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曇天日和

どんてんびより

災禍の盾

「……っ」
突如として、荀彧の瞼は見開かれた。
揺蕩う波からゆるりと這い上がるような、安穏とした目覚めではない。水泡が弾けるかの如く急な覚醒だった。
今宵は月光が眩い。瞳が慣れるまでもなく、天井や周囲の調度品が明瞭に映り込む。
最早馴染みすら覚えてしまう景色は、自らが今どこにいて、何に溺れていたかを淡々と思い知らせた。
「っく……う……」
鉛かと感じられるほど重い腰を庇いつつ、寝台から上半身を起こした。
禁中の最奥らしく静まり返っており、何の物音もしない。見張りの宦官が寝所の入り口に一人はいる筈だが、それは当たり前の存在であって不審な気配の類ではない。
ならば、何に因るものであろうか。この胸の中を駆け巡る、薄気味悪い感覚は。
「……?」
まだ残暑も厳しき晩夏の夜。湿気の色濃い蒸し暑さと、受け止め続けた情の残り火とに身を燻られて。
しかし今、背筋に覚えるのはその熱すら冷え切るほどの妙な悪寒だ。いったい、これは。

「ぅあ……あ……あぁ……」
「っ、陛下」
横で呻き声が上がる。慌てて視線を向けた先で荀彧が目の当たりにしたのは、異様な光景だった。
「陛、下……!?」
月明かりを受けて煌めくのは玉ではなく、横たわる帝の額に数多滲んだ汗の粒。彼の人の眉間には刃物で刻まれたような深い皺が入り込み、苦しげに浅い呼吸を繰り返している。
悪夢に魘されているのか、もしくは体調の急変か。どちらともつかぬ、しかしただならぬ寝姿であることだけは間違いない。
「陛下、陛下っ!お気を確かに、っ」
とにかく起こさねばと、荀彧は肩を撫で擦った。じとりと湿った感触が布越しでも手に伝う。
情事の後でお互い既に身は清められており、寝着もとうに替えている。それにもかかわらず、この多量の汗は――――。

「っあ!?」
ドン、と一撃。下から勢いよく突き上げられる感覚が襲った。
間を置かず、周囲がガタガタと震え軋む。やや遠く、窓の外から地を這うような轟音が聞こえてくる。
地震だ。荀彧がそう認識した瞬間と、ほぼ同時であった。

「うわぁああああっ!!」

断末魔にも似た絶叫と共に帝が跳ね起きる。
固く閉じられていた瞳は一瞬にして極限まで開き切り、顔は恐怖に引き攣っていた。
「ああっ!わあああああ!!」
「っ、陛下こちらへ!」
荀彧は帝を胸元に引き寄せ、覆い被さるようにして抱きすくめた。直後、背後の方で何かが倒れたり落ちる音、誰かの情けない悲鳴が耳に入る。
「うわああ、あああ!!」
「……っ!」
寝台がぐらつき、体が揺さぶられる。先ほどまでの静寂が嘘のように、方々から耳を毟るようにして不協和音が鳴り響く。
今この場を支配するのは、人の手では如何ともし難い圧倒的な力。そして今この身に降りかかるは、容易く命を握り込まれる恐怖。
次の瞬間に何が起きてもおかしくない。天井から崩れ落ちるのが先か、それとも床から崩れ落ちるのが先か。
しかし絶対に。絶対にこの方だけは、守り通さねば――――!


「…………あ」
永遠に続くかと思われた揺れであったが、ふと気づけば収まっていた。そろりと顔を上げ、周囲を注意深く見渡す。
椅子がひとつ倒れ、卓に置かれていた杯と水差しも横倒しになってしまっているが、床に落ちて割れたりなどはしていなかった。棚に収納されていた品々もいくつか転がり落ちているものの、破損しているようには見られない。
もしかすれば、体感とは違ってさほど大きな地震ではなかったのかもしれない。深夜という状況下が、そしてあの胸騒ぎが、感覚を徒に鋭敏にさせたのか。
いずれにせよ大きな被害が生じなかったのは幸いである。ひとまず安堵の息をつくと、荀彧は玉体を抱きしめていた腕から力を抜いた。
「……陛下。もうご心配には及びません」
「はぁ、は……ぁ……あ…………ああ」
荒い息遣いが落ち着いたところで、帝はぎこちなく頷いた。
恐る恐るといった具合で起こした身に、冴ゆる月光が当たり。汗に濡れて青ざめた玉貌が映し出される。
憔悴しきった様子にはっとさせられた荀彧は、すぐさま訊ねた。
「どこか苦しいところ、痛むところなどはございませんか?」
そう、何も地震の衝撃のみが、帝をここまで追い込んだわけではない。直前から玉体に異変は生じていたのだ。
しかし帝は幾度か目を瞬かせたかと思うと、俯き加減で言葉を絞り出した。
「い、いや…………………大事、ない」
「そうは仰いましても、陛下……」
帝の瞳は、未だに茫洋としているように見える。さすがにこれはもう少し見極めなければと、荀彧が訊ね返そうとした直後だった。

