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曇天日和

どんてんびより

悋気の闇は文無し

燭台の灯りの向こう、寝台に座り込む姿が浮かぶ。
「遅い」
たった一言、しかし棘まみれの言葉が、ぼそりと突き刺される。
こちらに向ける眼差しは冷ややかで、そして宵闇と同化するかの如く虚ろだった。先刻相対した時のそれと、同じ。

『今夜は覚悟しておくことです』

寝所へ入るすれ違い様、言い捨てられた董承の科白が耳元でこだまする。
彼に呼び止められ、寝所へ訪うよう伝えられた時に、覚悟はした。今宵、ただでは済まされぬだろうと。

「……申し訳、ありません」
頭を垂れた後、入り口近くの卓へと歩を進める。置かれた籠の中には、いつものように真っ白な寝着が入っていた。
帽を脱ぎ、装束の留め具を外し、帯を解く。静寂の中、自ら肌を晒していく物音だけが響く。この一時、背後から刺さる視線が、例えようもなく苦しい。

「お待たせ……いたしました。陛下」
寝着一枚の姿となり、窓辺の寝台で待つ貴き身に近づく。これよりはまた、長い夜が始まる。
微かに身を強張らせながら、その隣に腰掛けた時だ。
「あっ!」
突然だった。髪の束を掴まれたと思った瞬間に、半ば引き千切られるようにして髪紐が解かれた。
ばさりと音を立てて髪が広がる。驚く間も与えられず、両の手を後ろに引っ張り回された。
纏めて掴まれるや、そこを何かできつく縛められていく。覚えのある肌触りが、奪われた髪紐であることを悟らせた。
「おやめくださいませ、陛下……っ!」
いきなり縛り上げられた上、抱え込まれるように抱き締められて。乱暴な拘束に、悲鳴を上げざるを得なかった。
「囀ずるな……大人しくしているがよい」
「んっ……あ、ぁ……やぁっ!」
首筋から耳朶にかけてを、ねっとりと舌で撫でられ。背後から回った手には、寝着の合わせ目を寛げられた。
露になった胸の蕾は、這いずってきた指に容赦なく摘まみ上げられ、擦り合わされる。
「あっ……っく、ぅ……や、ぁ……」
無理矢理に、そして絶え間なく与えられる刺激は、心ならずも熱を灯していく。
逃れようと体を捩るが、動きを封じられていては、何も意味を成さない。もがけばもがくほど、帝の責めは更に激しさを増した。
「っひ!やっ、お願、っ……あっ!」
両の胸元を苛んでいた手のうち、右手がするりと滑り落ちて、太腿の間に割り込んできた。
抗う間もなく、緩やかに形を成したそこを握り込まれてしまう。
「あぁっ……!んっ……あ!あぁ……っ!」
触れられるほどに悦びに震え、扱かれるほどに硬く火照る。意思とは裏腹に戦慄いてしまう己が身の浅ましさに、眦が滲んだ。

「へい、かっ……!いやぁ……もう、わた、しっ……」
やがて背筋を這い上がってくる感覚が、その瞬間が近いと告げてくる。嗚呼、また今宵も、情けない姿を晒すのか。
涙ながらに限界を訴えた、その時だった。
「……なら、やめてやる」
「っえ……あ、あぅっ!?」
突如、胸元と芯を弄ぶ帝の手が離れた。そのまま、寝台へと突き倒されてしまう。
「やっ、あ……あっ………や……っ!」
寸でところで放り出されてしまい、迎える筈だった絶頂に辿り着けず。
しかし、一度浮かされた体は、そう容易く静まらない。行き場を求めて、熱が巡っていく。
「あっ……ぅ……はぁ、は……あ……っ……へい、か……っ!」
どうにか遣り過ごそうと、必死で喘ぎながら見上げた先に、恐ろしく凪いだ微笑みが待ち構えていた。
「どうした……やめてほしかったのだろう。乱暴な施しは望まぬのだろう」
指が、音もなく伸ばされて。震えるそこを、つっとなぞり上げられた。
「あぁあっ!?」
柔い刺激に、体がのけ反った。しかし、先走りの雫が滴るばかりで、達するには至らず。
手を縛められているために、自ら導いてやることもできない。
「いやぁっ、やめっ……そん、なっ…………ぅあっ、あぁ……!」
ゆるりと、だが繰り返し与えられる愛撫に、身も心も掻き毟られていく。
萎えることも、楽になることも、叶わないのか。息が、続かない。苦、しい――――










