小満の慈風
「なあ。あれ荀攸殿、だよな?」「軍師様ですねぇ……」
「今から、帰るのか……ふぅん……」
これより朝の勤めに登城する兵士や文官たちは、自分たちとは逆方向へ歩を進める姿に訝しげな視線を送った。
路の端をぬたりと歩く様は、この爽やかな朝の気配からは完全に逸脱していて。
湖水の如き青空の下、背を丸めて澱み切った気配を垂れ流す。雲間から差し込む朝日すら、それを振り払えない。
「……酒だ」
生気のない声が、誰に拾われることもなく虚空に掻き消えた。
「はい、どうぞ!」
「頼んでいませんが」
覚えのない点心を目の前に出された荀攸は、すかさず酒場の娘を見上げた。
睨みを利かせたつもりはないのだが、四杯目の酒が回った目は既に「話しかけてはいけない人種」の類になってしまっている。
しかし性質の悪い客には慣れっこらしく、娘はものともせずに膨れっ面で荀攸を叱り飛ばした。
「空きっ腹だといつもより酔いやすいのわかってるでしょう!ちゃんとおつまみも食べてください」
「まあまあ、そう言うな。男にはなぁ飲まないとやってらんねぇ時があるんだよ」
「お父さんはお客さんに甘いのよ……」
酒場の店主がたしなめると、娘は口をとがらせつつ自分の領分たる出店へ戻った。酒場の軒先に併設されたそこは、朝一番の点心が湯気を立てて並んでいる。
わざわざ作りたてを差し入れてもらっておいて不届きなことは自覚している。しかし今の荀攸には、娘の気遣いもちくちくとした小針に感じてしまう。
我ながら情けない――自分自身に毒づいてはみるものの、杯を呷る手は止められない。
「荒れてますなぁ」
五杯目の酒と水を差し出しに来た店主も、さすがにいたたまれないといった調子で溜息をついた。
店主としても、城勤めに疲れた者たちの憩いになればという思いで朝も営業している。こうして飲みに来る客は歓迎ではあるのだが、今日の荀攸の飲みっぷりは傍目に見ても健康によろしくない。
「まあ、朝飯と思って食ってやってくださいよ」
「……恐れ入ります」
苦笑いの店主に促される形で、荀攸は点心に口をつけた。程よく甘味の利いた皮に香ばしい餡の味が、はらわたに沁みていく。
ようやく、一息つけたようには感じた。かといって苛立ちが収まったわけではなく――というより、酔いの回った頭が、心の収まりを阻害している。
事の発端は昨夜。
ただでさえ定陶を攻めあぐねている段階で、次の攻城策に頭を悩ませているところであった。
さすがに下弦の月も窓の外に見えてきている状況、しかも立夏が過ぎた途端やや暑くなったせいだろうか、昨日もあまり眠れていない。
この様では思考が詰まるのもやむなしと感じ、帰宅すべく準備していた。その直後である。
『皆さんよろしいですか、聞いてくださいっ!あ、荀攸殿しかいない。すみませんちょっとお話を!』
突如として執務室に飛び込んできたのは、満寵だった。
その目は、思いついた新作の罠と策のことで爛々とした輝きを放っており。
しかし燭台の灯りに照らされた彼の姿は、白基調の清廉な装束が台無しになるほど墨で汚れていた。
『あの……その墨汚れ、早く洗いに出さないとまた家の方に叱責されるかと。今日はもうお帰りになるべきでは』
『ははっ、大丈夫ですよ。それより!先年、兗州の諸城があっけなく落とされた件ですが、攻め取ったばかりで比較的防備が手落ちだったところから狙われています。ですが呂布軍は精強、闇雲に守りを固めれば戦意ありとみなされまともに攻撃を喰らった城もありました。となれば決して手薄ではなくしかし頑強過ぎない防備として、まずは馬防柵と伏兵の配置の見直し、それから外壁にもちょっと工夫を……』
『…………とりあえず、ひとつずつ話してくれませんか?』
まさかあの調子で明け方まで付き合わされるとは、流石に思っていなかった。
こちらの事情も構わず熱意を放出しまくった満寵に言いたいことは山とある。しかし、次回の軍議にて本気で献策しようとしている事柄であり、他者の意見や反証を早急に求めたいと逸る気持ちは通じた。