「へ、へ、陛下ぁ!」
「ご無事でいらっしゃいますかっ」
女と紛うような高くか細い悲鳴、次いでやや低いが明らかに焦燥しているとわかる声が聞こえてきた。
視線をやれば、二人の宦官が寝台に駆け寄ってくるところだった。一方は小柄で年若く吃音気味、もう一方は長身で穏やかな面立ち。どちらも荀彧のよく知る宦官である。
「へっ、陛下……よ、よう、よう、ございました……ごご、ご、ご無事で……」
帝の姿を確認するや、小柄な宦官は床にへたり込んでしまった。どうやら地震の恐怖で腰が砕けたままらしい。
「ああもう、しっかりなさい!陛下の御前ですのに」
長身の宦官が見かねたようにして小柄の宦官を助け起こす。まだこちらは冷静さを保っていると見て荀彧は声をかけた。
「あの、真っ先に駆けつけてくださったところを申し訳ございませんが、典医をお呼び願えますか。陛下は地震で困憊されているだけでなく、その直前からご容態が思わしくないのです」
「そ、それは一大事にございます!すぐにお呼びいたしますので、しばしお待ちくださいませ」
長身の宦官は慌てて畏まった。曲者が集う宦官たちの中にあって話の通じる者が駆けつけてくれた幸運に、荀彧は内心で感謝した。
「はい、よろしくお願いします。それからお召し替えの衣と、できれば湯に浸した布も……」
「構わぬ」
「えっ……」
要請を遮ったのは、他ならぬ帝自身であった。荀彧も宦官二人も驚き、一様に目を見開いた。
「し、し、しかし、へ、陛下……お、おか、お顔が……」
「荀彧様の仰るように、あまりお加減がよろしくないようにお見受けしますが……」
今夜の月が明るいがために。この場にいる誰もが、玉体も玉貌も詳らかに見ることがかなっている。宦官もそれぞれに、帝の顔色を見かねた様子で聞き返した。
だが帝は頑として首を振り、掠れの取れた声できっぱりと言った。

「悪い夢を見ただけだ。この身には大事ない」










仄かに湯気が立つ晒し布で背を拭う。肌に余計な摩擦を与えぬように、されど丁寧に。
「……いかがでしょうか。熱くはございませんか」
「ああ……大丈夫だ。気持ちがよい」
荀彧からの問いかけに、至極満足といった様子で帝は頷いた。
さすがに汗の染み込んだ寝着は心地悪かったらしく、着替えと晒し布を準備することは受け入れられた。だが結局、典医を呼ぶことは最後まで拒まれた。
帝自らの言を信じないわけではない。しかしまことに悪夢のみに因るのであらば、如何様な夢であったのだろう。玉体の危険すら感じる魘され方となるほどの、陰惨な悪夢とは。
気にはなったが、殊に仔細を質して御心を乱す真似は躊躇われる。まずは落ち着いて接することが肝要と、荀彧は背を拭い続けた。その上で、何か特別な変調が察せないかと目を凝らす。

(なんと、華奢な)

人目を憚る間柄となって幾度か季節も巡った。しかし、恐れ多くもこうして具に彼の人の背を眺めるのは、初めてではなかろうか。
寝所にて拝謁し、間近に相対し。そして重ねられてきた玉体は確かに若く、か細く。されど衣を脱ぎ去った後姿は一層のこと生白く、心許なさを醸している。
首から肩にかけてのなだらかな曲線。成長の途上とはいえ、決して広くはない背。今以て衣に着られているような印象になってしまうのも無理からぬことである。
この柔く儚い双肩と背に、絢爛なりし帝衣が覆い被さり。更に上から、永らくの年月を経た末に傾きかけた王朝がのしかかる。一人の青年が背負う重責として、あまりに酷であることは明白だ。

