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曇天日和

どんてんびより

蒼天の春、君は未だ青し

「……もうよい。そなたの話は退屈だ」
大きな溜息と共に吐き出された言葉が、嘉徳殿の広間を静まり返らせた。

「………………なっ、な。なにを仰せかと思えば、陛下っ!?」
面と向かって言われた立場である孔融も、直後こそ他の文官同様に呆けた顔を呈した。しかしすぐさま首を振り、更なる早口で捲し立てにかかる。
「今のお言葉、英明であらせられる陛下のものとも思えません!よろしいですか、ここからなのです。次の章において武王の意を読み解くための肝要な……」
「だからもうよいと言っている!」
澱みなく溢れ出てくる言葉に蓋をするかの如く、帝の喝が飛んだ。
玉座から腰を上げるや、衝撃にあんぐりと口を開けてしまった孔融に言い放つ。
「そなたの話、趣深い時とただ話している時の差が大き過ぎるぞ。今日はここまでだ」

「あの、陛下……畏れながら」
ここまでやり取りを見守っていた荀彧だったが、さすがに見かねて声を上げた。
帝の言い分も尤もではある。今日の孔融の講義は、この場に集う全員に問えば全員から「冗長だ」と返ってくるであろう。他の文官たちも飽き飽きとした様子であったし、今は青ざめて畏まっている种輯ですら、欠伸を噛み殺していたくらいだ。
ただ、もとより帝は文学を好む性質であり、常日頃であれば孔融の長ったらしい講釈であろうと素直に耳を傾けている。ここまで剣呑になることはついぞなかった。だからこそ皆が驚き戸惑っているのだが。
「その仰りようは、あまりにも孔融殿がおいたわしいかと存じます。陛下の御為と、毎回入念に準備をしてからこの場に臨んでおりますゆえ……」
よほど精神的に応えたのであろう、石のように動かなくなった孔融を不憫に思いつつ、荀彧は代わって進み出た。
「陛下、ここはどう、か……?」
拱手して玉座を改めて見据えれば、帝はふいと顔を背けてしまった。
しかしそれはかえって横顔を晒す形となり、旒に隠されていた表情を詳らかにする。
(……珍しい)
困惑よりも、純粋な驚きが荀彧の心を占めた。
露わとなった横顔は、黙々と講義に臨む勤勉な「帝」の輪郭ではない。口を尖らせ拗ねている少年だ。
「…………すまぬ孔融。確かに先の朕の言い方はよくなかった。許せ」
ややあって、俯き加減になりながら帝は謝意を示した。
「……あ、いや、陛下っ!私こそ、冷静に振り返れば自分ばかりが語り通しでこざいました!どうかご容赦のほどを……!」
茫然としていた孔融も我に返り、後ずさりながら頭を垂れた。それを機として、広間の緊迫した空気もいくらかは緩む。
ひとまず場が収まったことに荀彧は胸を撫で下ろした、それも束の間。
「っ、陛下?」
帝は戻るかと思った玉座に戻らない。踵を返すどころか、すたすたと歩き始めてしまった。
「陛下、お待ちくださいませ」
「いったいどちらへ!?」
明らかに嘉徳殿の入口へ向かおうとしている帝を、荀彧をはじめ文官がこぞって追いかける。
帝はもう一度大きな溜息をつくと、ぶっきら棒に告げた。
「今日はここまで、と言ったことまでは覆さぬぞ。孔融、次はもう少し聞き易い話にしてくれ」