ただ、ひとりになりたかった。
ひとりになりたくて、董承たちすら撒いて、方々を歩き回って。
気づけば城を抜け出し、広い北門を目前に窺える壁際まで足を運んでいた。
門には当然ながら、見張りの兵士たちがいる。あの目をどうにかして振り切り、外に出られれば――――
「――――っ」
そこまで考えたところで、頭の内が水をかけられたように冷える。
外に出て、一体何処へ行く。今更、洛陽に戻れるわけでもない。戻ったところで、あそこは既に、死を迎えた都。
今の自分に居場所などないのだ。この許昌に据えられた、冷たい玉座にしか。
行き場のない思いを抱えたままで、茫然と立ち尽くしていた時だった。

「荀、彧……!」
その名はつい、声となって口から出てしまう。
見慣れた紫紺色の装束を着込み、颯爽と背筋を伸ばして歩く姿が、確かにこの目に映る。
その足は北門の前で止まり、見張りの兵士と軽い挨拶を交わしていた。
今から、何処ぞの視察にでも行くのかとも思った。しかし、西に傾いた陽を見て、それはないと思い至る。
結局、荀彧は門下に留まり、暫しの時を経ても動く様子はみられない。

それにしても。あの横顔の、なんと端整であることか。
政や軍事に携わる者としての評価は勿論、見目麗しさでもしばしば巷説を賑わしているのも道理で。

――――私だけが、あの美しさに秘められた艶めきを知っている。

夜半に寝所へ呼び出しては、強引に組み敷き我が物とする。
愚かしい行為であるとは、百も承知だ。しかしどう足掻けども、この身に渦巻く劣情は治まることを知らない。
誰の目も及ぶことのない場で、思うままに抱く。泣き叫んでは惑乱する、彼の嬌態に溺れる。
あのひとときだけは、何もかも忘れて支配欲に満悦できた。

それでも。今こうして陽の下で眺める彼は、かくも眩しく優美であった。
あれが彼の、本来の姿だ。類稀な智と徳で以て政道に邁進する、その様こそが敬愛の対象となるのであって。
淫らな姿態を晒させ、愛でるような扱いをしていい存在ではない。
もしも叶うなら。許されるなら。閉ざされた夜の帳の中でなく、陽の下で誰に憚ることなく彼と共にいられたら。


どこか遠くを見ていた彼の表情が、ふわりと和らいだ。
大の男に対して持つ感慨ではない。だが、本当に。花が開くように、彼は笑った。
刹那、蹄の音が重なり合って聞こえてきて。

「ご視察お疲れ様でした」
彼がそう声をかけるのとほぼ同じくして、馬が三頭、門をくぐり抜けてきた。
その鞍には当然、馬の主たる者らがいる。一斉に馬から降り、近侍の兵に手綱を任せたと思うと、彼の周りに歩み寄った。

「まさか荀彧殿が迎えてくれるなんて、ね。今日は役得だ」
「文若殿、わざわざ申し訳ありません」
「いえ、お気になさらないでください。ちょうど通りかかりましたもので、そろそろご帰還の頃かと思い……」
「いやぁ今回は収穫でしたよ。目星の場所は地盤が強固でして、兵糧庫の土地のみとして使うには勿体ないと感じました!周囲は比較的見通しが悪く、色々と罠の試し甲斐もありそうで…」
「満寵殿。お気持ちは察して余りありますが、明日の軍議まで待ったらいかがかと」
「そうですね……貴重なご意見は、明日じっくりとお伺いいたしましょう」

仲間たちに囲まれる彼の笑顔は、なんの屈託もない。なんて、柔らかな表情だろうか。
玉座の前でも、まして寝台の上でも見たことがないものだ。気の置けない間柄にだけ見せるのであろう、素の顔がそこにある。
心なしか、声色まで明るく聞こえるようではないか。落ち着いていて、実に気さくな様子で。
何故だ。聞く者を安らげるような響きであるのに。何故こんなにも、胸の内が乱される。

「うん。満寵殿は一度語り出すと止まらないから、その方が賢明だよ。誰が聞いているとも知れないし……ね」
まったくの不意討ちで、視線が投げかけられた。
知らぬ間に、我が身を壁から乗り出して見ていたと、そこでようやく気づく。時、既に遅かった。
残りの三人も一斉に、こちらを向く。皮肉にも真っ先に目が合ったのは、今一番目を合わせたくない人であった。
「な……陛下っ!?」
それまでの表情から一転、彼は驚きに目を見開く。
こちらが背を向けるよりも早く、彼は一目散に駆け寄ってきて、すぐさま跪いた。
「陛下っ。畏れながら……供回りの者もいらっしゃらないようですが、いかがなさいましたか」
「………………っ」
返事に窮しているうちに、他の三人も近づき、同じように跪いてくる。