最終的には、押し切られて乗ってしまった自分も悪いのだ。ああでもないこうでもないと議論し、空が白み始める頃には目の奥と眉間が疲れ果てていた。
そう完徹できるような年齢でもなくなっていることをしみじみと感じる一方で、執務室を出るその時までまったく変わらぬ笑顔であった満寵に――若さという底なしの力に無暗な苛立ちを覚えたのもまた、事実。
「若いって、いいですよね」
「はぁ」
脈絡もなく独り言ちる荀攸に、店主のやや憐んだ視線が注がれた。
「主人、もう一杯…………」
点心を食し終わる頃にはとうとう六杯目を飲み干し、次を所望すべく杯を掲げた時だった。
常よりも早まった酔いで、意識は曖昧としている。とはいえ、目端に捉えたその人影を見間違えるほど、落ちてはいないと自負したい。
瞬きを数度して、荀攸はその方を見やった。酒場の内から見える表通りを歩く人の中に、確かに彼がいた。
「文若、どの……」
文官装束ではなく初夏らしい淡色の服を纏い、凛と背を伸ばして歩んでいく。
さながらそれは、蒸し暑い最中にさらりと涼しく吹き抜ける風のように。文字通り、颯爽としていた。
惚けて見ているうちに、荀彧はあっという間に酒場から見える範囲を越えていってしまう。
「……?」
はたと思った。いったい朝も早くから彼はどこへ行く気だろう。今日は確かに軍議もなく、当初から暇を貰っていても不思議ではないが。
そもそも、強引に暇を願い出て朝っぱらより飲んだくれている自分が、彼を詮索できた義理ではないが。
「ちょっと荀攸さん、さっきもう一杯って言わなかった!?今日はもうやめときなさいったら!」
杯を求める声に過敏に反応して、出店から娘が舞い戻ってきた。しかし、荀攸が手にしていたのは水の耳杯の方。
飲み干し終わるや否や、音も立てずにすっと立ち上がる。
「ご忠告通りやめておきます。勘定を」
「えっ?あぁ、はい……?」
さすがの娘も、面倒な客の変節ぶりに眉を顰めた。
店を出ると、東天から降り注ぐ日光がいきなり荀攸を襲った。あまりの眩しさに、焼かれる勢いで目が痛む。
「うぐ……」
辛うじて両手を額に翳して日除けしつつ、荀攸は通りの先を見た。幸い、思ったよりも近い位置に、軒先に佇む荀彧の姿がある。
この距離感からして、あれは万屋か。そう推察した直後、案の定見慣れた女主人が壁の遮りから姿を現した。
なるほど、買い物か。そう結論付けた直後、いやいやと荀攸は首を振る。
(おひとりで買い物とは……)
名門荀氏の本流で育った荀彧である。買い物となれば商人を自宅に招き入れるか、使用人が行くかのどちらか。その彼が、万屋までひとりで来るなど。
しかし、これ以上下手な探りを入れても心象に悪い。いっそ堂々と近づいて仔細を聞こう。そう考え、荀攸が一歩足を踏み出そうとした時だ。
「よう、荀彧殿」
表通りの横道から、非常に見覚えのある長身の男が現れた。
荀彧に親しげに声をかけるなり、彼の側へと近寄って。荀彧もまた、自らより頭一つ高い彼の人の名を呼んだ。
「程昱殿、おはようございます」
「あー、うーん……どうもまだ慣れんよ。こんな老骨が、覚えめでたき君と同じ『いく』だなんて。気が引けてかなわんね」
「そのようなこと……殿が見込みお授けくださった、素晴らしき意の名ではございませんか」
「いやいや、そこは殿のこと。授けた名に見合う輝かしい働きをしないと許さぬぞ、ってこったろう?先が思いやられるわー」
大仰に身を竦めてみせる程昱に、くすくすと笑みを零す荀彧。
両者が醸す微笑ましい空気、そして更に続く会話が、荀攸の足を完全に止めてしまう。
「ふふっ……今日は暇のところ、お呼び立てして申し訳ありませんでした」
「なーに、私の方から勝手に言い出したことさ。さて、まずは話していたおすすめを……」
それは、つまり。荀彧がわざわざここまで来たのは、程昱と約束していたから。