「肝が冷えました……」
しみじみと呟いた种輯の顔は、まだ赤みを取り戻していなかった。
「陛下のお気持ちはわからなくもありません。ですが、お好きな講義を取りやめるなど初めてにございますれば……しかもあの、怒らせると面倒だともっぱらな孔融殿に、あそこまで」
日頃は疎ましげに接している相手にこうも話しかけてくるということは、种輯も相当動揺したと窺える。荀彧も苦笑しつつ首肯した。
「はい、私も驚きました。いつも熱心に励んでいらっしゃる陛下が、まさか……」
荀彧の視線は自然と、前を行く絢爛な黒衣の背へ注がれる。
常ならば足音も少なくゆったりとした歩調が、今日はやけに早い。嘉徳殿を出るなり寄り道もせず肩を揺らして歩き通しだ。どことなく苛立ちは感じる。
文官たちもそれを汲んでいるので、何も言わず付き従うのみ。遠目に見れば粛然とした列にしか見えないだろうが、漂う気配はとかく陰鬱だ。
ただ、荀彧はこの状況をさほど深刻に捉えていない。機嫌を損ねた帝に幾度となく相対してきた、それ故の確信だが。
「……陛下」
普段と変わらぬ調子で荀彧は話しかけた。他の文官たちが凍りついたことを察したが、構わず続ける。
「玉堂の桃が見頃だと伺いました。よき日和ですし、お戻りになる前にご覧になられてはいかがでしょう」
「…………」
帝は答えない。しかし急くように動かしていた足がぴたりと止まる。次いで、黙したまま振り向いてきた。
険しさ滲む様を見て取るや、文官たちの幾人かがひっと息を呑む。种輯も体を強張らせたが、それでも荀彧は動じなかった。
喜怒哀楽でいうなら、旒の奥から仄見える感情は「怒」で間違いない。しかしその印象はどうにも幼いのだ。虫の居所が悪い少年が不貞腐れている、荀彧の目にはそういう類のものに映った。
恐らく、帝も己が軽率さを自覚している。機嫌に任せて振舞ってみたはいいが、気づけば周囲はこの通りの重苦しさ。自身の態度を反省しつつも今更引っ込みがつかない、ではどうすべきか――逡巡が、揺れる瞳に現れている。
先の帝の剣幕には驚かされたし、消沈して退出していった孔融を見ていた文官たちが畏れるのも仕方ない。だがいつまでも揃って黙されていては、帝もやりにくいことこの上ない筈。ならば変に引きずらず、平素のように接した方がよい。
「…………うむ」
帝は小さく首を縦に振ると、また前を見て歩き出した。
ひたすら禁中を目指していた足先が、回廊の分かれ道に差し掛かったところで進路を変える。足取りも目に見えて緩やかになった。
「……では、これより陛下に従い玉堂に参りましょう」
「は、はいっ」
荀彧の一声で、文官たちも安堵して頷いた。帝を先頭とした列からようやく、気まずい空気が払拭された。





正月から春を彩ってきた梅が終わり、替わって桃が方々で咲き誇る。中でも玉堂前殿の桃花は、白い花弁が美しいことで知られていた。
一行が辿り着くと、ちょうど八分咲きといった華やかな様相で出迎えてくれた。
「……今年もよく咲いた」
純白の花を見つめる帝の口から嬉しそうな声が上がる。満開まであと一歩といったところだが十二分の見応えで、空の青さにもよく映えた。
そのまま帝は幹の周囲を歩いて回り、丹念に観賞の視線を注いだ。時折窺える表情も纏う気配も、既に柔らかさは取り戻している。
「陛下、こちらの桃はまこと清廉で美しゅうございますね」
「そうだな……この花から香りはあまり感じられぬが、なにしろ花つきがよい」
「確かに香りといえば、梅の花には及びませぬか。秋口に成る実であれば芳しいですが……」
「花もそれぞれ特徴があって、見るべきところが違うということだ。朕は、この尖りある形が好きでな」
「さようでございましたか!いやさすがは陛下、ご覧になる視点が我々とは違います」
調子を取り戻した种輯があれこれ話しかけ、帝も応じて言葉を返す。文官たちも心身解放され、ゆるりと春の陽気に浸る。
先刻までとは一転して和やかな光景を、荀彧も微笑みながら見守っていた。

麗らかに花綻ぶ陽春のひととき。故にこの瞬間誰もが、荀彧ですら油断していたのだ。
空より急降下で刺客が迫り来ていることにも気づかずに。

「っ!」
それでも真っ先に気配を察知したのは荀彧だった。しかしあと一歩、遅かった。
危ない、という号令を掛けるよりも先に悲鳴が上がった。
「ぎゃああっ!」
次いで、バサバサッという豪快な音が響き渡る。目を向ければ、黒々とした翼が种輯の頭上で暴れ狂っていた。
「かっ……烏だぁ!?」
誰かが叫び、一瞬で辺りがどよめいた。

――――嘎嘎!

