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曇天日和

どんてんびより

彷徨う星

書庫の戸締りを終えた荀彧は、暗い廊下をひとり歩いていた。
時折、窓から吹きこんでくる夜風は非常に冷たく、身を縮こまらせる。自宅へと向かう荀彧の足取りも、自然に急いた。

洛陽入りしてから、初めて迎える冬である。
故郷の潁川郡潁陰も、この時期はそれなりの寒さに見舞われる。しかし、より北にあるこの地は、また一段と冷え込みが厳しく感じられた。
周辺の環境にも因るものであろう。窓より見えるのは黄河の向こう岸、北東に聳える雪山。そこから吹き降ろす寒風が、人の身に堪えるのは当たり前といえばそうである。
「っ……はあ」
一応は宮殿の内部だというのに、吐く息は白い。
帰宅したら、まずは温かい茶でも淹れよう。どの茶葉にするか。ぼんやりと荀彧が考え始めた時だった。

「おい、大変だっ!」
知り合いの壮年の文官が、慌てた様子で前方からやってくるのが見えた。
この寒さだというのに汗をかき、息を切らしている。一目見て、ただ事ではないとわかった。
「いったい、どうされたのですか?」
荀彧の問いに、文官はまさしく、ただ事ではない事態を告げた。

「陛下が行方知れずなのだ!この南宮のどこを探してもいらっしゃらない!」





荀彧も捜索に加わり、南宮のあちらこちらを捜し回った。
文官や武官と幾人もすれ違い、その都度何処を調べたか、状況を確認し合う。まだ、誰も帝を見つけられていなかった。

「どうするんだ!いくら董卓様だって、さすがに明朝になれば北宮からお戻りになるぞ」
「なんとか、それまでに見つけないと……も、もしも董卓様の耳にこのことが入りでもしたら……!?」
「おい、滅多なことを言うもんじゃない!」
皆が口々に喚き散らす。その顔は不安で真っ青になり、中には小刻みに震え出す者もいた。
この場にいる誰もが、同じ顔を脳裏に浮かべている。この国において今、最高の権力を持つ男。今宵も掖庭にて我が世の春を謳歌しているであろう、酷薄な笑みの男。
彼の者にとって、自ら擁立した今の帝は大切な存在である。『己の権限を行使する』という、その一点のみにおいて。
なればこそ、帝の御身を行方不明にしたとあっては、想像を絶する厳罰を喰らうのは目に見えていた。
「皆さん、どうか落ち着いてください。陛下はまだ幼い身です……おひとりの足で、御座所や嘉徳殿からそれほど遠くに向かわれるとは考えられません。少なくとも南宮内にはいらっしゃるかと」
荀彧は努めて冷静に振舞った。無論、帝の安否は一にも二にも気がかりであるが、ここで下手に焦っては、皆の行動が雑になるだけだ。
「だが、もしも賊に連れ去られた、などであったら……!?」
「それはあり得ません」
怯えつつ悪い想像を口にした文官を、荀彧は毅然とした口調と眼差しで制した。
「この南宮の主たる門では、李傕殿や郭汜殿の部隊がそれぞれ目を光らせています。よしんば城内に侵入されたとて、呂布殿や張遼殿の精鋭部隊が賊を見逃す筈ありません。それに……」
「それに?」
「……陛下は、幼い上に小柄です。ですので、私たちが思うよりも、大人の目を掻い潜る術に長けているやもしれません。書庫や壁の陰など、人目に付きにくい場所に再度当たってみましょう」
一瞬、口から出そうになった言葉を呑み込み、尤もらしいことを言って取り繕った。
先ほどから取り乱すだけだった文官や武官たちも、荀彧の言動が効いたか、表情に落ち着きが戻る。
「そ、そうだな……もう少し、詳しく捜してみようか」
「確かに、私も動転していて……ああ、案外と黄龍殿などを見落としておりました!」
「はい……では私も、今一度捜しに戻ります」
荀彧は一礼して踵を返し、足早に捜索隊の一団から離れた。

