真心のお裾分け
「彧殿……そちらの桃、どうされたのですか?」荀攸はやや呆気にとられた眼差しで、目の前の叔父と、彼が手にしているものとを見比べた。
荀彧は常日頃と変わりなく、約束の時刻通りに自宅を訪れてきた。しかし、いつもなら荷の重そうな竹簡や書物を抱えている手が、今日に限っては美しい桃の花を連ねる枝を持っているではないか。
ただでさえ見目愛らしいと評判の叔父が、花枝を抱えてにこやかに笑っている。春を呼び込む仙童が下界に降りてきたかと錯覚しそうになるが、それはそれとして、訳は一体。
「はい。実は今日、唐家より使者の方がおこしになりました。庭の桃が咲いたので、ぜひ私たち一家にも見てほしいと、唐氏殿がおくってくださったのです。この通り、あまりにきれいなので、うちだけで楽しむにはもったいないと……母上に許しをいただいたので、攸兄さまにもおすそ分けにまいりました」
「そ、そう……ですか」
胸の内に、針でも刺されたような痛みが走った。贈り主と意図を悟ると、折角の桃も、花色が褪せて見えてきてしまう。
桓帝の恩寵を盾に我が世の春を謳歌した唐衡は、養女を荀彧に娶せる約定を取りつけて後、世を去った。
名門荀家と誼を通じることで宦官の朝敵たる清流派を抑え込み、更に権力地盤を強化せんという卑しい意図は明白である。しかし荀彧の父である荀緄も、当時の唐衡の圧力には逆らえなかったようだ。
唐衡は亡くなったが、帝の覚えめでたき唐家の権勢は簡単に沈まなかった。婚姻の話は立ち消えになるどころか、更に執拗な呪詛となって荀家を締めつけた。
事あるごとに荀家には大量の貢物が寄越されており、宮中では隣人が如く気安い態度で振舞い、わざと衆目を集めさせている。そうした話は、嫌でも荀攸の耳にも届く。
唐家の必死さは、一族郎党の背負う醜悪を自覚しているからに他ならない。だからこそ、清廉な血脈を取り入れることで薄めたい。唐家にとって荀彧は、何としても手に入れたい無垢なる血なのだ。
父母兄弟より愛情と薫陶を一身に受け、日ごと健やかに美しく育っているこの叔父が、いずれは濁り穢れた血を受け入れねばならなくなる。その日がいつか来ることを想像するだけで、荀攸は暗澹たる心地になった。
「……すみません、攸兄さま」
悲しみにくれた声が耳を貫いた。はっとして見下ろせば、先ほどまでの満面の笑みを消し去り、悄然とした表情になって荀彧が俯いている。
「いきなりお持ちしては、やはりご迷惑でしたでしょうか」
「いっ、彧殿!そのようなことはっ」
荀攸は顔面蒼白になりながら、慌てて跪いた。許婚からの贈り物にも拘わらず、独占するには忍びないからと、わざわざ荀彧は分け与えに来てくれたのだ。なんといじらしい理由であろう。
なのに自分は、贈り主への嫌悪感が先立ち、軽率にも荀彧に不穏な感情を悟らせてしまった。年長者としてあるまじき失態である。
「その……謝るべきは俺です。本当にすみませんでした。桃が唐家からのものだと聞いて、つい……大人げなかったです」
傷つけたせめてもの詫びと、荀攸は取り繕わず正直に告白した。己が感情の醜さをさらけ出すくらいしなくては、申し訳も立たなかった。
「攸兄さま……」
荀彧は小さく首を振ると、その手に抱えた桃をぎゅっと抱きしめた。繊細な花弁を開かせた桃を見つめながら、静かに切り出す。
「この桃をいただいて、私はとてもうれしかったです。本当にきれいで……それに、伝わりました。自分がすばらしいと思ったものを、どなたかに見てもらいたい。差し上げたい……そういう気持ちが」
そこまで言うと、荀彧は桃の枝をすっと差し出した。
「私もこの桃を見た時、攸兄さまの顔が浮かびました。唐氏殿も、同じような思いでうちにおくってくださったと思います。だから……だから、攸兄さまがお嫌でなければ、私はやっぱり受け取っていただきたいです」
「彧殿っ……」
荀攸は心底、平伏した。唐家の悪評など、大人たちの反応からとうの昔に察していたであろう。しかし、その身に背負わされた宿業を決して憂うことなく、荀彧はこんなにも誠実に向き合っているのだ。
「本当に、すみません……俺に受け取る資格など、ありませんが……」
恐る恐る荀攸が手を差し出すと、そこに桃の枝が載せられた。えもいわれぬ花色が、瞳に飛び込んできて。
「とても……美しい色です」
美辞麗句など紡げぬがゆえの簡潔な、しかし心底から湧き上がる感慨を荀攸は口にした。
恥ずかしながら、ようやく思い知る。この花には一点の曇りもないことを。ひたすらに美しいことを。ただその想いを伝えたいという、真心からの贈り物に他ならないことを。
「よかった……唐氏殿もきっと、よろこびます」
ようやく、荀彧に笑顔が戻る。周囲の気配に温もりを満たしてくれるようなその様は、やはり仙童と見紛う愛らしさであった。
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2020/03/17