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曇天日和

どんてんびより

止まぬ春雪

身を震わせながら、荀彧は眠りから覚めた。
「っ……」
ひどく寒い。上掛けでしっかりと全身覆っているのに、何故。
上体を起こすと、特に肩が冷たく感じた。思わず、手で擦らずにはいられないほどに。
まさに、しんしんとした寒さである。これではまるで、冬に戻ってしまったよう。
「……あっ?」
ふと視線をやった先、窓の向こうに見える景色が、やけに白いことに気づく。
まさかと思いつつ、荀彧は上着を羽織ってから寝台を降りた。

「これ、は……!」
窓の前に立つなり、非常事態をまざまざと思い知らされる。
昨日までは麗らかな蒼天の光眩しい、汗ばむほどの陽気であった。それが今朝は、どうしたことだ。
春とは思えぬ、灰色にくすんだ空。窓から下を見れば、自宅前の道は白く覆われ始めている。
咄嗟に窓枠から手を伸ばすと、掌に早速ひやりとした感触が走った。
「……っ、いけません」
掌の中で溶けゆく雪を握り締めると、荀彧はすぐさま着替えに取り掛かった。





許昌の城内は、既にちょっとした騒ぎになっていた。
「雪を吸わないうちに!」
「早くしろ!まだ間に合うぞ!」
「大丈夫、あと少しだ!落ち着いていこう!」
荀彧が兵糧庫に駆けつけた時には、夜番の兵士たちと朝番の兵士たちが慌てた様子で駆けずり回っていた。
藁や笊にかかった雪を勢いよく払いのけては、皆で手当たり次第に倉の中へと運んでいく。
その作業の中心にいる人物に気づいた瞬間、荀彧は瞠目した。
「曹休殿!?」
「あっ、荀彧殿!」
名前を呼ばれた曹休は振り向くと、荀彧の傍に駆け寄ってきた。その背後より、兵士たちに檄を飛ばしていた兵長も続く。
「一時はどうなるかと思いましたが、曹休様が駆けつけてくださいまして」
「そうだったのですね……曹休殿、なんとお礼を申し上げてよいか」
荀彧は神妙な面持ちで頭を垂れた。対して曹休は、爽やかな笑みを浮かべて首を振る。
「そんな、畏まらないでくれ。朝駆けの習慣があったお陰で、たまたま雪にも早く気づいただけだからな」
「夜番の奴らもちょうど交代って時で、一仕事させちまいましたが……なんとか、大事に至らず済みそうです」
「よかった……ですが、本当に申し訳ありません」
荀彧が、前線に輸送する糧秣の整備を配下に命じたのは、つい昨日のことである。
好天に託け、長らく貯蔵しておいた粟や飼い葉などを改めて天日干しにさせたのだが、その矢先にこのような天気に見舞われるとは。
しかも粉雪ではなく水分を含んだ雪とあっては、余計にまずい。兵站を任される身としては、失態と言われても致し方なかった。
「いやいや、荀彧様が謝ることじゃありませんよ!お天道様のご機嫌だけはもう、どうにもなりませんし」
「その通りだ。昨日まであんなに暖かかったというのに、雪が降るなど……誰だって想像もつかない」
「……ありがとうございます。皆さんのお働きに、救われました」
ほぼすべての糧秣が倉庫に運ばれていく様を見届けると、荀彧はほっと胸を撫で下ろした。





「それにしても、よく降るな」
曹休は嘆息しつつ、肩についた雪を振り払った。兵糧庫から南宮前までの道すがらで、なかなかに白く染まってしまったものだ。
靄がかったような空からは相も変わらず、塊となった雪が降り注いでくる。まだ止む気配はない。
「ええ、困りました。翌日、すぐに陽気が戻るようであればよいのですが……」
荀彧もわずかに眉を顰めた。
このまま悪天候が続くようなら、先発している部隊や陣立てにも必ず影響が出てくるだろう。
対する袁術軍は、早くも統率が乱れ士気も低いと報告が上がっている。優勢の雰囲気ではあるが、何が起きるかわからないのも戦場だ。
余計な不安要素は排除しておきたいところだが、自然相手では限界もある。季節外れの気まぐれな雪であることを願うほかない。
「大丈夫だ荀彧殿。この程度の天気で、殿の精鋭たちが怯むものか」
荀彧の気がかりを察してか、曹休は一際明るい声で言うと、己が手を空へ差し伸べた。
その手に大粒の雪を受け止めると、荀彧の目の前に突き出す。雪は曹休の掌の上で、あっという間に水となった。
「ほらこの通り。冬のように積もりはしないし、陽が戻ってくればすぐ溶ける雪だ」
「ええ……粉雪でないことは不幸中の幸いです」
「それに、明日からはいよいよ俺も進発する。この程度のなごり雪や寒さなど、馬と共にすべて蹴散らしてみせるぞ」
「曹休殿……頼もしい限りです」
若武者の溌溂と眩しい笑顔に、荀彧も自然に微笑みが浮かんだ。
「もちろん私も、皆さんに全幅の信頼を置いています。ただ、天候の急な変わり目は体に障ります。曹休殿もどうかお気をつけて」
「心遣い、まことに感謝する。では、俺はここで」
「はい。今朝は本当にありがとうございました」
改めて愛馬と朝駆けに向かうという曹休の背を見送ってから、荀彧は東門をくぐった。