周囲に木霊するは、人の動揺を嘲笑うかの如く濁った鳴き声。烏は好き放題に暴れ、种輯の帽を無闇に突きまくった。
「ひぃいっ」
种輯はせめても追撃から逃れようと蹲るが、烏の攻勢は止まない。
他の文官も怯えて、遠巻きに見ることしかできないでいる。何しろ見慣れた烏の倍はあろうかという体躯だ。
「种輯殿、陛下っ!」
皆が硬直する中、ただひとり荀彧は駆け出した。
襲われている种輯のすぐ近くでは、帝が呆然と立ち竦んでいる。状況として危険極まりない。
しかしこの距離で鏢を使えば种輯にまで危害を及ぼしかねず、最悪烏の血をこの場に流すことになる。帝に獣の血を見せる訳にはいかない。
まずは御身の無事を確保、その上で种輯を――――そこまで荀彧の思考が至った時だ。

「やめよっ!」
驚愕のまま事の成り行きを見ていた帝が、突然弾かれたように种輯に駆け寄った。
それだけではない。种輯を襲っている烏めがけて、衣の袖を振り抜いた。勢いよく弧を描いた袖が烏に直撃する。
たまらず烏は种輯から飛び退いて、上空へと逃げた。

――――嘎嘎!!

しかし思わぬ反撃を喰らった烏は、一段と甲高く啼いた。明白たる憤激の臭い。
墨で塗り潰されたよりも遥か黒い翼が不気味に羽ばたき、同じく黒色の嘴がぬらりと怪しい煌めきを放つ。
次の瞬間、烏は猛然と。ほぼ垂直落下に近い様相で帝に向かってきた。

「陛下ぁっ!」
間一髪。荀彧が駆けつけざま、横から帝へと覆い被さる。刹那、バラバラっと弾ける金属音が響き渡った。
「っぐ!」
ガリ、と引っかかれるような痛みが荀彧の左腕を駆け抜ける。
一瞬怯んだものの、負けじと腕を振り払った。襲いかかってきた気配が離れ、塞いでいた視界が広がる。

「っ……」
荀彧の目に飛び込んできたのは、数多舞い散る黒い羽根。
はたと空を見上げて、そこで見たものは。

――――嘎、嘎。

今の今までいきり立っていたとは思えぬ、重々しく太い声。
南中の太陽を覆い隠してしまえるほどに広げた、漆黒の翼。そして。
黒い嘴からはみ出るまでに銜えぶら下げたは、黄金に光る玉の連なり。

ばさり。ばさり。ばさり。

鷹揚に翼をはためかせ、己が羽根を散らす。地に這い蹲る人どもへ勝ちを誇るかの如く。
やがて烏は体を捻らせつつ旋回すると、恐ろしい勢いで飛び去った。闇色の巨躯は悠々として、青空の彼方に溶けた。

