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曇天日和

どんてんびより

梅枝―白皙―

荀攸が去って。執務室にまた独り、残されて。
改めて筆を執る気にもなれず、荀彧は悄然とした面持ちで椅子に腰かけた。
目の前の机には、豊かな香りを漂わせる白梅。そして背後の窓枠には、今しがた渡された紅梅。
贈り主と色とがそれぞれ異なる梅が、まさか一日にして、同じ部屋に置かれようとは思わなかった。

(相応しい、色……)
最後に、突きつけられるかのように放たれた荀攸の言葉を思い返す。
それは今日の荀彧にとって、余計に堪えるものであった。既に言われていた言葉であったがために。
「っ…………」
ぼんやりとした荀彧の視界に、白梅が映り込む。

荀攸に話したことは、決して虚偽というわけではない。しかし、すべて真実とも言えなかった。
咄嗟にとはいえ、我ながら愚かな説明をしたと思う。恐らく荀攸は気づいただろう。彼の人と自分の関係を知る、数少ない人なのだから。
だとしても。やはり自分の口から、目の当たりにした光景をそのままに語ることは、どうしても憚られた。






「永安宮の前の白梅が咲き始めたと聞いた。ぜひ見たい」
嘉徳殿に参内した荀彧を待ち受けていたのは、思いがけない帝の申し出であった。
年も明け、許昌においてもあちらこちらで梅が綻ぶ様が窺えている。それにしても、急だと感じた。さすがに満開にはまだ早い。
「は、はい……陛下、ですがその……」
荀彧と同じ侍中である种輯や、他の文官たちは、皆一様に戸惑いながら顔を見合わせている。
この後は孔融による文学の講義が控えているため、それを気にしてのことだろう。今から永安宮に行くとなれば、午前一杯はかかるからだ。
「陛下……」
荀彧は改めて、玉座を見やった。読めない表情の帝と目が合ってしまう。

――どうしたものか。

今一度、冷静に振り返ってみる。
年初の大議は滞りなく終えた。喫緊に報告すべき事柄もない。上奏された文書類も、すべて帝の手に渡っている筈。
講義とて、開始の刻限を遅らせることは可能だ。外出を引き止めねばならぬほどの事由とはならない。
「かしこまりました。では私たち一同、陛下に従います。孔融殿には、私から仔細を申し上げておきます故」
荀彧が奏上すると、ざわついていた面々も押し黙り、頭を垂れた。他ならぬ荀彧が出した結論であればと、皆が乗った形である。
「では……行くとしよう」
帝は満足そうに頷くと、玉座より腰を上げた。



永安宮は、禁中や嘉徳殿よりも離れた場所に位置している。
かつて洛陽でも宮中外に存在していた宮殿であり、許昌においても洛陽の形式に倣って造成された。
相応の道のりを歩き、ようやく庭に到った帝と荀彧たちをまず出迎えたのは、馥郁たる芳香であった。
冬枯れの寒気が残る庭の中、そこには確かな春の気配が漂う。梅は咲き始めた白花を点々と散らし、枝を伸ばしていた。
「やはり、よいな」
白梅に目を細める帝の声は、心なしか弾んでいるように聞こえた。
「はい。とても素晴らしい香りにございます……」
荀彧が粛々と畏まりながら相槌を打つ。それに負けじとばかりに、种輯が進み出て捲し立てた。
「さすがは陛下が直々にお選びになりました梅です。これも、陛下のご慧眼の賜物にございましょう」
この白梅は、元々は許昌北西の梅林地帯にあったもの。許昌入りして最初に迎えた春の行幸の際、香りの芳しさに帝が感嘆した一木である。
永安宮が落成を迎える直前、帝のたっての希望により、この庭に移植されていた。
「いやはや、本当に香りも色も麗しく……」
「陛下はまこと、ご趣味もよく、お目が高くていらっしゃいますなぁ」
「とはいえ、陛下であれば当然のことでございましょうか……」
文官たちによるご機嫌取りの言葉が立ち並ぶ中、帝はただひたすらに梅を見つめていた。