「ひ弱な背であろう」
黙りこくった荀彧の内心を察したような自嘲が上がった。
「っ、決してそのようなことは」
「構わぬ。自分が一番わかっている。いつまで経っても、伏壽たちと大差のない体つきのままだ」
「……華奢であらせられると感じたことは真にございます。ご無礼をお許しください」
「はは、何を無礼なことがあるものか。ただの事実であろう、気にせずともよい」
荀彧の正直な告白をも帝は軽く笑い飛ばした。だが饒舌であるほどにわざとらしさが強調され、虚しい響きとなって伝わる。
気休めの言葉を何よりも嫌う御仁であることは承知。されど二十にも至らぬ身がこの先どのように成育していくかは、やはり未知の領域ではないか。
思い直した荀彧は、励ますように語りかけた。
「陛下はお若くていらっしゃいます。何より、許へお越しになるまでは、御身に足る食事もお召しになっていませんでした。まだこれからにございましょう」
「これ以上を望めるとは思えぬ……」
帝は嘆息したかと思うと、急に荀彧の方を振り返ってきた。そのまま身をも捩って、両者向き合う体勢となる。
「そなたほどの身丈があれば、帝として格好もついたか」
乾いた笑みと共に口の端から溢れ出たのは、羨望の想いだった。

「陛下……畏れながら。私など、ただ背ばかり伸びてしまったに過ぎ……っ」
弁明が終わるよりも先に、荀彧は抱きしめられた。
先刻、地震に見舞われた際にはこちらから引き寄せた懐へ。今度は帝自ら頬を寄せ、身を委ねてくる。
「ここは温くて……広い。落ち着く」
「陛、下……」
どことなく幼子を思わせるような仕草で、何を求められているのかを察する。
既に事態は収束したといえど、悪夢と地震に苛まれた記憶がそう忘却できる筈もない。故に、少しでも安らぎたくてたまらないのだ、と。
「失礼、いたします」
荀彧は静かに腕を回し、緩やかに玉体を包み込んだ。ここに迫る脅威はないことを、温もりで伝える。
やがて、ぐっと息を呑む音が胸許より聞こえて。

「…………祖母、上」

か細い声だった。しかし荀彧の耳には確かに届いた。
「あの、畏れながら……孝仁皇后がいかがなさいましたか?」
「…………あ」
突然名の上がった存在について訊ねると、帝は肩を竦ませた。まさか聞かれていたとは思わなかったらしい。
しかしわずかな逡巡の後、観念したように告げた。
「……言ったであろう、悪い夢を見たと。夢に祖母上が現れた」
「孝仁皇后が……さようで、ございましたか」
一旦は得心して頷きはしたものの、荀彧は引っかかりを覚えた。
賢婦とは言い難い噂がつきまとった董太后だが、愛情深い人物であったことは、直に養育された帝に接していれば伺い知れる。
国母としての資質はともかく、帝にとっては幼い時分の唯一の拠り所であり、今なお忠孝を尽くし哀悼を欠かさぬほどに思慕している存在だ。
その太后が現れてなお、あそこまで酷く魘される悪夢であったとは。いったい、夢では何が――――。

「祖母上が、お命を落とされる夢だった」

「……!」
禁中最奥、深夜のしじまに包まれた寝所が。より重苦しい沈黙で覆われたような気がした。
咄嗟に言葉が思いつかず、喉の奥が澱んでいく。そうして荀彧が押し黙っているうちに、帝の方からぼそりと切り出してきた。
「聞いて……くれる、か」
「っ、はい」
帝の震える声で我に返り、荀彧は首肯した。
今この場で自分が為すべきは、彼の人の見た景色を、恐怖の気持ちを。ありのまま受け止めること。
「私めにお話しくださることで、陛下の御心が少しでも晴れるのでしたら……」
背後へと回した手で、玉体の背を緩く撫でる。汗を払った肌は若々しく滑らかだった。

「…………酷い、夢だったな」










どことなく見覚えのある形の。されど記憶にはない、初めて目にする宮殿。
洛陽の嘉徳殿にも似ていると思ったが、しかし天井にも壁にも柱にも、どの場所にも装飾など欠片も見られない。
見渡す限りの灰色一色。なんとつまらぬ、威風なき宮殿か。
いったいどこだ。どこなのだ、ここは。どこの宮殿に私は足を踏み入れてしまったというのだ。

ぴしり。ぴしり。

びし、びし、びし。

戸惑い見回しているうちに、嫌な音がした。本能で危機を感じる音だ。はたと上方に視線をやり、すぐに悟る。
天井が。壁が。柱が。見る見るうちにひび割れていく。

ぱらぱらと粉が舞い落ち、身に降りかかり始めた。これは、崩れる。今にも落ちてくる。
しかしどうしたことだ。直感しているのに、足がまったく動かなかった。
ただ呆然と。巨大な塊となって落下するものを眺めることしかできない。なぜだ。どうしてだ。

