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曇天日和

どんてんびより

爽涼たり、天の銀河

「っは……あ、んっ……陛下っ……」
「荀、彧っ……」
寝台が軋む音。濡れた肌が擦れる音。
夜の帳の内に籠る湿り気が、縺れ合う二人の響きをより淫猥にしていく。
「ああっ……あっ……いやぁっ、あ……はあっ」
「はぁ……あ……!」
交わるたびに生まれる熱が、互いの頬を紅く上気させて。
猛々しく募る想いは、まるで濃霧のように。二人を、寝所を覆い尽くした。
「っ……荀彧っ……じゅん、いく……!」
「っあ……は、ぁ……!」
耳許に吐息がかかり、間を置かず滑った舌が這わされて。
首筋を伝う熱と、穿たれる熱とが、必死で受け止める身を焦がさんばかりに追い詰める。

熱い。なんて、熱い。炎天の昼よりもなお、ここは―――

「あ、あ、ああぁあ……ぁ……っ!!」
「っぅ、あ……!」
昂った激情を共に解き放ち、意識はやがて朧になる。
ただ、熱だけに。すべてを支配されて。





息苦しさに荀彧が目を覚ました時、寝所はまだ夜の只中であった。
「う……」
胸元に手をやると、薄絹の袷目に触れた。既に一通り清められた後である証左だ。
だというのに、肌がじとりと濡れている。それに気づくと同時に、纏わりつくような湿気を感じた。
つまりそれだけ、今夜は蒸し暑いということか。疲れ果てている体でも、眠りから呼び起こされてしまうほどに。
「……?」
小さく身じろぎした荀彧は、違和感を覚えた。隣に眠る筈の気配を感じない。
身を起こし、夜目を凝らして周囲を見渡してみる。水差しと二つ杯が置かれた卓にも、彼の人の輪郭はない。
「っ……」
まだ鈍い痛みの残る腰をかばいながら、荀彧は寝台から降りた。
卓に寄れば、二つの杯の片方には水が湛えられている。彼の人が注いでおいてくれたのだろうか。
急に、喉の渇きを自覚する。頭を下げてから杯に口をつけた。
「これは…」
喉から腹にかけて、すっと涼しく透き通るかのような気分になる。存外、幸福な清涼感だった。
一口だけで済ませるつもりが、杯の中身すべてを呷った。

『陛下でしたら、今しがたお出になられましたよ』
人心地ついていたところに、思わぬ声がかけられる。寝所の入口からだった。
姿こそ、荀彧の立っている位置からは伺えない。しかし壁一枚隔てたそこに、確かな気配を感じる。
「っ」
荀彧は空になった杯を置くと、寝台まで引き返した。床に置かれた籠から己の衣を引っ張り上げ、速やかに着替え始めた。

「あ……」
寝所を出るや、見張り番の宦官――先ほどの声の主と鉢合わせた。
「いかがでしたか、陛下のご用意した荷葉水。お疲れの体にはさぞ染み入りましたでしょう」
わざとらしい科を作り、下卑た眼差しを向けながらくつくつと嗤う。宦官らしい宦官の姿、ともいえた。
今夜は彼が寝所の後始末をしたのだろう。つまりは裸身や乱れた様も、すべて見られているということだ。
やるせなき羞恥が滲み出そうになるのを押し殺し、荀彧は努めて穏やかに振舞った。
「はい、ありがたくいただきました。つきましてはぜひ、陛下に御礼申し上げたく思います……陛下は、どちらへ」
「……ふん」
冷静な態度を崩さぬ荀彧に、宦官は至極つまらないといった面持ちになりながら顎でしゃくった。
「中庭にいらっしゃいますよ。星を見たいと仰せでしたので」



宦官の言葉通り、辿り着いた中庭には彼の人の姿があった。
「陛下……」
空を黙々と見上げる背に向かい、荀彧はそっと声をかけながら近づく。
「……そなたも、起きたか」
振り向いた帝はわずかに瞳を見開かせたものの、力なく笑った。衣の袷は寛げてあり、肌が見えている。
「朕は、この通りだ。暑くて目が覚めてしまった……」
「私もです。畏れながら、先ほどは私めにも杯をありがとうございました」
荀彧は軽く拱手して、荷葉水の礼を述べた。帝は少々面食らった様子で視線を逸らす。
「あの程度、礼を言われるに値しない……かように蒸し暑い夜だというに、構わずそなたを苛み続けた。せめてもの詫びよ」
「陛、下……」
帝の言葉は、先刻までこの身に受け止めていた熱を思い起こさせるには十分だった。
荷葉の効能で涼感を得られた筈であるのに、項を一筋、汗が伝う。
当惑して立ち竦む荀彧を見て、帝は申し訳なさそうに俯いた。
「すまぬ。詫びなどと虫の良いことを言った。あの程度の杯、気休めにもならぬな」
「そのようなことは、決して」
「……朕も荷葉水を飲んで一刻は休まった。だが、所詮は一刻……暑いものは暑い。風も吹かぬし」
辺り一面を覆う鬱陶しい澱みを振り払うようにして、帝は首を振った。そして今一度、空を見上げる。
「せめてこうして見ていれば……気持ちだけでも涼むかと思って」
同じように荀彧も頭上を眺め、息を呑んだ。
「これは……」

瞳に飛び込んできたのは、数多煌めく星の輝き。そして、光の河が悠然と流れゆく夏の夜空。

「陽が落ちるまでは曇っていたというのにな。雲も流れてくれて、よく見える……見事なものよ」
「はい。今年もまた、素晴らしき天の河にございますね……」
今夜が、湿気て蒸し暑いことには変わりない。しかし今この空に散る星は、なんと颯爽たる美々しさを湛えていることだろう。
一粒一粒は小さくとも、幾多に連なり集うことで、より煌びやかに。されどその輝きは、どこまでも冷涼とした銀色で。
真昼の燦燦たる陽光とも、夜更の皓皓たる月光とも違う。天上を彩り、心冴ゆらせる星光。


「見ろ、荀彧。毎年思うが、朕は織女が羨ましい」
帝の指し示した先に見えるのは、青白い光を放っている織女の星だ。大小様々の星の中にあって一際、その輝きは目立つ。
「いつも河の畔にいるではないか。さぞかし涼しいと思うのだが」
「……ふふっ、本当に」
珍しく年相応な――わずかに幼さすら感じる物言いに、思わず荀彧も笑みを溢した。
帝の指は更に上へ上へと流れ、河を跨ぐようにして光る天津の星々を辿る。
「機を織るのに飽きたら、織女は……あの天津から河を眺めるのか」
「ええ、きっとそうするかと」
「天津を渡りながら見る天の河、か……一体、どのような眺めであろう……」
「それは……さぞ……」

無数の光ひしめきあう満天、その合間を縫うように縷々と揺蕩う河。
かの姿を間近に見ること許された織女の瞳には、まったく違う景色が広がっているに違いない。
遠い地上からでは、その絶景は、頭の内に思い浮かべることしか叶わないが。

「……織女も、心洗われる思いになりましょうね」
「ああ……そうであろうな」
それきり、帝も荀彧も黙り込んだまま、銀漢を眺め続けた。
互いに、額には汗が浮かぶ。しかし不思議と、体を蝕むほどの熱からは解放されていた。



鬱々として暑く熱い、盛夏の夜。
されど、満天に普く光輝は、惜しみなく降り注ぎ。
茹だりの治まらぬ地を、熱を持て余す人を。潤さんばかりに照らし、包み込む。

格別の爽涼たるは、夏天を流るる銀河なり。





2020/07/11

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