「――お喜びだろうか、母上は」

「っ……はい」
荀彧は咄嗟に頭を垂れた。喧噪に紛れ込むようにして呟かれた言葉は、しかし確かに荀彧には聞こえた。
帝もまた、荀彧だけが反応してくれたことに対し、小さな頷きを返す。


この永安宮に、正式な主はいない。しかし庭の設えは、他のどの離宮よりも華やかに整えられている。
もっぱら、帝が季節ごとに足を運び、庭を愛でるための場。今はただ、その意味しか持たざる宮殿を、帝はことのほか大切にしていた。
本来であれば、ここは皇太后が入る場所。国母となった女性が、安穏とした余生を過ごすための。
しかし、世が世ならその立場を享受していた人は、我が子が帝となりし姿を見ることはおろか、自らが立后される瞬間も迎えること叶わなかった。
些細な思い出ひとつ残せず、理不尽な形で命を落とした哀れな母。それだけに、帝の想いは並みならぬものがあった。
絶えず噴き上げる母への慕情が、いつしか庭への拘りとなり、せめてもと捧げる孝心の形となる。ひときわ香り、春を表すこの白梅は、その最たるものといってよかった。

「ややっ……これは、勿体ないことにございますな」
ふいに、种輯が大仰な声を上げた。
「いかがなさいましたか?」
「荀彧殿、あちらをご覧あれ。せっかく花つきのよさそうな枝ですのに」
「ああ……本当ですね……」
种輯の指し示した方を注視してみれば、確かに一枝、あらぬ方向に下向いていた。
惜しいかな、既に開花している花、綻び始めの蕾がいくつもついている。こうなってしまってから、まだ時は経っていないようだ。
「……」
帝は無言のまま、より梅の幹の間近へと歩を進める。その視線は、折れてしまっている枝に注がれた。
やがて、帝は自らの手を伸ばし、その枝に触れた。
「あっ、お待ちください陛下。危のうございます」
はっとして、荀彧は帝の側へ近寄った。花つきの見事さを示すように、梅香をより強く感じる。
しかしながら、この白梅は香りの良さに加えて、棘が多いことでも知られていた。不用意に触れてしまえば、怪我をする恐れは十分にある。
「口惜しいのだ」
そう零した帝の声色は、微かな寂寥を帯びていた。
あと幾日もすれば満開となったであろう枝が、その日を待たずして挫したことへの無念は察して余りある。
特に花つきもよく、これだけ香り高ければ尚のことであろう。
「あっ、陛下!妙案を思いつきました。こちらの枝を今からお斬りいたしますゆえ、御座所までお持ち帰りになっては?器に生ければ、しばらくはお楽しみいただけるかと存じます」
帝と荀彧の間に割って入るようにして、种輯が提案した。態度こそやや性急だが、その言葉には理がある。
荀彧も軽く頷いてから、帝を見やった。
「陛下、いかがいたしましょう。まだ折れて間もないようですし、种輯殿の申し上げる通りにしてみては……」
「ええぜひとも、そういたしましょう!これ、誰ぞ小刀か剣を持っておらぬかっ」
帝の返答も待たず、种輯は背後に控えている文官たちに呼び掛けた。
荀彧もふとつられて、种輯同様に他の文官たちへと視線を移した。まさに、その刹那であった。

「必要ない」

バキバキっと、鈍い音が響き渡る。
「っ!?」
荀彧が振り返った時、梅枝へと伸ばされていた筈の帝の手は、振り下ろされていた。
「陛下、っ……!」
帝の右手に、白梅が力強く握り込まれている。そこから暗い赤がじわりと滲んだ瞬間、荀彧の顔から血の気が引いた。
「へ、陛下っ!?ひぃっ!」
破壊音に慌てて振り向いた种輯は、帝の所業に気づいて喉を縮こまらせた。
しかし小刻みに首を振るや否や、傍で呆然とする荀彧に食ってかかる。
「荀彧殿!これはどうしたことですかっ、貴方がお側にいながら」
「っ、申し訳ありません」
たった一瞬、されど一瞬。帝から目を離し、玉体に傷をつける行為を制止できなかったのは事実だ。
弁解しようもなく、荀彧は平身低頭で謝るしかなかった。しかし种輯の怒りは収まらない。
「まったく陛下の覚えがめでたいからといって、なんという気の抜かれよう……!」
「よさぬか」
种輯に鬱陶しげな視線を送ると、帝はため息をついた。
「たったこれしきのことで、皆大仰だぞ」
「ですが陛下、御手がっ……」
いよいよ、帝の右手から伝った血が、ぽたりと滴る。
荀彧は咄嗟に、懐に忍ばせていた白い絹布を取り出した。早く、血を止めなくては。