「陛下……っ!」
荀彧は腕の中に抱き込んだ帝を見た。目にするなり、首を締め上げられたような心地に突き落とされる。
あろうことか、秘されているべき玉顔が半分も露わになっていた。それもその筈、冕冠より垂れ下がる旒がいくつも千切れている。
「お怪我はございませんか!?」
顔から血が引いていくのを感じながら、必死で荀彧は喉の奥から声を張り上げた。
烏の一撃で毟り取られた旒は、ちょうど右目の付近を覆っていた箇所だ。直撃を受けていたら、と想像するだに怖気が走る。
「だ、大丈夫……だ」
帝はすぐに反応を示したものの、声はあからさまに茫然としていた。荀彧の腕を掴む手は小刻みに震えている。
「へ、陛下っ!」
「ご無事にございますか!」
「种輯様、荀彧様!」
烏の恐怖に固まっていた文官たちも、呪縛が解かれたかのように動き出した。わらわらと帝と荀彧の周りを取り囲む。
「陛下ぁあぁっ!」
ようやく助け起こされた种輯も、我先にと帝の側に駆け寄った。
「申し訳ありません、申し訳ありません!私がお側についていながらなんたる体たらく!お許しくださいませ!」
种輯の帽は鉤爪によって引き裂かれており、嘴で突き破られた跡が夥しく残されていた。
平謝りする姿は帽の無惨さと相まって、より一層痛ましく見えてしまう。
「何を申すか。そなたの方がよほど、酷い目に……」
「种輯殿申し訳ありません、烏に気づくのが遅れたばかりに……お怪我はありませんか」
「いっ、いえ私はこの通り帽だけで……っ、荀彧殿」
狼狽していた种輯の目がはっと見開いた。帝もそれに気づき、己が身を庇ってくれた腕を見やる。
「そなたが一番、怪我を……!」
帝が目にした荀彧の左袖は、肘の近くを裂かれていた。鉤爪は装束を越えて皮膚に到達し、下衣の白絹には血が滲んでいる。
「陛下、ご案じなさらず。掠り傷にございます」
心配させまいと荀彧は微笑んでみせた。しかしすぐさま瞳に真剣な色を宿し、文官たちを見回す。
「どなたか、典医に知らせを!禁中にて診察の準備を整え待機するよう伝えてください」
「はっ、はい!今すぐに!」
「それから兵を数名、この場に呼んでください!またあの烏が飛来するとも限りません、陛下の護衛並びに被害を周知しなくては」
「か、かしこまりました」
「お願いします、東門であれば番兵が待機している筈です!」
「了解いたしました!」
「早くしろっ、一大事だぞ!」
「誰か、誰か来てくれぇ!陛下が!」


「あ…………」
蒼天から降り注ぐ春の陽射しの下、まったく以て相応しからぬ異様な緊張感。
矢継ぎ早に指示を飛ばす荀彧。惑い走り回る文官たちの喧噪。八方に飛び散り砂埃に晒された、玉の鈍い光。

瞳に映る光景を帝は眺め続けた。ただ悄然と、己を頑なに守る腕の中から。





(それにしても、なんと獰猛な)
回廊を歩き進む途中、荀彧は改めて左腕、装束の袖に視線を落とした。
幸いにして速やかに血は止まり、傷も既に包帯の下に隠されている。しかし袖に残った切り裂き跡が生々しい。
厚地の絹を用いた文官装束であるのに、それを容易く裂くだけの力をあの烏は有していたということだ。
加えて思い出されるのは种輯の帽、そして帝の旒。射程の対象を確実に仕留める狩猟力、嘴で突き刺し捻り千切る攻撃力、すべてが並の烏の範疇を超えていたことを物語る。
自分や种輯はある意味、装束という壁に救われた格好だ。しかし帝はそうはいかなかった。あと一歩でも遅れていたら嘴が旒の玉を弾き飛ばし、瞳を――――。
「……っ」
再度過ってしまった最悪の想像を振り払うようにして、荀彧は歩を早めた。

帝と護衛の一団が省闥に辿り着いたところで、荀彧はその場を離れていた。軽傷とはいえ血を流したままの参内は憚られたからだ。
いったん尚書府へと戻り自ら怪我の処置を施した上で、その足は再び禁中へと向かっている。
何を置いても気がかりは帝の心身。寸でのところで庇うことはできたものの、無理を強いる体勢になってしまったことは否めない。もしかすれば、見えない箇所を打ち付けたり傷を負っているかもしれない。
特に心配なのは精神の方だ。あの時抱き込んだ玉体の身震いは、この腕が覚えている。鋭利な嘴を目の当たりにして恐怖を感じないわけがないし、身近な存在の怪我や血を見てしまえば動揺するのも無理からぬこと。
帝にとっては被害の程度以上に、烏がここまで明確に人に仇為した、そして獣が持つむき出しの敵意に晒されたという心理的衝撃の方が大きかったであろう。一刻も早く目通りし、ご容態を確かめねば。