だめだ、死んでしまう。いやだ、死にたくない。早く、逃げたい。誰か、誰か助けてくれ。

『皇子様!!』
視界に何かが覆い被さってきた。真っ暗になった。
直後、ドスン、ガシャンと、恐らく瓦礫であろうものが次々床に落ち砕ける重音が響き。
ぐしゃり、と。間近で、何かが押し潰される音がした。


やがて音がしなくなり。眼前を覆い塞いでいた存在が横へとずれ落ちる。それでも、辺りは暗い。
否。これは今、自らが瞳を閉じているからだ。瞼を開けさえすれば視界は開ける。しかし。

『皇子……さま…………』

嗚呼、これは。懐かしい。しかしいけない。縋りたいほどに懐かしいが、思い出したくない。この方を思い出してはいけない。
目を開けてはいけない。きっと見たくもないものを見ることになる。だめだ、だめだ、だめだ。

『どう……か…………立派、な…………天、子、さま……に……』

『っ!』
か細く遠くなっていく親しみ深き声にたまらず、瞳を開けた。開けてしまった。見てしまった。
周囲を埋め尽くしこの身を囲む、灰色の瓦礫の山々を。自分の傍らで倒れ伏した、鮮やか過ぎる石榴色に染まった祖母を。
『っひ……!!』
何か声をかけなくては。助け起こさなくては。早く血を止めなくては。
しかし思いばかりが巡り、肝心の言葉がまるきり出てこない。喉の奥が詰まる。息すらもできない。

『協……わた……しの、かわ……い……きょう……ゃ…………』

永楽宮の寝所でただ二人きり、それも寝かしつけてくれる時だけ。肉親の情を込めて呼んでくれた我が諱。
呼ばれなくなって久しい、そしてあまりにも愛おしい響き。まさか、こんな形でまた聞こうとは。
いやだ、行かないで。頼むから、行かないで。もう誰も、行ってしまわないでくれ。


『あ……っ!?』
ドン、と下からいきなり突き上げられた。瓦礫ごと辺りが揺れる。直後、下でメリメリっと不気味な音がした。
『!!』
宮殿の床が、裂けた。底も窺えぬ真っ暗闇が目下に現れる。すべてを喰らってやらんと口を開いた獣のようにも見えて。
瓦礫の塊たちが、吸い込まれるようにして地割れに落ちていく。やがて祖母も。私も。何もかも呑み込まれて――――。

『う、うわぁああああっ!!』










「…………なんと、お辛い」
聞いているだけでも胸が張り裂けそうになる内容だ。
まして、最も近しい肉親が無惨な最期を遂げてしまう夢など、悪夢以外の何物でもない。
「……やっと、祖母上に会えたというに。ままならぬものだ」
「陛下……」
帝にとって何よりも恐ろしかったのは、祖母が自らを庇って死にゆく様を目前にしてしまったことではないか。
董太后は洛陽を追放された先で崩じたと聞いている。つまり帝は、真っ当な形式での祖母との永訣を経験していないのだ。
ただでさえ無念の内に引き離され、二度と会うこと叶わなくなってしまったというのに。よもや夢の中において残酷な別れをさせられるとは。
「…………」
帝の受けた衝撃と恐怖を推し量るほど、荀彧の胸も痛んだ。余計にかけるべき言葉を見出せぬまま、せめてもと背を撫で続ける。
逆に話したことで少しは楽になったのか、帝はぼんやりとしたまま荀彧に身を任せきりにした。
「夢、にしては……生々しかったな。いや、地震はまことであったか…………祖母上が、知らせてくれたのか」
「……そうかもしれません。孝仁皇后が陛下の御身を案じられて」
「でも……朕の目の前で……」
「何があろうと、陛下をお守りしたい……その一身でいらっしゃったのでは」
「っ…………ああ」
感慨を伴った荀彧の言葉に、深く、何度も首肯して。そして堰を切ったように帝は語り始めた。
「祖母上はいつも朕を守ってくれた。朕が喉を通すものは、毒見が終わったものでも必ず先に食していたし、火事や地震になろうものなら、兵や宦官が駆けつけるよりも先に朕を抱えて避難してくれた。洛陽を追われたのも……朕を立太子させたいあまりに、事あるごと霊思皇后に物申していたせいだ」
「常に陛下の……盾となっていらっしゃったのですね」
「欲の深い人であったし、朕という駒を以て政を掌握したかっただけ……と言われればそれまでかもしれぬ。しかし祖母上はまこと、我が身も顧みずに災いを振り払おうとしてくれていた。それも、朕にとっての真実だ」
肉親であろうと、決して盲目にはなり切れぬ前置きがあり。されど後に続いたのは、守り育てられてきた孫だからこそ胸に抱く追懐。