何故、二人が。朝からこんなところで。何を。何故。どういう理由で。一体。
「……あっ、公達殿!?」
頭の中も視界もぼんやりと靄がかった刹那、玲瓏な声がその靄を吹き飛ばした。
慌てて我に返れば、荀彧と程昱の驚いた表情が目に飛び込んできて。つまり、目が合ってしまったということで。
「なんだ、荀攸殿も今日は暇かい?しっかしまあ……」
程昱は立派に蓄えた顎鬚を撫でると、厳しい目で荀攸を見つめてきた。今まで醸していた好好爺の雰囲気から一転、その威圧たるや猛禽を思わせる。
傍らの荀彧は、暫し瞬きをしたかと思うと、秀麗な形の眉を曇らせてしまった。
「公達殿、あの……」
「っ、失礼いたします!」
荀攸は弾かれたようにしてその場から逃げ出した。後ろから名を呼ぶ声が聞こえた気もするが、振り返れなかった。
(最悪だ…………)
這う這うの体で辿り着いた自宅の寝台で、荀攸は倒れ伏していた。
酔いの残る頭の中、ぐるぐると巡るのは後悔ばかり。なんだってもっと、うまく立ち回れなかったのか。
普通に近づいて、世間話でも交えながら聞き出してしまえば済んだ話である。さすれば、胸に生じた疑念が残ることも、醜態を晒すこともなかったのに。
程昱は永和六年の生まれと聞いている。つまり、曹操よりも遥か年上だ。まして荀彧とは親子ほどの年の差といってよい。
曹操が知恵袋と頼みにする二人が、和やかに語らいつつ万屋で買い物。傍目におかしなところなど何もない。
ただ、あの親しそうな様子を見ていたら、何故か穿った気持ちが湧いてしまったのだ。
(何故……程昱殿なんだ)
程昱――以前は程立という名であった彼の人は、先年の兗州侵攻の際、荀彧と共に際立った働きをした男である。
陥落寸前だった瀬戸際で、鄄城と東阿、范の三城を見事防衛してみせた。つまり荀彧とは、死線を共にし、潜り抜けた者同士。
更には、若い頃に見た夢について相談されるほどに親交を深めている。何しろ程『昱』という名は、彼の人の見た夢の内容を、荀彧が曹操に報告したことがきっかけで授けられたもの。
かように二人が心通わせているかと思うと、どうしても、何か。胸の内にじわりと妙な心が浮かんでしまう。
いや、明らかに考え過ぎだ。しかし、市井で買い物など数えるほどしか経験のない筈の荀彧が、なんだって約束をしてまで――――
『攸兄さま、街とはとてもにぎやかなところですね』
「――っ」
唐突に、幼き面影が浮かび上がってきた。
まだ荀彧が、十になるかならないかという頃の話だ。潁陰の繁華街まで、彼を連れて歩いたことがたった一度だけある。
たまの外出はあれど馬車から景色を眺めるのみであった荀彧にとって、その日は目に映るものすべて新鮮に見えたらしい。たいそう瞳を輝かせて街歩きを楽しむ姿が思い出される。
『見たこともない布や置き物ばかりです。あれはいったい、どのようなお店なのでしょう』
『恐らく……南方からの交易品を扱う露店かと』
『こうえき品、ですか……あのような色の羽をもつ鳥が、南にいるのですね』
『こちらには女の人のおめし物がたくさんありますね。かんざしも……母上が見たら、お喜びになるでしょうか』
『では何か、御母上に土産でも買っていかれますか』
『あ、でも……これだけの中からえらぶのは、むずかしいですね。いつも来る商人さんは、こんなにたくさん持ってきませんし』
『確かに。荀家に出入りするからには、商人も良品を厳選しているでしょうから』
『彧殿、そこで干し棗を買ってきました。一緒に食べませんか』
『えっ。で、でも、食べ歩きなどしたら、きっと父上にお叱りを受けてしまいます』
『大丈夫です、俺が責任を取りますので。どうぞ』
『あ……い、いただきます……おいしいです!』
初めて見る異国の物に目を丸くし、玉石混交数多の品々に戸惑い、恥じらいながら露店の棗を頬張り。
遠い日の記憶の中で、幼い彼は無邪気にくるくると表情を変えていく。乱世を目前にしつつも、まだ一時凪いでいた頃の、幸せな。