「……殿!」
省闥を目前にしたまさにその時、禁中内側から省闥をくぐってきた姿があった。
その輪郭が主だと認識するや、荀彧は駆けつけざま拱手の礼を取る。
「話は陛下や种輯達から聞いた。おぬしも災難であったな」
「まことに申し訳ございません……私としたことがこの失態、痛恨の極みにございます」
「そう卑下するな。むしろよくやった」
視界に裂かれた荀彧の左袖を捉え、曹操は口の端を僅かに上げてみせた。
「粗暴な烏から陛下を庇い通したその忠臣ぶり、他の文官たちも見届けていたのが幸いであったな。今少しはこちらの面目も立とう」
「……恐れ入ります」
一瞬の間を置いて、荀彧は静かに畏まった。
言わんとするところは察せられた。すなわちこの不測の事態も、見方を変えれば僥倖となるのだと。
曹操が帝を奉戴してこの方、地盤が強固になるほど許都の物々しさは増している。志反する派閥からは帝を蔑ろにしていると見做され、行く末は簒奪を図るつもりとの噂も絶えない。
その最中、事件は起きた。結果、あわやのところで荀彧が帝を獣害より守り通した。己の身が傷つくことも厭わずに。
事象としては些末な部類だが、曹操陣営にしてみれば相応に意義深い。我らこそ帝を第一に庇護し王朝に忠節を誓う者であると、態度で示した格好になるからだ。
「おぬしの殊勝さに皆、瞠目しておったぞ。陛下よりもありがたいお言葉を賜り、わしも誇らしく思う」
「いえ……畏れ多いことにございます。私はどうにか、最低限を成したに過ぎませんので」
荀彧は努めて冷静に返した。胸の奥に生じた一抹の痛みを押し殺しながら。

「実は、城下より報告があったところでな……ここ数日『烏』の被害が増えていると」
「っ!」
にわかに告げられた内容に肩が跳ねる。荀彧が俯かせていた顔を上げると同時に、曹操は詳細を語り始めた。
「店先の物品や家の残飯はおろか、家畜や人も手当たり次第に襲うそうだ。しかも並の烏ならともかく相当な巨躯で、凶暴極まりない性質だったと。追い払うにも一苦労だったらしい」
「それは……」
瞬時に先刻の光景が蘇る。普通の烏より倍はあろうかという体、黒々と広がり羽ばたく長翼、烈しい気性を表す野太い鳴き声。
あれほど巨大な烏を見たことなどついぞなく、また何羽といてもらっては厄介に過ぎる。まず間違いなく――――。
「同一個体、であろうな。种輯らの証言とも見目や行動がほぼ一致する」
荀彧が心内で出した結論を、曹操が引き継いで口にした。
「たかが烏、されど烏……陛下にも狼藉を働いたとあっては捨て置けぬな」
「はい、ただちに対策を講じなければ」
即座に荀彧も同意を表した。放っておけば被害が拡大する一方であることは想像に難くない。
また、烏は人が考えている以上に賢能という話もある。仮にあの烏が帝の見目を記憶していたとしたら、再び襲ってこないとは言い切れなかった。
しかし荀彧が早々と思考を巡らす構えを取ったところで、曹操は首を振って制してきた。
「この件でおぬしの手を煩わせるつもりはない。わしから夏侯淵に話を通しておく」
「まことでございますか……夏侯淵殿が引き受けてくだされば、こんなに心強いことはありません」
「烏狩りなど、あ奴にはつまらぬ仕事であろうがな。今回ばかりは骨のある相手だ、弓のいい試し処になろう」
曹操の口許に薄い笑みが浮かぶ。頭に過ったは恐らく、陣中随一の名手たる従兄弟の高笑いか。
「近日中には不届き者の羽根を献上し、心安んじていただかねばな。おぬしは引き続き陛下の御身を頼む」
「承知いたしました」
司空府へと帰る主の背に向かい、荀彧は粛々と礼を捧げた。