「………っ」
表面上こそ涼しい顔を崩さずにはいられたものの、決して荀彧の気分は穏やかではない。
もう少しで、自身も『滅多なこと』を口にするところだった。

――それに賊が侵入したとして、狙うは北宮、董卓殿の坐す方では――

あの場には、董卓付きの武官も何人かいた。それこそ言葉にしていたら、と思うと背筋が凍る。我ながら軽率に思考を廻らせたものだと、荀彧は内心で己が迂闊さを恥じた。
しかし賊が入り込んだとて、身柄を狙うのであれば。真っ先にその対象となる人物は、董卓で間違いない。その意見自体を覆すつもりはなかった。
悪政と暴挙の限りを尽くし、あらゆる贅を貪り、国中を恐怖に陥れている男。今、最も怒りと恨みを買っている人物と言い換えても差し支えない。命を屠りたいと思っている輩は山のようにいる筈である。
まして董卓が毎晩北宮の掖庭に足を運んでいることは、市井の民にまで知れ渡っている事実だ。狙う側の立場で考えれば、これほど行動がわかりやすい標的もいないだろう。

黄巾の乱以降、ただでさえ混迷を極めているこの国が、あの男によって更に寿命を縮められようとしている。
状況を打開しようにも、閑職の守宮令である荀彧にできることはほとんどなかった。それが毎日、歯痒かった。

「陛下……」
さすがの荀彧も、心中に薄暗い不安が過ぎる。帝はどこへ向かったのだろう。この厳冬の夜にただひとりでは、無事が危ぶまれる。
帝が突如として姿を消した理由が思い当たらない訳ではないが、今は一刻も早く、見つけ出さなくては。


方々を回った末、荀彧の足は南宮前殿へと続く廊下までやってきた。
人の気配は感じられない。それもその筈、この建物は三か月前に小火騒ぎが起きたばかりだ。修繕するのも面倒だという董卓の一声のせいで、今も使われていない。
「………うっ」
一段と強い冷気が襲ってくる。その瞬間、奥からギギっと軋むような音が聞こえてきた。
寒さに指を凍えさせながら、荀彧は手にした燭台を音のした方へと向けた。

廊下の突き当たりに、扉がある。ギィ、ギィと音を立てて揺れている。更にその奥に、上階へと続く階段が見えた。
「え……」
何故、階段が見えるのだろう。元々この前殿の最上階は、位置関係を理由に見張り場としては長らく使用されていないと聞いている。ならば、階段へと続く扉は閉じられている筈だ。
風に煽られて開いた、という可能性もあるにはあるが。されど。もしかして。



「陛下……っ!」
階段を昇り切った先の扉を開けると、そこに荀彧が捜し求めていた姿があった。
「あ……っ」
小さな人影が、びくりと大仰に揺れる。燭台の光に照らされた顔は生白く、そして怯えた目をしていた。
これ以上刺激しないよう、荀彧はできるだけ穏やかな声で話しかける。
「大変、失礼いたしました……守宮令の、荀文若にございます」
「……おどろかさないでくれ」
「申し訳ありません」
荀彧は燭台を傍らに置き、跪いた。淡く揺らぐ光の中に、端整な顔立ちが浮かび上がる。
「……………」
眼前で恭しく拱手する姿に、帝はじっと見入った。子ども心にも感じるものがある。美しい、とはこういうことか。
目を細めつつ、帝はぼそりと呟いた。

「よかった、董卓じゃなくて」

掠れた、小さな声。しかし凍てついた空気は、荀彧の耳にその言葉をはっきりと届けた。
「陛下……」
このような場所に、独りきり。その理由を、荀彧は改めて確信する。
即位してからというもの、この幼き帝に安息の時などなかったに違いない。董卓とその息がかかった者たちに周囲を固められ、傀儡として弄ばれる日々。その苦衷は想像を絶するものがある。
すべてが嫌になり、たった一時何もかも放って逃げ出したくなろうと、責められるものではなかった。