(…………俺は、何を)
そこまで思い至ってようやく、荀攸は己の心内に巣食う感情を自覚した。
どうやら自分は嫉妬し、失望しているようだ。荀彧の隣にいた程昱に、そして選ばれなかった自分に。
いくらなんでも程昱に対し、そして荀彧に対しても失礼極まりない感情だ。彼がこちらの背丈を追い越し、成人して一体何年経つと思っている。
彼が誰と親しく付き合おうと、何処へ外出をしようと、自分の与り知らぬところではない、のだ。
しかしながら。功成り名遂げた荀彧でも、今以て買い物の経験は浅い筈という確信はある。彼付きの使用人や下女が、毎日せっせと買い物しているのがその証だ。
やはり彼が自身の意志で街まで買い物に来るからには、よほどの事情があると見たい。その事情に立ち会ったのが、自分ではない男。自分が頼りとされなかった事実に、こんなにも心乱されるとは。
「っぐ……!」
頭がじんじんと痛んだ。自分で思う以上に悪酔いしている。考えてみれば、この酔いこそ、卑屈で馬鹿げた思考を呼んだのやもしれない。
今更ながら、酒場の娘の正論が耳に痛い。初めから肴も口にしていれば、ここまで悪化させずに済んだだろう。
嗚呼、本当に情けない。早く、何もかも醒めてしまえば、少しは――――
格調高い匂いが、ふわりと鼻を掠めた。それに呼び起こされるように瞼が動く。
「…………っ!?」
目を開いたそこにあったのは、心配そうな表情で見つめる荀彧の顔。仰天した荀攸は即座に飛び起きた。
「ぶ、文若殿……っ、てて……!」
身を起こした反動で、特大の頭痛が襲う。頭を抱えた荀攸の肩を、荀彧は優しく撫でた。
「公達殿、大丈夫ですか?」
「は、はい……う……」
頭痛が少し引くのを待ってから、荀攸は恐る恐る頭を押さえていた手を除ける。やはり、荀彧が目の前にいる。
何故、彼がここに。これは都合のいい夢か。そう思いかけるが、この頭痛と至近距離から香る芳香が、夢ではないことを悟らせる。
「申し訳ありません、急にお邪魔して……」
「い、いえそんな……しかし、その……」
この状況を飲み込めずにいる荀攸に、荀彧は穏やかな、そして少し悲しげな笑みを向けた。
「ここのところ、気がかりだったのです。目元の隈が、日毎酷くなっていかれているように見えまして」
「あ……いえ、気にしていただいて、すみません。その、恐らくは、この目つきで誤解させてしまったかと」
心配させてしまったという申し訳なさから、荀攸は慌てて弁解する。しかし荀彧は、わずかに顔を強張らせて首を振った。
「いいえ。今の公達殿は、明らかに健康とはいえません」
「いや、その……」
「ここ数日で、少し暑くなりました。軍議もありますし……あまり眠れていないのでしょう?」
「…………恥ずかしながら」
下手に取り繕っても無駄だ。不甲斐なく思いつつ、荀攸は俯いて肯定した。
「失礼します」
ちょうどそこに、荀攸が召し抱えている使用人が入ってきた。手にした盆には耳杯がある。
「ありがとうございます、ではこちらに」
「はい」
荀彧の指示に従い、使用人は寝台枕元の卓へと盆を置いた。それが済むと、軽く一礼して退出していった。
使用人の背が扉の向こうに消えたのを見届けてから、荀攸は卓上の杯を見やる。
「これは……?」
漆塗りの耳杯は、かなり濃い色の液体で満たされていた。仄かな湯気と共に、芽吹いたばかりの新緑にも似た香りが立ち昇ってくる。
恐らくは、茶であろうか。しかし、見たことのない色に嗅いだことのない匂いだ。不思議そうに耳杯に見入っていると、荀彧が口を開いた。
「こちらは今朝、程昱殿にご紹介いただいて購入した茶なのです」
「……程昱、殿」
朝方の光景が、瞬時に荀攸の脳裏を駆け巡った。
万屋の前で待ち合わせていたと思しき様子の、荀彧と程昱。仲睦まじげに話し込んで、そして――
「……『おすすめ』とはまさか」
記憶を手繰り寄せた末に、荀攸は程昱の言葉を口にする。荀彧は微笑みながら首肯した。