「じゅ、荀彧殿……此度はまこと、ご迷惑をおかけしました……」
禁中宮殿に入るなり出迎えの挨拶をしてきたのは种輯だった。
裂かれた帽とは別のものを被り直しているが、顔は蒼白を通り越して土気色だ。見ていて痛々しいほどに縮こまっている。
「なんと私は情けない……陛下に申し訳が立たず……貴方様にもなんとお詫びすればよろしいか……」
「种輯殿、どうかそれ以上は……私こそ戦場の経験がありながら烏の存在ひとつ察知できず、申し訳ありませんでした」
その場に頽れんばかりの様相で詫びる种輯の肩を、荀彧は優しく支えた。
彼もまた侍中としての矜持、何より帝を想う気持ちに溢れている。だからこそ帝を守るどころか最初に被害を受け、帝が脅かされる事態を招いてしまったことへの恥と自責の念も人一倍であろう。
「ところで、陛下は……」
「は、はい」
荀彧が真摯な様子で切り出すと、种輯も慌てて居住まいを正した。
「典医によれば、幸いにして玉体には傷ひとつないとのことでした。陛下ご自身もしばらくご寝所にて落ち着かないご様子でしたが、今は空を見たいと仰って中庭にいらっしゃいます」
「中庭……ですね。詳しくお教えくださりありがとうございます」
「陛下は荀彧殿の怪我もお気にかけていらっしゃいました。どうか元気な姿をお見せしてくださいませ」
「……はい。では私もこれより、陛下の御許へ参ります。失礼いたします」
「ははっ」
「…………」
臣下同士、こうして蟠りなく言葉を交わしたのは果たしていつ以来であろうか。
長年の旧臣と曹操の傘下。立場による違いはあれど王朝への忠節、帝への忠義は等しく同じ。嬉しく思う一方で虚しさも募る。
このような非常の時でしか、和することは叶わぬか。





种輯の説明通り、帝は中庭に佇んでいた。禁中内部にて唯一外の景色と繋がる場所。
青々とした空を見上げる背が荀彧の視界に映り込む。
「っ、荀彧!」
拱手して口上を述べるよりも早く、帝が振り向き叫んだ。
「陛下……!?」
荀彧は驚きを隠せないまま、こちらに駆け寄ってくる帝を見つめた。
気配をすぐ悟られたこともそうだが、何より驚愕したのは毟り取られた旒そのままの冕冠だ。まさか召し替えていないとは。
「そなた、怪我はいかがした」
「は、はい……荀文若、ただいま罷り越しました」
「朕は怪我の程度を聞いているのだ、挨拶などいらぬ。それでどうなのだ、まだ痛むか、血はどうなった?」
臣下の体裁を繕う様が気に食わないとばかりに帝はせっついてきた。顔の右側が隠されていない分、顕著に苛立ちが伝わる。
荀彧はすぐさま己が左袖を捲り上げた。
「お陰様でこの通り、軽い処置で済みました。傷口もきちんと洗い流し、血も止まっております」
「そう、か。そうか……よかった」
腕に巻かれた包帯の白さを見て、ようやく帝の表情から焦燥による険しさが抜け落ちる。
余計な心配をかけてしまったことに心苦しさを覚えつつ、荀彧は改めて畏まった。
「陛下、此度はまことに申し訳ございません。直前まで烏の気配に気づけなかったために騒ぎを大きくし、陛下の御身を危うくさせてしまいました。この荀文若、恥じ入るばかりに……」
「何を言うかっ」
荀彧の謝罪が終わるのを待たずして帝は叫んだ。悲痛さすら滲む声だった。
「此度のことは、何もかも朕のせいではないか……朕が身勝手だったばかりに、皆にいらぬ労苦を強いた。种輯を助けるつもりがかえって烏を怒らせ、そなたに守ってもらったばかりか怪我を負わせ……本当に愚かだ……」
「陛下……畏れながら、尊き御身おひとりで野生の烏に向かわれたことは、軽率であったと存じます。しかし臣の身を案じ、自ら勇を振るわれた。咄嗟に為せるものではありません。まさしく陛下のお心の優しさ、徳の表れと私は感じ入りました」
「……ふん。そなたなら、義勇と蛮勇は違うと真っ先に叱ってくれるかと思ったが」
拗ねた物言いと共に、またもいじけた少年の顔が浮かぶ。しかしそれも一瞬のことで。
「いや……すまぬ。今日の朕はどうかしている……」
我に返った帝は苦々しげに首を振ると、再び空へと視線を投げた。
荀彧も同じように空を見上げた。南中をやや過ぎて太陽が座す天は、相変わらず雲ひとつなき青さが眩しい。