「陛下、こちらを」
「これはそなたに」

互いの言葉が重なり合い、互いに差し出した右手が交錯した。


「――え」
荀彧は大きく目を見開いた。
何度も瞬きを繰り返し、己が眼前に突き出されたそれを、信じ難い気持ちで見つめる。
甘く華やかな香りと共に白い花蕾を散らす、梅の枝。つい今しがた、帝が御自ら、手折ったもの。
それが、どうして。自分に向けられているのだ。
「陛、下……?」
荀彧は、目の前の白梅から、それを握る主へと視線を移した。
「折れていたものですまないが、あえて手折るわけにもゆかぬからな。ぜひ貰ってくれ」
ひどく明るい声だった。これ以上ないほどの破顔だった。
滅多に見られぬ年相応の、溌溂とした様であるのに。これほどまでに薄ら寒く感じるのは、何故か。
荀彧の背筋を、冷や汗が伝っていく。
「なっ……何をおっしゃいますのか、陛下っ!?」
凍りついている荀彧をよそに、勢い盛んな声を上げたのは种輯だ。
「陛下が御手を傷つけねばならぬ事態となりましたは、荀彧殿の不注意!にも拘らず、陛下が格別愛でていらっしゃるこの梅を賜ると仰せですか」
「种輯、煩い」
「いいえ、畏れながら申し上げます」
ここぞとばかりに、种輯は厳しい顔で荀彧を睨みながら、糾弾を開始した。
「私はここのところ、懸念を深めておりました。陛下の荀彧殿への『御寵愛』が、いささか過ぎたるものではないかと」
「っ……」
『御寵愛』という言葉にかかる力みが、荀彧の耳を震わせ、肩を竦ませる。
尚も种輯は、酷薄な目つきを荀彧に向けつつ、帝に訴えかけた。
「確かに荀彧殿は、侍中としても尚書令としても申し分なき働きをされています。だからといってひとところに恩寵を偏らせるのは、決して陛下のためにはなりませんぞ。覚えのめでたさを頼みに成り上がり、権能を笠に着て世を乱した者たちなど、古より枚挙にいとまがございませんからな。どうか陛下には公明正大たる御心を以てして……」

「控えろ」

「っひ……!」
さすがの种輯も、押し黙るよりなかった。
帝の声に、何ひとつ荒げた色はない。しかし、この場の空気が一瞬にして冷え切るほどの鋭さを秘めていた。
やっと种輯が跪くと、そこに覆い被せるかのように帝は言い放つ。
「勘違いするな。これはただ、荀彧に朕の我が儘を通させてしまったことの、せめてもの詫びである。ただ慌てふためくばかりであったそなたに、臣を慮る朕の心を詰る権があるとでも」
「なっ、詰るなど滅相もございません!出過ぎたお言葉、平に、平にご容赦をっ……!」
「……わかればよい」
陳謝する种輯から目を離した帝は、改めて荀彧に向き直った。不自然なほど、穏やかな笑顔に戻る。
「そういうことだ、荀彧。せっかく孔融が張り切って講義の準備していたであろうに、無理を言ってすまなかった。これはぜひそなたに受け取ってほしい」
「ですが、この梅は……陛下の大切な……」
永安宮に春を呼ぶ白梅。帝にとって、母への孝心が格別に込められた一枝。それをただ一人賜るなど、あまりにも畏れ多い。
それだけではない。これは帝から臣への下賜という体裁をとった、私心による贈与。『御寵愛』という种輯の揶揄が、またも耳で反響した。
「ほら、早く受け取ってくれねば。朕もそなたの心遣いを受け取れぬではないか」
いよいよ、帝は痺れを切らして言い募った。
口調こそ柔らかいものであった。しかしその言葉には、逃げ道を塞ぐ意図がはっきりと感じられた。
白梅を受け取らぬ限り、右手は空かない。布で、血を拭うこともできない、と。