「やはりあの時、公達殿のお耳にも届いていたのですね。実は公達殿の体調について程昱殿に話した折、不眠や疲労にちょうど良い茶があると伺いまして。それも、複数の茶葉を組み合わせた特別なものということで、程昱殿に直接ご紹介いただいたのです」
「それで……朝から二人で……」
「はい。程昱殿も、公達殿を心配されていましたよ。やはり目が落ち窪んでいると。休めるときにしっかり休みなさい、と言伝を頂いています」
「…………」
荀攸は、どっと脱力する感覚を味わった。今もしも直立していたら、その場に頽れていただろう。
二人は自分のために、わざわざ貴重な茶を買い求めてくれたのだ。それなのに自分は、下世話な疑心暗鬼で勝手に嫉妬して。
羞恥のあまり茫然自失となる荀攸だったが、荀彧はその様子を、疲労から来るものと受け取った。真摯な面持ちで荀攸を覗き込む。
「兗州再平定に向けて、公達殿が人一倍尽力されていること……私も心より頼もしく思っています。ですが、どうか無理はなさらず。あと、程昱殿も仰っていましたが、お酒はほどほどに」
「っ……申し訳ありません」
深酒も当然のように見抜かれていたとわかるや、ばつの悪さがいよいよ極まる。あの時程昱がこちらを睨んできたのも、顔に酔いと疲れが出ていたからだろう。
がっくりと項垂れた荀攸を見て、荀彧は少しばかり悪戯っぽく微笑んだ。次いで、卓の耳杯を手に取る。
「ふふ、お小言はここまでにしておきましょうか。さあ、こちらを飲んで。しっかり静養なさってください」
「文若殿……」
目の前に差し出された耳杯と、にこやかに笑う荀彧を見比べる。ここまで哀しいほど惑乱していた心が、すっと落ち着いていくのを感じた。
そこから荀攸の胸に湧き上がってきたのは、思わず知らずの多幸感であった。
率直に言えば、やはり嬉しい。荀彧がこうして自分を気にかけ、心砕いてくれていることが。
「……ありがとうございます。謹んで、いただきます」
一人無意味に感情を拗らせていたことへの罪悪感はあるが、それ以上に救われる心地がした。
荀彧の向けてくれる笑顔は、こちらの澱む気持ちなど、いとも容易く吹き散らしてくれる。まさに、爽涼たる風の如く。
その過ぎたる心遣いに感謝しながら、いよいよ荀攸は耳杯を受け取った。芳しい匂いが鼻に心地よい。
「よい香りです……では」
俺のために、文若殿が用意してくれた茶だ。ありがたく。
「…………………………………………………………………………………………」
「公達殿?あの……もしやお口に合いませんでしたか?」
一息で茶を飲み干すも無言で固まった荀攸の肩を、荀彧は心配そうに撫でさすった。
「す、すみません。程昱殿の仰っていた通りの配合で、煮出してもらったはずなのですが……」
「っいえ!!」
狼狽えかけた荀彧の肩を、今度は逆に荀攸ががっちりと押さえ込む。
「とても、おいしく、味わい深く……体に染みわたるようでした……よく、眠れそうですよ」
「本当、ですか?よかった……そうしましたら、今日はゆっくりお休みください」
「ありがとう……ございます。では、良い心地になって、きたので……また、寝ます……」
荀攸は精一杯の笑顔を取り繕うと、そそくさと寝台に横になった。荀彧はほっと息をつくと、上掛けをかける。
「それでは、私はこれで失礼いたしますね」
「は、はい…………」
安心した様子で寝室を退出していく荀彧を、極限まで息を殺して見送った。
やがて、彼の足音が完全に聞こえなくなったのを確認し。むくりと荀攸は起き上がって。
「っっうぉぉおおえええ」
盛大に、むせた。
「……おはようさん」
机の目の前に立つ人影を察知し、程昱は竹簡から顔を上げた。予想通りの人物とわかるや、満面の笑みを浮かべる。
「昨日の今日で、そこまで顔色戻せたんなら上出来かね」
「ええ、お陰様で効果覿面でした。殺されるかと思いましたが」
まったく感情の籠っていない、むしろ軽く殺意を感じる低音で荀攸が言い放つ。
