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曇天日和

どんてんびより

梅枝―華紅―

「おやおや、奇遇だねぇ荀攸殿」
「……」
嫌な時に、嫌な相手に声をかけられたものだ。荀攸は内心ため息をついた。
今すぐにでも万屋から立ち去りたかったが、購入した商品の引き渡しを待っている最中では、動くに動けず。
己が不運を呪う荀攸の心内などお構いなしに、賈詡は普段のしたり顔で隣に立った。視線は、荀攸が肩掛けにしている釣竿へと注がれる。
「んー、こいつは意外だな。見たところ、荀攸殿は謀を肴に酒を呷ることが何よりの趣味と思っていたが……釣りも嗜まれるとはね」
「何か問題でも」
荀攸は鬱陶しげに一瞥したが、賈詡は怯むどころか景気よく哄笑した。
「あははあ、これは失礼!釣りは忍耐勝負だ。黙して語らず、のあんたが好んでいても、何ら不思議はないな」
「納得していただけたなら」
「荀攸様、お待たせいたしました」
「……どうも」
お引き取りを、と言いかけたところで万屋主人が釣餌の包みを持ってきたため、荀攸は仕方なく言葉を呑み込む。
賈詡は顎を一撫ですると、にいっと笑みを深くして言った。
「お姉さん、俺にも同じ餌をくれるかな。あと、釣り道具一式を」





「何のつもりですか」
一向に揺れ動く気配のない釣糸を眺めたまま、荀攸はぼやいた。瞳は暗い困惑に満ち、声には隠すつもりもない棘がある。
傍らで同じく釣糸を垂らす賈詡は、荀攸の態度を一顧だにせず、口の端を吊り上げた。
「せっかくの暇なんだ。荀攸殿と共に釣りを楽しむのもまた一興、と思ったのでね。何せあんた、俺のお目付け役を仰せつかってる割には、関わり合いになろうとしてくれないし」
「軍議にて毎度顔を合わせていれば十分かと。それに、貴方に目配せしているのは俺だけではない。郭嘉殿もいますので」
「いやはや、つれないことで……」
大袈裟にため息をつきながら、賈詡はわずかに釣竿を動かした。堀の水面に、小さな波紋が広がる。
両者、ここまで当たりの気配はない。それでも、賈詡の余裕の笑みは失せない。

「南陽にいる時分は、こうして釣りなんぞ楽しむ余裕はなかったからねぇ……しかしやはり、いいもんだ」
賈詡の瞳が、わずかに切れ上がる。刹那、釣り糸ががくんと下がった。
すぐさま賈詡は立ち上がり、竿を握る手に力を込めた。二、三度小刻みに手首を揺らし、勢いよく振り上げる。
激しい水音と共に、釣り針に仕留められた魚が姿を現した。
「これはなかなか」
賈詡は釣り糸を手繰り寄せると、手にした魚を満足げに見やった。
「釣れるか否か、わからぬ大物相手を前にして、日がな一日格闘する……釣りは面白いね」
「……そうですか」
さらりと発せられた言には、不遜な音色があった。荀攸はあえて、素っ気なく返事をした。
降将の身で不届きな、と糾弾することは容易い。しかし、ここで相手にしてはそれこそ、賈詡の思う壺だろう。

帝都としての許昌運営、官軍としての統率が形になってきた段階で決行された、南陽征討。しかし曹操軍にとってそれは、思わぬ結果を招いた。
降伏したかに見えた張繍の、夜陰に乗じた反旗。機略縦横の用兵は、敵ながら鮮やかというほかなく。
曹操は辛くも窮地を脱したが、嫡子の曹昂、そして親衛隊筆頭の典韋といった偉材は無惨にも失われてしまった。
すべては張繍の背後に控えていた軍師、賈詡による痛恨の一撃。賈詡にしてみれば、投降という餌にまんまと曹操が食いついた、そして見事釣り上げた、会心の瞬間であったろう。
無論、それで一方的に捌かれることを待つ曹操ではない。駆けつけた援軍を軸として態勢を立て直し、最終的には張繍を押し切ることに成功した。
賈詡は曹操軍に甚大な被害をもたらしたとして糾弾されるも、かえって鬼謀を評価され、麾下に入ることを許された。