「うぅ……っ」
緊張が解けた反動からか、帝は急に体を震わせ始めた。
「っ……御身に触れる御無礼、どうかお許しを」
前置きしてから、荀彧は脇に抱えていた上掛けを広げた。万が一と思い、執務室から持参してきた私物だ。
寒さに凍えている帝の体を包み、その上から優しく抱きしめる。
「あ……」
冷え切った小さな体に、荀彧の温もりがじんわりと伝わっていく。
やがて、与えられる優しさに縋るかのように、帝は荀彧の胸元をきゅっと掴んだ。
「このような場所にいては、貴き御身に障ります……禁中まで帰りましょう、陛下」
帝にとっては残酷でしかない、ひとりを許される刻限を知らせる言葉。それしか告げられないことを情けなく思いながら、荀彧は帝の背を撫でた。

「…………」
帝は何も言わず、荀彧の胸から顔を離す。そのまま、ぼんやりとした眼差しで頭上を見上げた。
「冬の空は、きれいだな」
「えっ?」
幼い口から突如零れた感慨に、思わず荀彧も空へと視線を送った。
「はい…………陛下の仰る通りでございます」

息を呑むほど美しい星空が、そこには広がっていた。
洛陽の冬が大地にもたらす風は、肌を切り裂かんばかりに鋭い。
しかし、こうして冷やされ、乾き、澄み切った空気こそが、星を輝かせるのだ。どの季節よりも、清冽に。

「わたしは日が落ちてからずっと、ここにいた。ずっと、空を見ていた」
帝の人差し指がすっと伸び、ある一点を指し示す。
「あれは……」
細石の如く星々が散らばる北の夜空に、淡く黄色に光る一つ星が浮かんでいた。
「陛下……もしや、天の帝に祈りを?」
「……いいや」
帝は力なく首を振った。そして、寂しげに言う。
「まったく動かぬな……と思って」

時と季節の巡りに従いながら動く星たちの中、ただ一つ変わらぬ場所にそれは在る。
古来その様を天宮の玉座、即ち天上の帝の坐す所として、地上の帝は祈りを捧げてきた。

「帝は……動いてはならぬものなのか」
今にも泣きそうに瞳を揺らめかせながら、帝は荀彧を見た。
「帝だって、たまには別の場所へ行ってみたいとは思わないのだろうか。ずっとあそこにいるのはつらくないのか」
「っ、それは……」
坐して動かぬ天の星。それはこの帝にとって、決して事実のみを受け取れるものではない。
洛陽の宮殿を気軽に出歩くこともままならない。そうした己の境遇を重ねてしまうほどには、あの星が寂しく映るのだ。
突如、天命を背負わされた幼子に、あの北辰を尊び仰ぐ意味など、まだ理解できる筈もなく。
「確かに、天の帝は動きません。そのことを窮屈に思われるのも道理です、が……」
一体、何と言えばよいだろうか。どう言葉にすれば、この方の無聊を慰められようか。
必死に思いを巡らせるうち、ふと、荀彧の脳裏にある光景が浮かぶ。

「……天の帝が動かぬこと。それが民草にとって、どういう意味をもたらすかはご存知ですか?」
「それは……いったいなんだ?」
帝は首を傾げた。憂いばかりだった表情に、ようやく子どもらしさが覗く。知らないことを知りたいと思う好奇心が、その目に満ちていく。
純粋な期待を真正面から受け止めつつ、荀彧は語った。
「天の帝が坐すは、必ず北なのです。夜半に旅をする者たちや、迷い人にとっては、形も場所も変えゆく月よりも……そしてどの星よりも、道標となります」

故郷から洛陽に至る道半ばで眺めた、いつかの夜空。
あの時は確か、三日月で。西へと沈むのも随分と早かった。そのぶん、夜更けの星明りが強く感じられたものだ。
大小様々に煌めく星々の中、ただ一つ動かぬままでいる極北の光。その位置を頼りに、方角を見定め。そして、この都に足を踏み入れた。