顔には血色が戻り、隈も見事薄くなっていた。が、一見するとその復調ぶりがわからぬくらいの陰鬱な怒気を纏っている。
しかし程昱はまったく動じることなく、からりと笑い飛ばした。
「まーまー。良薬は口に苦しというのでね」
「限度を超えているかと。危うく何も功を成せぬまま命を落とすところでした」
荀攸の眉間に、常よりも深い皴が刻まれた。
昨日、荀彧に煎じてもらった茶は、確かに効いた。
しかしここまで空前絶後、常軌を逸した苦味は初めての経験だ。並々ならぬ芳香であった分、余計に性質が悪い。
毒でも盛られたかと錯覚したし、かといって体そのものに異変はなく。しかし舌にはいつまでも味が残る。もはや毒である方がましと思った。
そうして口に刻まれた不快感に長いこと震え、ようやく消える頃に頭がぼんやりとし――驚いたことに、気づけば朝だった。
視界は明瞭。酔いも残らず、頭痛もきれいさっぱり消えていて。腹立たしいが、間違いなく茶の効能である。なんといっても、ここ最近で一番熟睡できたことは大きかった。
「荀攸殿、知ってるかい?歳を取ると苦手な食物が減る現象。あれは華佗老師に言わせると、味覚も老化して苦味を感じにくくなるからなんだと」
「は?」
脈絡のない話題を振られ、荀攸の目つきが剣呑さを増す。しかし程昱はお構いなしといった具合で話を続けた。
「実はあの茶、老師に考案してもらった私専用の配合でね。私はこの通り老骨ゆえ割と平気なんだが、若い連中にはとてつもなく苦く感じるらしい。いやなに、ここのところすっかり不摂生で枯れ落ちた様相の荀攸殿だったら、案外いけるのではないかと思ったんだが、ねー……」
「…………」
「うんまあ、あれを苦いと感じられるんなら、まーだまだ荀攸殿も若い!よかったじゃないか」
「て い い く ど の」
地の底を這うような声で、荀攸は程昱へにじり寄った。負けじと程昱も不敵に睨み返す。
「おんや、麗しき叔父殿に心配されて看病までしてもらって、我が世の春だったろうに?荀彧殿に茶を紹介した私だって、感謝されてしかるべきでは?」
「それとこれとはですね」
人生の先達とはいえ、いい加減胸倉を掴んでやりたい気分だった。が、そこに折悪しく、規則正しき足音が聞こえてくる。
程昱はこれ幸いとばかりに、執務室の入り口を顎でしゃくった。
「ほらほら、噂をすればお出ましだね。相手してやんなよ」
「おはようございます」
「っ」
慌てて荀攸が振り向くと、入室してきた荀彧が笑顔で近づいてくるところだった。
「公達殿、よかった……たった一日でこれほどまでに顔色が戻られて。安心しました」
「っは、はい。その、お陰様で、この通り、です……ご心配、おかけしました」
背後でにやけている男の視線を感じるが、この状況では何も言えず。内心で歯軋りしながら、荀攸は頭を下げた。
「そんな、私など……これも程昱殿のお陰ですね。昨日は本当に、お世話になりました」
「やだなぁ、私なんてなーんもしていないのに。荀彧殿の優しさが一番効いたんじゃないのか」
「…………」
どの口で嘯くか、と詰め寄りたかったが、しかし程昱の茶に効果があったことは間違いない。それに。
「……公達殿、いかがなさいました?もしや、まだどこか」
「あ、いえ。もう……大丈夫です」
彼がこうして自分を気にかけ、心を寄せてくれる。その慈悲が嬉しかったのもまた、然り。
程昱に一瞬だけ睨みを利かせてから、荀攸は今度こそ、引き攣っていない笑顔で荀彧を見つめ返した。
「昨日は本当に、その、俺を心配していただいて……ありがとうございました」
「公達殿……お役に立てて、何よりです」
まっすぐな感謝の言葉に、荀彧もにこやかに微笑んだ。
「……若いって、いいねーぇ」
背後の窓から吹く颯爽たる風に、目の前で仲睦まじく談笑する若人二人。良き、小満の朝である。
達成感にご機嫌になりながら、再び程昱は竹簡へと視線を戻した。
2020/05/19