本音を言ってしまえば、荀攸はこの賈詡という男が苦手だ。その意識は、早や一年近くの付き合いになっても簡単には変容しない。
常に醸しているわざとらしい軽々しさ、それでいて随所に見せる鋭利な眼差し。慣れ合うようでいて、しかし一向に本心を読ませる気のない態度は、扱いにくいことこの上なかった。
曹操より監視役を命じられてはいるのだが、実際に接していると、まるでこちらが見透かされているような気分になる。そればかりか、先手を取られて驚かされることもままあり、幾度も恥をかかされた。
できれば、深い関わりは持ちたくない。いいように弄ばれるのは、癪に障る。しかしそう思えば思うほど、賈詡はこちらに近づき、心胆を試してくる。当惑と苛立ちばかりが募った。




「……はあ」
太陽が南中を通り過ぎても、荀攸の籠の底面は見えたままだった。精神の乱れは、やはり釣り糸を辿って水面にも伝わるものか。
「まあ、そんな日もあるだろうよ……っと」
賈詡の乾いた笑い声が上がる。初手こそあっさりと釣果を上げたものの、こちらもその後は鳴かず飛ばずだ。
凝り固まった体を解すように、賈詡は右肩を回し、背を伸ばして反り返った。
「んー……気づけばそんな季節だったか。まあ、年も明けたからねぇ」
頭上はおろか、ほぼ背後まで見通せるほどに体を反り返らせた賈詡が、思わぬことを呟いた。
一体何の話かと、荀攸も振り返ってみる。
「あの梅、一本だけしかないから目立つだろう?色も色で、余計にといったところかな」
「確かに……そうですね」
荀攸の目に映ったのは、堀の裏手、なだらかに広がった丘に生える樹々。冬枯れの枝が目立つ中の一角、鮮やかな紅が浮かぶ。
独特の節くれ立った幹より伸びた鋭い枝には、春を告げる色が点々と散らされていた。
「……失礼」
荀攸はおもむろに腰を上げた。釣竿を回収してから、背後の丘を登っていく。
その足は静かに、しかしまっすぐに目当ての場へ向かった。


近づいて改めて見れば、決して見上げるほどの立派な枝振りではない。
思いつく限りでも、許昌の中庭にある桃や、梅林にて仰ぎ見る梅とは質が違う。楚々として華奢な姿だ。
しかしながら、ぽつぽつと咲かせている花の紅色は、鮮麗であった。多数を占める蕾は、開花を今かと待ちわびるように、愛らしい丸みを帯びている。

――懐かしい。

若い頃、年初といえば叔父の荀衢に連れられ、本家筋に訪問するのが常であった。行先には当然、荀緄の邸宅も含まれる。
荀緄宅は贅を尽くしたものではなかったが、門構えの近くに、それは見事な紅梅が植えられていた。
別段、花に親しんでいない荀攸でも、新年を言祝ぐ梅の盛りは、見るたび優雅だと感じるほどで。しかし、それ以上に思い起こすのは。

『攸兄さま!あけましておめでとうございます』

初春の光に綻んだ紅梅の下。溌溂とした微笑みを浮かべ手を振る姿、こちらを呼ぶ屈託のない声。
名門の清潔な空気に取り巻かれた、ともすれば張り詰めた感覚を強いられる荀緄の邸内において、彼という存在にはどれほど癒されただろう。
荀攸にとって、梅の花とは、紅い色とは。幸福な思い出の中で、荀彧と共にあるものだった。


「荀攸殿は、梅が好きなのかい?なかなかいい趣味じゃないか」
遅れてやってきた賈詡の問いが、背後から被せられる。
「いえ、そういうわけではありませんが」
「その割には、熱心に眺めていたように思うが……」
納得できない賈詡は、訝しげに目を細めた。かと思いきや、すぐに不敵な笑みを覗かせる。
そこからの動きは、まさしく電光石火であった。
「っ!?」
荀攸の耳元を、勢いよく風が吹き抜ける。刹那、目の前の花枝が、音も立てず地面に落ちた。
「……っ、賈詡殿!!」
我に返った荀攸は、振り向きざま、賈詡に向かって吠えた。
鎖鎌で梅を斬り落としたという行動までは認識できた。しかし、意図が理解できない。第一、何故このような乱暴を働く必要があるか。不快な感情が押し寄せる。
しかし、怒気を孕んだ咎めの視線を投げつけても、賈詡は動じない。どこ吹く風といった様子で梅の幹へと近づき、落とした枝を拾い上げた。
「そう怒りなさんな。知ってるかい、梅はある程度、剪定した方が寿命が持つってね」
「だからなんだと……っ」
荀攸の目の前に、今しがた斬られた梅の枝が差し出された。
思わず言葉に詰まった荀攸に対し、賈詡はにやりと含み笑いを浮かべる。
「まあ、魚はその日の運だ。それより、この枝ひとつ持っていくだけでも、手土産として格好つくんじゃないか?」
「な……」
「いいからいいから、ほら」
半ば押し付けるようにして、賈詡は荀攸の手に梅を握らせた。
「では、俺はこれで失礼するとしますかね。今日は楽しかったよ、荀攸殿」
足元の釣り道具を抱えて踵を返すや、賈詡は軽やかな足取りでその場を離れた。
先に許昌城門へと向かうその背と、渡された梅枝とを、荀攸は暫し茫然とした心地で交互に見返した。