「荀彧にも……先刻は助けられたな」
荀彧の胸座に預けていた玉貌を起こすと、帝は少しばかり微笑んだ。
「そなたこそ、揺れで起こされたばかりであったろうに……世話をかけた」
「あ、いえ陛下……畏れ多いことにございます。実を申し上げますと……」
あの緊迫した最中、まして帝は悪夢より跳ね起きた直後であった故、誤解しても無理はない。改めて先刻の状況を説明すべく荀彧は口を開いた。
「私は、地震が起こる直前に目が覚めておりました。陛下のように夢を見たのではありませんが……何やら胸がざわめき、にわかに目が開いたのです。目覚めてすぐ、陛下がたいそう魘されていらっしゃることに気づき、お声を掛けた直後に揺れが……」
「そう、か…………さすが、だ。そなたも……祖母上、も……っ」
瞠目した帝の瞳が揺らぎ、白く光った。見る間に光は大きな粒となり、眦から一気に頬へと流れ落ちる。
平静を取り戻しつつあると感じていたところで、不意に溢れた涙だった。
「陛下っ!?いかがなさいましたか」
月明かりの下、やにわに玉貌を濡らす帝が曝け出され。さすがに荀彧も焦って覗き込んだ、その刹那。

「もはや、朕はっ……そ、そなたしか、頼りに、できぬか、と…………っ」

「な……」
吐き出された言葉に一瞬、身が硬直する。それでもすぐに荀彧は笑顔を見せた。
「何を仰せられます。陛下には董承殿や种輯殿、長年陛下にお仕えしてきた方々がいらっしゃいます。陛下を心よりお慕いする皇后陛下に貴人の方々も数多く。そして曹操殿も陛下の御為……」
「心と力、どちらも伴っている者はそう多くない」
荀彧の諭しを、帝は涙声で突っ撥ねた。しゃくり上げながらもなお、積もりに積もった思いの丈をぶちまけていく。
「董承たちはっ、ひたすら忠を尽くして……ありがたい、と思う。でも、官人たち皆を束ねるほど、実力は伴わぬ……曹操の稀なる能は認める、でもっ……誠の忠までは信じられぬ……!伏壽たちはそもそも……私こそが盾になって、守らねば、ならぬのに……いらぬ苦労ばかり、かけて……私はっ……っ、あ、ぐ、ひっ、ひぃっ」
「っ!それ以上はもうおよしください!」
呼吸が心許なくなった様を見て、荀彧は半ば叫んで帝の嘆きを制した。汗取りのためにはだけていた衣を着付け直し、玉体を寝台へ寝かしつける。
ひくひくと上下する背を解すように撫でながら、努めて優しい調子で語りかけた。
「今夜はもう、お休みくださいませ。私がおりますゆえ……」
「じゅ、荀彧っ……!」
帝は精一杯に声を張り上げ、震える手を伸ばした。すかさず荀彧はその手を取り、強く握り締める。
「そなた、が……そなたがっ、私から離れるようなことが、あったら……頼む……そばに、いてくれ……」
「はい、勿論にございます」
「わ、私は……祖母上や、そなたのようにはっ……強くも、頼もしくもなれぬ……なれぬ、のだ……っ」
「……っ」
天子の自我すら曖昧となり、ただひとりの青年として懊悩し泣きじゃくる。夢の中でとはいえ、祖母を喪った傷は深刻を極めていたと痛感する。
絶対的な味方が手元から離れていく絶望。それを強烈に味わってしまった今、いつか誰も頼ること叶わなくなる未来を見て怯えているのだ。柔弱な己を、誰よりも自覚しているがために。
嗚呼、このようなことではいけない。この御仁を、いつまでも不安の中に置き去りにして心惑わせているようでは、何のための臣下か。
「お気に病ませてしまい、申し訳ございません。どうか。どうかご案じなさいませぬよう……そばに、おります……」
己の至らなさを詫びながら、荀彧は帝の背を労わり、声をかけ続けた。今宵もう一度、一時でも穏やかな眠りにつけるまで。

「私は……陛下も、この国も。必ずやお守りし、お支えいたします……」

荘厳な衣の下の内実が、小柄で華奢な青年であろうと。帝として憂いなく玉座にあり、曇りなき心で威を示す。あるべき治世を迎えるために、我らは力を尽くさねば。
あらゆる災禍からこの御仁を守り通す、盾となる覚悟で。





2021/08/30

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