「常にそこに在る帝の光……そのおかげで、人は惑わずにいられます」
荀彧は、穏やかに微笑みながら言った。
動けぬ寂しさを憂いている相手に、何故動かぬかを説いたところで、意味はないかもしれない。
ただ、そうだとしても。動かざる星によって救われる者は、この世に大勢いる。せめてそれだけでも伝われば、と。
「そう、か……なるほど……動かぬことで、人の助けになっているのか」
暫し目を瞬かせた後、帝は納得したように頷いた。幾分と、大人びた表情で。
「それが帝の役目……なのだろうな。うん、わかった」
「……はい、陛下」
本来であれば、帝から帝へと伝えられるべきなのだろう。生き方も、心得も、覚悟も。
しかし父帝は既に亡く、廃された先帝はそう歳の変わらぬ少年であった。彼の人に国を背負う孤独を教え、寄り添える存在は、どこにもいない。
時代の渾沌は、この幼き帝に対してあまりにも無情である。やるせない思いが、荀彧の胸を覆った。

「でも、荀彧……うわあっ!?」
帝がもう一度空を見上げ、何かを言いかけた刹那であった。体の芯より凍りつきそうな北風が吹き荒れた。
「陛下っ、っう……!」
荀彧は咄嗟に北に対して背を向けた。帝の体を、強く懐に抱き込む。
「す、すまぬ、荀彧!さむい思いをさせ、た……」
自分を守ってまともに寒風を浴びた荀彧に、帝は慌てて詫びた。その心映えが嬉しく、荀彧は微笑みを返した。
「いいえ、私のことはお気遣いなさらず……では、戻りましょうか」
「…………うん」
帝は小さく頷き、荀彧の胸元へと頬を寄せた。温かい人肌、柔らかな香り。ここには、優しさが溢れている。
幼子の冷え切った心身を温め、そして深く根ざすには、十分過ぎた。

























尚書府執務室を出た荀彧は、夜道をひとり歩いていた。
見上げれば、夜更けの空には溢れんばかりに星が煌めいている。また、深々とした冬が巡ってきたことを実感する。
「え……?」
視線の先に、朝堂が見える。その屋上に、人影があった。
最初は見張りの兵士だろうかと思った。しかし、人影が頭に冠するものの形に気づいた瞬間、貌からざあっと血の気が引く。
荀彧は、すぐさま駆け出した。



「陛下っ……」
静まり返った朝堂に辿り着き、階段を駆け上がり。屋上へと躍り出るや、荀彧は呼びかけた。
息を切らした声を受けて、ゆっくりと人影が振り向く。
今宵は上弦。これよりは西へと沈みゆく月光が、その玉体と顔を照らし出した。
「おひとりで、このような場所に…………今日は一段と寒うございます。どうかお戻りくださいませ」
「よい。朕に構うな」
近づいてきた荀彧を、帝は力のない笑顔で拒んだ。
「ですが……」
「星を見たくなった。それだけだ」
荀彧の困惑の視線から逃れるように、帝は天を仰いだ。凛と冷たい空気に彩られた星が、一面に輝いている。
その美しさに見入る眼差しも、同じように冷たく、そして寂しげであった。
何も言えぬまま、せめてもと荀彧はその傍へ歩み寄る。

「……いつか洛陽でも、こうやって共に星を見たな」
空へと視線を送ったまま、帝は呟いた。
その言葉に、荀彧の脳裏にもまた、在りし日の光景が呼び起こされる。
「はい……まさか、覚えておいででしたとは」
「忘れるものか」
今まで覇気のない声だった帝の語気が、その時ばかりは強まった。

右も左もわからぬまま、突然、帝として担がれて。ただただ雁字搦めな存在であると、それのみを感じていたあの頃の。
忘れたくても忘れることのできぬ、遥か遠い日の思い出。