恐らく、というよりは確実に、余計な気を回されたのだと思う。
梅に見入っていた顔は、それほどまでに惚けていただろうか。思わず荀攸は、無精髭にざらつく己が頬を撫でた。
要するに、賈詡の意図はこうだ。今宵、好い人にでも梅を渡したらどうか、と。
大きなお世話だと思いつつ、結局は賈詡の思惑通り、人に渡すべく足を運ぼうとしている自分が情けなく思えた。
とはいえ、殺風景に過ぎる自分の邸宅で飾る気にもなれず。相応しき人に引き取ってもらう方がよほど、梅のためにもいい。
そう考えた時、思いつくのはどうしても、たった一人の面影だった。

『年が明けると、思い出します。なかなか、あれほどの紅になる梅もありませんでしたので……』
荀彧がそう零したのは、つい先日。年初の朝議へと向かう道すがらだ。
許昌の城内で目にする梅は、白梅や薄紅色が多い。ちらほらと花をつけた枝を見やりながら、彼は昔を懐かしむように口にした。
『一度根差した樹を、そうそう遠くへは動かせません。本当に惜しいことを……かわいそうなことをしました』
彼の実家も、梅も。戦乱の火に焼かれて今はない。明るい気配に彩られし過去のひと時は、既に灰と化して土に還っている。
二度と取り戻せぬ故里の景色を想う彼の項には、あの梅によく似た紅色の髪紐が揺れていた。


「文若殿、いらっしゃいますか」
執務室の扉を軽く叩くと、すぐに返事があった。
『はい。どうぞお入りください』
「……失礼しま、す」
荀攸が違和感に気づいたのは、扉を開けて足を踏み入れた直後。

――この匂いは。

少なくとも、荀彧が日頃嗜む香でないことだけは、すぐに判別できた。
上品かつ厳粛さを漂わせる香とは趣がまるで異なる。どちらかといえば軽やかな、甘さを含んだ匂い。
「公達殿、いかがなさいましたか?本日は暇を頂いていた筈では……」
少しばかり驚いた様子で、荀彧が近づいてきた。それと共に、慣れた香の匂いがようやく、荀攸の鼻に届く。
馴染みある匂いに少し心が落ち着くも、同時に荀攸は、己が行動の非常識さを自覚した。
「あ、いえ。火急の案件ではないのです。むしろ、その……このような用件で、実に申し訳ないのですが……」
冷静に振り返ってみれば。今日も今日とて政務に悩殺されている人に、花を片手に押しかけるなど、迷惑もいいところではないか。
今更頭を抱えたくなったが、ここまで来てしまった以上は仕方がない。荀攸は意を決して梅を差し出した。
「堀の近くで、見事に咲いていたものです。よろしければ、ぜひ……」

驚かれるのは承知の上。それでも最後には、笑って受け取ってくれる。
そういう目算が、無意識のうちにあった。されど。

「……はい。これは、とても素晴らしい紅梅ですね。ありがとうございます」
梅こそ、手ずから受け取ってくれた。微笑みも、想像通り。しかしその瞳には、困惑が潜んでいた。
「あ……やはりその、突然では迷惑でしたね。申しわ……」
謝罪を言いかけて、荀攸は言葉を切った。
ちらりと視線を動かしたそこに、多くの書簡や書物に囲まれた机があり。
そこに、普段は見かけない青磁の一輪挿しが鎮座している。