「よもや、このような場所で陛下にお目通りが叶うとは……本日はまこと、佳き日ですね」
柔和な微笑みに寄せ、一度で女性を虜にするような甘い声で挨拶を受ける。
しかし、真っ先にこちらに気づいた目敏さ、鋭い視線は間違いなく。曹操が第一に頼みとしているとの評に違わぬ軍師、郭嘉のそれであった。

「陛下、ご機嫌麗……おっと、このようななりで失礼いたしました」
慌てて胸元を直す仕草は、この場にいる誰よりも高い背格好とは思えぬ若さがあり。
されど、荀彧に向かって嬉々と語る表情には、策を巡らす者特有の熱が滲んでいた。この男が、苛烈な罠を用いると噂の満寵か。

「……畏れながら、お一人で出歩かれては危険かと」
奥の見通せない瞳が、こちらを見つめてくる。感情の籠っていない声だが、微かにこの身の迂闊を咎める意図は感じた。
荀彧とは似ても似つかぬ、しかし彼とは血脈で結ばれた男。冴えない見目の内に、底の見えぬ知を隠し持つ男、荀攸。


三者三様の、類稀なる知恵者たち。その視線が今、自分に容赦なく注がれている。
耐え難いほどの苦痛だった。戦場を見通す怜悧な目で以て、こちらの心を何もかも、見透かしに来られているようで。
だが、もっともいたたまれない心地にさせられるのは。

「陛下。ここは城内とはいえ、外部に通じる場所……公達殿の申し上げた通り、お一人では御身の無事の保証がございません」
やや焦った様子で、荀彧は切々と語りかけてくる。
見上げてくる瞳には、真剣な色を宿していた。そこに在るは、ただこちらを心配する、尚書令として畏まった姿。
身勝手で、我儘な感情であることを、自分が一番理解している。それでもせり上がるのは、どうしようもない苛立ち。
こうして親身な心配りを受け取れるだけでも、我が身は恵まれている。されど、違う。自分が見たかったのは、忠実な公僕の顔ではない。

「まだ陽のあるうちにお戻りになれば、無用な騒ぎを起こさずに済みます。宮中まで、私が供をいたしましょう」
荀彧が立ち上がり進み出でるのと、積もりに積もった感情が猛ったのはほぼ同時であった。

「うるさいっ!」

ばしっ、と乾いた音が周囲に響いた。
「……あ、っ」
我に返るのは、存外早かった。呆気にとられた三人分の眼差しと、途方に暮れた荀彧の眼差し。四人分の視線が、舞い戻ってきた理性を刺激する。
衝動に身を任せた振舞いをした後悔と羞恥が、後から後から湧いてくる。
「あの……陛下……」
当惑した表情を浮かべこそすれ、荀彧はその場を離れようとはしてくれなかった。
立場を考えれば、当たり前ではある。供もつけずうろついている軽率な身を、心より案じてくれているのも伝わっている。だからこそ、気まずさは頂点に達していた。
差し伸べた手を振り払うような心ない天子など、放ってくれればいいのに。半ば呆れた様子でやり取りを見守っている、背後の三人のように。その方がどれだけ、ましか――――


「陛下ぁーーーーーーっ!!」
不思議なものだ。時には聞いているだけでも煩わしいとも思い、今日に至っては振り払ってきたその声に、こんなにも安堵させられるとは。
「陛下っ、見つけ、ました……っ!」
董承が、血相を変えて全力で駆けてきた。
周囲に荀彧らの姿も認めると、更にその顔は青くなる。何せ全員が、曹操側の重要人物。
帝から目を離した、という言い逃れできない状況を察せられていると即座に理解したらしく、声を裏返らせながら叫んだ。
「へ、陛下……っ!どうかお戻りになられませ!お願い、申し上げま」
「ああ、すまない」
「っえ?……っは、はい!」
存外あっさりと応じたことへの驚きで目を丸くするも、董承はすぐさま横に侍ってきた。
それを横目に見やりつつ、宮中へと戻るために踵を返す。もうこれで、関わらなくて済む、と思ったのに。
「お待ち下さい、陛下。私も参ります」
荀彧も、斜め後ろにぴたりとついてきた。
「……もういい。そなたは来るな」
「ですが……」
「いいと言っている!帰るぞ、董承」
自棄になりながら叫び、早足で来た道を戻る。背後から、せかせかとした董承の足音がついてくる。
その次に、別の足音は続かない。少しだけ安堵し、また更に速さを増して歩く。今は一刻も早く、あの四人から逃れたかった。


しばらく歩き通し、気配を感じなくなったところで、足を止めた。
「もう、いなくなったか」
「は、はい……ご安心を。既におりません」
「……っ」
振り返った時、確かに北門前から四人の姿は消えていた。