尚書府がもう少しで見えてくる、という時だった。
「っ……陛下……」
一瞬目を疑ったが、黒を基調とした天子の装束、被っている冕冠は、雪の気配の中でより鮮明に浮き上がる。
荀彧は慌てて、桃の木の下に佇んでいる帝へと駆け寄った。
「陛下、おひとりでいかがなさいましたか」
「どうということはない。この桃が、さぞ哀れであろうと思ってな」
帝の視線は、薄紅の花を一斉に開かせ――しかし真っ白な雪を被せられた桃に注がれていた。
「満開となったばかりではないか。なんとも慈悲のない雪よ」
「陛下……」
帝の声色は心底口惜しさが滲み出ており、荀彧はいたたまれない気持ちになった。
昨日も朝堂へ向かう途中にて、帝はしばし足を止めてまで桃を愛でた。また今年もよく咲いた、と喜んでいた様が思い出される。
春も只中、時折雲雀の声も聞こえる穏やかな陽気であった。それがまるで嘘のように、冷たい雪が降り続ける。
盛りを迎えたばかりの桃は半分ほど雪に覆われてしまい、白の隙間よりまだらに薄紅が覗いていた。
「私もこの雪ばかりは……ですが、やはり春の雪です。冬とは違いますゆえ」
先ほど、力強く励ましてくれた曹休の言葉が脳裏に浮かぶ。荀彧は拱手しつつ、穏やかに訴えた。
「今日中に止むようであれば、積もることはありません。桃も、すぐに枯れることはないかと」
「……そう、か」
「はい。また明日、陽が射しさえすれば……」
わずかに微笑みを見せた帝に、内心ほっとしたのも束の間。

「明日のことなど誰にもわからぬ」

「っ……」
雪が作りし静寂の中、その声は鋭利なまでに響いた。
「そなたですら、この雪を予期できなかった。明日また陽が射すなど、確かと言い切れるのか」
「それ、は……」
荀彧は押し黙った。言い分はある。曹休が示した通り、そして自分で体感した通り、あくまで春の雪。陽を浴びれば消える。
しかし、明日以降晴れるかどうかまでは、見通せない。雪の性質からして、長続きはしないであろうという希望的観測に過ぎない。
現にこの荒天が続いた場合、自分は戦運びについて懸念を持たなくてはならぬ立場だ。絶対、は言い切れない。
「……明日になれば、明日になれば。そう信じて、待って、生き抜いて。しかし望んだ明日が来るわけでもあるまいて」
そう呟くや、帝は桃の幹を平手で打った。揺られた拍子に降り積もった雪が落ち、帝の袖口に降りかかる。
「陛下っ」
荀彧は咄嗟に、帝の手を取って雪を払いのけた。何にも覆われていない素手の指先が、赤く悴んでいる。
「陛下、御座所までお送りいたします」
「大丈夫だ、そのうち董承あたりが来るだろう」
帝が言い終わるかというところで、確かに一人分の足音を聞き取れた。次第に、こちらへと近づいてくるのがわかる。

「ふ…………そうだな」
口の端を吊り上げた帝は、いきなり荀彧の両手首を掴んだ。
「あ……っ?」
驚く間もなく、荀彧の手より手袋が剥ぎ取られる。
帝は奪い取った手袋をその場で身につけると、うっそりとした笑顔を浮かべた。
「ああ、とても温い……そなたに包まれているようだ」
「陛、下。何故……」
茫然とする荀彧を前にして、帝は見せつけるように、手袋を嵌めた両の手を擦り合わせる。
「これくらいの慈悲は受けてもよかろう……?艱難辛苦堆く積もり、溶ける気配などいっこうにない身なのだから」
「っ……」
言い放たれた言葉に、背筋が凍りついた。


「陛下、っ!こちらにっ、おいででしたか……っ!」
駆けつけた董承の声は、全力疾走のせいだろうか荒く乱れていた。
「ふむ……思ったより早かったな」
「もっ、もちろんにございますれば……!」
珍しく茶化すような帝の物言いに一瞬面食らうも、董承は身を引き締めて居住まいを正す。
しかし、帝の背後にいる荀彧に気づくや、露骨なしかめっ面を覗かせた。
「……何故、荀彧殿がこちらに」
「変に疑るな。たまたま通りかかって朕を案じてくれただけだ。さて、そなたが来た以上はおとなしく帰ろう」
わざとらしいほどの優し気な声色を作ると、帝は踵を返した。その背後にぴたりと董承が付き従う。
「……ふん」
去り際、董承の敵意むき出しな視線が突き立てられる。
遠ざかっていく二人の背を、荀彧は黙って見送るしかできなかった。





「…………」
露となった己が手に、視線を落とす。わずかな間で、外気に触れた指先は赤く染まり始めていた。
真冬の従軍経験もある。執務の際まで手袋はしていない。なのに今、どうしようもなく手は冷たくて、震える。


『明日のことなど誰にもわからぬ』

『しかし望んだ明日が来るわけでもあるまいて』

『艱難辛苦堆く積もり、溶ける気配などいっこうにない身なのだから』


王朝の命を背負い、血に澱んだ乱世の只中、沈まぬようにもがき続けて。
そのいたわしく尊き身を庇護し、支えることが我らの役目。しかし彼の人は未だ苦衷を抱え、心凍えている。
彼の人が何よりも望み給うた明日を、今以て信じさせることも叶わぬまま。

「陛、下……」
眼前の桃樹を見上げる。一度振り落とされた雪が、再び花を覆っていく。
いつの間にか、羽織っている外套も白く染まっていた。積もらぬと見越していた雪は、天から途切れることなく降り注ぐ。

まだ、止む気配はない。




2020/04/12

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