悪く続ける。
「ほらほら、荀攸殿の帰還までに悪い虫がついたら大変だ」
「っ~~~~、失礼いたしました!」
荀彧は頭を下げると、身を縮こまらせながら早足で引き返していった。


「さっさとくっついちまえばいいのに……」
未だ辺りに残る果実酒の香りを仰ぎつつ、程昱は口を窄めた。
情愛と親愛。程度の差はあれど、どう見ても互いに脈はある。しかし自覚か、はたまた無自覚か。互いに己を律しているのがもどかしい。
自制を取り払って一線越えてしまえばどうにでもなる、そう踏んで花梨酒を唆したのだが、一押し及ばなかったか。
「……まあ、仕方ないね」
直感が言う。いずれ、二人は難しい選択を迫られるのでは、と。されど結局は、本人たちの気持ちとけじめ次第。
若人の行く末を憂えども、これ以上、求められもしないのに老骨が口を出すべきではない。
諦観の眼差しでひと息つくと、程昱は踵を返して大通りを遡っていった。




2020/05/23

top