「今日は……嘉徳殿に入る前に見上げた空が、殊に美しく感じてな」
「はい、それはもう」
「孔融の長い話を聞いていたら、いつもは感じぬ虚しさがこみ上げてきて……こんな良き日に、嘉徳殿に籠って朕は何を聞いているのかと……」
「…………さようで、ございましたか」
深く深く荀彧は頷いた。自己申告の通り、些細な。しかし同じ場にいた者として共感しかない由。
とても責を問う気は起きなかったが、帝の表情は曇ったままだ。
「だが……そうして好きな筈の講義まで投げ出したがために、こんな事態を招いた。情けないな」
「……何に対しても活力を見出せなくなったり、気持ちに収まりをつけられなくなる。そうした心の乱れは誰しも経験するものです。どうかご自身をお責めにならないでください」
帝の胸中を慮りながら、荀彧は諭すようにして慰めた。
天の与え賜いし宿命と長きに亘る艱難辛苦により、若くして聡くならざるを得なかった身だ。今日のように稚く気を立たせる姿はむしろ、本来の齢を感じられた。微笑ましくすら思った。
英邁で大人びていようと、若年には変わらず。童子と大人の境界にいる時期、上手く自制を利かせられず感情が昂ることなど、何ら不思議ではない。
それでも帝は得心した様子を見せることはなかった。
「……いや。これは罰だと思う。臣に心無い言葉を投げつけ、日頃の勤めを放り出してしまった……朕への」
鬱々と吐露しながら、帝は袖の内に隠していた左手を出した。そこに握られていたものは。
「陛下、それは……」
千切れた旒を静々と辿る真っ黒な羽根。帝が今以て冕冠を召し替えずにいる意味を、荀彧はついに悟った。
襲ってきた烏の恐怖に怯えるどころか、真っ先に自身の行いを悔恨し、自らを戒める。ややもすれば自罰に過ぎる生真面目さ。
嗚呼、この寂寥の輪郭。哀しく、けれどまさしく、荀彧が良く知る帝だ。

「そういえば、曹操とは会うたか」
ふと思い出したように帝は訊ねてきた。
「はい。先ほど省闥の前で」
「夏侯淵という男は、それほどまでに凄い弓の使い手なのか」
「えっ」
いきなり帝の口から「夏侯淵」の名が出てくるとは思わず、荀彧は言葉に詰まった。
しかし直前の問答と併せて考えれば、何故この問いなのか理解が及ぶ。烏狩りについては既に曹操から聞かされているのだろう。
「……はい。武技や馬術はもちろんのこと、特に弓については並ぶ者なしの名手にございます。弓で夏侯淵将軍の右に出る剛の者は、この中原にもそうはいないかと」
「…………それでは、あの烏でも逃げ切れぬか」
「陛下……?」
狩りを請け負う将軍の実力を知りたい――そのように解釈して答えたのだが、どうも違うようだ。
帝の横顔は冴えず、手許の羽根を翫ぶ。何故であろうかと荀彧が首を傾げそうになった時、思わぬ言葉が飛び出した。

「朕はあの烏を、金烏ではないかと思った」

「金烏、ですか……」
金烏といえば太陽に棲むとされる鳥だ。とてもではないが、禍々しさすら感じたあの烏とは結びつかない。
次にかけるべき言葉を荀彧が探しあぐねている間にも、帝の話は続いていく。
「朕の愚かさを突きつけるために、わざわざ太陽から降りてきた……何やらそう思えてならぬ。だから本当は朕が、この身に罰を受けねばならなかった。なのに种輯が襲われ、そなたが傷を負い……いや、これもまた罰、なのか……?臣下を振り回しては徒に疲弊させる帝だと、朕にわからせるための……だから、やはり不安でならぬ……朕を罰するために来たあの烏を狩ってしまおうものなら、それこそ天がお怒りになり、何かしらの災いが……」