「……っ」
荀彧は、自分に注がれる数多の視線を感じた。
真正面にある帝の目だけではない。見守る文官たちの目、そして、傍らに控えている种輯の目。
今この場にいるすべての者が、事の成り行きがいかなるものかと構えながら、自分を注視している。
その中でも一際、恨みがましさを湛えた瞳で种輯が見つめているのは察した。
元より、快く思われていないことは承知。帝の即位直後より侍中となり、長きに亘って仕えてきたという自負が种輯にはある。
その彼が、許昌入りしてから侍中となった新参を――曹操の配下でもある存在を受け入れ難いのも、無理はない。
常日頃は慇懃な態度であろうと、その裏には常に、こちらを追い落とさんとする志が潜んでいる。

梅を受け取れば、种輯の内なる怒りは増す一方であろう。帝の寵愛を、恣にしていると。
だが、梅を受け取らなければ。それこそ、种輯にとって格好の攻撃材料となる。
『帝が手ずから血を流してまで下賜された梅を受け取らなかった。なんという不遜であろうか』――などと吹聴して回る姿が目に見えた。
しかも今、この場には种輯だけではなく他の文官たちもいる。目にした者の数だけ事実に尾鰭はつき、噂とは肥大していくもの。
個人的な悪評を立てられることは構わない。されど、それが曹操の足枷となるならば、話は別だ。
つまらぬ諍いや風聞ほど、恐ろしいものはない。些細な傷はいつか亀裂となり、やがては取り返しのつかない騒乱を招くことになる。

「荀文若……謹んで、拝領いたします」
ついに、荀彧は跪いて両手を差し出した。
帝意を無碍にした臣として後ろ指を指されるならば。寵を諾々と受ける臣と囁かれる方がまだましであろう。
すかさず、帝がその手に梅を持たせる。入れ違いに、荀彧の右手にあった布を掏り取った。
「すまぬ、汚すぞ」
掌の刺し傷から流れる血を、帝はゆっくりと拭う。たちまち、白布には赤黒い染みが広がった。
「いえ、どうかお気遣いなく……」
荀彧は深く頭を垂れ、すっと立ち上がった。下賜された白梅から、より一層の芳香が立ち昇ってくる。
梅を真摯な面持ちで抱える姿にじっくりと見入りながら、帝は感嘆の声を上げた。
「やはり、そなたに下げ渡してよかった……梅がよく映える」
「……勿体なきお言葉です」
「いいや。清廉なそなたには、白が似合う」
帝の微笑みが浮かぶ。そこには、満たされた愉悦がありありと見て取れた。

「そなたに、相応しい色だ」

「……ありがとう、ございます」
荀彧の声が、僅かに震える。
切れ長の瞳の中には、帝が握り締めていた根本――血濡れの棘と蕾が映っていた。






「…………」
今一度、窓枠に置いた紅梅を見やった。蒼天を背景にして一層、艶なる様を際立たせている。
荀攸の言うように、自分にとっては懐かしい色だ。かつて実家にあった、年が改まるたび咲き誇った梅と同じ色。
この目にも眩しい紅が、相応しいと。彼は言ったけれど。
「申し訳……ありません」
荀彧は椅子から立ち上がり、青磁の器を手元に引き寄せた。器から引き抜いた枝より、赤く変色した蕾がひとつだけ覗く。
生ける際にある程度、根元の棘は剪定したが、この蕾を落とすことは躊躇われた。
それは、己が身の疚しさから、目を背けることのようにも思えて。
「私は…………私は、っ……」
じくりとした痛みに、胸を押さえた。

紅梅と白梅。相応しいと言って渡された花は、相反した色。されど、違う。
凛と匂い立つ紅も、まして一点の曇りなき白も。それぞれに気高く美しい花色が、自分に相応しいなど、あろうか。
夜毎許されぬ行為に身を委ね、染められるままにいるだけの――薄氷を履むが如し、浅ましき身に。




2020/02/24

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