「あの時、ひとつ聞き忘れたことがある」
ようやく帝は、荀彧へと向き直る。表情は暗澹とし、思い詰めていた。

「何故天の帝は、弱い光しか放てぬのだろうか」

「えっ……?」
いきなり放たれた問いへの答えを、荀彧は持っていなかった。言葉に詰まっているうちに、帝の指がすっと天上の真北を指し示す。
「帝の星とはいいしな……結局は、周りの星々の光には勝てぬではないか」
「陛下……っ?何を、仰せです……」
荀彧は声を震わせながら、悲痛な面持ちで首を振る。
一瞬で、悟ってしまった。帝の言葉が、単に北辰の光を語っているわけではないと。
その真意はあまりにも哀しく、自分で自分を虐げるものだ。
「あの星など……天の帝の近くにあったら、今すぐ呑み込んでしまいそうだ。なんと強い光だろう」
帝の視線と指先は、北から南へと移る。青白き天狼の星が、ひときわ眩く輝いていた。

「……背丈のみなら、こうして一丁前になったというのにな」
帝は自嘲気味に笑い、荀彧へと一歩近づく。
共に星を見たあの夜から廻った月日は、幼子の背を伸ばし、華奢な体躯の青年へと変えていた。
寒さに独り凍えていた目線は今、ほとんど荀彧と同じような位置にある。
「曹操や、そなたのような星の前では……暗く霞むほかない、のか」
「えっ……あっ!?」
突如、伸ばされた手が、荀彧の身を抱きすくめてきた。
「こうしてそなたを近くに置いて、その光を呑み込んでしまえば……朕はもっと、輝けるのか?」
「陛下っ……何を……っ」
荀彧の目が、驚愕に見開かれた。
肩と腰に回った手には、強い力が籠っている。放すまいという明確な意志。今までに見たことも、感じたこともない激情。
恐怖を感じた。いきなり、これほどの感情をぶつけられることに。しかも、その相手は――――

「……っ」
帝の鼻を、芳香が掠めた。上品で、柔らかで、優しくて。寒さに耐え凌いでいた自分を包み込んでくれた、思い出の。
あの夜、この人は心から自分の身を案じて、慈しみ、そして凍える心地から守り通してくれた。なのに今は、自分の腕の中で怯えている。
あの時と同じ香りを纏っているのに。あの頃と少しも変わらぬ美しさなのに。
「…………すまぬ」
帝は大きく溜め息をついて、戒めを解いた。
身柄を解放された荀彧は、茫然とした心地のまま、目の前の帝を見つめる。
「陛、下……」
切れ長の瞳が、惑いに揺れる。どの星よりも綺麗だと、帝は思った。
この光を取り込んだところで、それを我が物とはできない。自分は、かき消されるだけであるのに。

「さすがに……寒いな。そなたに風邪を引かせてしまったら、曹操に睨まれる」
帝に初めて、年相応の若さを湛えた笑顔が浮かんだ。無理に作られたものだと、一目見ればわかった。
「まさか、気づかれると思わなかった。まったくそなたには敵わぬ…………おとなしく帰るとしよう」
「は……はい…………陛、下」
抱きしめられた腕の感触が。眼前にある哀しき微笑みが。荀彧の胸を抉り、掻き乱す。
ただ、拱手を返すことしかできなかった。





「ああ…………やはり天の帝は動かぬな」
省闥の前にて荀彧と別れ、帝はひとり禁中の寝所へと向かう。
その途中、唯一外を見渡すことのできる廊下から、今一度夜空を眺め渡した。
月は西方の彼方へと沈む寸前であり、他の星も位置が変わっている。変わらぬのは、極北を示す一つ星。

かつて、荀彧は教えてくれた。天の帝が坐して動かぬ意味を。
あの時本心では、やはり寂しい役目ではないかと感じた。やはり帝は動いてはならぬのか、と。
されども。その寂寥と孤独に耐え、動かずに構えていられる。泰然と、そこに在ることができる。それが帝の強さだと、今ならば理解が及ぶ。

いざ着の身着のままで動くことになった時、ようやく現実に気づいたのだ。
洛陽から、長安へ。再び洛陽に戻り、そして許昌へ。自分はただ、流されゆくだけの、脆弱な帝であると。

「朕は……彷徨うだけだ」
最早、誰の道標にもなることはできぬ。




2019/01/26

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