仲間たちとは、あんなにも砕けた様子で談笑して。しかし自分を見た瞬間、たちまちその表情は硬く引き結ばれてしまって。
三人には見せていた、ただひとりの荀文若としての表情を、ついに見ること叶わなくて。
何故だ、何故。郭嘉に、満寵に、そして荀攸にも向けたあの微笑みを、何故私に向けてはくれぬのだ。

「董承」
「ははっ」
呼び掛けるよりも先かという勢いで、董承が跪く。
その応じの早さを頼もしく感じる、己が心の豹変に辟易しつつ、言いつけた。

「今夜、必ず荀彧を連れてこい」










「いや、ぁっ……もう、いや……いやぁ、あ、ぁっ……!」
悶え苦しむ荀彧の目から、大粒の涙が溢れては、とめどなく流れ落ちていく。
「いや?何が嫌なのだ。こんなに……優しくしているというのに」
泣き濡れた頬を取り、わざとらしく問いかける。次いで内腿を撫で上げると、びくりと跳ね上がった。
「ああっ……へい、か……!ゆる、してっ……もう……むり……です……っ」
潤んだ瞳の中で、己の笑顔がぐらりと歪む。我ながら、醜いにもほどがある。
されど、今更だ。この身の醜悪への失望など、どうでもよかった。背を駆け上がっていくのは、紛う方なき、歓喜。

「へい、かぁっ……おね、がっ……おじ、ひ、を……っ」
息も絶え絶えに呟かれた懇願が、悋気にささくれた心を鷲掴む。
嗚呼。今この時、彼の瞳に映るのは、自分だけ。こんな彼の姿を見ているのも、自分だけ。
「は、はは……はははっ……」

私の。私だけの、荀文若だ!

「っひ!いや、あぁあーーーーーーーーーーーーーーーっ!!」
花芯をきつく扱き上げた瞬間、金切り声と共に蜜が迸る。
散々に焦らされてから解放された荀彧の体は、いつにも増して激しい痙攣を伴い、ばったりと頽れた。
「はぁっ、はぁ……はぁ、は……ぁ……あぁ…………」
熱を散らしても尚、腰を震わせ、荒い呼吸を繰り返す。陽光を浴びて輝く尚書令の凛麗さは、剥がれ落ちていた。
そうだ、奴らは知る由もないのだ。こんな風に乱れ惑う、彼の姿など。










やっと、果てることを許されて。なのにまだ、熱が内に籠っているように感じられる。
詰まり通しだった胸が、焼けつくように痛い。
「は、あ……はぁ……あ……あ…………っ」
苦しみに喘ぐ中、ようやく気づく。窓より、冴え冴えとした寒月の光が差し込んでいることに。
燭台の薄明かりよりも尚それは、隈なく目の前の輪郭を照らし上げる。

「へい、か……」
帝の顔は白く浮かぶも、目に光は届いていない。暗い瞳が、じっとりとこちらを見下ろす。
それは、先刻の。ひとり所在なさげに北門を窺っていた、あの時と同じ。
宮中までの見送りを願い出るも、振り払われて。刹那、露わにされた衝動は、思いがけず鋭かった。矛先は確かに、自分に向けられていた。

日々の鬱屈が折り重なった末に、その憂さを晴らす形で強引に抱かれることは度々あった。
されど、今宵は違う。ままならぬ憤怒を吐き出すためでも、空虚を温もりで埋めるためでもない。こちらが欲にまみれる様を、ただ眺めて、嘲っている。
今まさに、この方の内を焦がしている激情は、一体――――

「っ、あ!?」
突如、冷たく滑った感触が、菊座を伝う。
突き刺さってきた指は、即座に弱い個所へと辿り着き、容赦なく引っ掻いてきた。
「あ、ぅあ……っ!」
あれほど吐き出したにも拘わらず、波紋の如く快楽が広がる。
反応を確かめるや、帝の指は執拗にそこを責めてきた。
「あ、あっ……おや、め……くだ……さ……っ…………あ、ぅ……」
抗いの嘆きは掠れ、粘った水音にかき消され。彼の人の耳には届かない。

「っひ、ぁ……っ!?い、や、いや、あ……あああ………っ!」
いきなり剛直が押し当てられ、一息に貫かれた。呼吸する間も与えられず、律動が始まる。
「あ、あぅ……やぁ、ん……ぁ……!」
最早この身に、声を上げる気力すら残されていない。思うがまま、揺さぶられて。
頭の中は靄で覆われ、滲む涙で視界も霞んだ。
「あっ、ぁ……あ……――――――――!」
最後に映った帝の眼差しは、冷え切ったままで――――嗤って、いた。


喰らわれ、呑まれ、堕ちてゆく。彼の人の抱く、文無き闇の淵に。




2019/12/15

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