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曇天日和

どんてんびより

天命なき天子

誰かの腕に抱かれている。とても、温かい。
一体、誰なのだろう。朧気な気配の中、ただ抱かれているのではないことに気づく。
頭から脚まで抱え込むようにして、優しく抱きしめられている。
どういうことだ。まるで赤子ではないか。
いや、本当に今の自分は赤子なのだ、とその時悟った。
自分を抱く腕は、とてもしなやかだった。頬に当たるこの肌の、滑らかさにも膨らみにも覚えがある。
女性のものだ。女性の腕の中にすっぽりとおさまっているのだ。だから、今の私は赤子だ。
この肌は、乳母ではない。まして長じるまで育ててくれた太后でもない。ならば、そうか。そういうことか。
これはきっと、記憶にない頃の。産まれて間もない頃の私の姿。だからきっと、この優しい腕は。

身を捩り、柔肌に頬を埋めた。頭で覚えていなくとも、この身は覚えていたのだ。
この世にただひとりの、そして最早この世にいない、我が身を心から慈しんでくれる人の温もりを。
ああ、母とはこのようであったのか。なんと心地よいのだろうか。

―――おかしい。

ひとつの違和に気づいたその瞬間、今まで包んでくれていた温もりが消え失せた。
待ってくれ。勘違いだ。お願いだ。やめてくれ。まだ、行かないで。
祈るような気持ちで、今一度耳を強く押し当てた。

心音は、聞こえない。

目を開けた。そこには確かに、豊満な乳房がある。
何故か確信できる。これは、母のものだと。
自分を産み落とし、儚く露と消えた、夢にまで見た母。やっと、やっとお会いできたのに。
頼む、まだ遠くならないで。貴方の肌の温かさを、今少しでいいから、この身に。
そしてどうか。どうか、この哀れな私に、その顔を―――

見上げたそこに、望んだものはなかった。
辺りは真っ暗闇だった。そして闇は、母の首から上を、覆い隠していた。
どうして。何故。顔を見せてはくださらぬ。

は は う え。

乾いた唇を動かし、必死で呼びかけようとしたその時だ。
今の今まで、抱えてくれていた腕が、離れた。
投げ出されたのだ、と自覚する前に、母の腕と首のない姿は闇へと溶けた。

上下も左右も見分けられぬ漆黒の中、ただ落ちていく。
やがて、びちゃりという重苦しい水音に、体を受け止められた。
手をついて起き上がろうとして、気づく。もう、体が赤子でなくなっていた。
それにしても、この生温さは。あの母の温もりとはまるで違う。身体中に纏ろうこの、忌避したい感覚は。

暗闇である筈なのに、その刹那、足元に色が差す。
目に痛いほどの、鮮やかな緋が広がった。
どこまでも果てなく続く、紅い沼。その只中で独り、呆然とへたり込んでいる自分。

これは。これは一体、なんだ。
震えながら、己が手を見る。真っ赤に染まっていた。

これは、誰か一人の血ではない。大勢の血でできている。
臣下も、宦官も、民草も。数多の者たちが騒乱と殺戮の中で血を流し、屍を晒しては積み上げることを繰り返してきた。
その犠牲の上に、自分はいる。私の足元は、こんなにも血で溢れている。
この王朝が垂れ流し続けた果てに生まれた、穢れた血だまりだ。
私の身は、初めからここに染まっているのだ。

次第に、体が沈んでいく。叫びたいのに、声が出ない。息もできない。
徳の道から足を踏み外した王朝を背負って、私はただ、ここで押し潰されるのみなのか。

ふと、頬にまた、温もりが当たった。
それは先刻の束の間のひとときと同じく、優しくて。もう一度、舞い戻ってきてくれたのか、母よ。
どうにか縋ろうとした時、覚えのある芳しい香りがした。
違う。これは母の匂いではない。この香りは。この頬に触れる温かな肌は―――



「…………いか!お気を確かに、陛下っ……!」
必死に呼ぶ声が届いた。
瞼を開けたそこに、沈痛な面差しがあった。
「……じゅん……いく」
乾いた唇で、名を呼びかける。荀彧は静かに頷き、頬を撫で擦ってきた。
やはり、そうだ。この温もりは。
「起こしてしまい、申し訳ありません……お辛そうでいらっしゃいましたので」
「……そう、か」
瞳だけを動かし、辺りを見回す。
見慣れた天井に壁、そして薄ぼんやりと明るい窓。自分の寝所だ。
どす黒い闇も、血塗られた床もここにはない。
「今、董承殿が薬湯を用意しに行かれました。それをお召しになれば、少し落ち着くかと……」
荀彧はほっと息をつくと、柔らかい微笑みを傾けてきた。
その穏やかさとは対照的に、肌が透けるほど薄い寝着を纏っただけの姿は、男の情を煽るもの。
こんな姿にさせているのは、自分だ。昨夜も自分は彼を呼び出して、一晩中溺れ狂った。
はだけた胸元、寝着では隠せない首筋に、思うまま貪り尽くした痕が残る。
我が物とできた証として、常ならば昏い支配欲を満たすその鬱血も、夜明けの中で見る今は痛々しい。
身勝手な感情だ。無理矢理組み敷き、散々に泣かせて、抱き潰しておいて。何を今更。

身を起こすと、荀彧はやや焦った様子で止めようとしてきた。
「いけません。どうか安静に」
「大丈夫だ」
その手を押し退けようとして、手首を掴む。
「ですが……」
よほど酷い魘され方をしていたらしい。荀彧の眼差しは、心底からこの身を案じるものだった。
何故、どうして。私は貴方に、惨い仕打ちばかり強いているのに。
どうして貴方は、こんなにも。
「っ……」
衝動的にその身を引き寄せ、胸の中に飛び込んだ。
「あ、陛下っ……」
小さな悲鳴が上がったが、構わずに頬を擦り寄せた。あまりにも稚い行動、驚かれても無理はないだろう。
その胸は、夢の中の柔肌とは違う。それでもそこは、じんわりと温かくて。

とくり、とくり、とくり。

嗚呼、これが。これが聞きたかった。生きた温もりの音。

「荀彧……」
胸から顔を離して、今一度向き合った。
東の空は刻一刻と蒼く染まり、静かに入り込む陽は寝所に朝をもたらす。
美しく、愛しき貌は、闇に隠れることなく目の前にある。
「……つまらぬ夢を見た。それだけだ」
軽く笑ってみせたつもりだったのに、頬にひきつる痛みが走った。きっと、酷い顔だろう。
「陛下……」
赤く滲んだ、しかし玉の如き荀彧の瞳が悲哀に曇る。
やがて、躊躇いがちに、腕が背に回ってきて。
「…………っ、う……ぁ……」
背中を、静かに撫でられる。たったそれだけのことが、胸に沁みてやまない。
この人の優しさと温もりにこそ、救われている。なのにすべてを手に入れなければ、昂りを鎮められないでいる。
なんと私は、欲深く罪深い帝であることか。
奪い合いと殺し合いの果てに堕落し、乱世を招いた血腥き王朝。所詮は私も、その系譜に過ぎない。

生まれ出でし時より、天命など私にはない。
そればかりか、愛する者の心ひとつ、まともに掴み取ることも許されない。
重ね続けた憎悪と慟哭の血の中に産み落とされた、この私には。




2019/07/28

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