「畏れながら、陛下」

このまま独り澱みの淵へと沈んでいきそうな語りを、凛とした声が遮った。
「私は、そのお考えにはご賛同いたしかねます」
「っ……」
急に風向きが変わったことを感じて帝も口を噤んだ。
そろりと窺うようにして向けられた玉顔と、清爽たる侍中守尚書令の眼差しとが対峙する。
「まことに太陽から遣わされた金烏であれば。慎ましく生きる民たちが何故、害を被らねばならないのでしょう。しかも种輯殿や私はともかく、陛下はあと少しで瞳を抉られるところでした」
「だから、それは朕の行いが…………」
帝は一瞬食い下がろうとしたが、すぐにまごついてしまう。切れ長の瞳から注ぐ荀彧の視線が、一目で敵わない類のものと悟れたがために。
逆に決まり悪げに泳ぐ帝の瞳をしっかと見据え、荀彧は更に訴えかける。今ここで、臣下として直言すべきことを。
「陛下の今日のお振る舞いはあくまで今日限りのこと。乱世の収束を願い、日々心身を削る想いで玉座に御座します陛下にとって、ただ一時の羽休めではございませんか。この程度のことで取り返しのつかぬ咎を与えてくる金烏など……私は許し難く思います」
「………………」
あくまでも淡々と、されど真摯に。清冽な迫力を伴う臣の言に、帝は黙して聞き入る。
「陛下。ご自身を内省されるお心掛けは素晴らしき美徳です。しかしどうか、見誤ることはなさらずに。あれはただの……人に仇為す獣。それ以外の何物でもございません」
すべて話し終え、荀彧は深々と礼を捧げた。帝からの返り事はない。清明の陽気に不似合いな沈黙が二人を包む。

「……そなたの言う通り、か。民を襲うような烏が……金烏であるわけが、ないな」
ようやく、溜息交じりに帝は吐き出した。自らの心の内に言い聞かせるように。
「まったく、今日の朕はどうかしている。頭の巡りが悪いというか、その……朝からこんな調子で、すまぬ」
自虐に身を任せたぎこちない笑顔。されど纏わりついていた翳りは確かに薄らいで。
面映ゆげに詫び言を口にした帝は存外、若々しく見えた。
「……心の乱れは誰しもが経験するもの。どうか、無闇にお気に病まれませんよう」
「ああ……しかし」
荀彧の再度の慰めに対しては帝も素直に頷いた。一方で視線は、自らの左手へと向かって。
「今日のことは……やはり戒めとしなくては」
黒々とした羽根を空へと翳すとともに、自戒は切々と呟かれた。
「些細なことが思わぬ事態を呼ぶやもしれぬ。意志ある獣を決して侮ってはならぬ……よくよく、今日は身に染みたぞ」
「陛下、あまり思い詰めずとも。此度は偶然に偶然が重なりましたが、このような事態がまたと起きないよう、私たち一同より謹んで……」
「嫌だ。朕は、守られてばかりの脆弱な帝で甘んじたくはない。せめて……」
帝はいったん言葉を切り、再び荀彧と向き合った。伸ばした右手が触れたのは、裂け目の残された左袖。
自らを庇い通し、身代わりで傷を受けた優しき腕を、慈しみ深く撫で擦る。
「せめて、そなたにこんな傷を負わせなくて済むくらいには……強くありたい」
「っ……」
「……今日は、すまなかった。ありがとう」
揺らぎの消えた瞳が、旒を介さず荀彧を射抜いた。

「陛下……勿体なきお言葉です。私にとって、陛下の御身をお守りすることは務めにございますれば」
「そなた一人守れぬなど、帝として……人として情けないではないか」
力強く見つめてきたかと思えば、またも稚くねじくれて口を尖らせる。
本当に今日は思いもかけない日となった。帝がこのように感情を起伏させる姿は、幼少の砌を思い返してもあまり記憶にはない。
「…………ふふ」
「な、何がおかしいのだ」
「あっ、いえ。これは失礼いたしました」
「ふん。どうせ幼子のようだとでも呆れているのだろう」
「そんな、陛下……決してそのようなことは……」
されど、時にはこのような日があっていい。否、あって然るべきなのだ。
煌びやかな旒に覆われた若人の素顔を、豪奢な衣の下の成熟し切らぬ息吹を。決して枯れさせないためにも。

「陛下。まことに申し訳ありませんでした。どうかお気に病まれないでください」
「……別に、構わぬ。今日の朕は本当に、どうかしているのだ……」

午後の蒼天は今なお広く清々しく、のどけき春の陽射しは普く降り注ぐ。
未だ若く青き天子の面差しにも。優しく、そして穏やかに。





2021/04/26

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