枝を伸ばしていたのは、眩しいほどの白梅。

「……本当に申し訳ありません。せっかく、梅を愛でていたところに」
ようやく絞り出した声は、恐らく彼の耳には、ひどく冷たい音に聞こえたのだろう。
荀彧は、瞳にわずかに怯えたような色を浮かべると、首を振った。
「め、滅相もない。こちらの白梅はその、今日偶然……」
「偶然?」
何をしている。何故、わざわざ問い詰めて、彼を追い込むようなことをするのか。
心内ではそう叫ぶのに、荀攸の口からは驚くほど淀んだ声が出た。
ますます荀彧は、視線を泳がせながら委縮してしまう。手にした紅梅に視線を落とした後、観念したように語り始めた。
「……あちらの梅は、永安宮の白梅です。陛下がご覧になりたいとお申し出になったので、私をはじめ数名で陛下に付き従いました。そこで、一枝折れて落ちていたものを偶然、陛下が見つけられて。勿体ないと……畏れ多くも賜りました」
「そう、ですか」
素直に受け取れば、どうということはない話だ。侍中であり尚書令たる彼の、帝の覚えのめでたさを示すに留まる。
だが、それで終わらせることは、荀攸にはできない。帝と臣下という関係をとうに踏み越えた、悍ましい真実を知っている以上は。
「あっ……こちらを生ける器を用意しなくては。その、少しお待ちください」
重苦しい空気から、そして荀攸の視線から逃れるように、荀彧は執務室の奥の間へと向かった。

扉の向こうに荀彧が消えたのを見届け、荀攸は無言で机に歩み寄った。伸ばした手は、一輪挿しから伸びる白梅を掴んだ。
引き上げた梅の枝には、紅梅と違い、いくつか鋭い棘が見える。開いた花からは、ふうわりと香りが漂った。
本来であればごく甘美なものであろう。だが今の荀攸には、胸焼けがするほどの不興な甘さに感じる。
枝の末端は千々に裂けており、折れたとおぼしき痕跡は存在していた。しかし。
「――――っ」
一輪挿しに隠れていた節に、ぽつりと赤い蕾があった。
直感する。いささか濁ったような暗紅色は、決して花本来の色ではない、と。
蕾に触れてみれば、瑞々しさは失われて、乾いていることがわかった。水を吸い上げているにも関わらず、である。
鼻を近づけて、匂いを嗅いだ。微かにではあるが、梅とは違う臭気を感じる。
錆びついた、鉄のような。

色の正体が知れた瞬間、背筋が薄ら寒くなる。
白い花々の中でただひとつ、染みの如く落とされた、異質な赤。

荀彧はひとつ、表現を誤った。
確かにこの白梅は、折れた枝であろう。しかし、それは全く以て正しいと言えるのか。
考えてみれば苦しい言い訳だ。勿体ないからといって、一度地に落ちたものを帝が渡すとも思えなかった。荀彧に向ける底知れない情を思えば、尚更だ。
恐らくこの枝は「折られた」枝である筈。棘で手を傷つけ、血を滴らせ、白梅を赤く染めてまで。帝が御自ら、手折った。
目の前で、そこまでされたというなら。受け取らぬという選択肢は、荀彧に残されていなかっただろう。

腹の内に、形容し難い怨念が渦巻いていく。穿った見方だと言われても、それが一番、合点がいってしまう。
花は純白であり、しかし香りの主張は強く、そして、血に濡れた梅。
「朕に染まれ」とでも、言いたいのか。我が物顔で荀彧を弄ぶに飽き足らず、あの青年は――――


「お待たせしました」
「っ、はい」
奥の間の扉が開くや、荀攸は間一髪で白梅を一輪挿しに戻した。
「こちらに生けさせていただきました。先日、殿より頂戴したものでして……」
荀彧は、梅を生けた器を窓際へと置いた。青磁と違い一切の装飾を省いたそれは、巷ではまだ珍しい白磁。
紅梅だからと、わざわざ選んでくれたのだろう。質素を貴ぶ曹操が好みそうな器には、紅色の蕾を連ねる枝がよく映えた。

「これほど濃い色の梅は、久々に見ました」
目を細めながら、荀彧が呟く。久々、という言葉が意味するのは。彼がその胸中に思い起こすのは。
「まるで」
「ご実家の梅に似た色だと思います」
感慨として吐露される筈だった荀彧の言葉を、奪い取るようにして言い放つ。
「は、はい。公達殿もやはりそう思…………えっ」
荀彧が振り向くよりも早く、荀攸は彼の背後に立った。首筋に手を這わせ、黒髪に沿うように垂れた髪紐を掴み上げる。
「っぁ、公達、どのっ……?」
突如首に触れられた荀彧は、びくりと肩を震わせた。
戸惑いの視線が向けられたが、それを跳ね返すほどの突き刺すような眼差しで以て、荀攸は荀彧を見上げた。
一歩だけ、進み出て。たった一言、口にする。髪紐を握りながら、念を押すように。

「文若殿に、一番相応しい色です」


どうか。これ以上、何物にも侵されてほしくない。
無理矢理に染められて、穢されゆくばかりの白であってくれるな。
鮮やかなりし、華紅。それこそが、貴方の色であれ。




2020/02/11

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